座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆こうして、イエスはバプテスマを受けて、

2014年03月03日 15時42分48秒 | 聖書

すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイ三・一六)

神の御霊が教会のかしらなる主イエスの上に下ったように、御霊は主のからだなる教会を構成する一人一人の上に下る。
それは、しばしば非常にすばやい。私たちが知らぬうちに、前方に、すなわち御国のほうに私たちを推し進める。しかしそこには地上的な性急さはない。鳩の翼は速いが、また柔らかい。
静けさは、多くの霊的な働きに欠かせないように思われる。主はかすかな細い声の中におられ、露のように、沈黙のうちに恵みをしたたらせてくださる。
鳩は昔から純潔の象徴であった。聖霊も聖潔そのものであられる。聖霊が臨まれるところはどこでも「すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと」は豊かにされ、罪と汚れとは離れ去る。
聖なる鳩が力をもって下るところは、どこであっても平和が支配する。鳩は、神の怒りの海が静まったことを示すオリーブの若葉をくわえて来る。
温和は、一切を変化させる霊なる鳩の力によってもたらされる結果である。神の恵み深い感化を受けた心は、その時から永遠に柔和となり、謙虚となる。
他に危害を加えない。鷲や烏は獲物をあさる。鳩は自分を襲う害を忍ぶが、他に害を加えることはできない。私たちは危害を加えるものとなってはならない。
鳩は愛の化身である。鳩の鳴き声は愛に満ちている。そのように、幸いな御霊の訪れを受けたたましいは、神に対する愛に満たされ、ことにイエスに対する愛に満たされている。
深淵の上に漂う神の霊は、まず秩序といのちを生じさせた。そしてさらに、神の霊は私たちの心の中に新しいいのちを生じさせようとされる。
祝福に満ちた聖霊なる神様。私たちの贖い主の上に下られたように、今より後、永遠に私たちの上にお下りください。

 


「この女は、自分にできることをしたのです。

2014年03月03日 15時41分55秒 | 聖書

埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(マルコ14:8)

これから主が十字架にかかられる事を悟っていたマリヤは、主のために、自分の出来る精一杯の事をした。
結婚の時のためにと、今までとっておいた非常に高価な香油を惜しげもなく注ぎ出した。
マリヤの主への愛だ。献げ物は主への愛の表われだ。
今、自分に出来る事をすれば良いのだ。
自分になしうる感謝を精一杯表わせばよい。
私達はよく思う。
もっとお金ができたら献げるのに、時間ができたら献げよう、状況と環境が変わればもっと献げられるのだが・・。
しかし、そうなっても献げない。
2レプタ献げた貧しいやもめは模範だ。
人々から見ればほんの僅かなお金だが、主は誰よりも多く献げたと言われた。
今、自分に出来ることを、主への愛を込めて、お献げしよう。
献金でも奉仕でも、今、自分に出来る事をすればよい。
主は受け取って下さる。 
--------------------
主が喜ばれる事は何だろう、今自分に出来る事が必ずあるはずだ。
それさえ主が教えて下さる。
主を愛する動機があるなら、今すぐ祈ってみよう。



◆思慮に欠ける人生

2014年03月03日 07時35分21秒 | 聖書

女と姦通する者は思慮に欠けている。
これを行なう者は自分自身を滅ぼす。
彼は傷と恥辱とを受けて、
そのそしりを消し去ることができない。
嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、
夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。(箴言六32―34)

「ばかな人だ。思慮が欠けている」と批判されたら、あなたはどんな気持ちがしますか。「おれは物事を見通して、よく物事が読めている。ちゃんと物事を計算してやっている。仕事もきちんとしているし、収入だって相当ある。おれはばかじゃない」と反発されるかもしれません。
しかし聖書は、「女と姦通する者は思慮に欠けている」「ばかだ」と言いきっているのです。
イランではイスラム革命後は、どろぼうは昔のとおり手首を切り落とされるようになるかもしれません。隣の家から、米を一キロ盗んで、手首をちょんではたまりません。それでも盗むなら、正真正銘のばか者でしょう。
女と姦通する者は、大どろぼうです。だれが見ていなくても、だれに気づかれていなくても、「天知る地知る我知る」、いいえ、神はご承知です。きのうの箴言のことばのとおり、罰を免れません。姦通は自らを傷つけ恥辱を受け、自らを滅ぼします。手首を失うどころでない神の怒りが待っています。
女と姦通する者は、家庭から平和を盗む大どろぼうです。相手の家からも平和を盗み、自分の家庭からも平和を盗みます。平和のない家庭は、どんなに社会的地位が高くても、最低の環境でしかありません。妻も子どもも自分をも、みじめにするからです。
私たちは、「思慮に欠けた人」になりたくないと思います。自分の欲望だけに引きずられるばか者になってはなりません。神の愛ときよさといのちを知るべきです。
「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩篇五一10)。

 


◆わたしは悩みの炉であなたを試みた。

2014年03月03日 07時34分13秒 | 聖書

(イザヤ四八・一〇)

