座間コミニティー

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◆どうか、私の主を求め、主に信頼してやまないように。

2016年10月10日 16時48分01秒 | 聖書
あなた自身を主にゆだね、喜び望むことはできなくても、忍耐深くより頼め。
わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。(エレミヤ一五・二一)
この約束をされた輝かしい人格に注目せよ。「わたしは……救い出し……助け出す」とある。主ご自身がその民を救い、助け出される。ご自身が、親しく彼らを救われることを誓約しておられる。ご自分の腕でそれをなされるのであり、栄誉を受けられるのである。
ここには、主を助けるために私たちの努力が必要だとは、一言も言われていない。「わたし」のみが、大空の太陽のように十全の輝きを放っている。では、なぜ私たちは自分の力を計算し、血肉に相談をして、自分自身を傷つけているのだろうか。主は私たちの細腕を借りなくても、十分な力をもっておられる。不信仰な思いよ。静まって主が統べ治められることを知れ。
またここには、第二次的な手段や原困については少しもほのめかされていない。主は友人や助け手については、いささかも語っておられない。主は単身で事に当たられ、人の助けの必要をお感じにならない。私たちが周囲の友や親戚をあてにすることは、すべて空しい。彼らは、私たちを助けることができるのに、助けようとしないことがしばしばあり、また助けようとしてもその力がない。
約束は神からのみ来る。だから神を待ち望むことはよい。そのようにする時、私たちの期待は決して裏切られることがない。私たちが恐れる悪人たちはだれなのか。彼らは主によって根絶される。彼らは、むしろあわれむべき者たちである。彼らはより頼むべき神をもたない人にとってのみ、恐ろしい者である。主が味方である時、私たちはだれを恐れよう。私たちが邪悪な者を喜ばせるために罪に陥るならば、驚きあわてることもあろう。しかし、節操を堅く守っているならば、横暴な者たちの怒りも私たちの善によって圧倒されるであろう。大魚がヨナをのんだ時、大魚はヨナを消化することができないことを知った。世が教会をのみこむ時も、世は教会を吐き出すことを喜ぶのである。どれほど火のような試練の中にあっても、私たちは常に忍耐し、自分のたましいを失わないようにしよう。
 
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「互いに赦し合いなさい。

2016年10月10日 16時47分03秒 | 聖書

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)

あなたも赦せない相手、赦せない心を経験した事があるだろう。
怒りと恨み、憎しみ、妬み、敵対心で、四六時中がんじがらめだ。
赦せない相手がいるなら、どんなに楽しい最中でも、心に陰を落とし、心が暗くなる。

相手が目の前にいなくても心がずっと囚われている。牢獄の中だ。
結局相手に縛られ、拘束され、苦しいのは相手でなく自分だ。
赦せない心は、自らの心をむしばみ破壊して行く。
回りにも害毒を流して行く恐ろしい罪だ。

又、相手への憎しみと同時に、許す事の出来ない自分が嫌で、自己嫌悪に苦しむ事になる。
相手を憎み、自分も責め、これは悶々たる苦しみだ。

苦しくてたまらないのに、しかし、恨むのを止めたくない自分がいる。
これが自我であり自らの罪だ。どうしたら解放されるのか。
ありのまま主の御前に出る事だ。

止められないのでなく、苦しいのに、罪を断ち切りたくない自分、どうにも出来ない自我、本当の姿を打ち明けよう。
無力を認めて、赦せない事、そうでなく、本音は赦したくない事、しかし助けが欲しい事を神に告げよう。
助けを求めて祈ろう。

神はその本音の祈りを待っておられる。自分で赦す事は不可能だ。
しかし、「それは人にはできないことです。
しかし、神にはどんなことでもできます」神は必ず祈りに答えて下さる。
--------------------
赦せない心は牢獄の中だ。閉塞感で苦しく平安がない。
平安が無いという事は、自分が間違っている。
「赦したくない」気持ちを神に告げ、助けを求めよう。
助けて下さる。牢獄から出るなら解放だ。どんなに喜び溢れるだろう。

