座間コミニティー

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◆女から生まれた人間は、日が短く、

2014年03月10日 16時06分23秒 | 聖書

心がかき乱されることでいっぱいです。(ヨブ一四・一)

今夜眠りにつく前に、この悲しむべき事実を思い起こすことは、私たちにとって益となろう。なぜなら、それは私たちをこの世のことから解き放つからである。私たちが逆境にあることを思うのは、楽しいことではない。しかしそれは私たちをへりくだらせ、今朝の聖句の詩篇作者のように、「私の山は堅く立つ。私は決してゆるがされない」と叫んで誇ることをさせず、また私たちをこの地上に恋々とさせることもしない。私たちは、ほどなくこの地上から天の花園に移される。私たちは、自分が弱い器であり、器の中に一時的な恵みを盛っているにすぎないことを思い起こそう。
もし、この地上の木がすべてきこりの斧にねらわれていることを思うなら、やすやすとその上に巣を作ろうとはしないであろう。私たちはこの地上の人々を愛さなければならない。しかし、それは死を前提とし、死刑を予想しての愛である。私たちの親しい家族も、天来の預かりものにすぎない。預け主に返すべき時は、目前に迫っているかもしれない。私たちの地上の財産についても、これと同様である。富は翼を生じて飛び去るのではなかろうか。私たちの健康もまた不安定なものである。かよわい野の花が永遠に咲くと思ってはならない。私たちは弱くなる時も、また病に伏す時もある。その時、熱心に活動することではなく、苦しむことによって神の栄光をたたえなければならない。
私たちの人生は短いが、悲しみから守られている日は一日としてない。人の一生は、苦い酒を満たしたたるである。その中に喜びを訪ねようとする者は、むしろ塩辛い大洋の中に蜜を探したほうがよい。愛する友よ。あなたの愛情を地のものにつながず、上にあるものを求めよ。なぜなら、この地上では虫が食い、盗人らが押し入って、盗み出すが、天上ではすべての喜びが永遠に続くからである。
私たちの歩む苦難の道は、私たちの故郷である天国へ帰る道である。主よ。この思いを、多くの疲れた人々の頭を支える枕としてください。

 


「主のみこころなら、私たちは生きていて、

2014年03月10日 16時05分08秒 | 聖書

このことを、または、あのことをしよう」(ヤコブ4:15)

計画を立てるのは御心でないのではないか、神の計画はすでに定まっているから、自分の思いで計画を立ててはいけないと思っている人がいる。
しかし、それは誤解だ。自分勝手にではなく、神と相談し、計画を立てるのは御心にかなった事だ。
神無しの計画が無意味なのだ。
なぜなら、あす、~しようと言っても、あすの事はわからない。
命とはどのようなもので、誰の手の中にあるのか。
神無しの人生設計は人間の高ぶりだ。
私達の命は消えてしまう霧のようだ。
神を閉め出し、自己中心に生きる人生、自分の楽しみだけを追い求める人生は虚しい。
神中心に生きる時、人は初めて真の満足を得る。
平安と喜びと生きがいを見い出す。
神無しの人生は結局無駄な人生に終わってしまう。
神の御心を求めて歩む歩みは、平坦な道ではなく、決して自分の思い通りではないが、後悔の無い真の実りある人生だ。
神が共におられるので、そこに喜びと安らぎが伴う。
神は最高の相談相手だ。
どの道を進むべきか、どの選択をすべきか、どう判断すればよいのか、神に相談するなら、御心を示して下さる。
今、歩みに不安があれば立ち止まって神に相談しよう。
ストップがかかればその事は止めよう。
そのまま行っても祝福はない。
今から始める事があれば、神に相談し確認して始めよう。
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人の生き死には、神に握られている。
へりくだるべきだ。人間中心に考えるとわからない。
心の軸を人間中心から神中心に移す時、神の御心が見えて来る。
「神は」どう思われ、何を喜ばれるのか、視点を「神は」に移そう。



◆高ぶりは主に憎まれる

2014年03月10日 06時46分51秒 | 聖書

主を恐れることは悪を憎むことである。
わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、
ねじれたことばを憎む。        (箴言八13)

ここにも、神のおきらいになるもののリストが出ています。高ぶり・おごり・悪の道・ねじれたことばです。きょうは、高ぶりについて考えてみましょう。
ある会社の係長さんは仕事熱心で働き者、よく気がつき部下の面倒見もいいのですが、もう一つぱっとしないのです。みんながその係長さんのそばに寄っていかず、親しもうとしません。係長さんがあれこれいいアイデアを出しても、そっぽを向いて、いつの間にかほうむってしまいます。どうしてでしょうか。どうも、その係長さんの心の底に高ぶりがあるためのようです。
高ぶり・高慢は、じわりじわりと人間関係を壊し、人生に孤独とつまずきをもたらすものです。いったいこの高ぶりの本質は何なのでしょう。
それは、一人一人の魂や人格の値打ちが分からず、人をその外見上の実力とか能力でしか見ないことが原因ではないでしょうか。人の心の底にある尊いものを見ようとせず、評価しようとしません。人を軽く見てしまい、あいつはあれぐらいと分かったつもりになってしまいます。ここからにじみ出てくるものが高ぶりではないかと思うのです。
高ぶりは自分の知恵・自分の物差し・自分の直感をふりまわして、最後に心の底で「神なんかいない」と判断をくだします。これがどんなに不幸なことであるかは、人生の終点にまで来ないと、あるいは分からないのかもしれません。人間の不幸の底にあるこの軽はずみな判断や無意識的な読みこみは、全く恐ろしいと思います。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言一六18)と、聖書は語ります。

 


