座間コミニティー

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◆聖霊によって祈り……。

2017年10月08日 16時46分11秒 | 聖書
(ユダ二〇節)
真の祈りのすばらしい特質に注意せよ。「聖霊によって祈る」のである、神に受け入れられる信仰の種は、天の倉から来たものでなければならない。神から来た祈りのみが神に届く。私たちは主から来た矢を、主のもとに射返さなければならない。神が私たちの心に描かれた願いは、神の御心を動かし、祝福を呼び下す。しかし、肉の願いは神に対して何の力ももたない。
聖霊によって祈るとは、熱烈に祈ることである。冷たい祈りは、願いを聞き入れていただかないように祈るのに等しい。「なまぬるい祈り」とは「なまぬるい火」と言うのと同じで、奇妙である。本来、祈りは灼熱しているものである。
聖霊によって祈るとは、忍耐強く祈ることである。門の閉ざされていることが長ければ長いほど、さらに激しくたたき、天使がちゅうちょすればするほど、祝福を受けないでは決して去らせまいと決心する。神の目に美しいのは、涙を流し、苦悶しつつ、不屈の思いで祈る執拗さである。
聖霊によって祈るとは、謙遜に祈ることを意味する。聖霊は、決して高慢にさせることはないからである。罪を確認させ、悔い砕けた心にして頭を垂れさせるのは、聖霊の職分である。私たちは深い淵から呼ばわらなければならない。さもなければ、決していと高きところにある栄光を見ることはないであろう。
また、これは愛の祈りである。祈りは愛の香りを放ち、愛のしみ込んだものでなければならない。私たちの友である聖徒への愛、キリストへの愛である。
さらにそれは、信仰の祈りでなければならない。信じる者のみが勝利を得る。聖霊は信仰の導き手であり、信仰を強められる方である。それゆえに、私たちは神の御約束を信じて祈る。
おお、聖霊が心の中にいまして、この測りがたい価値をもつすばらしい恵みの結合が、私たちのうちにあって芳香を放つように! 幸いな慰め主よ。あなたのすばらしい力を私たちのうちに働かせ、祈りにおける弱さを助けてください。
 

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。

2017年10月08日 16時44分57秒 | 聖書


それは大きな報いをもたらすものなのです」(ヘブル10:35)

私たち誰もが、大変苦手な事の一つが「待つ」事ではないだろうか。
すぐ目に見える結果が欲しくて、すぐに手にしたくて、見たくて、なかなか待てない。
待つことは難しい。

神からの祈りの答えを、よく信号に例えられる。
青=はい、赤=いいえ、黄=待ちなさい、だ。
青のゴーサインなら、確信持って前に進んで行ける。
いろんな障害があったとしても、主が共におられるなら、信仰もって歩める。

又、赤のストップは、ノーの答えであり、その道は与えられていないとわかる。
ノーが御心だ。自分の思いとどんなに違っても、神の御心は最善なので、受け入れて、それはそれで従って行ける。

しかし、黄色の「待て」は難しい。すぐでないのはわかるが、いつまで待つのか?
待機がいつまで続くのか?待つ時間は、長く感じられる。このまま永久に待つのでは、と思えたりする。

ヨセフも待った。将来の祝福を告げられていたが、エジプトに売られるは、主人の妻により無実の罪で囚人となるは、献酌官長には忘れ去られるは、一体どうなっているのか?
しかし、やがて、「神の時」が来た時に、ヨセフは牢から出され、総理大臣と任命され、一族の救いのために用いられた。

「神の時」は一分も違う事がない。
時は神の御手の中に握られている。
時を神に任せて待とう。
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約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐だと教えられている。
待てとの導きがあるのなら確信を決して投げ捨てず待ち続けよう。
待たされている時にも意味があり神様は共におられる。


今日の聖人の記念日

2017年10月08日 12時21分06秒 | キリスト教

聖ペラギア

4世紀

 ペラギアは、シリアのアンティオキアの踊り子で、その美貌と名声から、享楽的な生活を送っていた。あるときエデッサの司教ノンノの説教を聞いて深く感銘し、これまでの生活を改めてキリスト教の洗礼を受けた。自分の財産を貧しい人びとに施し、聖地エルサレムに巡礼に出た。ペレギアは、オリーブ山の洞くつで祈りと苦行の生活を送り、生涯を閉じた。それを知った人びとは、彼女のために盛大な葬儀をしたといわれている。


◆秘密をもらすな

2017年10月08日 12時20分05秒 | 聖書

あなたは隣人と争っても、
他人の秘密を漏らしてはならない。
そうでないと、聞く者があなたを侮辱し、
あなたの評判は取り返しのつかないほど
悪くなる。         (箴言二五9―10)
私たち夫婦は互いに欠点の多い者ですが、私が妻を尊敬している一つの点は、夫婦の二人だけの間でも、人の悪口をけっして言わないということです。
ですから、妻に甘いといわれるかもしれませんが、私の悪口も、妻はどこでも言わないし、私の秘密を人に話すこともないだろうと思います。私がもし、何かつまらない失敗とか、人に恥ずかしいようなことをしたとしても、私をさげすむことなく、私のため何くれとなく心配し、祈ってくれるのではないか。すべての人が私に背き去ったとしても、――などと言うと大げさですが、私の妻だけは、とひそかに思うのです。
しかし反対に、人の秘密を言いふらして恥じない人は、これはきっと、私のこともそのように人に話しているだろうと思います。すると、秘密のことは話せなくなるし、その人への信頼や尊敬は、風船がしぼむようにしぼんでいってしまいます。「歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める」とも、別な箇所には書いてあります(箴言一一13)。
イエス・キリストは、私の恥・けがれ・罪・咎を他にもらすどころか、一手に引き受け、すべてを飲みこみ吸収し、そこで受け止めて、身代わりとして十字架の上でお死にになってくださいました。
どんな悪口も中傷も、きたない秘密も、その人のところに届くと吸収されて、そこから先はどこにも行かず、すべてが祈りに変わってくる。――こんな人になりたいと思います。
 

