肉の心は常に自我を働かせて、偉大になる道を作り上げる。しかし、主の道は全くこれと反対である。信じてバプテスマを受けることは、栄光を受けるに値する功績ではない。それはこの上なく単純で、誇るに足りない。卓越しているのは、無代価の恵みのみである。読者のうち、まだ救われていない方もあるだろう。その理由は何であろうか。あなたは冒頭の聖句に示された救いの道が疑わしいと思うのか。神ご自身がその確実性を断言しておられるのに。それは容易すぎると思うのか。では、なぜそれを受け入れないのか。たやすい道であるが、それを無視する者は捨てられる。
信じるとは、キリスト・イエスに単純にゆだねること、よりかかること、信頼することである。バプテスマを受けるとは、私たちの主がヨルダン川でなされ、回心した人々がペンテコステの時に受け、看守が回心したその夜に従順に従った礼典に服従することである。外面的な形式によって救われるのではないが、それは私たちに、キリストと共に葬られ、よみがえることを示し、聖餐とともになおざりにできない。愛する友よ。あなたはイエスを信じるか。では恐れを捨てよ。あなたは救われる。あなたはまだ信仰に入っていないか。では、入口は一つしかないことを覚えよ。そこから入らないならば、あなたは自分の罪のうちに滅びる。