蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判5 

2021年03月29日 | 小説
(2021年3月29日)野生の思考最終章サルトル批判の紹介を続けています。
前回引用の最終部<….elle exclut le schématisme….> (野生の思考第9章292頁)。(サルトルの)歴史弁証法は 他方の端では(カントの)図式化を拒絶している。この解釈に入る。図式化(schématisme)とは何か。それは人が外界を理解するにあたり、対象とする事象と、自己がそれを表象する理念(entendement)を結ぶ繋ぐ概略である。図式schème(schéma)なる語を調べると<chez Kant,schème;representation qui est l’intermediaire entre les phénomènes perçus par le sens et les catégories de l’endendement. 思弁が組み分ける範疇と感知した事象の間を取り持つ表象(Robert)。
もう一文<Figure simplifiée representant les éléments et articulations essentiels d’un objet, d’un méchanisme, d’un raisonnement, qui peut intervenir soit pour exprimer brièvement des connaissances dejas acquises, soit pour faciliter des inventions.
対象物、運動、ないしは理由付などの主要な構成や分節要素を表現する単純化した表現。それはすでに獲得している知識の要約を説明できるし、創意工夫を表現するに役立つ。
以上は (Dictionnaire de philo, Nathan)



レヴィストロースが実際に測量したボロロ村落の平面図(悲しき熱帯から)