◆深みに漕ぎ出して、

2017年10月08日 12時19分23秒 | 聖書
網をおろして魚をとりなさい。(ルカ五・四)
私たちは、この話から人間の働きの必要性を学ぶ。この日の大漁は奇蹟的であった。しかし、漁師も舟も漁具も無視されたのではなかった。これらはみな魚を取るために用いられた。救霊においても同様である。神は手段を用いてお働きになる。現在の神のご計画は揺るがないものであるが、神は宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのである。神が手段を用いず直接に働かれる時、その栄光が現されることは言うまでもないが、神はこの地上で最大限にあがめられるために媒介物を用いる方法を選ばれた。
手段自体には何の効果もない。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」なぜであろう。彼らは熟練した漁師ではなかったか。確かに彼らは無経験ではない。仕事に精通していた。彼らの仕事には手ぬかりがあったか。否。彼らは怠けていたか。否、彼らは骨折って働いた。彼らに忍耐が欠けていたか。否、彼らは夜通し働いた。湖に魚が不足していたか。決してそうではない。なぜなら、主が来られるとすぐ、おびただしい魚の群れが網の中に入って来たからである。では理由はどこにあったか。それは、手段そのものも、イエスを離れては力のないことを証明している。イエスと共にでなければ、私たちは何事もなすことはできない。しかし、イエスと共にであれば、一切のことをなすことができる。キリストのご臨在が成功を与えるのである。
イエスはペテロの舟に座られた。その神秘的な力を持つみこころが魚を網に引き寄せたのである。イエスが教会において上げられる時、そのご臨在が教会の力となるのである。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
今朝私たちは信仰をもって上を見上げ、厳粛な心遣いをもって周囲を見ながら、たましいをすなどる私たちの仕事に出かけようではないか。そして夜の来るまで働き続けよう。私たちの働きはむだにはならない。なぜなら、私たちに網を下ろせとお命じになる方が、その網を魚で満たしてくださるからである。
 

詩篇68篇3-4節

2017年10月08日 12時18分03秒 | 聖書


68:3 しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。
68:4 神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。

神を敬わない者に対しては、作者は怒りの言葉を掛けていました。

しかし、神を敬い、神を頼りとして生きる人々には、神からの豊かな祝福があるようにと祈っています。

それと共に彼は、そのような主にある人々に、「神さまのことを喜べ」というのです。

人生の目的は、「神を知り、また神を喜ぶことにある」と信条には書かれています。

まさにあなたの喜びを、神と共にあり、神と共に生きる中に見い出していきなさいと、言っているのです。

神は、私たちが苦しい時の一時だけ、私たちと接してくださるお方ではない。

神は、私たちの人生のあらゆる時に共にいて、私たちを導き支えてくださるお方です。

そのことを覚えて、この恵みの主と交わって歩みなさいというのです。

主との交わりこそが、与えられた人生の「至宝」なのです。



1ヨハネ5章7~8節

2017年10月08日 12時15分53秒 | 聖書


★あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。


■O:今日のコラム
SHOPの祈りの家における日々の祈り、そして私個人の信仰生活の日々の歩みの基盤は今日のこの御言葉にあります。それが「御霊、水、血」です。

主ともっと近く一つ心となって歩みたい。主の似姿へと変えられたい。イエス・キリストにある聖さを持って生きたい。その飢え渇きが祈りとなり、その祈りに対する主からの答えがこの御言葉でした。

私たちは自分の努力や忍耐、決断や熱意だけによってはどうしても主の聖さに変えられることが出来ず、そこに葛藤が生まれます。しかし、そのように葛藤しながらも神を求める私たちに、主の側から恵みにより聖くなる為の道を開いてくださいました。それが「御霊、水、血」です。

ここに「あかしするもの」という言葉が使われていますが、この「あかし」とは別の箇所においてはイエス様がこの地上で父の御心を行い、実際に歩まれた歩みとして使われている言葉です。

使徒ヨハネは前の章で「私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」(1ヨハネ4:17b)と記しており、私たちもイエス様と同じ性質を持った者としてこの地を歩む為に召されています。肉の性質を持った私たちが、神の似姿として生きるのは不可能なことです。しかしそれを可能にするのが「御霊、水、血」です。

「御霊、水、血」はあまりにも重要であるが故に、ここでは結論を記しません。ぜひともこの御言葉を反芻して朗読し、思い巡らし、知恵と啓示の御霊によりこの御言葉が光となって心に差し込むように祈ってみて下さい。



■A:考えてみよう
御霊に満たされ、水(御言葉)によって洗われ、血(主イエスの十字架の血潮)により聖めを受ける祈りと歩みを日々継続していきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月7日(土)のつぶやき

2017年10月08日 02時26分45秒 | キリスト教