座間コミニティー

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◆ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。

2016年10月15日 15時53分57秒 | 聖書
もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。(出エジプト三四・二〇)
すべての初子は、主のものでなければならない。しかし、ろばはきよくないため、いけにえとしてささげることができなかった。ろばは神のものである。しかし神はそれを受け入れてくださらない。神は要求をお捨てにならないが、そのいけにえをお喜びになれない。それゆえ、贖いのほかに道がない。その動物は、小羊を代償とすることによって救われなければならない。贖われないならば、それは殺されなければならない。
私のたましいよ。ここにおまえに対する教えがある。そのきよくない動物とは、おまえのことである。おまえは、おまえを造り、守られる主の所有物である。しかし、おまえは非常に罪深いので、神はおまえを受け入れることをお望みにならず、またそれは不可能なことであった。そのため神の小羊がおまえの代わりに立たなければならなくなった。そうでなければ、おまえは永遠の死に落ちなければならない。傷のない小羊はすでにおまえのために血を流し、致命的な律法ののろいからおまえを贖い出してくださった。この傷のない小羊に対するおまえの感謝を全世界に知らせよ。
イスラエル人にとっても、ろばを殺すべきか、小羊を殺すべきかが時々問題となったのではなかろうか。人間のたましいの価値と主イエスのいのちとは、もちろん比較にならないものである。しかし、それにもかかわらず、小羊が死なれ、ろばのような人間が救われた。たましいよ。おまえ自身と他の人類に対する神の限りない愛をたたえよ。虫けらにすぎない者が、いと高き御子の血によって贖われた! ちり灰にすぎない者が、金銀よりもはるかに高い価をもって贖われた! この豊かな贖いがなかったら、私はどんな運命に陥ったことか! 
ろばの首を折ることは瞬間的な刑罰にすぎない。しかし、来るべき無限の神の怒りを、だれが測ることができるだろう。私たちをこのような運命から贖われた栄光の小羊の、言い尽くすことのできない愛よ!
 
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「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」

2016年10月15日 15時52分28秒 | 聖書

(ヨハネ3:30)
 
「私は盛んになり」がこの世の価値観だ。
毎日しんどい目をして働くのは、より豊かな快適な生活を求めるためであり、自分の才能を開花させて、より自己充足を計りたい、自己実現のためには、時間、富、労力を惜しまない。

「私は、私は、私のために」「私・・私・・」がこの世界だ。
しかし、信仰の世界は、そうではなく神中心だ。

それを妨げる、自己中心、自己主張、自己防衛・・それらの自己が衰えて行くほどに、私たちを通して、キリストの香りが現れ出る。

私たちの意志は頑強だ。強固であり、何が何でも思い通りに事を運びたい。
自分の思いが強いのだ。その強い肉の思いを、神の御手の中で、神の思いに沿うものとして、柔らかい心に変えられる。

そのために、しょっ中、思い通りにならない事態を目の前に置かれる。
頑なな意志は、その思い通りにならない事態に、いらつき、怒り、焦り、悶々とする。

神がその頑固な強情な意志を砕き、衰えさせて下さっている。
今、道がふさがれ、すべてが自分の思い通りに行かず、いら立っているなら、神から来ている事を覚えよう。

キリストが大きくなられるためには、あなたは衰えなければならない。
思い通りにならない事態を受け入れて、神に服することが成長だ。
-------------------------
自分を良く見せたいとは思わなくても、悪くは見られたくない、誤解されたら困る。
そして、いつの間にか自分、自分になっている。主が大きくなり、騒がしい自分が衰えて行きますように。

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今日の聖人の記念日

2016年10月15日 07時49分15秒 | キリスト教

聖テレジア(イエスの)おとめ教会博士

1515年-1582年

 テレジアは、スペインのカスティリア州のアビラに生まれた。19歳のとき、高い理想をもってカルメル会修道院に入ったが、当時の修道生活は、規律・修道精神が緩慢となっていた。そのことに失望したテレジアは、幻滅、悲哀、霊的乾燥、信仰に対する疑問などに襲われた。しかしこの苦しみをとおして、「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の深い神秘の体験をした。

