座間コミニティー

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◆わたしにとどまりなさい。

2014年03月09日 15時33分40秒 | 聖書

(ヨハネ一五・四)

主との交わりは、一切の悪からの確実ないやしを与える。それが、わざわいの苦よもぎであろうと、地上的な喜びの飽満であろうと、主イエスとの親密な交わりは前者から苦みを取り、後者からは飽満を取り去る。
友よ。イエスに近く住め。そうすればあなたの住む所が、名誉の山であろうが、屈辱の谷であろうが、二義的なものになる。イエスの近くに住むなら、あなたは神の御翼におおわれ、あなたの下には永遠の腕がある。あなたの聖なる交わりを何ものにも妨げさせてはならない。それは、愛する御子に結合されたたましいの特権である。時々主をかいま見るだけで満足せず、常に主と共にあることを求めよ。主の御前においてのみ、あなたは安息を得ることができるからである。
イエスが私たちにとって、たまたま訪れる友であってはならない。主は、私たちが常に共に歩むお方でなければならない。あなたは火の燃えさかる炉の中を通らなければならない。その時、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように神が共に行かれるのでなければ、炉の中に入ってはならない。あなたは、あなた自身の腐敗のエリコを陥落させなければならない。その時、ヨシュアのように、主の軍の将が、抜き身の剣を手に持って立っているのを見るまでは、戦いを始めてはならない。あなたは、多くの誘惑というエサウに会わなければならない。その時、ヤボクの渡しにおいて天使を引き止め、そして勝つまでは、エサウに会ってはならない。
あらゆる場合に、またあらゆる境遇において、あなたはイエスを必要とする。そして、死の鉄の門があなたに向かって開かれる時に、特に主を必要とする。あなたのたましいの夫に近く身を置き、あなたの頭を主の胸にもたせかけ、主の香ばしいざくろの果汁によって力づけられることを求めよ。あなたは最期に臨んでも、主によって、しみや、しわや、そのようなものの何一つない状態で見いだされるであろう。
あなたは主と共に生きていた。そして今、主と共に生きている。ゆえに、永遠に主と共にあるだろう。

 


「なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、

2014年03月09日 15時32分33秒 | 聖書

ひとりもいないからです」(ガラテヤ2:16)

プライドは、救い、又、霊的成長のために大きく私達をはばむ。
御言葉は、人は救いのために何一つ出来ない。
罪ある者として主のもとに来て、十字架の贖いに拠り頼まなければならない、と言う。
これを人間のプライドは受け入れられない。
自分の一切が否定されてしまうからだ。
まず、罪人などと受け入れ難い。
認める事はプライドが許さない。
プライドゆえに救いを受け取らない人は多い。
この世は性善説だ。
人間は本来善であり環境が悪い、その環境を何とかして善いところを伸ばして行けば、神のようになれると考える。
人々は良い人間になろう、自分を高めようと懸命に努力する。
しかし、その努力は神に受け入れられない。
そんな培われた古い価値観が根深くあり、恵みによって救われた私達も、恵みは救いまでで、その後は律法を行おうと自力で懸命に努力する。
私達にも根深いプライドがあるのだ。
罪は認めるが、ひとかどの人間だと思っている。
人よりもましだと。どうしようもない罪人だとは惨めで思いたくない。
又、自分の頑張りを評価されたい。
しかし、このプライドを捨て、神に頼る事が救いだ。
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朝毎に無力な自分を認め、祈りをもって御言葉に頼り歩みだそう。
自我は隙あらばむくむくと顔を出す。
知らぬ間に孤軍奮闘の泥沼に落ち込まぬよう、イエスさまに頼ろう。。



◆銀より尊い知恵

2014年03月09日 06時59分39秒 | 聖書

銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。
えり抜きの黄金よりも知識を。
知恵は真珠にまさり、
どんな喜びも、これには比べられないからだ。(箴言八10―11)