族民が描く(はずの)理想の村落(構造人類学から)。この図をしてカントが語るschemeと考える。

上に挙げた2の解説から図式化を探ると 1単純化した表現形式(図でもあり文章でもあり、頭に描く概念もあり得る) 2思弁として考えついた内容(あるいは解き明かした対象物の本質)とその対象物の実際とを仲介として表現する図ーとなる。
部族民として図式化の例を挙げる:
ブラジル調査旅行でレヴィストロースはボロロ族の村落構造を調べた。悲しき熱帯、「構造人類学AnthropologieStructurale出版1958年」で説明されるが、その構造は2部、8支族、それぞれ支族に3の階層を抱する社会であった。この複雑さが彼らの社会、すなわち婚姻制度、儀礼、信仰などを規定する。村落体が社会そのものであるが、その実際図面と彼らの描く理想村落とを対比させている(二の図を参照)。この理想図は彼らが頭に持つ社会の表象を示すschemeである。
実態の観察から表象(思想)を組み立て(ここまでが分析理性)、その思想を表現する手段に図(scheme)を作った(ここにentendement constituant=弁証法理性が介在する)。
サルトルはこの思弁の過程を経ていない、レヴィストロースが非難する。
思考工程の差であるけれど、なぜことさら荒立てるのか。否、荒立てているわけではない。レヴィストロースは西洋哲学の根底に立ち戻っているのだ。知とは本質とは、その根底で両者に食い違いがある。故に語気が幾分かあらくなった。
図式への流れは知が「宇宙を見つめる、そこにある本質を知が探る」とレヴィストロースが語る。発見した本質を概略し表象する…となります。これがデカルト以来、西洋哲学の本流です。カントもヘーゲルも人の知が宇宙真理を解き明かすと語る。レヴィストロースにしてその流れの本流に乗っています。
すなわち図式から本質をたぐる一過程は、分析理性と弁証法理性を総動員する人の智の活動そのものです。
サルトルは「存在が知を持つ、それを知るのが(人の)自由」実存主義を標榜した。この宇宙と人の知の仕組みが、唯物史観と相性が良いのか、歴史解釈においてマルクスが「地上に降ろした神」を奉り上げ、弁証法が知、それを知るのが人の宿命(人の知は弁証法の反映でしかない=マルクス)と言い換えた。故にこの一文で本章(歴史と弁証法)の究極点である「人が考えるのか、弁証法が考えるのか」の基盤に降り立ち、サルトル批判をしたとの解釈が、原点1,2とも合わせ、たどり着ける。
次の文;
<Quand on lit la Critique, on se défend mal du sentiment que l’auteur hésite entre deux conceptions de la raison dialectique. Tanto il oppose raison analytique et la raison dialectique comme l’erreur et la verité, sinon même comme le diable et le bon Dieu ; tantôt les deux raisons apparaissent complementaires : voies differentes conduisant aux mêmes verités.>(292頁)サルトル著「批判...」を読むたびに本書作者は弁証法について2の概念を行ったり来たりして戸惑っていると判断せざるを得ない。時に分析理性を弁証法理性と比べ邪と正、悪魔と神になぞらえ比較するが、一方で両者は補完的であり、道程は異なるが同じ真実を目指している。
2の弁証法にさ迷うサルトル、この躊躇こそ(本文の原点1,2が示す)サルトルの使い分けです。1は理性論2は世界観。理性論では分析手法であるヘーゲル弁証法(思弁的弁証法)を受け、世界観(歴史)ではマルクスを借り受けた。その絡繰りをすっかりレヴィストロースに読み取られた。
ところで皆様には、「自身の理性で考えるけれど、一方で歴史は唯物で動く。この二重性を受け入れても」、よろしいではないかと反論するムキがあるかもしれない。蕃神もその考えに傾いていた。そして;
西欧哲学において真理は一つ。畢竟それは誰が考え何を暴くかに尽きる。繰り返すがマルクスの歴史観で「考える」主体は弁証法。弁証法は地上に降りた神であるから。ヘーゲル弁証法では人が持つ思弁が考える、歴史は思弁の反映。ヘーゲルはこの事例を「フランス革命は人の思弁の現実化」と力説した。
Wikiなどネットでの解説では「弁証法を信奉しながら分析理性で説明する」矛盾と説明するが、より深いい根の部分にレヴィストロースからの批判が発生していたと理解すべきです。
もう一文;
<Sartre attribue la raison dialectique une realité sui generis: elle existe indépendammment de la raison analytique , soit comme son antagoniste, soit comme sa complémentaire. (293頁)サルトルは弁証法理性にあるがまま(sui generis原義はその種に特有の)の現実性を与えている、分析的理性と独立しているとの意味合い。
この文に引き続いて弁証法理性のこの立ち位置がマルクスに由来すると決め、しかしマルクス思想はサルトルに比べ相対的<l’opposition entre deux raisons est relative>としている。
このクダリを読むとサルトルの抱える2面性(弁証法と分析理性)を、ごく端的にマルクス弁証法の「拡張解釈のため」とレヴィストロースが説明していると読める。すると部族民の「マルクス+実存主義」にヘーゲルを持ち込み重ねるとは「解釈し過ぎ」となりそうだ。しかし1を読んで10をこねくり回す悪癖を常とするから、この「読み過ぎ」のまま続ける。
<Pour nous la raison dialectique est toujours constituante : c’est la passerelle sans cesse prolongée et ameliorée que la raison analytique lance au-dessus d’un gouffre dont elle n’apercoit pas l’autre bord tout en sachant qu’il existe, et dut-il constamment s’éloigner 
(同)我々にとって弁証法理性とは常に「基盤」となる理性である。思弁に潜む底なしの陥穽、分析理性は向かい側に何かがあると知るけれど、見えてこない。その上だんだん遠ざかっている。その端渡し役割を担う弁証法理性。それにして間断なく拡大し改善されているのだ。
2の理性の補完性を換喩に託して説明している。
Constituant(動詞constituer)は他動詞「形成する」が一般であるが、自動詞être l’élément essentiel基本要素であるとの用い方がある。ここでは自動詞のの意味を持つ分詞法participeとする。分析理性の前に「陥穽」が広がる。陥穽とはなにか、分析理性の限界点です。カントは「図式」を理性と現実(本質)の介在に置くが、そのときの思弁が弁証法理性です。
しかしこの説明には、書き出しッペの部族民にしても、「煙に巻かれる」感が残る。分かったような気になろう。換喩なのですから。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判5 了(2021年3月29日)

追記:前回(3月26日投稿)での追記で「歴史弁証法には特異点があってそれが共産社会である」とした。ここでの留意は共産を信奉する権力は遠い未来「特異点」を判断の拠りどころとする習癖を持ちます。すなわち現在を(いまだたどり着かない)未来の視点で判断する。彼ら共産国家の断定とは 1現時点の歴史上の位置(特異点との時間距離)を常に確かめている 2特異点との比定で社会、個人の価値を判断する(資本主義的思考は排撃される) 3特異点達成に向かっているのか反逆しているのかで思想、信条の是非を決めつける。弾劾する(シベリアとかオルドスに送る)。
1はマルクスの主張です。2,3についてはマルクスから発展したレーニン毛沢東主義の教条となります。歴史特異点を根本基準(デファクトスタンダード)に崇め個人を判定しているのであるから、この基準から一歩はみ出したら命がない。ソ連、現中国での人民弾圧の真の原因はレーニンらが標榜した共産主義そのものにある。了
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