座間コミニティー

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◆自分を卑しくし……。

2017年06月03日 15時54分16秒 | 聖書
(ピリピ二・八)
イエスは、私たちに謙遜を教えられる偉大な教師である。私たちは、日ごとにイエスに学ぶ必要がある。主が自ら手ぬぐいを取って、弟子たちの足を洗われるのを見よ。キリストに従う者よ。あなたは自分を卑しくしないのか。しもべの中のしもべとなられた主を見よ。あなたは高ぶっていることはできないはずである。「自分を卑しくし……。」この一句が主のご生涯の要約である。地上におられた時、主は尊い衣を一枚ずつ脱がれ、ついに裸になって十字架にかかられた。そこにおいて、最も奥深い自己を注ぎ出し、血潮を流し、私たちすべてのためにご自分を与え、ついに無一物となり、他人の墓に横たえられたのではなかったか。
十字架の下に立ち、あなたをきよめてくださった深紅の血の一滴一滴を数えよ。いばらの冠を見よ。鮮血のほとばしる、主のむち打たれた両の肩に目を留めよ。恐ろしい釘に打たれたその御手と御足、冷笑と侮辱にゆだねられたご自身を見よ。主の内なる苦しみと悲しみの激痛が、その肉体の上にまざまざと現れているのを見よ。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という絶叫を聞け。それでもあなたがその十字架の前に身を投げ出さないならば、あなたはまだ十字架を見ていない。もしあなたがキリストの前に謙遜になっていないならば、あなたはまだイエスを知っていない。
あなたは失われ、全く絶望状態にあったため、神のひとり子の犠牲以外には、何ものもあなたを救えなかった。これを深く考えよ。そしてイエスがあなたのために身を低くされたのだから、あなたも主の御足のもとでいっそう身を低くせよ。私たちに対するキリストの驚くべき愛を意識することは、自分の罪を意識するよりも、さらに私たちを謙遜にさせる。主が私たちにカルバリを黙想させてくださいますように。そうすればもはや尊大な態度をとれず、多く赦されたゆえに、多く愛する者のへりくだった態度をとるであろう。十字架の下に高慢の立つ余地はない。私たちはそこに座して教訓を学び、立ち上がってそれを行おう。
 

「だからあなたは、

2017年06月03日 15時53分27秒 | 聖書

立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)

人は皆、失敗をするものだ。どんなに注意していても、人間である限りミスしてしまう。
完全無欠ではないからだ。あなたも信じられない失敗をした事があるだろう。
大切な事は、その失敗から「学ぶ」事だ。学べば良いのだ。

何度転んでも立ち上がって、再び、主に従って行くことだ。
幸せな結婚生活が、夫婦間の努力なしに築けるなど不可能だ。
建て上げて行く努力が大切だ。又、友人関係も同様だ。
互いに従い合い、思いやり合い、自分を捨て、日々学び、日々築き上げて行くべきだ。

ペテロは人生で大失敗をした。自分は大丈夫、命をかけても主に従うという決心が、試みの前にもろくも崩れ去った。
主を裏切ってしまった。しかし、見事に回復され、後に主の証人とされ、殉教した。

ダビデも大きな失敗をした。しかし何もかも終わったのではなかった。
ダビデも罪赦され回復させられた。私達も皆、信仰が試される。
時に失敗してしまう。しかし、失敗で落胆し、絶望する必要はない。
どんな状態であれ、やり直す事ができる。

悔い改めて、そこから学ぼう。
主がペテロにしたと同様に、あなたを再び建て直し、人々を力づけるために、砕かれた者を豊かに用いられる。
恵みは十分。失敗を通して、自分の知恵や力で歩まず、主に拠り頼む者と変えられる。
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何度でもやり直せる。大切なのは失敗の後の処し方だ。
恐れず戻って来なさいと主は言われる。
そして絶望や失意からの回復を与えられたら、主のさとしの方へ自分の足を向け、また歩み始めよう。


今日の聖人の記念日

2017年06月03日 06時59分14秒 | キリスト教

聖カロロ・ルワンガと同志殉教者

19世紀

 1878年に、アフリカのウガンダに宣教師が入り、宣教を始めた。王国宮廷に仕える人々も何人かがカトリック信者になった。やがてキリスト教に対する迫害が厳しくなると、宣教師たちは信者の生命を心配し、彼らを巻き込まないために一時帰国した。しかし、国王の侍従ヨセフ・ムサカを中心に、マチア・ルムンバやカロロ・ルワンガの指導によって信仰が守られ、信者も増えた。

