座間コミニティー

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◆彼らはイスラエル人ですか。

2017年06月06日 15時37分02秒 | 聖書
私もそうです。(Ⅱコリント一一・二二)
ここには、個人的な主張がなされている。そしてこれは、証明を要する主張である。使徒は、この主張が議論の余地のない明白なものであることを知っていた。しかし、神のイスラエルに属していると主張しながら、実はそうでない人々が多い。もし私たちが確信をもって「私もそうです」と宣言しようと願うならば、それこそ神の御前にいるように、自分の心を探ってからにしよう。しかし、もしイエスに従っているとの証拠をあげ、心の底から「私は全く主に信頼し、主にのみ信頼し、単純に信頼し、今主に信頼し、永遠に信頼する」と言い得るなら、神の聖徒の地位は私たちのものとなり、彼らのすべての喜びは私たちの財産である。
私たちはイスラエルの中の最も小さい、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな」者かもしれない。しかし神のあわれみは、進歩した聖徒、徳の高い博学な聖徒にのみ与えられるのではないから、私たちは嘆願をして、こう言える。「彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。だから約束は私のものであり、恵みも、栄光も私のものとなります」と。この正しい主張は、ことばに尽くせない慰めをもたらす。神の民が神に属する者であるのを喜ぶ時、もし「私もそうです」と言えるならば、なんという幸福であろう。彼らが赦され、義とされ、愛する御子によって受け入れられていることを語っている時、「神の恵みによって、私もそうです」と応ずるのは、なんという喜びであろう。
しかし、この主張には楽しみがあり、特権があるだけでなく、条件があり、義務を伴う。私たちは晴天の時だけでなく、雨天の時も神の民に仲間入りしなければならない。彼らがクリスチャンであるために軽蔑され、あざけられているのを聞く時、私たちは大胆に前に出て「私もそうです」と言わなければならない。彼らがキリストのために、時も才能も心もささげ尽くして働いているのを見る時に、私たちは「私もそうです」と言うことができなければならない。おお、私たちの感謝を献身によって証明しよう。そして、特権を主張するとともに、喜んで義務を負う者として生きよう。
 

「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した』・・

2017年06月06日 15時36分03秒 | 聖書

『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった』」(Ⅰサムエル12:13)

いつの場合も、罪が赦され、解き放たれるためには、まず自分の内にそれがある事を認めることが必要だ。
認めない限り一歩も進まない。

ダビデは姦淫と殺人の罪を犯したが、それを隠していた時には「1日中うめいて、骨々は疲れ果て、骨髄は、ひでりでかわききった」と。
苦しい悶々状態だった。
しかし、告白し、罪を認めた時、とがめは赦され心底からの安堵と解放を経験した。

私たちはどうだろう。
自分を正当化する肉の性質がある。
自分が怒るのは、相手がそのような言い方をするからだ。
相手がそんな言い方をしなければ怒らないのに。
自分が怒るのは相手のせいであり、相手が悪い。

又、私がそんな言い方をしたのは、疲れていたからだ。
疲れてさえいなければそんな物言いはしない。
自分でなく疲労のせい。
言い訳や弁解を捜すなら、幾らでも出て来る。

自分は正しくて相手が悪く、状況が悪い。
そう言っている限り、自分は何も変わらない。
変えられるためには、「それをしたのは私です」「その通りです」と言い訳せずに認めることだ。
その時、「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」が自分の身に成就する。

自分の心を振り返ってみよう。
どれほど多くの自己正当化、言い訳、弁解、責任転嫁が出ているだろう。
あの場面も、この場面も・・。
気づけて「それは私です」と認めよう。その時、必ず自分が変えられて行く。

とにかく、いっさいの自己弁護、言い訳を止めてみよう。
自分で自分を護る事を止める時に、主が弁護して下さる事、赦されている事、神の大きな愛の御手に包まれている事を知る。

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自分で何とかしている間は見えない。
自我に触れるので、肉は決して認めたくないが、認める時、十字架から赦しが流れて来て、紛れもなく、自分のための十字架だとわかる。
心砕かれる中に、神の深いご愛と慈しみに、頭でなく心が触れる。


今日の聖人の記念日

2017年06月06日 05時53分59秒 | キリスト教

聖ノルベルト司教

1080年-1134年

 ノルベルトは、ドイツのゲンネブの裕福な貴族の家に生まれ、若いころは皇帝ハインリッヒ5世のもとで、世の楽しみに浸る生活を送っていた。25歳のとき、馬に乗って郊外に出かけたところ、突然の激しい雷雨に打たれた。そのとき、「悪事をやめて、よいことをしなさい。平和を探し求めて、それに従いなさい」とのキリストの声を聞いたのである。その瞬間から彼は回心し、宮廷を去り、修道院に入った。