 1562年、本来の会則に立ち返った「女子跣足カルメル会」をアビラに創立し、10数人の修道女たちとともに厳しい生活を始めた。彼女の改革に反対する人びとも多かったが、十字架の聖ヨハネなどの援助によって17もの女子修道院を建て、当時の社会に大きな影響を及ぼし、16世紀におけるカトリック教会改革の原動力ともなった。

 テレジアは、多くの本を書いたが、中でも自分の神秘生活を著わした『完徳の道』、『霊魂の城』は、今もなお多くの人びとに読まれている。シエナのカタリナ、幼きイエスのテレジアとともに、女性としてはただ3人の教会博士の中に数えられている。「イエズスのテレジア」「大聖テレジア」「アヴィラの聖テレジア」とも呼ばれている。

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◆あなたを裏切る者

2016年10月15日 07時47分50秒 | 聖書

苦難の日に、裏切り者に拠り願むことは、
悪い歯や、なえた足を頼みとするようなものだ。(箴言二五19)
金だけが裏切らない助けだ、たよりだと思いこんでいて、みごとに金に裏切られる人が何と多いことでしょう。あなたの金は、あなたのまわりに裏切り者をひきつけ集めると言いたいくらいです。
退職後、ばったり人が訪ねてこなくなったと世をはかなんで、ある役所の高官だった人が自殺したという記事を新聞で読みました。元大臣・元社長・元何々・前何々の肩書きが肩書きだけになった時、どんなにたよりにならないものでしょうか。権力や地位こそたよりになると多くの人は思いますが、実は、はかないものです。
これに対して聖書は、「鼻で息をする人間をたよりにするな」(イザヤ二22)とすら言うのです。
「苦しい時の神だのみ」とか「おぼるる者はわらをもつかむ」などといって、神をたよるのは弱い者のすることだ、女子どもと年寄りのすることだと、ばかにする人が実に多くいます。しかし私は、こう思うのです。うわっつらの富や権勢にこびるのではなく、目には見えませんが正しくきよい神の御目の前で、神の真実・きよさ・愛だけによりたのみ、神に従って生き抜こうとする、ほんものの信仰は勇敢です。真に力強いものだと、私はいつも感じます。
神は言われました。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ三三3)と。その同じ神は、またこう言われるのです。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう」(詩篇五〇15)。
 
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◆だれが、

2016年10月15日 07時46分56秒 | 聖書
この方の来られる日に耐えられよう。(マラキ三・二)
主が初めて来られた時に、外に現れる華やかさや力の誇示はなかった。しかし、それにもかかわらず、そのテストの力に耐えることのできた者はほとんどいなかった。ヘロデとエルサレム中の人々は驚くべき誕生の知らせを聞いて動揺した。主を待ち望んでいると思われた者たちは、実際に来られた主を拒否し、自分たちの告白が偽りであったことを暴露した。主の地上におけるご生涯は、ふるい分ける箕であって、多くの宗教上の告白をふるい分けた。それに耐えることのできた者はほとんどいなかった。
しかし、主が再臨される時はどうだろう。それを考えてみることさえ、罪人は耐えられない。「(主は)口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」主が「それはわたしです」と言われただけなのに、兵士たちは地に倒れた。それなら主があらわにご自身を現される時の恐怖はどれほどだろう。主の死は地を震わせ、天を暗くした。それなら、主が生ける救い主として死者と生者を御前に集められる時の恐ろしい光景はどうであろう。ああ、その恐怖が人々に罪を捨てさせ、神の子の怒りをなだめるために主に口づけするまでになるように。
主は小羊であられるが、ユダ族から出た獅子であられ、獲物をばらばらに引き裂かれる。主はいたんだ葦を折られないが、鉄の杖で敵を打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。その敵は一人でも主の怒りのあらしの前に耐えることができず、その憤りのひょうから姿を隠す。しかし、主のいつくしみを受け、その血によって洗われた民は、その現れを喜びをもって待ち望み、恐れることなく主と共になることを願う。彼らにとって、主は今も金の精錬者であられる。そして、主によって精錬された者は、純金となって出て来る。
今朝私たちは自らを探り、主の再臨が私たちの心に暗影を投ずることのないよう、私たちの受けた召しと選びとを確かなものとしよう。ああ、すべての偽善を去って、主のおいでになる時、純真で非難されるところのない者となる恵みを得たい。
 