 国王が亡くなって、その息子ムワンガが王となり、キリスト信者を重要な地位につけるなどして、初めはキリスト教に好意的であった。そのため、宣教師も再び戻り宣教を開始する。しかし、王が悪い習慣にのめり込んでゆくのに乗じ、キリスト教を敵視していた王の宰相カテキロがざんげんしたため、王の迫害が始まった。英国聖公会の宣教師を殺すように命じた王に反対したヨセフが処刑されたことに始まり、次々とキリスト信者たちが処刑されていった。ほとんどが、10代から20代の、まだ洗礼を受けて間もない若者であった。彼らは、祈りながら帰天したといわれる。カトリック教会と英国聖公会の信者100人以上の殉教者を出した迫害は、1885-1887年まで続いた。


◆穏やかな心の価値

2017年06月03日 06時58分07秒 | 聖書

穏やかな心は、からだのいのち。
激しい思いは骨をむしばむ。     (箴言一四30)
狭心症や、心筋梗塞、脳梗塞などの発作を私はたびたび起こし、軽くすんだとはいえ、病院を出たり入ったりしてきました。医者にも言われ、医学書でも読み、自分でも反省させられていることは、確かにこのことばのとおりです。
イエス・キリストは、「この火が燃えていたら、わたしは言うことがない。わたしは火を投ずるために来た」(ルカ一二49参照)と言われました。パウロも、「心を熱くして主に仕えよ」(ローマ一二11参照)と言いました。
命がけで、神のため人のために熱情を燃やすことは尊いことでしょう。しかし、そんな大切なことでなしに、あらしにゆり動かされる海のように、感情のままに怒ったり、人を好いたりきらったり、向こう見ずの自信過剰をむきだしにしたり、野心にゆれ動いたりする激しい思いは、確かに骨をむしばみます。健康には悪いし、そんな人に大切なことは任せられません。
穏やかな心の人は、落ち着いており、感情に左右されずじっくりと構えますから、判断を誤りません。行く先が見えます。穏やかな人は心が広く深いので、人をゆるし、人と協力し、しんぼう強く信じ期待します。そこで大事を任せられるし、やりとげる人です。穏やかなことは体にもいいのです。
穏やかな心とは、どんな心なのでしょう。神の愛に満たされて満足し、ゆったりとしている広い心です。人を包みこむ深い心です。表面があらしでも、深い海の底はいつも平安です。忍耐深い心です。神を深く信頼し従っているので、恐れがありません。
こんな小さな心でも、信仰によって神を受け入れ、神の愛を受け入れた時、穏やかな心となる望みが持てるのです。
 

◆彼らは陶器師や、植物および間垣の中に住む人で、

2017年06月03日 06時57分21秒 | 聖書
王の仕事をするため、王とともにそこに住んだ。(Ⅰ歴代四・二三英訳)
陶器師は当時、決して高く評価されている職人ではなかった。しかし「王」にとって陶器を作る人が必要であり、彼らは王の御用に従事していた。私たちも主の御用の最も小さな部分に従事しているかもしれない。しかし「王」のために何かをするというのは、非常な特権である。だから「羊のおりの間に横たわるとき、銀でおおわれた、鳩の翼。その羽はきらめく黄金でおおわれている」のを望みながら、私たちは召された場所にとどまろう。
今朝の聖句は、また植物および間垣の世話をする者について述べている。彼らは、垣を作り、みぞを掘る単純な、しかしつらい仕事をしなければならなかった。彼らも都に住むことを望み、上品な生活や社交にあこがれていただろう。しかし、定められた場所を離れようとしなかった。なぜなら、彼らもまた王の仕事をしていたからである。私たちの住む所は定められており、気まぐれからその場所を変えるべきではない。そこにあって主に仕え、周囲の人々の祝福となるべきである。
これらの陶器師と庭師は王の友であった。なぜなら彼らは「王とともに」住んでいたからである。間垣や植物に囲まれていたが、王とともに「そこに」住んでいたのである。御前に正しい職業であれば、それがいかに小さくても、それによって主との交わりが妨げられることはない。またバラック、スラム、収容施設、刑務所を訪ねる時も、私たちは主と共に行く。私たちのすべての信仰の働きに、イエスが共にいてくださると考えてよい。私たちは主の仕事をしている時、主の微笑を期待することができる。
主の働き人として、人に知られず、最下層の汚れと悲惨の中にいる者よ。雄々しくあれ。なぜなら、宝石が堆肥の上に見いだされ、天の宝が土の器に盛られ、雑草が美しい花に変えられるのは今に始まったことではないからだ。あなたは王の仕事をいただいて、かつ王と共に住め。そうすれば、王がその記録を作られる時、あなたの名前も記されるだろう。
 

