座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。

2017年06月27日 16時23分40秒 | 聖書
(Ⅰコリント七・二〇)
ある人々は愚かな考えを抱く。彼らは神のために生きる唯一の道が、伝道者、宣教師、婦人伝道者になることであると言う。ああ、もしそうだったら、どんなに多くの人々が、いと高きお方をあがめる機会をもたないことになるであろう。愛する者よ。私たちに神の栄光をたたえさせるものは、職務ではなく熱心であり、地位ではなく恵みなのである。靴屋の店で、信仰深い職人が道具をせっせと動かしながら救い主の愛を歌うとき、神は最も確実にあがめられる。多くの大聖堂の聖職者席で、職業的宗教家が貧弱な職務を果たすのに比べれば、はるかによく神はあがめられている。貧しい無学な運送屋が馬をかりながら神を賛美し、あるいは道ばたで仲間に神を語るとき、イエスの御名は、高名な神学者が国中を巡回してボアネルゲのように福音を大声で叫ぶときと同様にあがめられる。私たちがそれぞれの職業にあって主に仕えることによって、神はあがめられる。
愛する友よ。自分の職業を離れることで、義務を放棄しないように注意せよ。また仕事に励んでいるとき、あなたの職業を辱しめないように注意せよ。自分のことを重視しすぎてはならないが、あなたの職業を軽んじてはならない。すべての合法的職業は、福音により、最も尊い目的のためにきよめて用いられる。聖書を開いてみよ。そこで、最も卑しいとされる種類の労働が、最も勇敢な信仰の行為、輝かしい聖潔の生涯を送った人々と結びついているのを見いだすであろう。
だからあなたの職業に失望してはならない。神があなたに与えられる地位や仕事がどのようなものであれ、神があなたを他に召しておられることを確信するのでなければ、そこにとどまれ。あなたは、現在ある所で、力の限り最高度に神をあがめることを、第一の関心事とせよ。あなたの現在の持ち場を神への賛美で満たせ。神がもし他の場所であなたを必要とされるならば、それをあなたに示されるであろう。
今夜、煩わしい野心を捨て平和な満足を心に得よ。
 

「神のなさることは、

2017年06月27日 16時22分55秒 | 聖書

すべて時にかなって美しい」(伝道の書3:11)

あなたも、しばしば、物事が自分の思い通りに行かないことを経験するだろうか。
今までも信仰人生は、自分の思い通りにはならなかった。

又、突然、不意の事態が起こるのでは、と不安に駆られるだろうか。
又、どんなに祈っても、苦しい状況が何も動かず、微動だにしない、祈りが聞かれているのだろうかと、思うこともあるかも知れない。

それは、自分サイドで、自分のタイムテーブルで物事を見ているからだ。
神には神のみ思いがあり、時間表があり、定まった「神の時」がある。
最善の時であり、最もすべてに美しい時だ。

祈りが答えられる「時」だけは、私たちは神に指示できない。
祈りはすでに答えられているが、目に見える形で現れて来るのがまだ先ということだ。
神は、遙か先を見通しておられる。私たちには、将来は全く見えない。

「人は神が行われるわざを、初めから終わりまで見極めることができない」の通りだ。
ほんの目先しか見えないに関わらず、しかし「人の心に永遠への思いを与えられた」。

目先の事だけで一喜一憂し、ひどく落ち込んでしまうが、今は見極める事ができないが、事態の決着は先にある。
必ず結末がある。先の事は神の御手の中にあり、神の時間表があり、あなたのために最善に導いておられる。
その神を見ているなら、どんな時も全き平安に歩める。

--------------
神を通して、目の前の事態を見ることが大切だ。
神を見て、状況を見るなら、御言葉に立てて、平安になる。
神無しで先を見るなら、不安と思い煩いの真っ暗闇だ。
明日も、ちょっと先さえわからない。
先はお委ねし、平安でいよう。