 1115年に司祭になると、説教師として宣教活動に従事するが、彼の過去を知る者は彼を信用せず、偽善者として告訴までした。しかし彼はそのことにも耐え、ついに、教皇からフランスのどこででも説教を自由にする許可を得て、当時に最も有名な説教家となった。

 1120年、プレモントレ修道会を創立した。その会は、聖体に対する尊敬と信心を広めることによって世の罪を贖うことを使命とした。その後、マグデブルクの大司教となり、生涯を神の道具としてささげたのである。


◆い の ち の 木

2017年06月06日 05時52分55秒 | 聖書

穏やかな舌はいのちの木。
偽りの舌はたましいの破滅。     (箴言一五4)
私は三十五、六歳のころ、福島県の山の中で、二十人ばかりの青年男女といっしょに農業をしながら、ある先輩牧師を助けて聖書学校をやっていたことがありました。農場の片すみに、毎年ふっくらした甘い実をつける一本の水蜜桃がありました。ある時、先輩がその木の下でこう言いました。「羽鳥さん。これが、聖書で言ういのちの木の見本だよ。演説しなくても大声で叫ばなくても、みんなが来て、取って食べて満足していくのだ。」
あるクリスチャンを知っています。別に社会的地位があるわけではなく、まあどちらかといえば、世間的には幸せではありません。しかし、一つ一つのことを切り抜け、戦ってきた人です。その人のまわりにはたくさんの人が集まってきて、親にも言えないことや、友達に話したらあきれられるようなことまで話を聞いてもらいます。そして、一人一人が慰められ励まされ、生きる勇気を与えられて帰っていくのです。この人のことばは、まるでいのちがあって、一人一人を生かしていくようでした。多くの人にも、人を慰めたり励ましたりしたい気持ちがないわけではありません。しかし、自分のことで手いっぱいなのです。ですから、人に何と言っていいか分からず、きびしくしたらいいのか甘くしたらいいのかと、とまどいます。しかし、このクリスチャンはそうではありません。なぜでしょうか。彼の人生が深く深く神に根ざし、キリストの愛に根ざし、キリストの愛の実を豊かに結んでいるいのちの木だからです。
キリストこそ、そんないのちの木の原型です。神を離れて傷だらけになった寂しい魂がキリストのところに来ると、生かされるのです。キリストに深く根ざしていくなら、いのちの木のような人生が生まれるのです。
 

◆ああ、

2017年06月06日 05時52分10秒 | 聖書
私はつまらない者です。(ヨブ四〇・四)
あわれな、失われた罪人よ。ここにあなたへの励ましのことばがある。あなたはつまらない者であるために神に来ることができないと思っている。しかし、かつてこの地上に住んだ聖徒のうち、だれ一人として自分がつまらない者だと感じない者はいなかった。ヨブも、イザヤも、またパウロも「私はまことにつまらない者です」と言わざるを得なかったのである。それなら、おお、あわれな罪人よ。あなたは同じ告白をするのを恥ずかしいと思うのか。もし神の恵みが信者からあらゆる罪を取り除かないとすれば、どうしてあなたが自分でそれを取り除くことを望めるだろうか。その民がつまらない者であるにもかかわらず、神は彼らを愛しておられるのに、あなたは自分がつまらない者であるために神に愛されていないと思うのか。この世の交わりから捨てられた者よ。イエスを信じなさい。イエスはあなたを召しておられる。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
今、こう言え。「罪人のために死なれた主イエス様。私は罪人です。私の上にあなたの血潮を注いでください」と。もしあなたが罪を告白するならば赦される。もし今心の底から「私はつまらない者です。私を洗ってください」と言うならば、あなたは今、洗いきよめられる。もし聖霊があなたに「いさおなきわれを血をもて贖いイエス招きたもうみもとにわれ行く」と、心の底から歌わせるならば、あなたは今朝の章を読み、すべての罪を赦されて立ち上がるであろう。
今朝目覚めたときには、人間の犯すすべての罪を頭にいただいていたが、今夜は愛する御子に受け入れられて安らかに眠りにつく。かつてあなたは罪の衣をまとい、おちぶれていたが、今は義の衣を着て天使のようになっている。なぜなら「今は恵みの時」だからである。この「今」ということばに注意せよ。もしあなたが、不敬虔な者を義としてくださる方を信じるならば、あなたは救われる。ああ、最もつまらない者を受け入れてくださる方への救いに至る信仰を、聖霊が与えてくださいますように。
 

