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哲学史は書けても、哲学は書けない

2018年01月27日 | Weblog

日本では、哲学史をもって哲学者とする風潮がある。中国では、哲学史という哲学の方法が定着しているので、歴史を論じるがそれは材料であって、論者の哲学はきちんと前面にでてくる。古典漢語を読み込むだけで生涯が果てる日本人学者のハンディを超えるには、どうすれば良いのか。方法論を変えることだ。あるキーワードの概念の意味の歴史変遷から哲学史を構築する方法だ、日本では、「気」の研究で、中国の学界に日本から新風を吹き込んだ。だが、その後がいけない。綺麗に歴史は整理できたが、それまでである。

哲学家として自立する。これは、昔は極めて困難であった。どのくらいの年齢で、哲学家として自立するか?まず、70歳が目標となる。20世紀は、病理の酷い時代であった。ヒトが病めることを通し、哲学に救いを求めた。21世紀は、世界が遊戯となった。シリアスな哲学は、ヒトのクスリにはならない。僕だって、肺癌だ、と医師に言われて、喜んだとは言えないが、ゲーム機を与えてもらった気分だった。北朝鮮の金チャン、アメリカの虎ちゃん、中国の習チャン、ゲームのキャラクターに相応しい容貌だ。退屈しのぎが、ゲームだとすると、人文学は最高のゲーム場なんだ。特に、言語の学問をシステムとして掘り下げると面白い。真、善、美とか、仁、道、理、気、中庸、・・・言葉は同じでも、一人一人、正しく間違って使っている。誤用も通じれば良い。国籍も人種も性別も、みんな超える言語は、20世紀の人はエスペラント語に求めた。このエスペラント語に変わるのが、「アニメ」という媒体である。このコミュニケーションのツールが、21世紀の文字を超えた人類共通語となる時代がきている。その為には、表意文字の掘り下げ、シナリオの掘り起こしなど、アニメーターの創作に寄与するように、人文学の志向を定めることだ。遅れた大衆への啓蒙という左翼は退場するべきだ。このようにみると、日本の私立大学の人文学は、世界の第一線に立てる可能性がある。これが、現代哲学として、脳科学と言語科学、心理学の入れ込みを促す理由なんだ。

 

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