今日の聖人の記念日

2017年06月27日 06時03分51秒 | キリスト教

聖チリロ(アレキサンドリア)司教教会博士

?-444年

 エジプトのアレキサンドリアに生まれた。380年にアレキサンドリアの司教となり、412年には、総大司教となった。当時の異説や異教の間違いを論破するために多くの本を著わし、説教をした。特に、当時広まっていたネストリウスの異端に対する反論は、チリロの名を歴史に残すこととなった。ネストリウスは、マリアを神の母「テオトコス」でなく、人間キリストの母「クリストトコス」にすぎないとする異説を広めていた。そのため教皇は、ネストリウスを破門し、問題の解決をチリロに任せた。怒ったネストリウスは、皇帝に適正な判断をしてくれるように訴えた。この調停のために431年にエフェソ公会議が召集され、チリロは教皇代理として出席した。同会議で、ネストリウスの異説は破門され、聖母マリアは神の母であることが決議された。

 しかしチリロは、ネストリウスが皇帝にざんげんしたことによって逮捕され、投獄された。そして釈放された後も、ネストリウスの異端と戦った。チリロは、東ローマ教会の4人の教父の1人とされている。また、彼は「聖母マリアの神学博士」と呼ばれている。


◆しらがは光栄の冠

2017年06月27日 06時02分24秒 | 聖書

しらがは光栄の冠、
それは正義の道に見いだされる。   (箴言一六31)
日本の社会は、ものすごい勢いで老齢化していきます。国をあげて幸福に老いるというか、幸福な老人になることが課題ではないでしょうか。社会福祉も、もちろん大切です。しかし、私たち一人一人の生き方にかかわる根本問題として、このことをとらえなければなりません。
「しらがは光栄の冠」といえるような老い方が確かにあります。ところが、大方はどうでしょう。年をとると、力を失います。今まで自分の力でやり抜いたのができなくなります。今までの地位や権力の座をほかの人にゆずりわたし、今まで受けてきた尊敬や興味や関心を失ってしまいます。人の世話にならなければ、どうすることもできません。生きがいを見失い、豊かな平安もゆとりもなくなります。ただ食い気だけの生き物になりさがっていきます。失う、そして果てるのです。
しかし、栄光に満ちた老年もあります。それは、若い時から自分の肉の力や知恵で得て、つかんで、ためこんできたのでなく、神の知恵・神の力で生き、与え続け、仕え続けてきて迎えた老年です。そんな老年には、豊かに備えられたものがあります。
第一に、老年になっても生きる目的や生きがいを、神がいつでも与えてくださいます。第二に、神に与えられた生きる目的が分かると、老年で寝たきりになっても、人に喜ばれ神に仕える仕事が与えられるものです。第三に、神と人の愛を受け、満足することができます。第四に、最後に神の愛と輝きの胸のもとに帰る望みに満ちています。
今、あなたの心はどうでしょうか。神は見ておられます。輝かしい老年への道・正義の道を歩んでいるでしょうか。
 

