座間コミニティー

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◆もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。

2017年10月04日 15時17分23秒 | 聖書
それは、義なるイエス・キリストです。(Ⅰヨハネ二・一)
たとえ罪を犯しても、私たちには弁護してくださる方がいる。ヨハネは「もしだれかが罪を犯したなら、その者は弁護する者を失う」とは言っていない。私たちは罪人であるが、「私たちには弁護してくださる方があります」と言っている。これまでに犯したすべての罪、これから犯すすべての罪も、主イエス・キリストを弁護者としてもつ信者の権利を奪えない。
私たちの主に与えられている名前の深い意味よ。主は、私たちが必要とする弁護者である。イエスとは、人を救うことが任務であり、それを喜びとするお方の名だからだ。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすばらしい名は、主の成功を意味している。
次に「キリスト」とは、油を注がれた者の意である。これは主の弁護の権威を示す。キリストは私たちの弁護をする権利をもっておられる。主は父なる神ご自身が任命された弁護者であり、選ばれた祭司であられるからだ。神が大能なる主を選ばれたため、私たちは安心して、自分の問題を神が信任されるお方にゆだねることができる。主はキリストであるため、権威を受けられた。主はキリストであるため、資格を備えておられる。油を注がれることは主のお仕事に全くふさわしいからである。主は、神の御心を動かすように嘆願することがおできになる。油を注がれた主が、立ち上がって私のために嘆願される時、主はなんとやさしい、説得力をもったことばを用いられることであろう!
さらに主の名には、「義なる」ということばがついている。これは、主の品性であるばかりか、主の抗弁である。ご自身が義であるという抗弁によって、私に対する不正の告発を弁明してくださる。主はご自身が私の代理であることを宣言し、主の従順を私のほうに振り替えてくださる。
私のたましいよ。おまえは弁護者として最適の友をもつ。おまえの一切を主の御手にゆだねよ。
 

『「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい」彼らは確かめて言った。

2017年10月04日 15時16分07秒 | 聖書


「五つです。それと魚が二匹です」』(マルコ6:38)

「パンはどれぐらいあるか・・彼らは確かめて」、どれほどあるか"確かめる"ことは大切だ。
まず現状はどうか。はっきりと確かめる事を求められる。
自分の真実のありのままの状態を知って、現状を主にそのまま持って行く事ができる。

主はありのままを用いて下さるが、現状を認めさせられる。
「~ができません」「~の弱さがあります」「~が少しできます」「~を少し持っています」能力や持っているものが僅かでも構わない。
そのまま主のもとへ持って行くことだ。

ヨハネは「小さい」魚を二匹と言っている。小さくて良い。
こんなもの何になろう、何の足しになろう、無いも同然、こんなもの仕方がないと思うだろうか。
「少しの~がある」それを持って主のもとへ行き、お献げしよう。

主は「小さな」ものを用いて、どんなに大きなみわざをされるかに驚くばかりだ。
小さいからこそ、返って主の素晴らしさが現される。自分が握っているなら、そのままで終わる。

しかし、主のもとに献げるなら、どんな小さなものでも、主は大いに祝福して下さり、周囲の人々の満腹のために用いて下さる。
家庭で、学校で職場で、祝福の器とされる。あなたの手にある「小さな」ものを、主に献げよう。
こんなものが何に・・と思うそれを、主は受け取り用いて下さる。 
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小さなものも主に差出し委ねる時、大きな力とされ「私を強くしてくださるかたによって、どんなことでもできるのです」と力強く宣言して行ける。
自分だけの頼りない歩みでは消して味わえない素晴らしい主の栄光を拝して歩んでいこう。


今日の聖人の記念日

2017年10月04日 06時38分36秒 | キリスト教

聖フランシスコ(アシジ)修道者

1181年-1226年

 フランシスコは、イタリア、アシジの裕福な織物商の家に生まれた。フランシスコは、快楽を求め自由奔放な青春時代を過ごしたが、騎士になりたいと望み、戦場に赴いた。そこで病気にかかって、夢の中でイエス・キリストに出会い、回心してイエスに従う決心をした。持ち物を貧しい人びとに与え、自らは粗末な服をまとい、ローマ中を巡礼した。アシジに戻ったフランシスコは、壊れた聖堂で祈っていたとき、教会を建て直すようにとのキリストの声を聞き、すぐに聖堂の再建を始めた。フランシスコの父は、教会のために家の財産が費やされることを嫌い、フランシスコが財産を受け継ぐことを放棄する法的手続きをとり、勘当した。

 しかしフランシスコはよりいっそうキリストの言葉に従い、同志を集め、清貧と愛の生活を続けて多くの人びとを感化し、当時の乱れた教会を改善していった。その後ローマに行き、教皇インノセント3世から許可を得て、1209年に「小さき兄弟会」、後の「フランシスコ会」を創立した。

