私たちはイスラエルの中の最も小さい、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな」者かもしれない。しかし神のあわれみは、進歩した聖徒、徳の高い博学な聖徒にのみ与えられるのではないから、私たちは嘆願をして、こう言える。「彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。だから約束は私のものであり、恵みも、栄光も私のものとなります」と。この正しい主張は、ことばに尽くせない慰めをもたらす。神の民が神に属する者であるのを喜ぶ時、もし「私もそうです」と言えるならば、なんという幸福であろう。彼らが赦され、義とされ、愛する御子によって受け入れられていることを語っている時、「神の恵みによって、私もそうです」と応ずるのは、なんという喜びであろう。
しかし、この主張には楽しみがあり、特権があるだけでなく、条件があり、義務を伴う。私たちは晴天の時だけでなく、雨天の時も神の民に仲間入りしなければならない。彼らがクリスチャンであるために軽蔑され、あざけられているのを聞く時、私たちは大胆に前に出て「私もそうです」と言わなければならない。彼らがキリストのために、時も才能も心もささげ尽くして働いているのを見る時に、私たちは「私もそうです」と言うことができなければならない。おお、私たちの感謝を献身によって証明しよう。そして、特権を主張するとともに、喜んで義務を負う者として生きよう。