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今日の聖人の記念日

2016年10月10日 08時28分57秒 | キリスト教

聖フランシスコ・ボルジア司祭

1510年-1572年

 フランシスコは、スペインのガンディアの貴族ボルジア家の子孫として生まれ、信仰深く育てられた。国王カルロ5世に仕え、王妃の勧めで彼女の友人と結婚した。カタルニア総督を務めて後、父の後を継いだ。フランシスコは、キリスト者として成長するにつれ、生涯を神にささげたいと修道生活への望みを強くした。1546年に妻が亡くなり、子どもたちも独立して後、彼はイエズス会の創立者である聖イグナチオの指導を受け、イエズス会に入り司祭となった。

 フランシスコはスペインの管区長に任命され、教会の改革に力を尽くした。後に、ローマでイエズス会第3代目の総長となり、会の発展に貢献した。会員をアメリカ、ポーランド、メキシコなどに派遣し、ローマのグレゴリア大学をはじめ各地に多くの学校や寮を創立した。偉大な働きをなしたにもかかわらず、彼は決して高ぶることなく謙遜で、生活は質素だった。フランシスコは、最も活動的な教会人の一人とされている。

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◆忠 実 な 使 者

2016年10月10日 08時27分56秒 | 聖書

忠実な使者はこれを遣わす者にとって、
夏の暑い日の冷たい雪のようだ。
彼は主人の心を生き返らせる。   (箴言二五13)
今は、どこの家でも電気冷蔵庫があって、自家製の氷を楽しむことができます。しかし徳川時代には、将軍に献上するために半年もの間、地下深い氷室に蓄えておいた氷や雪を、はるばる担いで江戸まで持ってきたのです。その一かたまりの雪や氷が、どれくらい将軍の心を慰めたか、いいえ、生き返らせたかは、想像に余りあります。忠実に神の使命を果たす人は、この夏の雪の一かたまりのように、神の心を慰め、喜ばせ、生き返らせるというのです。
私にとって神は、十六歳の時まで無関係の方でした。私のことなど一向に構ってくれず、高い所で腕組みして、そっぽを向いている方だったのです。しかし、イエス・キリストとその十字架の愛を心に受け入れた時から、私にとって、神がどういうお方かが分かってきました。
第一に、私がまだ罪にまみれており、その罪にまみれていることさえ分からないで神につばきしていた時から、私を愛し、私に目を留め、私を選んでくださったのです(ヨハネ一五16参照)。「私たちが神を愛したのではなく、神がまず私たちを愛してくださったのです」(Ⅰヨハネ四10参照)と、ヨハネは語りました。
第二に、私たちの罪をゆるし、永遠のいのちを与えられた神は、私たちがその救いを受け入れるやいなや、一人一人を神の愛の使者として任命し、遣わしてくださることが、だんだんに分かってきました。私には、神から任された仕事がある。神は、この置かれた場所に私を遣わし、神に代わって、祈り仕え愛させてくださると分かってきた時、私の人生が変わってきたのです。それぞれの持ち場立場でできるかぎり忠実に、遣わされた使命に生きようとする時、神は、想像できないほどに喜んでくださるのではないでしょうか。
 
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◆傷のない者として……。

2016年10月10日 08時27分06秒 | 聖書
(ユダ二四節)
この「傷のない者」という驚くべきことばを深く考えよ。今私たちは、この標準にははるかに及ばない。しかし主の愛の働きは完成まで決してやむことがないから、いつか私たちもそれに達するであろう。民を最後まで守ってくださる救い主は、ついには彼らを「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」として、ご自身に迎えてくださる。救い主の王冠にあるすべての宝石は最上の質のもので、わずかの傷もない。小羊の花嫁に仕える者たちは、すべて汚れない清純なおとめである。
しかしイエスは、どのようにして私たちを完全無欠な者とされるのか。主はご自身の血潮によって私たちの罪を洗いきよめ、きよい天使のように純白なものとされる。また私たちは主の義の衣を着せられる。その義は、それをまとう聖徒たちを全く欠点のない、神の目から見て完全なものとする。私たちは神の目から見てさえ、非の打ち所のない者とされるのである。主の律法は、私たちを責めないだけでなく、私たちの中で高められる。さらに、私たちのうちの聖霊の働きは、完全なわざをする。聖霊は私たちを完全に聖いものとし、私たちのうちの罪を犯そうとする傾向をも皆無にされる。判断力、記憶、意志、すべての力、感情が悪の支配から解放される。私たちは神が聖であるように聖なる者とされ、永遠に神の御前に安住する。聖徒たちは、天国においても均整を保つ。彼らの美しさは、そのために準備された場所にふさわしいであろう。
ああ、永遠のとびらが開かれ、財産を継ぐのにふさわしくされた私たちが、聖徒たちと共に光の中に住む時の喜びはどれほどすばらしいものだろう。罪はなくなり、サタンは閉め出され、誘惑は永久に去り、私たちは神の前に「傷のない者」となる。これこそ真の天国である。私たちは、やがて血で洗われた群れからわき上がる永遠の賛美の歌を、喜び躍りつつ練習しようではないか。そしてダビデの契約の箱の前における歓喜をまねて、御座の前における私たちの喜びの序曲としようではないか。
 
