座間コミニティー

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◆もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。

2016年10月04日 17時06分07秒 | 聖書
それは、義なるイエス・キリストです。(Ⅰヨハネ二・一)
 
たとえ罪を犯しても、私たちには弁護してくださる方がいる。ヨハネは「もしだれかが罪を犯したなら、その者は弁護する者を失う」とは言っていない。私たちは罪人であるが、「私たちには弁護してくださる方があります」と言っている。これまでに犯したすべての罪、これから犯すすべての罪も、主イエス・キリストを弁護者としてもつ信者の権利を奪えない。
私たちの主に与えられている名前の深い意味よ。主は、私たちが必要とする弁護者である。イエスとは、人を救うことが任務であり、それを喜びとするお方の名だからだ。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすばらしい名は、主の成功を意味している。
次に「キリスト」とは、油を注がれた者の意である。これは主の弁護の権威を示す。キリストは私たちの弁護をする権利をもっておられる。主は父なる神ご自身が任命された弁護者であり、選ばれた祭司であられるからだ。神が大能なる主を選ばれたため、私たちは安心して、自分の問題を神が信任されるお方にゆだねることができる。主はキリストであるため、権威を受けられた。主はキリストであるため、資格を備えておられる。油を注がれることは主のお仕事に全くふさわしいからである。主は、神の御心を動かすように嘆願することがおできになる。油を注がれた主が、立ち上がって私のために嘆願される時、主はなんとやさしい、説得力をもったことばを用いられることであろう!
さらに主の名には、「義なる」ということばがついている。これは、主の品性であるばかりか、主の抗弁である。ご自身が義であるという抗弁によって、私に対する不正の告発を弁明してくださる。主はご自身が私の代理であることを宣言し、主の従順を私のほうに振り替えてくださる。
私のたましいよ。おまえは弁護者として最適の友をもつ。おまえの一切を主の御手にゆだねよ。
 
 

「お話しください。

2016年10月04日 17時05分10秒 | 聖書

しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:10)

エリのもとで、養育されていたサムエルに、突然、主からの御声が臨んだ。
エリの指示で「お話しください。しもべは聞いております」と答えた。

すると、その一番初めのメッセージは、エリの家への裁きであった。
「彼の家を永遠にさばく。自分の息子たちが呪いを招くような事をしていながら戒めなかった罪による」と。

自分の師であるエリに伝えるに忍びない、厳しい辛い言葉であった。
サムエルはエリに語ることを恐れたが、主の言葉をそのまま伝えた。

預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にそのまま民に語る人のことだ。
どんなに痛い言葉であろうと、その通りに語らねばならない。

これから預言者として立てられるサムエルへの最初のテストであったかも知れない。
私たちも「しもべは聞いております」、喜んで聞きますと主に向かいつつ、しかし、自らの罪を指し示され、自らの姿を刺し通される痛い言葉、自分の願いと異なる辛い言葉、矯正の厳しい言葉は聞きたくなくて、耳をふさいでしまうだろうか。

痛い言葉こそ恵みの言葉だ。自分が変えられ成長する。主から語り続けて頂くためには、痛い言葉にこそ耳を傾けよう。

「愛している」「共にいる」「願いを聞く」そいういう言葉を聞くときだけが、「恵まれた」と勘違いしていないだろうか。
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整えられた者とされたい、変えられたいとの態度で御言葉にのぞみたい。
必ず導いて下さる神様の声をより分けずに受け取って行こう。


今日の聖人の記念日

2016年10月04日 06時39分55秒 | キリスト教

聖フランシスコ(アシジ)修道者

1181年-1226年

 フランシスコは、イタリア、アシジの裕福な織物商の家に生まれた。フランシスコは、快楽を求め自由奔放な青春時代を過ごしたが、騎士になりたいと望み、戦場に赴いた。そこで病気にかかって、夢の中でイエス・キリストに出会い、回心してイエスに従う決心をした。持ち物を貧しい人びとに与え、自らは粗末な服をまとい、ローマ中を巡礼した。アシジに戻ったフランシスコは、壊れた聖堂で祈っていたとき、教会を建て直すようにとのキリストの声を聞き、すぐに聖堂の再建を始めた。フランシスコの父は、教会のために家の財産が費やされることを嫌い、フランシスコが財産を受け継ぐことを放棄する法的手続きをとり、勘当した。

