座間コミニティー

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◆主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので……。

2016年10月03日 17時09分34秒 | 聖書
(ヘブル二・一八)
 
これは広く知られているみことばである。しかし疲れた心にとって、これは甘露のような味わいをもつ。イエスは私と同じように試みられた。あなたはこの真理を幾たびとなく聞いている。あなたはその真理を把握しているか。主は私たちが陥るのと同じ罪に試みられた。イエスを私たち普通の人間から分離して、特別なお方としてはならない。あなたが今通っている道は暗い。しかしイエスは、あなたに先だってそこを通られた。あなたは、今激しい戦いのただ中にある。しかしイエスは、その同じ敵と戦われた。勇気を出そうではないか。キリストはすでに私たちに先だって荷を負われた。その栄光の王の血潮したたる御足跡が、私たちの今歩む道に印されている。
しかしさらにすばらしいことがある。それは、イエスは試みられたが、決して罪を犯されなかったことである。では、私のたましいよ。おまえも罪を犯さなくてよい。イエスは人となられた。一人の人が誘惑に耐えて罪を犯されなかったとすれば、その肢体である私たちも、主の御力によって罪をやめることができるからである。神に召された生活を始めたばかりの人々のうち、誘惑されれば必ず罪に陥ると考えている人がいる。しかしこれは間違っている。誘惑されることは罪ではなく、誘惑に負けることが罪なのである。これは、激しく試みられている人々にとって慰めではないか。
さらに、主イエスが試みを通って輝かしい勝利を得られたことを思い起こすならば、いっそうの励ましとなることだろう。主が勝たれた以上、主に従う者もたしかに勝利を得る。恐れてはいけない。キリストは私たちと共におられ、私たちを守るために武装しておられる。私たちの安全の場所は、救い主の御胸である。私たちは今、さらに近く主に引き寄せられるために試みられているかもしれない。私たちを救い主の愛の港に吹きつける風、愛する医者を求めさせる傷は幸いである。試みの中にある者よ。救い主のみもとに来れ。主は私たちの弱さを思いやり、試練の中にあるすべての者を助けてくださるからである。
 
 

「訓練と思って耐え忍びなさい。

2016年10月03日 17時08分42秒 | 聖書

神はあなたがたを子として扱っておられるのです」(ヘブル12:7)

アブラハムは示す地に行け、大いなる国民とするとの示しに従い、75歳の時に生まれ故郷を出た。なかなか子供は生まれず、100歳になった時に、妻のサラに子供が与えられた。

25年間待った。その間、数々の失敗もし、苦しみを通りながら神の訓練を受けた。
父もエサウも騙したヤコブは、家におれなくなり、叔父ラバンのもとへ。

そこで、神の御手が臨み、訓練を受けた。
叔父に騙され、ラケルをめとるのに14年の歳月をかけ、20年間暑さ寒さの中で厳しい労働をし、訓練を受けた。

ヨセフは訓練、訓練の歩みであった。
兄たちに、隊商に売られてエジプトへ、エジプトでは全くの無実の罪で牢獄へ。

神が正義ならなぜこんな事に?ヨセフへの訓練であった。
苦しい日々であったが、ヨセフは訓練を通して、主の御手により砕かれ、練られ、鍛えられ、築き上げられた。

サウルに命を狙われ続け、常に死と隣り合わせであったダビデ、逃亡を続け、その恐怖はいかばかりだったろう。

訓練は決して喜ばしくなく、辛く悲しく苦しいが、逃げないで受け取って行く時、間に合う器に変えられ、造り上げられて行く。

祝福されて、主の器として用いられて行く。
訓練を逃げて、避けている限り、祝福を取り逃がす事になる。
逃げていないか、振り返ってみよう。
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苦しい試練は必ず益とされる。
そこに共にいて下さる神様を一番近く感じる時だ。
出来ない限界も知り祈り求める事が出来る。


今日の聖人の記念日

2016年10月03日 06時41分08秒 | キリスト教

聖ジェラルド(ブローニュ)

895年ごろ-959年

 ジェラルドは、フランス、ブルゴーニュの貴族の家に生まれ、軍隊的雰囲気の中で育てられた。ベルギーのナミュール王国に仕えたが、名誉、享楽を求める風潮の中で、ジェラルドは宗教的な生活への招きを感じた。

 918年、王国から使命を受けてフランスに行き、聖デニス修道士が指導する修道生活をかいま見て、自分もその会員になる決心をし、司祭となって、修道院の改革を手伝った。11年後、彼が自分の領地であるブローニュに修道院を創設すると、領民の多くが彼のもとに集まり、そこは他の修道院の良い模範となっていった。ジェラルドの名声がいたるところに広まると、ロレーヌの公爵からギスレイン修道院の改革を任せられた。その修道院が聖ベネディクトの会則に従っていたところから、彼は自分の真の使命を悟り、その後20年間は、ベネディクト会則に従い、18もの修道院を創設し、改革し、導いた。ジェラルドは、神の道具となって修道院の改革のために生涯をささげた人として知られている。


◆むしろよい終わりを

2016年10月03日 06時39分52秒 | 聖書

悪を行なう者に対して腹を立てるな。
悪者に対してねたみを起こすな。
悪い者には良い終わりがなく、
悪者のともしびは消えるから。(箴言二四19―20)
 
