座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆私が呼んでも、

2014年03月29日 15時36分02秒 | 聖書

答えはありませんでした。(雅歌五・六)

嘆願をする者が門で待つように、祈りも時には答えのないことがある。しかし、主はついに出て来られて、その求める祝福を満たしてくださる。主は大いなる信仰を与える時、長く待たせることによって試みられる。しもべたちの声を、銅を張った空にこだまさせるように、むなしく彼らの耳にこだまさせられる。彼らは金の門をたたく。しかし、門は微動だにしない。彼らはエレミヤのように、「あなたは雲を身にまとい、私たちの祈りをさえぎりました」と叫ぶ。このように、真の聖徒は長い間答えを待ちながら、忍耐強く祈り続ける。それは彼らの祈りが熱烈でないためでも、それらが受け入れられていないためでもない。主権者であり、みこころのままに与えることをなさる神が、そのような祈りをこの上なく喜ばれるからである。
私たちの忍耐を働かすように命ずるのを主が喜ばれるなら、主はご自分の民に対して望まれるままにされないであろうか。しかし私たちは、答えが長びくのを、祈りが拒まれたのだと判断することのないようにしなければならない。神の長期手形は期日になれば、必ず支払われる。私たちはサタンが答えられぬ祈りを指して、まことの神に対する私たちの信頼を動揺させようとするのを許してはならない。祈りが答えられないのは、祈りが届いていないためではない。神は私たちの祈りを記録しておられる。私たちの祈りは風に吹き飛ばされるのではなく、王の記録保管所のうちに大切に保管されている。
試練の中にある信者よ。あなたの主は涙のつぼを持たれ、聖い尊い悲しみの涙を保存しておられる。またノートを備えて、あなたの聖いうめきを数えておられる。やがてあなたの訴えは聞かれ、あなたは勝利を得るであろう。だから、しばしの間忍耐をすべきではないだろうか。主の時はあなたの時よりすぐれてはいないか。やがて主はいつくしみの顔を見せて、あなたのたましいの喜びとなり、あなたの長い忍耐の荒布と亜麻布とをしまわせ、希望が成就したというしるしの紅の衣を着せられるであろう。

 


「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」エペソ4:3

2014年03月29日 15時34分25秒 | 聖書

この世の会社組織やサークル、運動チーム等、一致のためにあらゆる努力をする。
しかし、教会は違う。一致を造り出すのではない。
信じた一人一人には御霊が注がれていて、その御霊により一致が与えられている。
すでにある一致を保てとの命令だ。
それを妨げるのが肉だ。自己中心、自分の思いを主張するなら、分裂だ。
各々の「自分が一番正しい」が砕かれて行く時、誰もが御霊の一致に導かれて行く。
フィラデルフィヤの教会で、兄弟愛が保たれていたのは、主の御言葉を重んじたからだ。
「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り」 教会が御言葉を土台とし、第一とする時、教会は愛と喜びと力があった。
皆が自分の思いでなく、御言葉に立ち、御言葉に従う時、一致が保たれて行く。
自分の肉の思いか、御霊の思いか、常によく心照らされよう。
---------------
御霊の一致があるから一人一人が平安に集える。
皆が御言葉によって自立しているから自由に仕えあって行ける。
喜びがないなら、心の内をよ吟味してみよう。


◆怠 惰 と 勤 勉

2014年03月29日 07時57分35秒 | 聖書

無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ます。     (箴言一〇4)

無精者が寄り集まって相談しました。「おい、みんなで無精会ってのつくろうか。」「よせよ。面倒くさい。」こんな無精者が目立って落語の材料になるくらい、日本人は勤勉ではないでしょうか。私たちが自分は無精だと思っていても、外国人から見ると日本人は勤勉で働きすぎると言われています。
「わたしゃ、このマージャンをやるために、昼間は会社で働いているんですよ」という人にも会いました。これもどうかと思います。けれども一般に、日本人の勤勉はただがむしゃらに勤勉のための勤勉となっていませんか。つまり、ほんとうに生きがいを感じ、使命感に躍動しつつ、喜んで一生懸命働いているのかというと、そうではないらしいのです。
厚生省の統計情報部がまとめた一九七八年の数字によると、働き盛りの四十代五十代の人の自殺率が、もはや二十代の自殺率を追い抜いています。今まで日本では、老人の自殺に次いで二十代の自殺が多く、働き盛りは少ないといわれていたのに、ショッキングです。「悩み多き四十代」と新聞には見出しが出ていましたが、人生の目的がはっきりしていなければ、働く喜びも生きがいもあるはずはありません。
ある牧師はこう言いました。「こんにゃくだって、一本くしを通せばシャンとする。日本人に必要なのは、精神的バックボーンである。」神を知り愛を知り、神のため人のために汗を流し涙を流すという一本筋の通った勤勉な人生は、豊かな人生を生み出すのです。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ一〇10)。

