今この腕の中で眠る君を見つめている
いつまで愛し続けることができるだろうか
いつまで一緒に生き続けられるだろうか
責任感の重さがこの先の
動きを鈍らせる
部屋の外の雨音が強く泣いている
秋の季節
今この腕の中で眠る君を見つめている
いつまで愛し続けることができるだろうか
いつまで一緒に生き続けられるだろうか
責任感の重さがこの先の
動きを鈍らせる
部屋の外の雨音が強く泣いている
秋の季節
また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります」(Ⅰテモテ6:9)
私たちは、神以外のものに目を向けていると、神が見えなくなる。
太陽の前に10円玉を置くと、どうだろう。
太陽が見えなくなってしまう。
小さな10玉があの大きな太陽を、おおい隠してしまう。
その神の前に置いたものは、偶像となってしまう。
ユダは、神の前にお金を置いたばかりに、神が全く見えなくなった。
金持ちになりたがるなら、誘惑と罠に陥り、破滅と滅びへ向かう欲望に捕らえられる。
「金持ち」とは単に金銭ではない。
地位、名誉欲、人から喝采を浴びたい欲、人の上に立ち、人を支配したい欲望だ。
その欲望は、サタンの誘惑と罠に陥ると信仰から迷い出て破滅してしまう。
まず自分の内に強い欲望や偶像がないか、自分の内を御霊に探って頂こう。
そのままにしておくと、ユダでないが、命取りになってしまう。
主のもとに行き、主に告白しよう。きよめられ、主がはっきりと見えて来る。
10円玉が除けられると太陽が見える。その時、神の御声が聞こえ、信仰に前進できる。
ある人が、どうしてもぼんやりとしか神がわからなかった。祈りの中で、示された偶像を決心して献げた時に、自分が変えられたのがわかった。
偶像が神の手に渡った時、初めて今までよく聞こえなかった、神の御声がわかるようになった。
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神の前に置いているものを手放さない限り歩く道に安定を欠き、いつまで経っても力ない信仰生活のままだ。
気づいた時、手放せるよう意志を向け祈って行こう。
神が必要な力もそれに変わる祝福も必ず下さる。
聖ブルーノ司祭
1030年ごろ-1101年
ブルーノは、ドイツ、ケルンの貴族の家に生まれた。レンスの大学で学び、1055年に司教座聖堂参事会員になり、神学の教授を務め、また教区の教育顧問に任命された。1075年にレンスの大司教マナセから教区の秘書局長に選ばれたが、マナセが大司教の地位を金で買収していたことを知り、それを告発したため免職された。しかし教皇はマナセを破門し、後任の司教としてブルーノに要請した。彼はこれを断わり、1084年6人の同志とともに、シャルトルーズという地で、祈りと労働による非常に厳しい生活を始めた。これがシャルトルーズ会(カルトゥジオ会)の始まりである。彼らは、清貧、祈祷、労働、学問を基礎とした修道生活を送った。
その後ブルーノは、グルノーブルの司教フーゴから支援を受け、また、かつての教え子であった教皇ウルバヌス2世から顧問として招かれてローマに行ったが、ドイツ皇帝ハインリッヒ4世に追われ、教皇とともに南イタリアに逃れた。カラブリアの荒野のラ・トレに第2の修道院を作り、そこで厳しい生活を始め、そこからシャルトルーズの仲間たちに手紙を送り励ました。
シャルトルーズ会は、1688年に教皇より正式に認可され、聖人や学者を輩出した。
67:6 地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。
67:7 神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。
人は災害などが起こると、「神はなぜ人を苦しめるのですか」と言ったりして、神の愛を疑います。
ところが、作物が豊かに与えられても、神さまのことなどすっかり忘れてしまい、「天候が良かったから」などと言っています。
人は、神の前に自分たちの責任を覚えず、神さまへの感謝を持たない者となっています。
ですから詩篇の作者は、真の神を知っている自分たちが、真の神の事を多くの人々に伝えて、このお方を褒め称え、また、このお方の御支配に信頼して生きるように求め、祈るべきだと語っています。
真の神を知り、その方の御心を知らされているのは、主にある私たちです。
ですから、私たちこそがまず、この主の恵みを感謝して、それを語り伝える責任があるのです。
それによって、神さまのことが人に知らされていくのです。
★子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