 しかしフランシスコはよりいっそうキリストの言葉に従い、同志を集め、清貧と愛の生活を続けて多くの人びとを感化し、当時の乱れた教会を改善していった。その後ローマに行き、教皇インノセント3世から許可を得て、1209年に「小さき兄弟会」、後の「フランシスコ会」を創立した。

 すべての被造物をとおして与えられる神の恵みを悟ったフランシスコは、神に感謝と賛美をささげた『太陽の賛歌』を作った。彼の物語は、『小さい花』という本に伝えられている。また、彼はクリスマスの夜に馬小屋を飾って祝った最初の人であり、その習慣を広めた。

 1224年、フランシスコは聖痕(キリストが十字架に付けられたときに受けた5つの傷)を受けたといわれている。その生涯は、キリストのしもべとして貧しく愛にあふれるものであり、現代まで世界中の人びとに大きな影響を与え続けている。


◆主によりたのむ者の幸い

2016年10月04日 06時38分55秒 | 聖書

私は、なまけ者の畑と、
思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。
すると、いばらが一面に生え、
いらくさが地面をおおい、
その石垣はこわれていた。   (箴言二四30―31)
 
伝説によると、ソロモンは側近の者に言ったそうです。「この畑の持ち主は、なまけ者で貧乏で、また愚か者に相違ない。」「どうしてお分かりですか。」「少し手入れをすればりっぱなぶどう畑になるものを、このように捨てておくからには、きっとなまけ者だ。なまけるくらいだから貧乏で、なまけて貧乏するくらいだから、必ず愚か者に違いない。」
しかし、この所を読んで、私は別な話を思い出したのです。自分で八年間羊の牧場を経営し、そして今は牧師になっているフィリップ・ケラーさんの話です。ケラーさんの隣の牧場は草がろくに生えず、羊は放っておかれ、がつがつとうろつきまわるほかありません。きたないにごった水しか飲ませてもらえず、やせほそって病気持ちで、いつも寄生虫にやられ、ごろごろ死んでいくのです。クーガやコヨーテに食い荒らされ、羊どろぼうに盗まれていました。その牧場の羊の飼い主は、利己的で冷淡で無関心でなまけ者だったというのです。もし私たちがそんな牧場の羊だったとすれば、人生は荒廃・不満足・争い・孤独・絶望が絶えないでしょう。それは、悪魔を羊飼いとして、罪の牧場に生活する人生の姿です。
しかし私たちが、迷った一匹を何を犠性にしても捜し出し、そのためにはいのちも捨てるような愛の神に所有され管理される羊だったらどうでしょう。愛の神は、配慮に満ちた熱心な羊飼いなのです。ダビデは歌いました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」(諸篇二三1―3)。ふらふらと気ままに過ごし罪に従う人生から、神の畑や牧場に身を置くようになりたいとお思いになりませんか。
 
 

◆夕暮れ時に、光がある。

2016年10月04日 06時38分01秒 | 聖書
(ゼカリヤ一四・七)
 