 すべての被造物をとおして与えられる神の恵みを悟ったフランシスコは、神に感謝と賛美をささげた『太陽の賛歌』を作った。彼の物語は、『小さい花』という本に伝えられている。また、彼はクリスマスの夜に馬小屋を飾って祝った最初の人であり、その習慣を広めた。

 1224年、フランシスコは聖痕(キリストが十字架に付けられたときに受けた5つの傷)を受けたといわれている。その生涯は、キリストのしもべとして貧しく愛にあふれるものであり、現代まで世界中の人びとに大きな影響を与え続けている。


◆主によりたのむ者の幸い

2017年10月04日 06時37分21秒 | 聖書

私は、なまけ者の畑と、
思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。
すると、いばらが一面に生え、
いらくさが地面をおおい、
その石垣はこわれていた。   (箴言二四30―31)
伝説によると、ソロモンは側近の者に言ったそうです。「この畑の持ち主は、なまけ者で貧乏で、また愚か者に相違ない。」「どうしてお分かりですか。」「少し手入れをすればりっぱなぶどう畑になるものを、このように捨てておくからには、きっとなまけ者だ。なまけるくらいだから貧乏で、なまけて貧乏するくらいだから、必ず愚か者に違いない。」
しかし、この所を読んで、私は別な話を思い出したのです。自分で八年間羊の牧場を経営し、そして今は牧師になっているフィリップ・ケラーさんの話です。ケラーさんの隣の牧場は草がろくに生えず、羊は放っておかれ、がつがつとうろつきまわるほかありません。きたないにごった水しか飲ませてもらえず、やせほそって病気持ちで、いつも寄生虫にやられ、ごろごろ死んでいくのです。クーガやコヨーテに食い荒らされ、羊どろぼうに盗まれていました。その牧場の羊の飼い主は、利己的で冷淡で無関心でなまけ者だったというのです。もし私たちがそんな牧場の羊だったとすれば、人生は荒廃・不満足・争い・孤独・絶望が絶えないでしょう。それは、悪魔を羊飼いとして、罪の牧場に生活する人生の姿です。
しかし私たちが、迷った一匹を何を犠性にしても捜し出し、そのためにはいのちも捨てるような愛の神に所有され管理される羊だったらどうでしょう。愛の神は、配慮に満ちた熱心な羊飼いなのです。ダビデは歌いました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」(諸篇二三1―3)。ふらふらと気ままに過ごし罪に従う人生から、神の畑や牧場に身を置くようになりたいとお思いになりませんか。
 

◆夕暮れ時に、

2017年10月04日 06時36分27秒 | 聖書
光がある。(ゼカリヤ一四・七)
私たちはしばしば不吉な予感をもって老境を見、夕暮れになっても光があることを忘れている。多くの聖徒にとって、老年は生涯の黄金時代である。船乗りが不朽の国の岸辺に近づくとともに、心地よい風が頬をなで、波は静まり、深い荘厳な静けさがあたりをおおう。老年の祭壇からは、青年の頃の燃え上がる火のひらめきは上らない。しかし、さらに真正な、さらに熱心な炎が残っている。
巡礼者たちは、べウラの地に着いた。その幸福の国で過ごす日々は、この地上における天国のようだ。天使たちが訪れ、天上の風が吹き、楽園の花はその中で生長し、空気は神々しい音楽で満たされている。ある者は何年かここに住み、ある者はしばしとどまっただけで立って行く。しかしそれは地上におけるエデンの楽園である。私たちがその木陰に憩い、果実が熟するのを待ちたいと思うのも当然である。夕日は天空にある時の太陽より大きく見え、栄光の輝きは夕日を囲む雲のすべてを染める。苦痛は人生のたそがれの甘美な静寂を乱さない。なぜなら、力は弱さのうちに完全に現れ、すべての苦痛に忍耐をもって耐えるからである。尊い経験の成果が人生の夕暮れに収穫され、たましいは安息に入る備えをする。
さらに、主の民は臨終の時に光を楽しむ。未信者は、死の陰が迫り、夜が来て、人生の灯がまさに消えようとしていると言って嘆く。しかし信仰は叫ぶ。「いいえ。夜が更けて、真の日が明けようとしているのだ」と。
光は来る。不滅の光よ! 御父の顔の光よ! あなたの足をベッドの中でひきしめよ。あなたを待つ天使の群れを見よ。天使はあなたを運び去る。さようなら、愛する者よ。あなたは行く。あなたは手を振る。ああ、いよいよ光は来た。真珠の門は開かれ、黄金の大路は碧玉の光で輝いている。私たちは目をおおう。しかし、あなたは私たちの見ることのできないものを見る。兄弟よ。あなたは私たちのまだ見たことのない夕べの光を得ている。
 

詩篇66篇16-20節

2017年10月04日 06時34分59秒 | 聖書


66:16 さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。
66:17 私は、この口で神に呼ばわり、この舌であがめた。


