座間コミニティー

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◆主は恵みと栄光を授け……。

2017年10月01日 17時08分28秒 | 聖書
(詩篇八四・一一)
主はいつくしみ深い。与えることを喜ばれる。主が与えられる賜物は、その尊さを測ることができない。日光のように無代価で与えられる。主が選ばれた者に恵みを与えられるのは、それがみこころだからである。主が贖われた者に恵みを与えられたのは、契約のゆえであり、召された者を恵まれるのは、御約束のゆえであり、信者に恵みを与えられるのは、彼らがそれを求めるからであり、罪人に恵みを与えられるのは、彼らがそれを必要としているからだ。主は恵みを、豊かに、適切に、不断に、快く、また主権者らしく与えられる。そして、その恵みを与える方法によって、恵みの価値を一段と高められる。主はあらゆる形の恵みを、自由にその民に与えられる。その民を慰め、守り、きよめ、導き、教え、助けられる。主は、これらの恵みを惜しむことなく、不断に、彼らのたましいに注ぎ入れ、どのようなことが起ころうとも常にそのようにされる。
私たちは病にかかるかもしれないが、主は恵みを与えられる。貧困に陥るかもしれないが、恵みは必ず与えられる。死は必ず訪れるが、恵みは私たちの最も暗い時においても、光をともす。友よ。月日は過ぎ去り、再び落葉の秋が巡ってきても、「主は恵みを授ける」という不朽の御約束は、なんという幸いであろう。
冒頭の聖句にある「と」という短い接続詞は、現在と未来を結ぶダイヤモンドのびょうのようだ。恵みと栄光は常に伴う。神がその民をめとられたゆえに、何ものもそれを引き離すことはできない。主は、自由に恵みを与えられたたましいに、栄光を与えることを決して拒まれることはない。実に栄光とは、恵みが安息日に晴れ着をつけたものにほかならない。恵みに花が咲き、実が結ばれ、熟し、完成したものが栄光である。私たちがいつ栄光を受けるかだれにもわからない。あるいは、この十月が終わらないうちに、聖なる都に行くかもしれない。ともあれ、私たちは遠からず栄化される。栄光を、天の栄光を、永遠の栄光を、イエスの栄光を、父なる神の栄光を、主は必ず選ばれた民に与えられる。おお、忠実な、神のすばらしい約束よ!
 

「もし、あなたがたの心に、苦いねたみと敵対心があるならば・・

2017年10月01日 17時07分30秒 | 聖書

真理に逆らって偽ることになります」(ヤコブ3:14)

神は私たちに御声をかけられ、語りかけて導かれる。サタンも同じ事をする。
サタンも語りかけて誘惑して来る。主は荒野でサタンの誘惑に会われた。
サタンは御父から離そうと、誘惑をしかけて来る。

主は荒野で、二つの声を聞かれた。神の御声とサタンの声だ。
私たちも御父の御心を求めようとする時、神の御声とサタンの声がある事に要注意だ。
よくわきまえていよう。でなければ、間違ってしまう。

特に御心を求める時に、大切な事が、よく心を静めて、御霊に心を探って頂いて、罪があれば、必ず悔い改めることだ。
特に、妬みや敵対心の苦いものをそのままにしていると、サタンの声を神の声と信じ込んでしまう。

罪が見えなくしてしまう。邪悪な思いをそのままにしておくと、サタンの声と神の御声が混乱してわからなくなる。
間違ってしまう。あなたの心に苦い根、苦いものがないか、思いや行動に邪悪なものがないか、よく御霊の光に探って頂こう。

一つ一つ言い表わすなら、その罪を赦し、すべての悪からきよめて下さる。
きよめられて、御心を求める時、神のさやかな御声が聞こえて来る。
上からのものは純真、平和、寛容、温順・・あわれみと良い実に満ちている。

苦いものは、上からのものではない。いつも悔い改めて御霊の導きに従おう。
上からのものに満たされる。
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すべての人に平和な思いで接する事はできないが、やせ我慢して御心に従おうとしてしまうのは偽りだ。
苦い思い、その罪に正直になり悔い改めて行かなければ思いの中にサタンの足場が出来てしまう。
正直になり御声を待ちたい。


