座間コミニティー

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◆しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

2017年06月28日 16時58分04秒 | 聖書
(出エジプト七・一二)
この事件は、神の御手のわざが、それに反対するすべてのものに確実な勝利を得るという、教訓に富む象徴である。神の原則が心の中に投ぜられる時はいつでも、たとえ悪魔が偽りを作り無数の敵を作り出しても、神が働いておられる以上は、すべての敵をのみこむ。もし神の恵みが人をとらえるならば、この世の呪術師はその杖を投げ捨てる。その一つ一つはへびのようにずる賢く、有害であるが、アロンの杖は彼らの杖をのみこむ。十字架の不思議な引力は人の心に訴え、人の心をとらえる。すると、偽りに満ちたこの地上のためにのみ生きていた人が、高い世界に目を注ぎ、大空高く翼を張って駆けるようになる。恵みが勝利を得る時、世俗的な人も、やがて来る世界を求めるようになる。
同様の事実は信者の生涯においても認められる。私たちの信仰は、どれほど多くの敵に会わなければならないことであろう。私たちの古い数々の罪――悪魔はそれらを私たちの前に投げた。するとそれらはへびに変わった。なんと数の多かったことであろう! ああ、しかしイエスの十字架はそれらをすべて滅ぼす。キリストへの信仰は、私たちのすべての罪をただちに殺す。すると、悪魔はさらに一群のへびを放つ。それは、この世の試み、誘惑、不信仰である。しかしイエスへの信仰は、それらをものともせず、すべて征服する。
同様の原則は、神のための忠実な奉仕の中にも輝く。イエスに対する燃えるような愛によって困難は克服され、犠牲は楽しみとなり、苦しみは名誉となる。
信仰は、このように心を焼き尽くすほどの熱情であるのだが、信仰を告白しながらも、その実、信者でない人が多くいる。なぜなら、彼らがもっているものは、このテストに耐えることができないからである。読者よ。この点において自分を省みよ。アロンの杖は、天来の力をもつことを実証した。あなたの信仰も同様だろうか。もしキリストが何かであるのならば、キリストはすべてでなければならない。おお、イエスにある愛と信仰があなたを支配する熱情となるまでは、心を安んじてはならない。
 

「悪魔に機会を与えないようにしなさい」

2017年06月28日 16時57分08秒 | 聖書

(エペソ4:27)

悪魔は私たちの心に、足場を得ようと狙っている。
カインは怒りによって、悪魔に足場を与えてしまった。
悔い改めて、罪を治めるべきであった。
しかし、カインは罪に支配され、アベルを殺してしまった。

サウル王は妬みにより、悪魔に足場を与え、捕らわれてしまった。
妬みを悔い改め、捨て去ることをせず、悪魔に機会を与え続けてしまった。

ダビデは、高ぶりにより人口調査の罪を犯してしまった。
戦いに勝利に次ぐ勝利で、高慢になっていた。
人口調査により自らの力を誇りたかった。
神ではなく民の力に拠り頼むよう誘惑された結果だった。

部下のヨアブが、神に反逆する行為であると止めに入るが、ダビデは聞かず、この事で神の怒りを招き、イスラエルに災いをもたらす事になった。
悪魔は、カインにサウルに、主に忠実であったダビデにさえ巧妙に働いた。

私たちは自分の心を見張り、守る必要がある。
又、悪魔の常なる手段は「疑い」を起こす事だ。
「疑い」を起こしさえすれば成功だ。
「神は本当に愛してくれているのか」「守ってくれるのか」悪魔の仕業だ。

信仰の足元がぐらつく。対人関係に「疑い」を起こし、不信感を植え付ける。
疑心暗鬼にさせる。赦さない心は悪魔に足場を与える。
赦し合おう。今、悪魔の攻撃に会っていないか。

私たちは生涯、血肉とはいっさい戦っていない。戦いの相手はサタン。
心を見張っていよう。悪魔は背後で、ほくそ笑んでいる。
サタンの策略に気づけるよう、今日も祈っていよう。

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サタンに足場を与えていると出入り自由だ。
妬みや憎しみ、赦さない心、思い煩い・・足場があるから常に来れて、ますます強固にされてしまう。
そこがサタンの餌になる。主に告げ、悔い改めたり委ねたり御霊の導きに従おう。
足場が無くなる。


今日の聖人の記念日

2017年06月28日 06時16分28秒 | キリスト教

聖イレネオ司教殉教者

135年ごろ-200年ごろ

 イレネオは、小アジア(現在のトルコ)のスミルナに生まれた。若いころ、スミルナの司教ポリカルポに学んだ。ポリカルポは、イエスの使徒聖ヨハネの愛の心と信仰を受け継いでいた。イレネオは、友人に「自分は、ポリカルポの姿と声、そして彼が聖ヨハネから学んだと言った言葉を完全に心に納めている。それは、魂の一部である」と言ったといわれる。