詩篇40篇7-9節

2017年06月03日 06時55分58秒 | 聖書


40:7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
40:8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。


ダビデが喜びとしたことは、何であったのでしょう。

それは、主の御心を行うことでした。

ダビデも罪を犯し、神の御心を無視したこともありました。

しかし、罪を悔いた後、本当に心から思っていたことは、主を愛し、心から主の御心に従って生きようということでした。

 ところで、その主の御心を聞いて行うためには、どうしたらよいのでしょうか。

それは、主の御旨が記されている、神の言葉である聖書に聞いて、そこで主の御心を知って生きることです。

そのことを語って、彼は「あなたの教えは私の心の内にあります。」と語っています。

心の内にあると言うのは、単なる知識として持っているというのではなくて、全人格を持って、その教えにお聞きして従っていきますと、言っているのです。

ダビデは主を心から愛する故に、みことばに聞いたのです。


1コリント4章5節

2017年06月03日 06時53分52秒 | 聖書


★ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。


■O:今日のコラム
さばく思いから解放されると私たちの人生は豊かな平安を得、毎日が主の美しさで満たされます。さばく思いを抱えるとは、数十キロ、数百キロのおもりを持って生きる様なもので、いつも心の中を失望と、憂鬱さが満たし、生きる喜びが無くなるばかりか、主に与えられた使命さえも見失ってしまうのです。

さばく思いは絶えず、私たちの心や思いを駆け巡り、主の恵みを見えなくさせ、感謝すべきことが数多くある時でさえも、全ての状況を否定的にとらえ、私たちの目を問題にフォーカスさせます。イエス様が「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」(マタイ6:23a)。と言われている通り、否定的なさばきの目は私たちの人生全体を暗くさせるのです。

私たちがさばきの思いから解放される為の重要な第一歩は、悔い改めから始まります。さばくとは「自分が正しく、人が間違っている。」という考えから起こります。しかし、私たちが自分自身の罪深さと、どうしようも無い肉の性質、自己中心を悟り、心がへりくだり悔い改める時、「私は人をさばくことなど出来ない。私こそが罪人の頭であり、私の為にこそ主イエスの赦しとあわれみが必要だ。」と気づくのです。その時、人を罪に定める思いから、私を赦し自由にする、主イエスの十字架の莫大な恵みへと目が向くようになります。

また、絶えず祝福をすることを通してさばきに打ち勝つことが出来ます。たとえば私たちの計画を阻み、嫌味を言い、敵対する人々に対して、私たちも同じように不満を言い、訴え、粗探しをすることは可能ですが、そこには何も解決がありません。しかし、その様な状況は一見否定的な状況に見えますが、神の国の視点から見ると私たちがキリストに従う神の子として歩む為の最良の機会です。自分を痛める人々を祝福し、その人々の為に祈る時、私たちは神の子どもとして正しく歩み、天の父の完全さをこの世に反映して生きることが出来るのです(マタイ5:43~48)。

さばきと復讐は神の働きであり、私たちの働きではありません(ローマ12:19参照)。そして、たとえ人から評価されず、理解されず、理不尽な扱いを受けることがあっても主は全てを知っておられ、私たちを正しく評価し、見えない領域においても心を治め、忠実に歩む者に必ず豊かな報いを与えてくださいます。主の正しいさばきに信頼する時、私たちの内に主による全き平安が与えられるのです。



■A:考えてみよう
誰かに対して個人的な怒りやさばきの思いを持っているなら、まずは自分自身の罪を悔い改めましょう。そして、全ての思いを十字架の前に持って行き、主に委ね、主イエスの十字架の血潮の聖めを心と思いに受け取りましょう。
また、この十字架を通して全ての呪いが祝福に変えられた者として、人々を祝福して祈りましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月2日(金)のつぶやき

2017年06月03日 01時26分48秒 | キリスト教