今日の聖人の記念日

2017年10月01日 12時21分17秒 | キリスト教

聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士

1873年-1897年

 テレジアは、フランス、アランソン市に住む信仰深いマルタン家の末娘として生まれた。
 1877年、母の死を機に、父と4人の姉とともにリジューに移った。テレジアは、2人の姉たちのいるリジューのカルメル会に入ることを望んだが、年が若いという理由で入会はすぐには許可されなかった。

 1888年4月、彼女の熱い望みがかなえられて入会してからは、全てを神に委ね、自分がいかに小さい者であるかを認めながら、祈りの道に励んだ。修道院の生活の中で、彼女は「教会の心、活動の泉である愛」という自分の使命を見つけた。1896年に肺結核が悪化し、苦しみの多い闘病生活での霊的な体験は、彼女をますます神の愛に開かせた。

 「神よ、私はあなたを愛します」という言葉を残し、24歳の若さでこの世を去った。

 院長から自叙伝を記すようにと言われて書いた『自叙伝』は、今日でも世界の多くの人々に読まれている。また、このほかに書簡集『幼いイエズスの聖テレーズの手紙』が残されている。

 祈りをもって宣教したテレジアは、宣教の保護者といわれている。


◆七ころび八起き

2017年10月01日 12時20分22秒 | 聖書

正しい者は七たび倒れても、
また起き上がるからだ。
悪者はつまずいて滅びる。     (箴言二四16)
人生には、いろいろのつまずきや挫折があります。受験の失敗・失職・破産・倒産・離婚……など。そして多くの人が、決定的な打撃を受けて立ちあがれなくなってしまいます。私たちのまわりにも、そんな例が起こっているのではないでしょうか。ある若い夫婦が人から誤解を受け、互いにあなたのせいだと言い合っている間に夫婦の間にひびが入り、妻は男をつくり、二人の子どもを置いて逃げてしまいました。残された夫は、投げやりな憎しみと怒りの心しか持つことができないでいます。「七ころび八起き」できる人は、第一に、心までがくじけてしまわない人です。第二に、過去をはっきりと清算できる人です。第三に、どこかに深い理解者・同情者を見つけた人です。
聖書は、「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」と言います。聖書が言う「正しい者」とは、たびたび申し上げているとおり、自分で自分は正しいとしている人ではありません。神を神と認め、神を正しいとしている人という意味なのです。
キリストの中に罪のゆるしを見いだす人は、けがれくずれた過去から立ち直ることができます。キリストの中に、深い愛と理解と同情を見いだすことができる人は、千万人の敵の中でも立ちあがれます。キリストの愛が心に注がれ、キリストの愛によって内なる人が強くされる時、人はへこたれることがありません。パウロは、このように告白しています。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(Ⅱコリント四8―9)、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ四13)。
 

◆私たちの門のそばには、新しいのも、

2017年10月01日 12時19分45秒 | 聖書
古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。(雅歌七・一三)
花嫁は、自分の作ったすべての果実をイエスにささげることを願う。私たちの心は、「すべて、最上の物」の「新しいのも、古いのも」もち、それらを愛する方のために蓄えている。秋の豊かな果実の季節に、その蓄えたものを調べようではないか。
私たちは新しい果実をもつ。そして新しいいのち、喜び、感謝を得たいと思う。私たちの心に新しい祈りの花が開き、たましいは新しい努力を決意している。
しかし私たちはまた古い果実ももつ。そこに私たちの最初の愛がある。これはイエスの喜ばれたものだ。そこには私たちの最初の信仰がある。何ももたなかった私たちが、それによりすべてを所有するようになった。初めて主を知った時に、私たちには喜びがあった。それを復活させようではないか。私たちは神の約束に関する古い記憶をもつ。病んでいる時にも、神はいかにやわらかに私たちの床をのべられたか。深い水の中でも、いかに穏やかに支えてくださったか。燃える炉の中から、いかに優しく救ってくださったか。実にこれが古い果実である。私たちは多くの古い果実をもつ。神の恵みは私たちの髪の毛よりも多いからである。
古い罪を悔いる必要がある。しかし過ぎ去った時、私たちは主の与えられる悔い改めをした。十字架の下に泣き伏して罪をわび、主の血潮のいさおしを知った。
今朝私たちは、新旧とりどりの果実をもつ。しかし、要は、それがすべてイエスのために蓄えられていることにある。まことに、それは最上の、最も受け入れられるべき奉仕である。そしてこの奉仕において、イエスがたましいの唯一の対象であり、混じり気ない主の栄光が、私たちの努力の目標である。私たちは、多くの果実を、愛する方のためにのみ蓄えようではないか。
イエス様。私たちは自分の園のとびらを開きます。あなたが血の汗を注がれた地に生じた良い果実を盗もうとして入る者は、一人もいません。私たちのすべてはあなたのもの、ただあなただけのものです!
 

