座間コミニティー

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◆主は……

2017年06月01日 17時37分37秒 | 聖書
その荒野をエデンのようにし……。(イザヤ五一・三)
私は、寂しい荒野、サハラ砂漠のように巨大な恐ろしい砂漠の幻を見ているような気がする。私の目を引くものは何もなく、ただ乾ききった熱砂が広がっているのを見るだけである。そしてその砂上には、この無情な荒地に道を踏み迷ってもだえ死んだあわれな人々の無数の骨が散らばっている。なんと凄惨な光景であろう。なんと恐ろしいことであろう。果てしない砂の海、一つのオアシスもなく、世から捨てられた人々の慰めなき墓地である。
しかし、目を開け。そして驚け! その焼けつくような砂の中から一本の木が生え出たのである。そしてつぼみをつけ、花が開いた。それはばらであった。そのかたわらに、一本のゆりの花が品のある頭をたれていた。しかも、なんという奇蹟であろう。それらの花の香りが広がるにつれて、荒野は肥沃な土地と打って変わり、ここもかしこも花におおわれ、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光も現れた。そこはもはやサハラ砂漠ではなく、パラダイスである。もはやそこを死の陰の谷と呼んではならない。骸骨が白日の下に横たわっていた所には、見よ、復活が宣言され、死者は立ち上がり、その力強い腕は永遠のいのちに満たされたからである。イエスがその最初に生えた木であり、主の臨在によってすべてのものが新たにされた。
それにもまさってさらに驚くべきことは、人の個人的な救いである。愛する読者よ。私がはるかに見ると、あなたは一人の赤ん坊であり、着物も着ず、産湯も使わず、自分の血で汚れたまま、野獣の食になるのを待っていた。しかし見よ。一つの宝玉が神によってあなたの胸の中に投げ込まれた。そのためにあなたはあわれみを受け、神の摂理に守られ、自分の汚れを洗いきよめられ、天の家族の一員とされ、額には美しい愛の印が置かれ、頭には忠実の環が置かれた。あなたはかつて捨てられた孤児であった。しかし、今は神の王子である。おお、荒野を変えて園となし、荒れすさんだ心に喜びの歌を歌わせる無限の力と恵みとを、口をきわめて賛美せよ。
 

「主は主の御声に聞き従うことほどに、

2017年06月01日 17時36分44秒 | 聖書

全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか」(Ⅰサムエル15:22)

サウルはサムエルが着くまで、7日間待つように言われた。
サムエルがいけにえを献げるからと。7日間が過ぎたが、サムエルが来ない。
そして、民はサウルから離れて行こうとしている。
それを見て焦り、サウルは自分で全焼のいけにえを献げた。

そこにサムエルが到着し、サウルが主の命令を守らなかった事を告げた。
又、アマレクを打ちすべてのものを聖絶せよ、と命令を受けた時も、最も良いものを惜しみ、どうでもよいものだけを聖絶した。
そして、民が惜しんだのだと、民のせいにした。

サウルのこれらの問題は何なのか。
いけにえを献げる、献げない、すべてのものを聖絶する、しない、外側に出て来る行ないの問題以前に、御言葉にあるように「あなたが主のことばを退けた」「聞き従うことは、いけにえにまさり」彼の態度が、主に聞き従わないということだ。私たちはどうだろう。

この状況では、神はこう言うが、こっちの方が良い、この考えの方が良いと、自分の思いが強く、自分の思いで動いているだろうか。
大切なことは、どんな良い事をするかでなく、主の御声を聞いて、その御声に従うことだと言われる。今どうだろう。

御声をなおざりにして、無視して、自分の思いで進んでいるなら、立ち止まろう。
御声に従おう。喜びと、豊かな祝福はそこから来る。
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御声に謙遜に耳を傾けよう。高慢な思いがないだろうか。
外側や結果だけではなく神様はその心の動機を見ていて下さる。
御声を軽んじ自分自身を通して行く事は高慢だ。


