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孔子の介護論

2015年03月17日 | Weblog

「論語」では、「孝」という言葉で、老いた両親の介護を説いているだけである。「論語」全体からみると。老いた両親の介護論は少ない。孔子は天下国家の「公徳」を重んじるから、家族の介護の問題は、郷里の相互扶助の「仁」の次元に落ち着かせる。そのうえで、食事や身の回りの世話は、家畜にだってするではないか。ひたすら、健康で、機嫌よく天寿を全うするためには、子供の立場からみて、議論や理屈で両親を説き伏せるのは間違いであるという。では、家畜の世話の次元での介護ではなく、根本的な人間としての両親の介護の本質はなにか?それは、両親の志を継承することである。両親が天下のもとで現役世代として生きた、その生業の社会的な貢献の道筋を継承することである。だから、親が亡くなると、3年かけて親の事業の形態を変えないで、丁寧に整理し、子供に託そうとした期待の道筋を悟ることであると説く。そのための服喪である。人間は動物であるから、衣食住の面倒は、3年間、親の愛をうけて赤子から、一人で歩き、話せるようになるまで育ててくれた両親に対し、その3年の重みを死後も、「孝」として尽くすべきだと説く。

孔子は、実は職業は、父親が魯の国の武人であり、爵位では「士」の位にあった。腹違いの兄がいたが、身体の不自由があり、その役職を継承できないので、父親は50歳代の後半に、孔子の母に跡継ぎをもうけた。それで、生まれたのが孔丘である。父親は3歳のときに無くなる。孔子は、乳幼児期、母方の顔氏の一族に守られて育つ。孔丘は、孔氏の一族に迎えられ、魯の国の軍用の馬や、儀式用の羊を飼育し、やがて、馬の調教、さらに馬車の操縦法を身に着ける。魯の国の牧場は、城郭の外にあり、幼児期は、郊外に暮らす。やがて、城郭内にある軍馬の調教場で、少年期、青年期を過ごしたと想定される。中年期に、孔子は何が最も得意か?と問われ、馭者の技術であると答えている。当時、春秋時代であるから、鉄製品が武器、農具、馬車の車輪に使用され始めていたから、孔子は最先端の技術の現場にいたわけである。それは、早くして亡くなった父親の爵位を継承する道筋でもあった。こうして、戦国時代の前夜に、富国強兵の国家の真髄に関わる。しかし、母親への孝が強く、嫁に対して強くあたり、家庭的には世俗的な幸福というよりも、母を主体とした家庭であった。当時、中国社会では、夫妻を単位とする家庭よりも、一族の族長のリーダーとなる大家族主義であった。成人後の孔子は、母方の願氏の一族の一員としての係累関係が強くなる。両親を丁寧に介護しない限り、郷里制と結合した宗法制の大家族主義のもとでは、自らの老後の安住の場も失われる。介護は、やがて自分がうける番になる。

 

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