■O:今日のコラム
ヨハネは弟子の中で最も主に愛された者とされる人です。そのヨハネが主によって語られたこと、それは神様を愛するとはみことばを守るということです(ヨハネ14:23)。
またそれは、今日の箇所のように行いと真実が伴うものであると言っているのです(今日の箇所は隣人を愛することについての話に続いて書かれたみことばですが、本質的にとらえると、これはすべてのみことばに対して適応できると思います)。
ダビデのように踊りまわって感情的に愛を表すことももちろん主は喜ばれますが、好き勝手な自分本位の愛し方でなく、主はこう愛してほしいとはっきり教えてくださっているのです。
ではこのみことばを私たちはどのように扱っているでしょうか。
今の時代は簡単にみことばを読んだり、日曜日の集会に行ってみことばを聞くことができます。またキャンプや集会などでもたくさんの教えを聞くことができます。しかし感情が満たされて、それで満足してはいませんか。
その教えを聞き何か良い気持ちになり、自分を満たすためのみことばの取り入れ方をしてしまう弱さが私自身にこそあることを思わされます。これは自分主体の神様の愛し方であることを示され取り扱われている最中です。愛したいと言いながら結局は自分のために歩んでいるのです。
私たちはこのみことばを頭や心の領域より深く、霊の領域で悟っていく必要があるのです。霊の領域でないとみことばを悟れないのです。なぜならみことばは霊によって書かれているからです。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3:16)
そして感情のレベルでなく、従順することをもって真に神様を愛することができるのです。
「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存知だからです。」(1ヨハネ3:20)
確かに従順する中で私たちの心は伴わず、葛藤もやりたくない時もあるでしょう。しかし、良い時だけ、必要な時だけみことばを持ってくる歩みではなく、むしろみことばに私たちが入っていく、みことばの基準に私たちを合わせていくのです。それこそ、みことばと一つとなる、花嫁として神様を愛する者であると思います。
最後にこのことを覚えます。私たちは神様を愛したいからみことばを守りたいと思いますが、結局私たちがそのみことばによって守られ本当の幸いへと導かれるのです。どんなに神様のためにと思っても、主はそれよりもはるかに私たちを愛してくださっているのです。
そして愛することすらも自分ではできないため、神様は助け主なる聖霊様を送ってくださり愛することができるように助けてくださるのです。
このどこまでも深い神様の愛と大きさに心打たれ、感謝せずには、ほめたたえずにはいられません!私たちの神様はどこまでもどこまでも良い神様です!
■A:考えてみよう
・感情のレベルでみことばを受け取ることはないでしょうか。頭や心でみことばを悟るのでなく、霊の領域でみことばを悟っていくことができるように求めましょう。みことばは霊ですから、みことばを読む際に絶えず知恵と啓示の御霊を歓迎していきましょう(エペソ1:17-19)。
・自分にみことばを持ってくるのでなく、私たちがみことばに合わせていくことができるように、感情が伴わなくても、今与えられてるみことばを握り、従順していく決心を今日も主の前に捧げましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
箴言26章2節 goo.gl/uUCqZJ
— 大西利幸 (@tosi_o) 2017年10月5日 - 06:13
詩篇67篇1-4節 goo.gl/HFet9g
— 大西利幸 (@tosi_o) 2017年10月5日 - 06:15
◆彼は起きて、食べ、そして飲み、 goo.gl/sCXxyq
— 大西利幸 (@tosi_o) 2017年10月5日 - 06:17
◆事をかくす神 goo.gl/aESjbZ
— 大西利幸 (@tosi_o) 2017年10月5日 - 06:18
今日の聖人の記念日 goo.gl/w8iGqG
— 大西利幸 (@tosi_o) 2017年10月5日 - 06:19
おはようございます。 goo.gl/fQg1SG
— 大西利幸 (@tosi_o) 2017年10月5日 - 06:20
「信仰の創始者であり、 goo.gl/XBe2Pp
— 大西利幸 (@tosi_o) 2017年10月5日 - 16:13
◆信じてバプテスマを受ける者は、 goo.gl/R3gG1z
— 大西利幸 (@tosi_o) 2017年10月5日 - 16:14