蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判4 未開文化論

2021年03月26日 | 小説
(2021年3月26日)歴史弁証法は真理であるからどの社会にも隔たりなく適用される。文明社会は資本主義が行き着く極点にまでたどり着いて「西欧も日本も共産社会化する間近にある」(1950年代の左翼思想の典型)と公言されるまでに至った。革命を加速せむと日本共産党が破壊工作に専念していた時期でもある。同時代、先住民社会はそうした兆候を見せていない。なぜ彼らの歴史進展が遅れているのか。唯物弁証法はかの社会には適応しないのか。疑問は歴史弁証法の信奉者に投げかけられた。
「未開社会は文明社会とは異なる」が答え。社会が違う理由は「人間が違うから」。この問答は「文化の優劣」の理由付けに用いられていた。論者はレヴィストロースが度々引用するレヴィブリュールなど、2世代前の社会学者であった。しかし1950年代に「劣等民族」説は通用しない。サルトルは先住民社会が共産革命に向かう「経済の過熟」を見せていない理由を「彼らの歴史も弁証法に支配されている。しかしその弁証法は短周回式(ショートサイクル)なのだ」と決めつけた(une dialectique répétitive à court terme、サルトル著弁証法理性批判La critique de la raison dialectique本文)。さらなる「なぜ先住民はショートサイクル弁証法を選んだのか」質問には「une humanité rabougrie et difforme 出来損ないの片輪」だからさと答えた(第9章本文から)。レヴィブリュールの偏見「人間が違う」に戻ってしまった。
レヴィストロースはサルトルの偏見を批判します。
本著「野生の思考」が伝える事例それらの解析、例えば具体科学が、先住民、未開社会が近代西欧社会に劣っていない論拠となります。部族民通信は動画とPDFで「野生思考」を解説しています。(動画とPDFサイトwww.tribesmytube.com 野生の思考1~8 2020年10月30日から21年1月6日に投稿、youtubeにも投稿している)
作成したPDFから2葉を掲載します。


先住民の具体科学と西欧社会発生の近代科学の比較。具体科学はモノを自律体として見る。

もう一葉、具体科学体系。


詳細は動画PDFに譲りますが、1~8の伝えかけは「思想(モノの主体の具体科学)、世界観(分類法)、哲学(因果の究明)、技術(寄せ集めやりくり)の思考体系」を先住民は奉じている。(16世紀以降に西欧で発達した)近代科学は偶然あるいは奇跡か、モノ主体を抜け出し属性分解にたどり着き、ニュートン、クリックなどの成功を導いた。
新石器革命いらいの「モノ思考」にこだわる先住民社会、これが文明的発展に行き着かなかった理由とレヴィストロースが説きます。

第9章歴史と弁証法の本文解説に入ります。頁を追って鍵となる幾文かを取り上げます
<dans quelle mesure une pensée, qui sait et qui veut être à la fois anecdotique et géometrique , peut-elle être encore dialectique? La pensée sauvage est totalisante ; en fait , elle prétend aller beaucoup plus loin dans ce sens que Sartre ne l’accorde pas à la raison dialectique , puisque, par un bout , celle-ci laisse fuir la sérialité pure ( dont nous venons de voir comment les systems classificatoires réusissent à l’intégrer) et que, par l’autre but, elle exclut le schématisme….> (野生の思考第9章292頁)
一つの思考とは挿話的で地理的限定であるのに、弁証法でもあるとはどのような仕組みだろうか。先住民の思考は統括的である。実際にその思考は統括する方向に進展しており、サルトルはそれをして(彼の)弁証法には規定出来ないほどだ。なぜなら、彼の弁証法は一方の端で連続性を純粋に追いやり、他方の端では(カントの)図式化を拒絶しているのだから。

引用文は章題「Histoire et Dialectique」の真下に置かれます。この文をして9章の伝えかけの凝縮となるから理解しなければ進まない。
「一つの思考」を思考が捉える事象と読む。歴史家が歴史思想を形成するために捉えた事象、それは挿話的(偶発)、地域限定でしかない。なぜそれが(連綿と継続する)弁証法(の周回)に組み込まれるのか。回答には皆様すでにご理解かと。本投稿の2回(3月22日)にて両者の歴史観の違いを説明している。そこでは「発生する事象に対して否定(反作用)が生じ人は行動する(praxis)」弁証法解釈をサルトルが展開するが、レヴィストロースは事象は「挿話地域」でしかないと規定する。その言い分は「一つの事象は弁証法に組み込まれない」となる。
次が難解。Sérialitéとあるがフランス語にこの語は存在しない。最も近い語はsérial、映画のシリーズ(de série)を言う造語(英語serialを借用しitéを付けた)。前回の投稿その推測を用いて説明したが大間違いだった。今回は近い語sérialisationの派生と見る。この語もサルトル造語。意味として<perte du sentiment d’appartenance à la collectivité humaine, surgissement d’anomalie conduisant d’un membre à vivre chacun pour soi dans l’hostelité envers les autres>(辞書Robert)人間集団に属するとの心支えを失い、規則なしにそれぞれが自分のためだけに生き、他者への憎しみだけを抱く。ナチス収容所では個性(名前)を剥奪し番号化する状態が例。<…ité>に派生するとその状態である事となる。状態を純粋(pure)なまでに、徹底的に、追いやっているのである。このpureの含意は純粋無垢の行程ではなく、行き着くところまでと否定的である(慣用句pure et dureは政治志向の極端さを表すが、それに近い用語法とみた)。
Sérialité pure極端なまでの連続性は換喩です。
何を喩しているかは本文内部で分かるが、冒頭のここで推理する。弁証法では事象の連なりに否定、統合が下される。個別性を剥奪しそれら事象を弁証法の流れの中にsérialitiser(連続化)して、sérialité(個の喪失)におとしめた。サルトル弁証法での事象のそして個の疎外を伝えている。発生した挿話事実を1の歴史原則で順列化してしまう、共産主義に基づく歴史観を否定している。
「図式化」は理解に容易い、解説を次回にまわす。
歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判4 了(2021年3月26日)

以上、3の原点を終えるにあたっての追記(前回の追記の続として):
歴史弁証法には特異点があってそれが共産社会である。経済の反作用活動を経て究極点に向かう世界である。その流れに人が積極参加しなければならない。Praxis(参加)なる活動行為をこの動きに当てはめている。この思想はマルクスを超え政治教条と変身し(マルクスが地に降ろした弁証法神様を天上に戻した)、共産革命を可能たらしめた。レーニン毛沢東主義の極左弁証論、すなわち暴力革命の思想背景です。レーニン毛沢東の行動哲学はマルクス歴史弁証法とは別モノとする分類もある。
サルトルは「la critique de la raison dialectique」を刊行(1960年)、その前後をたどれば、共産主義を平和勢力だとして賛美する文章(le communiste et la paix)を発表し、かつ中国、キューバ、ソ連(いずれの国も暴力革命で独裁を樹立)を訪問している(1955、60、62年)。サルトルが(62年の)モスクワ軍縮平和大会に出席した事実はなぜか、Wikipediaなどネットで見えない。サルトルも極左弁証法を信奉していた事実、その歴史を隠蔽したい勢力があるのだろうか。
コメント
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