詩篇40篇16-17節

2017年06月06日 05時50分26秒 | 聖書


40:16 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう」と、いつも言いますように。」


ダビデはいつも心の中で主を慕い、主に心を向けて、主の助けに導かれて歩んでいました。

ですから、彼の心は、いつも主への思いで満たされていました。

そうした主を愛する彼ですので、彼は主の御名が多くの人々に慕われて、主によってその人々が恵みと喜びに満ちることを願っていました。

彼は、主によって心が喜びに満たされるということが、どれほど幸いなことかを知っていたからです。

 ここで彼は、「あなたを慕い求める人が」と言い、また「あなたの救いを愛する人たちが」と言っています。

こうした人達は、主と共にあることを喜び、また主のために生きることを願っている人々でした。

ですから、なおさらこの主によって心が満たされて、その事の故に、一緒に「主をあがめよう」と言うことが出来ることは、この上もない喜びであったのです。



エゼキエル書35章3~4節

2017年06月06日 05時48分03秒 | 聖書


★言え。
 神である主はこう仰せられる。
 セイルの山よ。
 わたしはおまえに立ち向かい、
 おまえにわたしは手を伸ばし、
 おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。
 わたしがおまえの町々を廃墟にし、
 おまえを荒れ果てさせるとき、
 おまえは、わたしが主であることを知ろう。

■O:今日のコラム
「山」は多くの場合、礼拝の場を指します。聖書の中で「高きところ」は礼拝の場です。セイルの山は神に敵対する山であったので荒廃するのです。

主以上に世の物を愛して生きる者を、聖書は神に敵対する者と言います。神を愛し、神を神とし、王とし、主として自分の人生の王座にお迎えしましょう!自分自身さえも捧げてしまうのです。これは本当は神のもの、主がいのちを捨てて買い取られたものなのですから。

放っておけば、自分の王座に自分が座ってしまうものです。日々の献身を主の前に捧げましょう。しかし、主を中心に置き、主を愛する山は、この反対のことが起こるのです。

「その日、わたしは
 ダビデの倒れている仮庵を起こし、
 その破れを繕い、その廃墟を復興し、
 昔の日のようにこれを建て直す。
 これは彼らが、エドムの残りの者と、
 わたしの名がつけられた
 すべての国々を手に入れるためだ。
 ――これをなされる主の御告げ――」(アモス9:11~12)

ダビデの幕屋が建て直されることは、終わりの時代のクリスチャンにとって重要なことです。ダビデの幕屋とは、教会であり、クリスチャン一人ひとりのことでもあります。教会は神の家。また私たちも生ける神の宮なのです。ダビデの幕屋は、主の臨在を絶え間なく中心にお迎えし、「いつでも主と共に」という歩みです。主の家に住まうことを願うスピリットが、ダビデという礼拝者のスピリットなのです。

主はダビデの幕屋のある、シオンの山に住まうことを宣言しておられます。

「主はシオンを選び、
それをご自分の住みかとして望まれた。
『これはとこしえに、わたしの安息の場所、
ここにわたしは住もう。
わたしがそれを望んだから。』」(詩篇132:13~14)

このシオンの山から全てのいのちは生み出され、御言葉は発せられ、救いは来て、光が放たれ、祝福が溢れていきます。私たちは、主と共にあることを願い求める歩みをこの地上で学んでいきましょう!祈りの中で主と交わり、遣わされている地で主の愛で愛し合う歩み、主に聞き従う歩みを選ぶことが重要です。

ヨセフは、主と共にいることを選んだので、どこにいても祝福され、何をしても上手くいきました。そして、彼に備えられていた神の計画は実現し、神の栄光を現したのです。私たちも主と共にあることを選び続けるなら、ヨセフの様になれるのです。



■A:考えてみよう
主を愛し、主に近づき、主の御そばを離れず歩むことを学びましょう。



■P:祈り
主よ。あなたを愛します。あなたは、あなたを求める者には報いてくださる方。今日の祈りの中であなたに近づき、地にあってもあなたの臨在の中から私が出てしまわない様に助けてください。
愛に生き、あなたに対する従順をもって歩ませてください。あなたと昨日より近い距離感で生きることが出来る様にさせてください。
あわれんでください。恵みを注いでください。あなたにより頼みます。あなたとの隔てとなっている罪があるなら、聖霊様、あなたがそれを示してくださって、深い悔い改めに入ることが出来る様にさせてください。
あなたが愛してくださっていることをもっと悟り、味わうことが出来る様にさせてください。



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月5日(月)のつぶやき

2017年06月06日 01時26分16秒 | キリスト教