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ヨブ記15章7-16節

2016年10月15日 07時45分11秒 | 聖書


15:11 「神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか。
15:12 なぜ、あなたは理性を失ったのか。なぜ、あなたの目はぎらつくのか。
15:13 あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。」



 友人は、ヨブが神に問いかける言葉を、神への冒涜と考えました。

ですから、なぜあなたはこのように尊い神に向かって、まるで愚かな者のように語るのかと問うたのです。

あなたには、神から恵みと憐れみの言葉がかけられているではないか、それで十分ではないかというのです。

どうして、理性を失った人のようにいらだち、神に向かって愚かなことを語るのかと問うのです。

 ヨブにとっての苦しみは、この友人には経験されていないことです。

ですから、通常の与えられている神の御心に関する理解と判断で、十分だと思ったようです。

しかし、ヨブにとっては、全く違っていました。

彼には、この信仰者が受けている、特別な苦しみに対する神の答えを必要としていたのです。

ですから、しきりに問うていたのです。

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テモテへの手紙 第一 4章 12~13節

2016年10月15日 07時43分02秒 | 聖書


★年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。

■O:今日のコラム
テモテの手紙を通して私達の内なる人がキリストの似姿へと成熟して行く為の大切な学びを得る事が出来ます。

パウロは自身が書いた書簡のあらゆる箇所で、この世の目に見える物理的な世界の話しから、霊的な領域の話しへと一気に切り替え、私達の心をこの世の事から神の国の事へと向けさせます。

第一テモテの手紙4章8節においても

「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」

と言っており、肉体の鍛錬の話しから、霊的な内なる人の敬虔、聖さにおける鍛錬はもっと有益であり、永遠に残る価値があるものだと教えています。

肉体の鍛錬も1日では良い成果を得る事が出来ません。脂肪が燃焼し、筋肉が強められ、体質が変化する為には継続的な忍耐と努力が必要となります。

2~3日でトレーニングを止めてしまい。「私の体質は良くならない。」と言っている人がいたらトレーナーは何とアドバイスをするでしょうか?「そんなすぐには結果は出ないよ。あきらめないで続けなさい。」と言うでしょう。

内なる人の体質が変えられ、霊的な敬虔さが身に付くのにも時間がかかります。忍耐が必要です。1日や2日では完成されません。この事に人生をかけて取り組んで行く決心を共にしましょう。

パウロは未完成の若きリーダーのテモテに、内なる人が変えられる為の具体的なトレーニングとして「聖書の朗読」を勧めています。

「聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」(1テモテ4:13)

初代教会の聖徒達が迫害や試練をも耐え抜く強い信仰を持ち、そして散らされて行った地で新たに弟子を作り、教会を建てあげて行った情熱は、聖霊の力と御言葉の朗読から来たものでした。

聖書を朗読する事は御言葉を食べる作業です。知識として頭に入れた御言葉は忘れて行く事があります。しかし、霊の糧として内に入った御言葉は私達の霊的体質を作り変え、内なる人を強め、建てあげて行くのです。

また聖書を朗読する事は、御言葉によって洗われる作業です。日々の継続的な御言葉の朗読を通して私達の肉の思いは御霊に属する思いへと、自己中心的な考え方からキリストにある愛に基づく考え方へと変えられて行き、キリストの聖さに与る事となります。

時間はかかります。毎日継続して行き、人生かけて取り組む必要があります。しかし、これは永遠に対する、最も偉大な投資となります。共に永遠の為に今を生きようではありませんか。

「また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」(1テモテ6:19)


■A:考えてみよう
御言葉の朗読した箇所を記すノートを作り、継続的に御言葉の朗読をして行きましょう。


■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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10月14日(金)のつぶやき

2016年10月15日 01時33分43秒 | キリスト教
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