◆私が栄えたときに、私はこう言った。

2014年03月10日 06時45分49秒 | 聖書

「私は決してゆるがされない。」(詩篇三〇・六)

「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。」
仮にある人に富を与えたとする。彼の船によって絶えず高価な品物を家に運ばせ、風と波に海を越えて船を進めるための召使とならせ、地に産物を豊かに生ぜしめ、気候をもそのために従わせよ。その計画をことごとく成功させ、人々の間に成功した商人として立たせよ。また、彼を常に健康にし、世より一歩先んずる眼識と集中力を有する幸運な人として幸福に生活させ、絶えず気楽に鼻歌を歌わせ、常に目に喜びの光を輝かしめよ。その結果、この人を安楽な状態に置き、しかも、地上に生きた中で最もすばらしいクリスチャンとせよ。――こういうことは単なる仮定にすぎない。ダビデは「私は決してゆるがされない」と言ったが、私たちはダビデにまさるものでなく、その半ばにも及ばない。
主にある友よ。平たんな道を歩んでいる時には警戒し、険しい道を歩んでいるならば神に感謝せよ。もし神が私たちを常に繁栄の揺りかごにはぐくみ、幸運のひざであやし、そのために高級な白い石膏の柱には一点のしみもなく、空には一片の雲もなく、人生の辛酸をなめることもしないならば、私たちは「このように立っている」と世の歓楽にふけるだろう。しかし私たちは断崖に立っている。マストの上で眠っている人間のように、いつ墜落するかわからない。
私たちは患難に会う時、神を賛美する。人生の変化を神に感謝する。財産を失ったことに対して神の御名をあがめる。もし神が私たちを懲らしめられないならば、たちまち私たちは有頂天になるからである。世間的に栄えることは、恐るべき試みである。
 患難は時には苛酷に見えるかもしれない
 しかし、それはあわれみによって
 与えられたものだ

 


第1サムエル記9章1-2節

2014年03月10日 06時44分31秒 | 聖書

9:2 キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。


 ベミヤミンの部族でキシュという人に、一人の息子がいました。

その名をサウルといいました。

彼はどのような人物であったかということが語られています。

 彼は美しい若い男でした。

若いということは、すばらしいことです。

しかも、彼は多くの人々の中で、彼ほどに美しい人はいなかったと言われています。

通常美しいというのは、女性に用いられています。

しかし、サウルは美しかったというのです。

これは男性として美しかったということで、いわば現代の言葉で言いますと、男らしくて惚れ惚れとした人物であったということでしょう。

筋肉もあり、また決断力もあるたくましい感じのする青年であったというのです。

そのあり方は、彼が民の誰よりも背が高かったということに現れています。

主がこうした人物をたてられたのは、民が持ちそうな評価をここで代弁させているのです。

主は本来、心を見られる方だからです。



出エジプト記14章18、21、22節(同13章)

2014年03月10日 06時42分06秒 | 聖書

★  パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」

そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

■O:今日のコラム

出エジプトしているイスラエルにとって、パロの軍隊は大きな問題でした。
しかし、その問題を通して、主は栄光を現されます。その問題があるがゆえに、主の事をもっと知ることが出来るのです。

私たちにも多くの問題があると思います。問題のない人は存在しません。
しかし、がっかりしないでください。その問題を通して主は、栄光を現され、私達は、主の事をもっと知ることが出来るのですから。

病いがなくては癒やし主を知ることが無いように、闇がなければ光なる主を知ることが無いように、戦い、問題がなければ勝利の主を知ることがないのです。

よく試練、問題は自分をレベルアップさせるといいます。確かにそれはあります。

しかし、どこまでレベルアップしてもレベルアップ自体に終わりはなく、それ自体が目的になると虚しいものです。

主をもっと知ることができる事は、私たちの心を燃やし続けます。聖書は、主を知ることこそ永遠の命であると言っていますから。

だから、いのちにあふれる歩みは、主を知っていく歩みです。それは、勝利者の歩みでもあります。勝利者にとっては、問題も主を知る機会。喜べますね。

愛する方をもっと知りたい。その情熱に終わりはありません。

その歩みの極みとも言える歩みが真っ二つに分かれた海を歩いた出来事です。
「モーセが上に手を差し伸ばすと」とは御言葉の宣言であるといえます。

なぜならモーセが上げたのは片手であり、15節には、『なぜ私に向かって叫ぶのか。あなたは杖を上げ、手を海の上に差し伸ばしなさい』とあるからです。

祈りと解釈もできますし、祈りも必要です。
しかし、いざ問題の前にあって、宣言は勝利をもたらすのです。

敵に囲まれてしまったような状況でも、『主が私の味方であるなら、誰が敵対できるでしょう』と宣言することは、勝利をもたらしていきます。

その中で、強い東風が吹きます。それは聖霊の風です。
風も息も霊もヘブル語では、『プニュ-マ』です。それが敵を退かせます。

海は、ここでやはり問題であり、海は黙示録では、大群衆を指しています。

かわいた地とある言葉は、ヘブル語でヤバッシャでありその語源はヤバッシュであり、侮辱されるという意味があります。

それは、右にも左にもそそり立つ壁の水の様に群衆に囲まれながら、その群衆から侮辱を受けながら、その真ん中を侮辱を受けながら歩む事を意味します。

勝利者のイメージからは程遠く見えるでしょうが、これこそ勝利者の中の勝利者の歩みです。なぜならこれはイエス様の十字架の歩みじゃないですか! この歩みはイエス様を知ることにおいても最高の歩みです。

■A:考えてみよう

問題を恐れない。問題によって主の栄光が現されると信じる。

問題によって主を知ることを求める。問題によってイエス様ともっと一つになれると信じる。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。