今日の聖人の記念日

2017年06月01日 06時40分29秒 | キリスト教

聖ユスチノ殉教者

103年ごろ-165年ごろ

 ユスチノは、パレスチナのネアポリスに生まれた。若いころから哲学の勉強をし、ストア、ピタゴラス、プラトンなど多くの学派の研究を行った。その後、ある老人との出会いによって、聖書を読み祈ることを知り、30歳のときに洗礼を受けた。そして、キリストの教えを最高の哲学、最高の道徳として実践し、模範的な信仰生活をして、小アジアやギリシャの町を遊説した。

 時のローマ皇帝アントニーノのキリスト教徒迫害に際しても、公に信仰を宣言した。そして、彼の書いた護教書がローマの役人から嫌疑をかけられ、ユスチノは逮捕され殉教した。ユスチノによれば、「世界にあるすべての真理はただひとつの源泉、キリストから出ている。キリスト教は、永遠の真理そのものであり、すべての哲学や学問の完成である」。彼は、キリスト教徒最初の偉大な哲学者といわれる。


◆他人のいのちを救う人

2017年06月01日 06時39分27秒 | 聖書

誠実な証人は人のいのちを救い出す。
欺く者はまやかしを吹聴する。    (箴言一四25)
あなたは、あなたのひとことが他人を生かしもし、殺しもする重いものであることを、考えたことがありますか。
死刑を宣告されていながら無実を訴え、むずかしい再審請求を受け入れられ、無罪になった人が、一九七九年に三人もありました。米谷事件という事件では、刑の判決の後に服役してから、真犯人が「私がやりました」と申し出て、米谷さんは無罪になりました。こんな短いひとことが人を救ったのです。裁判事件などは、私たちにとっては、身近ではないかもしれません。しかし、何気なく吐き出されたひとことが、どんなに人の心にぐさっと刃をさしこむかは、想像以上です。また、たったひとことが、人を慰め励まし立たせ生かします。母親の愛と真実のこもったひとことを、ダイヤモンドのように心に秘めている人もありましょう。しかし、面白半分に何気なく無責任に口から出された、愛のない思いやりのないひとことのせいで、一生傷つき悩み、うらんでいる人もいるのです。
ごく親しい人に私は誤解されて、尊敬する先輩の先生に告げ口をされたことがあります。しかしその先生が、私にこう言ってくれました。「君はそんな人間ではないよ。たとえそうだったとしても、私は変わらない。」このひとことに、どんなに助けられたか分かりません。
ある高校生は、一流大学をパスしてから、自殺しました。「母さん。これでいいんだろう」、こういう遺書を残してでした。母親のエゴイズムの虚栄のことばが、この有為の青年を死に追いやったのかもしれません。
イエス・キリストの無言のことばが、今日も世界中の多くの人を救い、生かし励ましているのです。イエス・キリストこそ、誠実な神の愛の証人だったのです。
 

◆こうして夕があり、

2017年06月01日 06時38分42秒 | 聖書
朝があった。第一日。(創世一・五)
初めからこんなことがあったのか。最初の日に光とやみが時を分割したのか。それなら、私の環境が変化し、繁栄の昼間から逆境の真夜中に移ったとしても、驚くにはあたらない。私のたましいについても、常に真昼の光があるとは限らない。時には、以前の喜びが失われたことを嘆き、夜の暗やみの中で、愛する方を求めなければならないこともある。私だけがそうだというのではない。すべての主に愛されている者は、だれもさばきとあわれみ、試練と救い、嘆きと喜びの交じった歌を歌わなければならないからである。私たちが「そこには夜がない」と記されている国に着くまで、精神においても自然においても、昼と夜のやむ時がないのは、神の摂理の一部である。私たちの天の父が定めておられることは、賢く、またよいものである。
私のたましいよ。それなら、どのようにするのがあなたにとって最善であるのか。まず、神の定められた秩序に満足することを学び、ヨブのように、主の御手より来るものは、よいものも悪いものも喜んで受けよ。次に、朝と夕の移り変わりを喜べるように努めよ。喜びの太陽の昇る時も、夕暮れのゆううつが迫る時も、主を賛美せよ。日の出にも日没にも美しさがある。その美しさを歌い、主をあがめよ。うぐいすのごとく常に歌え。
夜も昼も共に必要であることを信ぜよ。悲しみの夜にこそ、恵みの露は豊かに下りる。嘆きの闇の中でこそ、約束の星は明るく輝く。
どのような変化にもめげず、あなたのわざを続けよ。もし昼間のあなたの標語が「働け」であるならば、夜はそれを「見張れ」に変えよ。あらゆる時に、それぞれなすべきことがある。主が突然栄光のうちに現れてくださるまで、主のしもべとして召されたあなたの仕事を続けよ。
私のたましいよ。おまえの老境と死の夕べが近づいている。しかし恐れてはいけない。それは日の一部であり、「主はいつまでも彼をかばう」と記されているからである。
 