私たちはしばしば不吉な予感をもって老境を見、夕暮れになっても光があることを忘れている。多くの聖徒にとって、老年は生涯の黄金時代である。船乗りが不朽の国の岸辺に近づくとともに、心地よい風が頬をなで、波は静まり、深い荘厳な静けさがあたりをおおう。老年の祭壇からは、青年の頃の燃え上がる火のひらめきは上らない。しかし、さらに真正な、さらに熱心な炎が残っている。
巡礼者たちは、べウラの地に着いた。その幸福の国で過ごす日々は、この地上における天国のようだ。天使たちが訪れ、天上の風が吹き、楽園の花はその中で生長し、空気は神々しい音楽で満たされている。ある者は何年かここに住み、ある者はしばしとどまっただけで立って行く。しかしそれは地上におけるエデンの楽園である。私たちがその木陰に憩い、果実が熟するのを待ちたいと思うのも当然である。夕日は天空にある時の太陽より大きく見え、栄光の輝きは夕日を囲む雲のすべてを染める。苦痛は人生のたそがれの甘美な静寂を乱さない。なぜなら、力は弱さのうちに完全に現れ、すべての苦痛に忍耐をもって耐えるからである。尊い経験の成果が人生の夕暮れに収穫され、たましいは安息に入る備えをする。
さらに、主の民は臨終の時に光を楽しむ。未信者は、死の陰が迫り、夜が来て、人生の灯がまさに消えようとしていると言って嘆く。しかし信仰は叫ぶ。「いいえ。夜が更けて、真の日が明けようとしているのだ」と。
光は来る。不滅の光よ! 御父の顔の光よ! あなたの足をベッドの中でひきしめよ。あなたを待つ天使の群れを見よ。天使はあなたを運び去る。さようなら、愛する者よ。あなたは行く。あなたは手を振る。ああ、いよいよ光は来た。真珠の門は開かれ、黄金の大路は碧玉の光で輝いている。私たちは目をおおう。しかし、あなたは私たちの見ることのできないものを見る。兄弟よ。あなたは私たちのまだ見たことのない夕べの光を得ている。
 
 

ヨブ記10章18-22節

2016年10月04日 06時36分46秒 | 聖書


10:20 「私の生きる日はいくばくもないのですか。それではやめてください。私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。
10:21 私が、再び帰らぬところ、やみと死の陰の地に行く前に。
10:22 そこは暗やみのように真っ暗な地、死の陰があり、秩序がなく、光も暗やみのようです。」



 ヨブは、神様に言いました。

もし私の残りの日々が少ししかないのでしたら、もう私を責めるのはやめてください。

自分の毎日の生活を、少しは明るくしたいと願うからです。

というのは、死にゆくことであるならば、その死の所は少しの光もないからです。

そのような暗闇の所に落ち往くことが自分の行き先であるとすれば、今のこの時は、あなたからの苦しみから解放されて、少しでも明るい日々を送りたい、というのです。

彼にとっては、自分を苦しめているのは、この神様以外におられないと思っていたのです。

ですから、そのお方に、苦しみを与えるその手を押さえて、自分が死に往くしばらくの間でも、明るくしてくださいと願ったのです。



イザヤ53章12節(ピリピ4章)

2016年10月04日 06時34分44秒 | 聖書


★『それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。』

■O:今日のコラム
イザヤ53章は、メシヤ預言として知られています。イエス様が若枝として(ヘブル語でネイツェル、ナザレ人とも読まれる)お生まれになるところから、苦しみを味わわれ(苦い水の杯。イエス様はこの杯を取り除けて欲しいとさえ告白されました)、そして十字架を全うされました。
 それゆえに父は、イエス様をよみがえらせ、揺るがない王権、全ての名の上に名を置く王権をお与えになりました!ハレルヤ!
 イエス様は、私たちの模範となられたのです。私たちも日々、悔い改めて自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行く者とされました。なぜ自分の十字架を負っているのでしょうか?これは、飾りなのでしょうか?筋トレのためでしょうか?それとも誰かが使うのでしょうか?そうです!自分の十字架は、自分が使うのです。自分の十字架を全うするとき、死と葬りと復活という福音の最も大切な事が、自分に実現するのです!
 私達が、私たちの中の小さい領域(妬み、怒り、プライド、情欲など)に死に、その罪を十字架に打ち付け、血潮を宣言して悔い改めるなら、そのことのテスト(試練)が必ず待っています。それが自分の十字架です。それを全うするなら、栄光によみがえり、罪との関わりは絶たれ、その領域に権威を持つようになっていきます。

『 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。』(1ペテロ4:1)

 その領域に関しては、主とともに御座に座っているといえるのです。

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──』(エペソ2:5)

 イエス様は、御座に着座されとりなしを続けておられます。私たちも十字架をどんどん全うしていくなら、主とともに治める者となり、また現代においては、とりなす者となっていくのです。


■A:考えてみよう
とりなしの思いが来るなら、素直にとりなしに応じよう!


■P:祈り
自分を捨て、十字架を負い、イエス様について行きます。どうぞ、ともに座らせ、ともにとりなし、ともに治める者としてください。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月3日(月)のつぶやき

2016年10月04日 01時34分31秒 | キリスト教