座間コミニティー

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◆信じてバプテスマを受ける者は、

2017年10月05日 16時14分24秒 | 聖書
救われます。(マルコ一六・一六)
マクドナルド氏がセントキルダ島の住民に「人はどのようにして救われなければならないか」と尋ねた。一人の老人が答えた。「もし私たちが悔い改め、私たちの罪を捨てて神に帰るならば救われます」と。「そうです。そして、真心からそれをするのです」と中年の婦人が言った。「そうだ。そして祈りをもってするのだ」と第三の者が言った。すると第四の者が「それは心からの祈りでなければならない」とつけ加えた。「そして、私たちは励んで戒めを守らなければならない」と第五の者が言った。こうして彼らはそれぞれの知恵で一つの信条ができ上がったと感じ、説教者の同意が得られると思って、説教者を見上げて耳を傾けたが、説教者は深いあわれみを覚えて黙っていた。
肉の心は常に自我を働かせて、偉大になる道を作り上げる。しかし、主の道は全くこれと反対である。信じてバプテスマを受けることは、栄光を受けるに値する功績ではない。それはこの上なく単純で、誇るに足りない。卓越しているのは、無代価の恵みのみである。読者のうち、まだ救われていない方もあるだろう。その理由は何であろうか。あなたは冒頭の聖句に示された救いの道が疑わしいと思うのか。神ご自身がその確実性を断言しておられるのに。それは容易すぎると思うのか。では、なぜそれを受け入れないのか。たやすい道であるが、それを無視する者は捨てられる。
信じるとは、キリスト・イエスに単純にゆだねること、よりかかること、信頼することである。バプテスマを受けるとは、私たちの主がヨルダン川でなされ、回心した人々がペンテコステの時に受け、看守が回心したその夜に従順に従った礼典に服従することである。外面的な形式によって救われるのではないが、それは私たちに、キリストと共に葬られ、よみがえることを示し、聖餐とともになおざりにできない。愛する友よ。あなたはイエスを信じるか。では恐れを捨てよ。あなたは救われる。あなたはまだ信仰に入っていないか。では、入口は一つしかないことを覚えよ。そこから入らないならば、あなたは自分の罪のうちに滅びる。
 

「信仰の創始者であり、

2017年10月05日 16時13分17秒 | 聖書

完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)

新しい一年も、「主イエスから目を離さないで」いよう。
ペテロが湖の上を歩いた有名な箇所があるが、主の「来なさい」との御言葉を受け、その御言葉を信じて、一歩を踏み出した時に、湖の上を歩けた。
主のお言葉があれば、行けるとペテロは信じていた。
まっすぐに主イエスだけを見て、御言葉に立っていた。

その時、奇跡が起きた。ところが、ふっと風を見て、主から目を離した途端に、ぶくぶくと沈み始めた。
歩くも、沈むも、状況自体は全く同じだという事だ。

同じ湖の上で、何を見ているかで、歩けたり、沈んだりする。
これは状況の問題でなく、視点の問題だ。
私達はとかく苦しい状況を変えようとする。
状況が悪いのであり、それさえ変われば、幸せになれると思い込む。

しかし、そうではない。神の視点で、状況を見る時、どんな悲惨な状況でも、平安と感謝と喜びが来る。
しかし、神から目を離し、自分視点で、状況を見た途端に、恐れと不安に真っ逆さまに落ちる。

試練にある人が、周囲の励ましを通して、神の自らへの愛を見る。
と同時に、神から目を離した途端、皆は幸せそうで、自分だけが不幸せ、惨めになり落ち込む事もできる。

主から目を離してはならない。あらゆる事柄を、主中心に考えて、どんな時も「イエスから目を離さないで」いよう。
目を離した時は、「主よ。助けて下さい」と叫ぼう。すぐに手を伸ばして下さる。
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目の前にある状況から、その背後におられる神様に目を転じるなら、そこに溢れるばかりの恵みを数える事ができる。


今日の聖人の記念日

2017年10月05日 06時19分04秒 | キリスト教

聖プラチドと聖マウルス

6世紀

 当時のイタリアでは、聖ベネディクトの評判が高く影響が大きかったので、多くの親は子どもの教育を彼のもとで受けさせたいと望んでいた。貴族の息子であるプラチドは7歳のときに、またローマ元老院議員の息子であるマウルスは12歳のときに、ベネディクトのもとに預けられ、ともに修道院で成長し、ベネディクトの弟子となった。

 マウルスは、スビアコの湖に落ちたプラチドを救ったという話が伝えられている。後に、プラチドはシチリアのメッシーナに修道院を創立するために派遣され、そこの修道院長となるが、546年に海賊に襲われ、殉教したといわれている。