若いお母さんが小さな幼子の手を引いて歩いています。そのかわいい女の子は時々立ち止まっては、「ねえ、ママ見て。お花よ。きれいきれい」と花大根の紫の花に顔を近づけては叫びます。でも、若いお母さんは邪険にその子の手を引っ張っていきます。しばらくすると、また女の子は地べたにしゃがみこんで言います。「ママ、ほら見て。蟻んこよ。重いお荷物を運んでるよ。」そのお母さんはまた生返事をして、その子を引っ張って歩かせます。
こんな情景を何回も見たような気がします。そんな時、そのお母さんの頭の中に何があるのかなあと思ってみました。今晩のおかずのこと、それとも、今月はまた赤字かしらとお金のこと、あるいは、ご主人としたけんかが気になっているのでしょうか。
私は、大人になっても、子どものようにひたむきに、驚きの目で見つめる心を失いたくないと思います。
えり抜きの黄金よりも白金よりも、どんなに大きなダイヤや真珠よりもすばらしいものが、この世にあります。神、そしてその愛です。驚きの心で、それを見いだし受け止めたいものです。試練や苦難を受ける時も、あの人が悪い、この人がいけないのだなどと考えず、神がこらしめの中からなお語りかける愛の声に、あっと驚く心を持ちましょう。
福井県のF君は、やっと十八歳になった時思わぬ事故に会って、下半身完全麻痺になってしまいました。この悲しい事実の中で、彼のために十字架の上で血を流された神の愛の声をひたむきに聞きました。今F君は驚くほど豊かに生きて、人に喜ばれる奉仕の仕事をしています。
「愛は死のように強く、……大水もその愛を消すことができません」(雅歌八6―7)。

 


◆あの方のすべてがいとしい。

2014年03月09日 06時58分30秒 | 聖書

(雅歌五・一六)

イエスのたぐいない美しさは強く人を引きつける。賛嘆させるというよりはむしろ、愛着を起こさせると言ったほうが近い。快いとか美しいとかいう以上に、愛らしくあられる。たしかに冒頭の聖句は、神の民に適したものである。それは、イエスが彼らの熱愛の対象であり、その愛が主のご人格の本質的な気高さとその全き魅力に基づいているからである。
イエスの弟子たちよ。主のくちびるを見て、「これこそ最も甘美なるもの!」と言え。主が道であなたに語られる時、あなたの心はうちに燃えないであろうか。インマヌエルを拝する者よ。その黄金の頭を仰げ。その御思いはあなたにとって尊いものではないか。レバノンの杉の木のような気高い主の御顔の前にあなたが謙虚にぬかずく時、あなたのささげる礼拝には愛慕の情が伴っていないだろうか。主の顔だちには魅力があり、その全人格は香油の香りを放つ。それで、おとめたちも主を慕うではないか。主の栄光のからだのほんの一部分でも、私たちの注意を引かないものがあろうか。ご人格のほんの一部でも、私たちのたましいの礎石とならないものがあろうか。主のただ一つの役目といえども、あなたの心をしばる強いひもでないものがあろうか。私たちの愛は、主の愛の心に印せられているばかりでなく、主の力強い腕にも結びつけられている。主のごく一部分といえども、私たちの愛が注がれていない箇所はない。私たちは主の全身に、私たちの熱烈な愛の香油を塗る。私たちは主の全生涯を見習い、その品性のすべてにあやかりたいと願う。
主以外のすべての人々にはなんらかの欠点を見いだすが、主のみは完全であられる。主の知遇にあずかる最も洗練された聖徒でさえ、その衣にはしみがあり、額にはしわがある。しかし主こそは最大の愛らしさそのものである。地上の太陽にはみな、しみがあり、美しい世界自体にも荒野がある。いかに愛らしいものでも、申し分ないものはない。しかしイエス・キリストは混じり気ない純金であり、闇なき光、曇りなき栄光であられる。「あの方のすべてがいとしい。」

 


第1サムエル記8章19-22節

2014年03月09日 06時55分51秒 | 聖書

8:19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。
8:20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」