◆ただ、

2017年06月27日 06時01分45秒 | 聖書
決して遠くへ行ってはならない。(出エジプト八・二八)
これは、暴君パロの口から発せられたずる賢いことばである。パロは、もしあわれな奴隷の境遇にあるイスラエル人が、エジプトから出て行かなければならないとすれば、あまり遠くへは行かせないようにしようと思った。すなわち、その武力の届かない所、そのスパイたちの目の及ばない所へは行かせまいとしたのである。同様に、世の人々は、私たちが旗色を鮮明にすることを好まず、もっと寛大であり、厳格すぎないようにと言うのである。
この世に対して死に、キリストと共に葬られることは、世の人に嘲笑される経験である。だから、この教えはすべて無視され、軽蔑さえされる。この世の知恵は妥協の道を勧め、何ごとも「ほどほどにせよ」と言う。この世の意見によれば、純潔であることは望ましいが、あまり厳しすぎてはならない。真実であることはもちろん良いことであるに違いないが、過ちを厳しく非難するのはいけないと言う。この世は言う。「信仰深いことはよいことだ。でもにぎやかな社交を拒んではいけない。時にはダンス・パーティーにも行き、クリスマスの時に劇場へ行くぐらいのことはさしつかえない。流行をけなしたり、世の人たちが皆していることに、声を大きくして反対して何になるのか」と。多くの信仰告白者は、このずる賢いことばにつり込まれて、永遠の滅亡に陥る。
もし私たちがすべてを打ち捨てて主に従いたいと思うならば、ただちに孤立の荒野に行き、肉の世のエジプトを後にしなければならない。この世の格言を捨て、この世の快楽、この世の宗教を捨て、主がそのきよめられた民を召された場所へ、遠く旅立たなければならない。町が火炎に包まれる時、私たちの家は町から遠く離れていればいるほどよい。疫病がはやる時、その地から遠く離れていればいるほどよい。毒蛇からは遠く離れていればいるほど安全である。そして世の俗習からは、離れていればいるほどよいのである。すべての真の信者に向かって、「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」とのラッパを吹き鳴らせ。
 

詩篇45篇6-9節

2017年06月27日 06時00分18秒 | 聖書


45:6 神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。
45:7 あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。


この45篇で語られている「王」とは、誰のことなのか。

「この方の王座は限りなく、その王国の杖は公正の杖。」と語り、それは限りなく、正義と義に富む永遠の王権である事を告げています。

詩歌もその王のことを語って、「神よ、あなたの神は喜びの油をあなたに注がれた。」とこのように語っています。

この王のことを神と呼び、またさらにその方に対して「あなたの神は」とこのように語っています。

つまり、この方は神であられ、また神であられるあなたと共に、神がおられると語っているのです。

このことを見ますと、ここで語られている王とは、神の子であられる救い主イエス・キリストのことであると知るのです。

そのことを知りますと、この方が、義と公平とに満ちていて、その結果として、父なる神があなたに喜びの油を注がれる、と言うことは、よく理解できるのです。



2列王記3章20節     

2017年06月27日 05時57分45秒 | 聖書


★朝になって、ささげ物をささげるころ、なんと、水がエドムのほうから流れて来て、この地は水で満たされた。

2列王記4章44節
★そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。


■O:今日のコラム
しゃろーむ!6月20日の朝です。今日1日も主の御言葉を求め、一つひとつ受け取った御言葉を実行していきましょう。主は恵み深いお方だからです。

主はエリシャさんを通して、主を求める者たちのあらゆる状況を良い物で満たされました。飢え乾きを満たし、水を満たし、油を満たし、パンを満たしました。いのちを与え、死人を生き返らせ、食べ物に入っていた毒を消しました。

イエス様は、いつもいのちに満ち溢れているお方です。天のお父さんと聖霊様と共に、この全世界を創造されたお方です。このお方が僕らにいのちを与えるためにこの地に来られました。あらゆる病を癒し、死人を生き返らせました。いのちに満ち溢れておられるお方が十字架に架かられ、血潮を流され、死を味わわれました。イエス様の十字架の血潮は、僕らに新しいいのちを与えます!いのちに満ち溢れているお方は、死を打ち破り復活されました。そして天に戻られ、イエス様を信じる者に助け主なる聖霊様を送ってくださいました。

僕らは主によって満ち溢れる者となりました!それだけでなく、主は僕らを通してこの地を祝福で満たしたいと願っておられます。そのためには、エリシャさんのうちに働かれた主が、今も僕らの内に働いていることを覚え、聖霊様を絶えず自分自身の内側に歓迎していきましょう。聖霊様に働いていただくために自分の力を手放し、主に委ねていきましょう。主は恵み深く、すべてを満たしてくださるお方です。




■A:考えてみよう
今日、それぞれ遣わされていく場所に祝福を解き放っていきましょう。
また、そのために、手放すべきもの、主に委ねるべきものが何かを考え、祈りましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。