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ヨブ記13章17-28節

2016年10月10日 08時25分35秒 | 聖書


13:21 「あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで私をおびえさせないでください。
13:22 呼んでください。私は答えます。あるいは、私に言わせ、あなたが私に答えてください。
13:23 私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください。」



 ヨブが本当に求めていたことは、自分の苦しみがよくわかっていない友人達からの、悔い改めの言葉ではありませんでした。

彼の心の内にある悲しみと、身体の重い病の内から求めていたことは、自分の問いに対して、神様から直に答えていただくということでした。

そのために彼は、神に2つのことを求めます。

1つは、今、身体の痛みと苦しみを解いてください。

もう1つは、神様ご自身が、この愚かな私に言葉をかけてください、私に言葉を直接掛けてください、というのでした。

そうすれば私は、私が心で思っていること、また疑問と思っていることをあなたに申し上げて、ご返事をいただくことができるでしょう、というのです。

それが、彼の心の求めでした。

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第二テサロニケ2章3~4節(イザヤ書59章)

2016年10月10日 08時22分50秒 | 聖書


★だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

■O:今日のコラム
花婿なる主イエスは、地の果てから天の果てまで、四方から選ばれた花嫁を主のみもとに集めるために、まもなく戻って来られます。しかしその前に必ず起こることがあります。それは、「まず背教が起こり、不法の人(別訳 罪の人)、すなわち滅びの子が現れる」ことです。

不法の人はいったいどこから現れるのか。滅びの子とは誰なのか。と以前はそのように単純に考えていました。しかし、血潮を宣言する祈りの旅路を通して、不法の人の現れは実際の到来のことだけでなく、我が内にも起こりうることであると気づかされました。

私たちの体は神の宮、神の神殿です。ですから、我が内に座を設ける不法の人を追い出さなければなりません。

不法の人の特徴とは何でしょう。

1.神に敵対し、自分こそ神であると宣言する。(自分が神になろうとする)

「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(4節)

2.あらゆる偽りの力、しるし、不思議

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、…」(9節)

3.愛を冷ます

「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24章12節)

4.惑わしの力が送り込まれる

「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。」(11節)

惑わしや偽りがはびこる終わりの時にあって、私たち自身を聖なる宮としてきよく保ち続けるために重要なこと、…それは悔い改めです。神様は、惑わされた人々には必ず悔い改めるチャンスを与えられるのです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1章9節)

砕かれた心、悔いた心で主の前に進み行き、御霊による聖めと真理のみことば、そしてイエス様の血潮によって、不法の人を追い出し、我が内なる聖所を建て上げていきましょう。

「不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。」(詩篇6篇8節)


■A:考えてみよう
不法の人の大きな特徴とは、高慢です。高慢は神様よりも自分を高く上げ、神の宮の中に座を設けます。これらの高慢に打ち勝つものは何でしょう。
それは、「へりくだり」です。

ヨセフもダニエルもダビデも、神に選ばれた者たちは一番低いところから引き上げられました。

不法の力を打ち砕き、我が内なる聖所が回復していくために、高いところから低いところに置かれる必要があります。なぜなら、私たちは試練や痛み、孤独の中で主との最も深い交わりを経験するからです。
主が私たちを深いところへといざなってくださいますように。


■P:祈り
主が十分だと思うまで深いところに私を置いてください。あなたの働きが終わる時に主は私を高く上げられましょう。
主よ、今日も、我が内なる聖所であなたと出会えますように。


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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10月9日(日)のつぶやき

2016年10月10日 01時33分19秒 | キリスト教
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