 よほどサムエルの子供達の働きが悪かったせいでしょうか、人々はサムエルの語る声に耳を傾けませんでした。

そして他の国々のように自分たちの王が立たされて、その王の下で戦うならば良い戦いが出来ますと、告げました。

彼等にとっては、サムエルの子供達よりも、王を立てた方が、遙かに力と喜びがあると思えたのです。

 この事実は、霊的な働きをする人々にとっても大事な問題です。

働き人は、主の言葉に聞き従うことを第一にして励むということが、最も重要になってきます。

そうしなければ、この世の支配者に打ち負かされてしまうからです。

また主の民も、ここで注意が必要です。

それは、この世の支配者である王を第一にするのではなく、真の支配者である主を第一にする心を持つ、ということです。


出エジプト記12章13節 (同11章)

2014年03月09日 06時53分46秒 | 聖書

★  あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

■O:今日のコラム

出エジプト記を読み進めていく中で、あなたがたの「家」、あなたがたの「家族」、あなたがたの「家々」、というように、「家」という言葉が多く出て来ることに、ふと気がつきました。

神様は、アブラハム、イサク、ヤコブの神です。個人が救われる時、家族全体がこの契約関係の中に入ること、家族全員が救いを受けることが神様のみこころです。

ここに、「家」という表現が多く出てくるのには、救いの計画が個人だけではなく、家族全体を指しているからだと信じます。

救いの出来事が描かれているノアの箱舟からもこの事を知ることが出来ます。

神様は、ノアと契約を結んでこう言いました。

「わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。」 (創世記6章18節)

その後、箱舟が完成した時、神様はまたノアにこう命じました。

「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。」 (創世記7章1節)

また、新訳聖書にも、
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り…」 (へブル人への手紙11章7節)  と書き記されています。

このように神様は、ノアとの個人的契約から、家族との契約の中に入ることを計画しておられます。

今日の箇所においても、「家族の救い」の計画について、具体的に記されています。

「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。」 (出エジプト記12章21節)

イエス様は、過越の子羊となられたお方です。(コリント人への手紙 第一 5章7節)

それは、個人の救いに留まらず、家族全体に流された贖いの血です。

傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血は、私たちの家族全体のために流されました。

ヒソプが個人にではなく、家に塗られたことからも、その事が言えます。

私たちは、家族の救いのためにもっと祈っていきましょう。

イエス様の血潮が家族全体に覆われ、滅ぼす者が私たちの家にはいることがないよう、前にも後ろにも、イエス様の血潮を宣言していこう。

イエス様の血は、私たちを悪から守る、完全なシェルターです。

■A:考えてみよう

今年の始めに、夢を見ました。終わりの時、主の花嫁たちが集められ、次々とノアの箱舟のような舟に乗りこみました。まだ全員が乗り込んでいないのに、後ろの扉が閉まり、花嫁たちを乗せた舟が、天に引き上げられたのです。

その舟には、私の家族 (母や兄弟たち) や、多くの信仰者が乗っていませんでした。これは、そうならないように祈りなさいという、神様からの警告であると受け取りました。

ノアとノアの家族に起こった救いの出来事が、終わりの時、私たちと私たちの家族にも起こらなければなりません。

それが、神様の願いであり、約束だからです。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 (使徒の働き16章31節)

また、教会は祈りの 「家」 です。家には、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、子供、赤ちゃん、、、全ての世代がいるべきです。それが、自然なことです。

赤ちゃんでさえ、神の契約の中にあるのです。小さな魂であっても家族の一員です。

理解が出来ない歳であっても、礼拝することを早くから教えましょう。聖書は、理解ができる前から教え、そして、子供が 「この儀式はどういう意味ですか」 と尋ねるようになった時、理解出来るようになった時に、その意味を教えることを命じています。(出エジプト記12章26-27節)

子供たちが同じ救いを受け、永遠のいのちにあずかるように、子供 (赤ちゃん、少年、青年) たちのために、とりなし祈っていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。