 177年にローマ皇帝マルクス・アウレリウスはキリスト教に対する弾圧命令を出し、リヨン市でも大迫害が起こった。そのためリヨンの司教が殉教し、イレネオがその後を継いで司教となった。彼の努力によってリヨンの教会は盛んになったが、政権の交替によって幾度も迫害を受けた。そして皇帝セプティミス・セヴェルスの時代に、イレネオも信者と共に捕えられて殉教した。


◆怒りをおそくする者

2017年06月28日 06時14分50秒 | 聖書

怒りをおそくする者は勇士にまさり、
自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。(箴言一六32)
あなたは怒りっぽいでしょうか。
自分の感情のコントロールができないで「怒る」ことと、正しい愛の心をもって、条理にかなったきびしいことばで「叱る」こととは違います。怒り方にもタイプがあります。かんしゃく持ちの爆発型もあるし、ねちねち怒る人もいます。
いずれにしても怒る人は、人の上に立てませんし、責任をもって事に当たることに不向きです。怒る人は、他人のした仕事の責任をとることもせず、他人にやる気を起こさせて、この人とならやるぞと人を動かすこともできません。ですから、家庭も職場も治めることができないでしょう。
すぐ怒る人は、自分の心が支配できない人です。反対に、自分の心を治める人は、「町を攻め取る者にまさる」といわれています。その置かれた立場は、たとえ大将でなくても、社長でなくても、人生のいろいろの場面でのリーダーになれるのです。
付け焼き刃や修養などでは、この心のコントロールはできません。昔から「山中の賊は治めやすく、心中の賊は治めにくい」といいます。中国人もインド人も西欧人も、皆このことを認めているようです。
聖書は、「内住のキリストこそ奥義」と述べています。へりくだって心をからっぽにして、その心の王座に、限りなく謙遜で柔和で愛のある真の王者、キリストに入って治めていただくことです。自分の意志を強くしてもだめでしょう。ものすごいワンマンの親分を、それより強いワンマンのやくざの親分が追い出して座っても、変わりがありません。心の中に神を迎えなければなりません。くだけた心に、信仰によってキリストを迎え入れることこそ、怒りをおそくする奥の手でしょう。怒りをおそくできる人こそ、真の人生の勇者です。
 

◆イエスから目を離さないでいなさい。

2017年06月28日 06時13分54秒 | 聖書
(ヘブル一二・二)
私たちの目を自分からイエスに移させるのは、聖霊の不断の働きである。サタンの働きはその正反対である。サタンは、常にキリストを見させず、私たち自身を見させようとするからだ。そしてこうほのめかす。「おまえの罪は、ゆるされるにはあまりにも大きい。おまえは信仰を全然もっていない。悔い改めがなっていない。長続きするはずがない。神の子としての喜びもない。ただ気まぐれにキリストにすがりついているにすぎない」と。これらはすべて私たち自身についての考えであり、私たちは自分の内を見ることによっては、決して慰めや確信を見いだすことはない。
しかし聖霊は、私たちの目を私たち自身から全く移される。主は私たちが無であり、「キリストがすべてである」ことを告げられる。だから次のことを覚えよ。あなたが救われるのは、あなたがキリストをとらえていることによってではない。キリストがあなたをお救いになったのである。あなたが救われるのは、キリストのうちにあるあなたの喜びによるのではない。キリストがあなたを救われたのである。またあなたが救われるのは、キリストへの信仰によるのでさえない。それは手段ではあるが、あなたを救うのはキリストの御血といさおしなのである。キリストをとらえているあなたの手を見ず、希望の源泉であるイエスを見よ。あなたの信仰を見ず、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離すな。
私たちは自らの祈り、行為、感情を見ることによっては、決して幸福を見いだすことはない。たましいに平安を与えるのは私たちではなく、イエスである。ただちにサタンを征服し、神との平和を得たいと望むならば、「イエスから目を離さない」以外に道はない。あなたの目を単純にイエスに注ぎ、主の死、苦難、いさおし、栄光、とりなしをあなたの心にあざやかにせよ。
朝目が覚める時イエスを見つめ、夜休む時もイエスを見つめよ。おお、あなたの希望や恐れで、イエスとの間を隔てないようにせよ。しっかりとイエスについて行け。主は決してあなたを裏切られることはない。
 

詩篇45篇10-11節

2017年06月28日 06時12分22秒 | 聖書


45:10 娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
45:11 そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。


夫婦は、一体である。

従ってその娘は、父や、今まで係わりのある人々を忘れて、夫に結びつきなさいと語っています。

この娘というのは、主の民のことです。

そして、この「王」と「娘」という言葉を持って、「主」と「主の民」のことを語っているのです。

主の民は主のものですから、主に結びつき、主の御心に従って歩めというのです。

この世の様々なしがらみを打ち捨てて、主に属する者、主に結びついた者として生きよ、というのです。

キリスト者は、キリストに結びついている者です。

教会は、キリストの花嫁です。

ですから、結びつきはキリストにあるのであって、この世に対しての結びつきが優先されるのではありません。

作者は、「父の家を忘れ」「彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。」と告げるのです。

私たちが結びつくべき方は、主であるのです。


6月27日(火)のつぶやき

2017年06月28日 01時21分49秒 | キリスト教