ダビデは詩篇三七篇で同じことを言っています。「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ」(詩篇三七1―2)。
まじめに働きもしないで、上役におべんちゃらを言って出世する人、ごまかしや税金逃れなどあらゆる不正をしながら、肥え太っていく人。――そういう人が実際います。だから、しゃくに触るし、ねたましいという気持ちは、よく分かります。
しかし、悪い者の繁栄や不正な者の出世を心からねたむ時は、自分の中に二つの問題があることを認識し、反省しなければなりません。第一は、金もうけや出世を幸福と考える価値観の低さです。第二は、折りがあったら自分も同じことをやってえらくなりたい、もうけてみたいという罪と悪への傾きです。
イザヤは言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ」(イザヤ四〇6―8)。まことに、悪い者にはよい終わりがなく、悪者のともしびは消えるのです。イザヤは、続けて言います。「だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(四〇8)。
横をにらんで悩んだりする必要はありません。神のことばと、神のことばにひたすらによりたのむ者は、永遠に立つのです。「終わりよければすべてよし」ではないでしょうか。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ一〇11)のです。
 
 

◆御使いはみな、仕える霊であって、

2016年10月03日 06時39分01秒 | 聖書
救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。(ヘブル一・一四)
 
天使は、神の聖徒たちのための見えない従者である。彼らは、私たちの足が石に打ち当たることのないように、その手で私たちを支えている。彼らは主に対して忠実であり、したがって主が愛される子らに深い関心をもつ。彼らは下界において放蕩息子が父の家に帰って来るのを喜び、信者が天の王宮に来るのを歓迎する。
昔、天使は神の子たちに現れた。今日、私たちは天使を見ることはできないが、天国はなお開かれており、神の使いたちは救いの相続人たちを訪れるため、仲保者なる方の上に上り下りしている。今なおセラフィムは祭壇の上から取った燃えさかる炭を携え、神に愛される者のくちびるに触れようとして飛びかけっている。もし私たちの目が開かれるとすれば、主のしもべたちの周りに火の馬と戦車を見るであろう。私たちは無数の天使の群れの中におり、彼らは王室の子孫である私たちを見張り、かつ保護しているのである。スペンサーの詩は単なる作り話ではない。
 彼らは絶えず黄金の翼をはり
 空中を飛びめぐり
 翼をもつ従者として
 悪魔と戦う私たちを助ける
きらきら輝く天国の廷臣が、進んで私たちの従者となるとは、選ばれた私たちはなんという位置に高められていることだろう。一点の汚れもない天上にある者と交わるとは、なんとすばらしいことか。私たちを救うために、神の戦車幾千万が待機しているとは、なんと完全に守られていることだろう。これはだれのおかげであろうか。主イエス・キリストを永遠に私たちの慕わしい方としようではないか。主のゆえに、私たちは支配、権威をはるかに超えて天に座する者とされたのである。主の使いは、主を恐れる者を取り巻く陣を張っている。彼は竜を打ち破るミカエルである。
ばんざい。主イエス様! 主の使者であられるあなたの御前に、今朝、あなたの家族は忠誠を誓います。
 
 

ヨブ記10章1-17節

2016年10月03日 06時37分33秒 | 聖書


10:15 「もし、私が罪ある者とされるのなら、ああ、悲しいことです。私は、正しくても、私の頭をもたげることはできません。自分の恥に飽き飽きし、私の悩みを見ていますから。
10:16 私の頭が上がると、あなたはたける獅子のように、私を駆り立て、再び私に驚くべき力をふるわれるでしょう。」



 ヨブは、自分のために仲裁者がいれば良いと思いました。

しかし今は、そのような人は見つかりません。

そこで、彼が苦しみの中で行ったことは、自分の思っていること、また考えていることを、主に告げることでした。

 彼は、自分は聖なるお方の前では、罪に満ちている者であることを知っています。

ですから、そのことが問われれば、頭を上げることはできません。

もし頭を持ち上げたとしても、神は私を責めるでしょう。

しかし、私にも問いたいことがあります。

それは、信仰者が神を求めて生きていこうとしているのに、なぜ、あなたはそのような者を苦しめる続けるのですかということです。

彼には、その疑問が解けないのです。

苦しみは増すばかりでした。


ピリピ人への手紙3章16節(イザヤ52章)

2016年10月03日 06時35分27秒 | 聖書


★それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として進むべきです。

■O: 今日のコラム
今日の箇所は、牢獄にいるパウロがピリピの教会へあてた手紙の中に記載されている一節です。

パウロは、「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:7)」とかかれているように、牢獄にあっても主との関係が親密であったと思いますが、そんな彼を支援していたピリピの教会には人間同士のもめごとがありました。

牢獄で生きるか死ぬか、日々ギリギリのところに生きていたパウロにとっては、もしかしたら「そんな小さなことで」と呆れる思いもあったかもしれません。

しかし、ピリピの教会には、「主にあって喜びなさい。(ピリピ3:1)」や「キリストの苦しみにあずかる(ピリピ3:11)」ことを勧めた後に、唐突にも「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として進むべきです」と勧めています。

いろいろ言いたいことはあっただろうに、まずは出来るところから、今ある場所からまずは一歩を踏み出してみよう、そう勧めました。

この一節に、パウロの、またパウロが受け取ったイエス様の心に感動しました。

まず、出来るところから始めて良いと言ってくださる主、最初の小さな一歩すらも認めて、ともに歩んでくださる主、その想いに応えたい、その願いが最初の一歩につながると信じます。

■:A 考えてみよう
毎日生きる中で、弱さを明るみにできないような、背伸びして生きなきゃいけないような、出来ないことや知らないことが許されないような、そんなことを感じることがあります。
また、信仰も横並びでみると、とても今の自分には出来ないなと落ち込むこともあります。
それでも、まずは一歩始めてみよう、できないことがあってもわからないことがあっても、今この瞬間を見つめてていてくださる主に今日も感謝して、今日を過ごせますように。

■:P 祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月2日(日)のつぶやき

2016年10月03日 01時35分40秒 | キリスト教