詩篇40篇1-3節

2017年06月01日 06時37分25秒 | 聖書


40:1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、
40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。


ダビデは心の内から主が助けを与え、導きを与えて下さることを祈り求めました。

その時、主はこのダビデの祈りと願いを聞き、彼の叫びに耳を傾け、その願いをお聞き下さいました。

その結果、ダビデは滅びの穴から、また泥沼から引き上げられましたと、語っています。

今までは苦しみと、その結果として不安と暗黒の中にあって、希望のない人生でしたが、主が祈りをお聞き下さったことによって、彼の人生の歩みに力が与えられ、望みが与えられて、堅固なものとされたのです。

主が共にいて下さる時、またそのことが覚えられる時、私たちの人生は、どんなつらいことや嫌なことがやってきても、そこには平安と希望がわいてきます。

主にある者にとっては、主が共にいて下さることが、最も幸いなことです。

主が日々、私に鷲のような力を与えてくださるのです。



Iコリント2章9節

2017年06月01日 06時34分25秒 | 聖書


★まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

■O:今日のコラム
以前、職場の上司に福音を語る機会が与えられました。しかし、語り終えた後に上司から「それ、本気で信じてるの?」という思ってもいなかった言葉が返ってきました。

「それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(Iコリント1:21)

聖書を見ると、この愚かだと思われる宣教のことばは神様の御心だという事が分かります。それは人が自分の知恵によって神様を知る事がない為であり、この福音は神様の知恵であり奥義なのです。ですから、主の方法で福音を語る時に愚かだと思われるかもしれません。しかし、神様の方法に従うならば、私たちは決して失望させられる事はありません。例え愚かだと思われても、御言葉に従う事ゆえに主の喜びが与えられるのです。

そして、今日の御言葉にあるように、主を愛する者の為に備えられているものは決して小さくありません。今は見えないかもしれません。聞こえないかもしれません。しかし、天での永遠の報いは私たちには計り知れない程のものなのです。

今日の御言葉は、神様を愛する者に主が与えたいと備えておられる事です。主を愛することは神様が私たちに何よりも求めておられる事です。時が良くても悪くてもイエス様と共に歩み続ける事ができるのは何と幸いなことでしょう。

伝道者の書に書かれているように、三つ撚りの糸は簡単に切れないという御言葉は夫婦関係と共に、私たちとイエス様との関係においても言える事だと思います。私たちがイエス様の愛を知り信頼する時に、どのような状況に置かれても主のご計画を疑わずに、迷わずに主と共に歩み続ける事ができるのです。

福音の土台はイエス様の愛です。この愛に信頼し歩んでいくならば、今朝の御言葉が私たちの人生に必ず成就されます。神様が私たちを愛してくださっているので、何も失望せずに目の前にある事に感謝して今日一日を過ごしていきましょう。

■A:考えてみよう
主を愛する者の為に備えられているものはとても大きいです。しかし、まず私たちの内には神様を愛する心があるでしょうか。私たちは日曜日の礼拝だけではなく、日々置かれている場所でもイエス様の愛を知り体験する事ができます。主は求める者に豊かに与えてくださるお方です。
今日の聖書箇所とエペソ3:14~19を宣言し、今朝もう一度イエス様の愛を求める時を持ちましょう。

■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


5月31日(水)のつぶやき

2017年06月01日 01時25分20秒 | キリスト教