詩篇66篇8-9節

2017年10月01日 12時18分10秒 | 聖書


66:8 国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。神への賛美の声を聞こえさせよ。
66:9 神は、私たちを、いのちのうちに保ち、私たちの足をよろけさせない。


この天と地を造られた主であられる神は、唯一の真の神です。

このお方以外に、神はおられません。

全世界を造られたお方なので、イスラエルの民の神であられるだけではなくて、全世界の人々にとっても神であられます。

 しかし、人は自分の犯した罪のために神の元から離され、神との交わりを失ってしまいました。

そこで、神はイスラエルの民を通して御自分のことを知らせ、救いの恵みの道を開いてくださいました。

その約束された方を通して真の神を知り、神の元に立ち返ることができるようにしてくださったのです。

それが、イエス様による罪の許しと救いです。

今はこのイエス様による救いによって、真の神を知り、交わりを持つことが出来るようにして下さったのです。

ですから、「この機会に、主の元に立ち返えろう」と呼びかけているのです。


ルカの福音書22章39~40節

2017年10月01日 12時15分24秒 | 聖書


★それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。


■O:今日のコラム
主イエスは十字架という最も大きな試練を前に心を注いで祈り、誘惑に打ち勝たれました。この箇所には「いつものようにオリーブ山に行かれ」、「いつもの場所に」と記されており、イエス様は日頃から継続して祈りの生活をしておられたことがうかがい知れます。

旧約聖書においてダビデがゴリヤテに勝利したのも日々継続して主と共に歩み、熊や獅子に打ち勝ち、死のかげの谷を通る時にも主に信頼することを学んだ故であり、またダニエルやその友が、たとえ自分の命が失われるとしても国家の法律に背いて主だけを礼拝したのは、日に三度祈り礼拝する習慣を持っていた故でした。

習慣は大きな力をもたらします。私たちは何か特別な霊的経験や油注ぎを求めますが、習慣にまさる力はありません。最も偉大な油注ぎは日々、主と共に歩み、祈りの生活を持ち、御言葉を聞き、また御言葉に従うことからもたらされます。ダビデは詩篇の中でこの様に言っています。

「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。」(詩篇141:5 a)

「頭にそそがれる油」とは直訳では「最上の油」と記されています。最上の油注ぎは主の戒めに聞き従うことからもたらされるのです。

この終わりの時代、私たちに対する大きな誘惑の一つがこの世の煩いです。

「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」(ルカ21:34)

世の煩いは私たちの心を沈み込ませ、信仰の目を持って主を見上げる代わりに、世のことで心を満たしてしまいます。終わりの時代にはこの様な戦いがあると主イエスは前もって警告をしてくださっています。さらにその勝利方法を何度も繰り返し教えてくださっています。それは、

「いつも油断せずに祈っていなさい。」

ということです。主イエスがいつもの場所で継続して祈りの生活を持っていた様に、私たちも日々の生活の中でいつもの祈りの時間を持ち続けようではありませんか。それが今の時代の最も大切な備えとなります。

祈りの習慣、御言葉の朗読と従順の習慣を日々身に付け、様々な問題に満ちた今の時代の中でただ主イエスを見上げて歩み続けましょう。



■A:考えてみよう
ごはんを食べる様に御言葉を読み、呼吸をする様に祈り、筋トレする様に従順を身に付けましょう。日々の生活が最も大切な訓練の場です。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月30日(土)のつぶやき

2017年10月01日 02時28分02秒 | キリスト教