 


◆キリストは御子であられるのに、

2014年03月29日 07時56分43秒 | 聖書

お受けになった多くの苦しみによって従順を学び……。(ヘブル五・八)

私たちの救い主イエスでさえ、苦難によって完全になられたと言われている。したがって、完全にほど遠く、罪深い私たちが、苦難を通るように命ぜられたとしても驚いてはならない。かしらである方がいばらの冠をかぶらせられたのに、そのからだの肢体が安逸をむさぼっていてよいのだろうか。キリストがご自身の血の海を渡って冠を得られたのに、私たちは銀のスリッパをはいて、足をぬらさずに天国へ歩いて行くのだろうか。否! 主のご経験は、私たちに苦難が必要であることを教え、真に新生した神の子どもがそれを逃れたり、逃れようと欲してはならないことを教える。
しかしキリストが「苦しみによって従順を学び、完全な者とされた」との事実の中に、一つの非常に慰めとなる思想がある。それは、主が私たちに対して全き同情をもたれるということである。このキリストの同情が私たちを支える力となる。昔、ある殉教者はこう言った。「私はこの苦難のすべてに耐えることができる。それはイエスが苦しまれたからであり、今も私の中にあって苦しんでおられるからである。主は私に同情してくださる。それで私は心強い」と。主にある友よ。苦しみの時いつもこのことばを思い出せ。
あなたが主の足跡に従う時、主を思い、自らの心を引き立てよ。主のご同情の中に麗しい心の支えを見いだせ。そして苦しみは名誉であり、キリストのための苦しみは栄光であることを深く覚えよ。使徒たちは、御名のために辱しめられるに値する者とされたことを喜んだ。キリストのために苦しみ、キリストと共に苦しむ恵みを与えられるのに応じて、主は私たちに栄誉をも与えられる。クリスチャンの宝石はその苦難である。神の油注がれた王たちの位を証明するものは、彼らの困難と苦悩と悲哀である。だから、この名誉が与えられる時にそれを避けず、抜擢されるのに顔を背けることのないようにしようではないか。悲しみは私たちを高め、困難は私たちを引き上げる。「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」

 


第1サムエル記13章8-14節

2014年03月29日 07時54分52秒 | 聖書

13:11 サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。」


 サムエルは、サウルのいるギルガルにくると約束していました。

サムエルが来るということは、彼は祭司ですので、彼が主に犠牲を献げて主を礼拝し、また民のために執り成しをしてくれるということでした。

 ところが、約束の7日が経っても、彼はまだ来ませんでした。

そして、そのようなことをしている内に、民自身も次第に恐れを深めて、陣地から逃げ去る者が増えていくようになりました。

そこで焦ったサウルは、自ら祭司の務めを果たすために、全焼の生け贄を準備させ、しかもそれを、自分で献げてしまいました。

 彼が生け贄を献げ終わった時、サムエルが来ました。

サウルは、サムエルを待てなかったのでした。

サウルは神の怒りを買って、王国は立たないと告げられました。

神と、神の約束に信頼すべきであったことを告げられたのです。


使徒6章3、5、7、8節 (レビ記6章)

2014年03月29日 07時52分17秒 | 聖書

 ★3  そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

★5  この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、

★7  こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。?

★8  さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。?
■O:今日のコラム

私は今回、マナメールを準備するに当たって、この執事たちについて書かれた描写を見ていた時、「~に満ちた」という表現が心に留まりました。彼らは何に満ちていたのでしょう?