作者は、神を恐れる者達に向かって語ります。

神が私の魂になさったことを語ろう、言っています。

神を恐れず敬わない者は、神のことばを聞きません。

また、神がしてくださったことが語られても、そのことに耳を傾けて、共に感謝をするというようなこともありません。

 神を、心から神として礼拝し感謝をする者は、その心は神の方に開かれています。

ですから神のことばを聞き、そのお方がなしてくださったことを聞くことは、喜びとなるのです。

そして主を信頼して、主に感謝をする人も、その主が自分に与えてくださった恵みを語ることを喜びとします。

証しというのは、神様が自分にしてくださった恵みを語ることです。

祝福を受けるにふさわしくない者に与えてくださった、神様の恵みを語ることです。

そして、そのことを聞く信仰者は、神の与えて下さった恵みを聞いて、共に喜び、神への感謝を献げるのです。


箴言25章12節

2017年10月04日 06時32分21秒 | 聖書


★知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、 金の耳輪、黄金の飾りのようだ。

■O:今日のコラム
黙示録で「聞く耳のあるものは御霊が諸教会に言うことを聞きなさい」と主は言われます。その教会が聞く耳を持つことは、勝利を得るための初めの一歩なのです。私たちに与えられた信仰、これこそ世に打ち勝った勝利なのですが、その信仰は神の言葉を聞くことから始まるのです。

全ては、神の御口から解き放たれた言葉によって始まっていきます。ベタニヤのマリヤは、ひれ伏して主の御口から出る言葉に聞き入っていましたが、これを主はただ一つのことと仰せになりました。私たちはパンのみによって生きるのではなく、神の御口から出る一つひとつの言葉によるのです。ハレルヤ!

神の言葉を聞く耳とは何でしょうか?どんな耳でしょうか?それは霊的な耳であり私たちの心のことです。イエス様は、御言葉を悟ることができるように弟子たちの心を開いた、とルカ24章にあります。

ではそれはどんな心なのでしょうか?それは聞いたことに従って神への愛を表したいという心なのです。

神を愛するとは、神の命令を守ることです。御言葉を聞くことは知識を蓄えるためではありません。もちろんそのことも含まれていますが、その中心的な目的は、どうやって神を愛するかなのです。

母親は、夜寝るときに子どもが身体をかゆがって寝ずらい時に、「どこがかゆいの?」と言って眠るまで優しくかいてあげるものです。そうすると子どもは気持ち良くて、すぐにスヤスヤと眠りにつくのです。子どもが「背中の上の方」とか「膝の裏」とか言ってくれるから的確にかゆいところに手が届くのです。

主も、ご自身の計画のために「ここだよ」とか「これだよ」という語りかけを私たちにしてくださいます。主が願っておられることが、なかなか成し遂げられないなら、主は忍耐され歯がゆくなられるでしょう。そのかゆいところに手が届く私たちでありますように!主の心を喜ばせる私たちでありますように。主の語りかけは、「このようにして、わたしに愛を表して欲しい」という神からのリクエストなのです。

主は私たち一人ひとりに計画を持っておられますが、それは皆ユニークなもの(面白いという意味ではなく、個々のという意味です)なのです。もちろん全ては御言葉の中にありますが。そして教会全体で聖書の御言葉の全てを成就していくのです。ハレルヤ!

聞く耳とは、聞いたことを成し遂げ、主の栄光をあらわす飢え渇きを持った耳であることを、主はこのように語っておられます。

「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。
だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」(ルカ8:16-18)

御言葉を行う決心をして聞きましょう!そのような心、しもべの心を持った者に、主はお語りになられるのです。「しもべは聞いています。どうぞ。お語りください。」

そして今日の箴言25章12節には、「叱責を聞き入れる耳は、飾られた美しい耳である」と教えています。他の箇所にはこうあります。

「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、 知恵のある者の間に宿る。
訓戒を無視する者は 自分のいのちをないがしろにする。 叱責を聞き入れる者は思慮を得る。」(箴言15:31-32)

叱責とは父の懲らしめ、義のゆえの困難、試練です。「行います」という覚悟とは、「たとえ苦しみが伴っても行います」という覚悟です。主は、私たちに愛することと、愛さないことを選ばせるのですが、私たちは愛することを選びましょう!



■A:考えてみよう
聞いたら従う覚悟を持って聖書を開こう!



■P:祈り
主を愛します。あなたがこれ以上ない最高の愛で私を愛しておられるから。
この愛が私の生きる意味です。あなただけが私の目的です。あなたがいない世界に望みはありません。
あなたを愛する情熱を今日も私にお与えになって、あなたのいのちをお与えになって、いのちであるあなたと一つにしてくださいますように。
 


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月3日(火)のつぶやき

2017年10月04日 02時25分20秒 | キリスト教