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「論語」にみる「国」の概念:武装する都市国家

2014年05月20日 | Weblog

 漢語を使う漢族の世界では、「国」とは、城郭都市を指す。「論語」に現れる「国」の文字は、全部で9回である。そのうち、同じ章に出てきて重複するものがあるから、篇別・章別では6か所である。 「千乗之国」が2か所。「礼譲を以て国をつくる」「国をつくるに礼を以てす」と「礼」と「国」とを不可分とするのが、それぞれ1か所。あとは、「大国」「国命」「国を興滅す」という言葉しかない。 「論語」の中心となる思想には、「国」は含まれていない。では、孔子は何を思想概念の中心としていたのか。それは、「天」である。

 朱子は「論語」を熟読し、「論語」の基本精神を「大学」の8条目に求めた。「天下を平らかにしようと思えば、国を治めねばならない」。これが「格物致知」に基礎をおく、知的な先覚者の役目だとする。だから、朱子においては、「国」は天下を支える装置にしかすぎない。けれども、君子は形而下では、「国」つまり城郭都市を統治することに専念しなければならない。

 「天」は形而上の眼に見えない「道」そのもの、その秩序は「礼」制の形で表せ、「国」という形而下の「器」で表現される。そして、「国」は戦闘用の馬車の一台を意味する「乗」の数で、大小と強弱とが決まる。だから、「国」と「国」とは、興亡を繰り返すことになる。 このように整理すると、孔子においては、理想的な「国」の概念はない。彼に有るのは、理想的な「天」という形而上の「道」に順応する「礼譲」の「国」である。そこには、悪を抑制するための「千乗」「万乗」の強力な軍事国家である。かといって、軍国主義ではない。「礼譲」が実感できる道義がないと、真の軍事大国にはなれない。だから、文官統治が大前提となる。「礼」という大義名分がないと、他国からの侵奪に備える兵士も根本的に強くならない。

 孔子の論理を整理すると、現在の中国の指導者は、「天下を制している」のに、世界に対し「礼譲」を以てせず、戦国時代の国のような「千乗」「万乗」の兵器力に依存していることがわかる。その哲学は、俗物的な唯物に堕している。 つまり、孔子の「識」と、中国共産党の「識」とのズレを埋めるのに、荀子の「識」を援用している。しかし、荀子は孔子より以上に「詩経」の世界を愛した思想家である。文化力を欠いた軍事大国では、「天」の「道」には耐えられない。ここは中国の先覚性に対し、今後とも見切りをつけるべき点である。

 孔子は「陪臣が国命を執れば」、国は長く続かないという。中国共産党は、この間の党内民主の結果、「陪臣」に権限が拡散してきた。そこで、人民解放軍の歴史の伝説をもつ英雄の血脈により、「陪臣」に拡散した権限を一極集中させる「神格化」が強く出てきている。だが、総書記の任期は10年、そうした「神格化」には限界がある。 すると、最後の「道」は、都市国家の伝統を活かし、省を単位として、「道」と「省」に民生の権限を移行する地方自治主義の採用である。「道」は、複数の省をまとめる経済圏である。こうした方向へ中国が進むには、中央官庁の権限の地方政府への委譲がポイントとなる。そうすると、党の総書記の権限は拡散する。中国は共産党の内部が集権化と分散化との間で揺れている。実は、わが日本国が、集権化と分散化との間で揺れているためである。

 日本が選択した方向で、中国の集権化と分散化の揺れが収まる。この不思議な同期性がある。それは、現代の地球的規模のグローバルな情報化社会の展開に応じ、「天」(グローバリズム)のもとでの「礼譲」は、現代版の都市国家の創生を促しており、その事情は中国大陸でも、日本でも、アメリカでも、ヨーロッパでも同じである。比較すると、東アジアでは、都市国家の権能が中央専制のため弱められてきたから、今後は、中央と地方ではなく、複数の中核都市の連携で構築される大地域、近畿圏、四国圏、九州圏というような方向軸が正解だと思われる。日本が変れば、中国も自ずと変わる。日本が狂えば、中国も狂う。相手を横道に誘い込み、狭隘な軍事大国主義に狂わせながら、実は、日本は、大道では先回りする、それが、本当に賢い対隣国戦略である。

 「先知先覚」の競争、それは学問力でもある。

 

 

 

 


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