1  <御霊と知恵に満ち、評判がよかった>

私の知り合いに、一度は聖霊のバプテスマを受け、神様から異言をいただいたのに、その後、異言で祈ることをやめてしまった人がいます。理由を聞いたところ、「教会にいた異言でいっぱい祈る人たちが、他の人たちに対して失礼だった上、怠慢で自分の仕事もちゃんとしていなかった。」という返事でした。

この方には、人を見ないで、聖書を読んで、聖書に書いてあることだから、素晴らしい賜物だから、つまずかないで、異言で祈り続けましょう、と言って励ましました。すると「そうですね。確かに聖書にあるから、私ももう一度求めてみます。」と言ってくださいました。

それにしても、御霊と知恵、そして愛に満たされて、やかましいどらやシンバルにならないで、神様の臨在と力、知恵と愛を解き放つ者になりたいですね。

2  <信仰と聖霊とに満ちた>

「信仰に満ちた」というフレーズがとても強く心に残りました。「信仰に満ちた」とは、英語でfaithful [フェイスフル]【忠実な】という単語ですが、これは、とても素晴らしい言葉だと思います。

ここで、使徒たちの助け手、教会の奉仕者として選ばれた人たちは、「忠実」な人だったのです。

モーセも、ダビデも、自分が主から任された責任に対して忠実でした。
忠実になるためには、信仰が必要です。

イスラエルの民を約束の地に導くように、と使命を受けたモーセ。

「目の前に紅海があったので、この仕事は全うできませんでした。」「荒野で水も食糧もなくなったので、民を養うことはできませんでした。」と、この責任を投げ出すこともできたでしょう。

ダビデにしても、「あなたに任されて羊を飼っていましたが、ライオンが出て来たので、無理でした。」「熊が出来てきたので、仕方なく、羊を放置して逃げました。」と言うこともできたでしょう。

しかし、モーセは、主に紅海を分けていただき、荒野で水を湧き上がらせ、マナを降らせていただきました。ダビデも、少年でありながら、ライオンや熊を倒す勇気と力と技術を与えていただきました。

任された仕事を忠実にやり遂げるためには、主の助け、備え、導き、知恵、力を受け取る信仰が必要です。そして、主からの恵みを受けて、任された責任を忠実に果たして行くなら、主に信頼され、主が必要としておられる奉仕者となっていくことができると信じます。

3  <恵みと力とに満ちた>

今回、2の「信仰」と、並んで、この「恵み」という言葉が、非常に印象深く心に残りました。

「恵み」という言葉は、原語のギリシャ語で「カリス」ですが、(神様からの)恩恵、好意、親切、また、感謝、楽しみ、というような意味があります。

一方、「力」は、ギリシャ語の「デュナミス」。驚くべきわざ、力、能力。

ここ数年、私のまわりに、命がけで主を求める人たち、主の御顔を慕い求める人たち、他の何にもまさって、主との親しい交わり、主の臨在を愛するクレージーな(笑)人たちが増えて来ました。

この人たちは、命がけなのに、喜びに満ちている。

食べ物を、睡眠を、自分の時間を犠牲にしているのに、喜びと平安に満ちている。そして、神様からの好意、祝福、喜び、楽しみに追いかけられている。徐々にかもしれないけど、救いや解放、いやし、問題解決、聖霊のバプテスマ、主の御業が伴っている。

自分の地位や、名誉や、名声より、富や快楽より、主御自身のそばにいることを切に慕い求めたダビデのように、私たちも主を追い求め、聖霊と信仰に満ちた者、主の恵みと力に満ちた者とされていきましょう!

■A:考えてみよう

私は、信仰に満ちた、忠実な者だろうか? まわりの人や主に信頼されているだろうか?

私は、主の喜び、平安に満ちているだろうか? 主からの好意、祝福、楽しみ、喜びに追いかけられているだろうか? 主の御業は起こっているだろうか?

私は主御自身を、何よりも切に追い求めているだろうか?

■P:祈り

主よ、私の心をとらえてください。あなたの臨在で私の心を満たし、他の何にもまさって、あなた御自身を、切に追い求めるように、導いてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。