◆事をかくす神

2017年10月05日 06時17分41秒 | 聖書

事を隠すのは神の誉れ。
事を探るのは王の誉れ。       (箴言二五2)
この世には、分からないことや、かくされたことが、何と多いことでしょう。聖書について言っても、四十年以上私は読み続けても分からないことだらけです。そして聖書は、「事を隠すのは神の誉れ」であって、神の神らしいやり方だと言うのです。どうしてでしょうか。
第一に、私たちがいつも、神の前にへりくだっているためではありませんか。もうすべてが分かったといって、神に仕えないで神を利用したり、神を信じないで分析したりすることのないためです。聖書は言います。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ一一33)。
第二に、私たちが、たとえどんなことがあっても、神の愛と最善を信じ、神に任せることができるためではないでしょうか。「あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」(Ⅰコリント四5)。
第三に、神の真理・その救い・助け・慰め・導き・知恵は、飢え渇いて激しく求める者に捜し出されるためではないでしょうか。「求めなさい。そうすれば与えられます」「たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ七7)。
第四に、すばらしい将来に希望を持たせるためではないでしょうか。このことについても、聖書は言います。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には……完全に知ることになります」(Ⅰコリント一三12)。
 

◆彼は起きて、食べ、そして飲み、

2017年10月05日 06時16分53秒 | 聖書
この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。(Ⅰ列王一九・八)
恵み深い神が私たちに下さるすべての力は、それによって神に仕えさせるためであり、決して乱用したり、自負したりするためのものではない。預言者エリヤが、えにしだの木の下で眠って目を覚ますと、頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼は山海の珍味に飽きて、ぜいたくをむさぼる者ではなかった。それどころか食べ物で力づけられ、四十日四十夜を費やして神の山ホレブに着いた。
主が弟子たちを呼び、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と言われた時も、食事の後、主はペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、さらに「わたしに従いなさい」とつけ加えられた。
私たちの場合も同様である。天のパンを私たちが食べるのは、主への奉仕に力を尽くすためである。私たちは過越の祭に来て、腰の帯を引き締め、杖を持って子羊を食べる。それは飢えを満たすと、すぐに出発するためである。あるクリスチャンは、キリストをだしにして暮らそうと図るが、キリストのために生きようとはしない。この地上は、天国への準備の所であるべきであり、天国は聖徒たちがよく食べ、よく働くべき所である。彼らは主の食卓に座り、日夜主の宮で仕える。彼らは天国の食物を食べて、完全な奉仕をする。
私たちのうちのある者は、私たちに恵みを注がれる主のご計画の、さらに多くを学ばなければならない。エジプトのミイラが長い間麦を保持していたように、私たちは貴重な真理の種子を保留して、それに成長の機会を与えないというようなことがあってはならない。私たちは真理の種子を蒔き、それに水を注がなければならない。なぜ主は渇いている地に雨を降らせ、快適な日光を送ってくださるのであろう。地の産物が育って人の食物となるのを、これが助けるからではないだろうか。このように主が私たちのたましいを養い、力づけられるのは、私たちが新しい力を用いて主の栄光を輝かせるためである。
 

詩篇67篇1-4節

2017年10月05日 06時15分08秒 | 聖書


67:1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。
67:2 それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。


作者は、神の御名が国々の民に覚えられ、主の御名が褒め称えられますようにと願っています。

主の民にとって、主のことが多くの人々に知られ、このお方が褒め称えられることは喜びです。

主の救いが世界中で知られるために、自分たちを憐れんで祝福し、その輝きを私たちの上に注いでくださいと祈っています。

彼らは、ただ自分たちが恵まれれば良いと思っているのではありません。

神様によって救いの恵みに預かった自分たちを通して、神さまの御名が人々の内に覚えられ、神さまご自身が人々から敬われ、慕われることを願っているのです。

私たちの人生は、自分や自分たちの為のみの人生ではありません。

自分たちを守り支えてくださっている神さまのことが覚えられて、慕われ、敬われる。

その神さまのために、生きる生涯であるのです。


箴言26章2節

2017年10月05日 06時12分56秒 | 聖書


★逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。

ヨハネの手紙第一2章1節
★私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。


■O:今日のコラム
しゃろーむ!9月5日の朝です。今日1日も、主の御名を呼び求め、主の御国とその義とを求めていきましょう。主の祝福を流し出していきましょう。イエス様が、僕らののろいを断ち切り、弁護してくださるからです。

僕らは、罪の性質を持っています。先祖アダムを通して、罪ののろいを背負っています。しかし、イエス様は、十字架と復活によって、完全な勝利を与えてくださいました。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方たですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1章9節)

そしてイエス様は、僕らを、御父の前で完全な弁護してくださいます。だから、「罪を犯しても大丈夫」ではありません。僕らの目指すところは、罪を犯さないようになることです。罪のないイエス様の身丈にまで達することです。

「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(1ヨハネ2章6節)

いわれのないのろいはやって来ないということは、のろいの根元が無くなれば、のろいはないということです。

イエス様は、十字架と復活によって、のろいを断ち切るための、なだめの供え物となられました。イエス様の御名によって、罪が赦され、主を知り、悪い者に打ち勝ち、のろいの根元を打ち砕いて下さいました(1ヨハネ2章12-14参照)。

だから、僕らは、主を愛し、その愛で互いに愛し合うことができます。主の御国とその義とを表していくことができます。

今日1日も、イエス様の御名によって、のろいの根元を打ち砕いていきましょう。イエス様のうちにとどまり、御言葉をますます求めていきましょう。



■A:考えてみよう
のろいの根元である、自分の罪を言い表し、悔い改めていきましょう。
イエス様の十字架と復活の力を受け取りましょう。
主の御国とその義とを求めていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月4日(水)のつぶやき

2017年10月05日 02時26分12秒 | キリスト教