試みの中にある信者よ。この「わたしは悩みの炉であなたを試みた」というみことばをもって自らを慰めよ。このみことばは、炎の激しさをも和らげる春雨のようではないか。そうだ。このみことばは熱を防ぐことのできるよろいなのである。
悩みよ、来れ。神が私を選ばれたのである。貧困よ。おまえは私の家の戸口まで押し寄せている。しかし神はすでに私の家におられるのだ。神が私を選ばれたのである。病よ。おまえは私を襲うだろう。しかし私は霊薬を備えている。神が私を選ばれたのである。
主にある友よ。あなたが今、大きな慰めを必要としているならば、人の子があなたと共に炉の中におられることを思い出せ。あなたの静かな部屋には、これまで見たことはないが、常にあなたを愛しておられる方が、あなたのかたわらに座しておられる。たとえあなたが気づかなくても、その方は苦難のただ中にいるあなたのためにベッドを設け、枕を整えられる。あなたは貧しい。しかし寂しい家の中に、いのちと栄光の主が、しばしば訪れられるのである。あなたを訪ねるために、その方は喜んで荒れ果てた場所に来られる。その方はあなたに近くとどまられるのである。その方の御顔を見ることができなくても、あなたは手ざわりを感じることができる。あなたはその方の御声を聞かないのか。死の陰の谷の中であっても、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」と言っておられるのを。
クリスチャンよ。イエスがあなたと共におられる。火のような試練の中でも、主のご臨在はあなたの慰めであり保証である。主はご自分のものとして選ばれた者を、決して捨て去るようなことはなさらない。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」というみことばは、「悩みの炉」の中にある選ばれた者にとって力強い約束のみことばである。
それゆえ、キリストにしがみついて、こう言おう。「水の中でも火の中でも、もしイエスが導かれるならば、どこへでも従って行こう」と。

 


第1サムエル記7章5-11節

2014年03月03日 07時32分45秒 | 聖書

7:8 そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」


 主の箱が、ペリシテ人の手からイスラエルの民の内に移されてから、20年がたちました。

その時サムエルは、イスラエルの民に語りました。

あなた方が外国人の内に祭られている神々を捨て、主のみを神として礼拝をし仕えるならば、主があなた方を守ってくださると。

そこで民はミツパに集まりました。

 ところが、主の民が集まったということで、ペリシテ人は戦いのために彼らが備えたのかと思って、イエスラエルの民を攻めてきました。

民は大変驚き、恐れました。

そこで民は、サムエルに願いました。

私たちのために祈り続けてくださいと。

そして、主が自分たちを、このペリシテ人の手から救い出してくださるように祈ってくださいと。

 祈りは神さまへの感謝と共に、また自分たちの願いを告げる言葉です。

主は、主の民が悔い改めて主の下に立ち返った時、その民の祈りと、民の指導者の祈りを、お聞きくださる方なのです。


ヨブ記42章9-10節(同41章)

2014年03月03日 07時29分44秒 | 聖書

★  テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた。ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。

■O:今日のコラム

今回の記事は、難しくなってしまったので、結論だけ伝えておきます。

キリストの花嫁の最後の仕事は、目を覚ましていない人々のためにとりなすことである、ということです。

この後の記事は、長くて難しいので、ゆっくり腰を据えて時間のあるときに読んでください。

ヨブ記は、正しい者が患難を通されるというストーリーです。
そして、忍耐の末に完全な回復(失ったのものが、全て2倍に回復する)に預かる事が記されています。

これは、キリストの花嫁の通される道について書かれていると信じます。

なぜなら、『花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』(ヨハネの黙示録19章8節)とあるように、花嫁は正しい行いをするものであり、また、御国を得るためには、苦しみを経なければならない、ともあるからです。

そうして得るヨブの回復は、最初に与えられていた祝福に勝るものです。
それは、エデンの回復(創世記の祝福に勝る回復が黙示録に書かれている)です。

そして花嫁の回復でもあります。花嫁の回復に関しては、特にヨブの3人の娘に示されています。

生まれる3人の娘は、娘が相続地(御国)を受けるという変わった出来事が記され、その娘は、誰よりも美しかったのです。

そしてその名は、
・エミマ(鳩=雅歌で花嫁は、鳩のようだと言われる)
・ケツィァ(シナモン=主をたたえる為に使われる香)

・ケレン・ハプク(化粧道具=エステルは、花嫁となるために没薬の油 [1 自分に死ぬこと、2 聖霊に満たされる事] とともに化粧道具 [1 テモテへの手紙 第一 4章10節より、良い行い、2 ペテロの手紙 第一 3章4節より、隠れた人がら] によって整えられました。

エステルは、王の王なる方 [アハシュエロス王は、こう呼ばれていた] の花嫁であり、キリストの花嫁の型)です。
 
そして、最後にヨブは、3人の友人をとりなすことになりました。
『主はヨブの祈りを受け入れられた』(9節)とあります。

この部分は、聖書の下の方に、直訳は「顔を上げられた」と書いてあります。直訳は、何だかよく分かりませんね。だからこそ、このように翻訳して、下に注釈をつけたのでしょう。

しかし、この部分を原語で見直してみると、ヤーウエ(主)、ナッサ(引き上げる)、パニーム(またの読み方は、ペヌエル。臨在という意味もある)、ヨブ(ヨブ)という4つの単語からなっています。

『主、引き上げる、臨在、ヨブ』です。
ヨブは、キリストの花嫁ですから『主、引き上げる、臨在、花嫁』としてみましょう。

何か連想しませんか? これは、花嫁の携挙について書かれているとも言えるのです! 
 
長くなりましたが、ヨブが、最後にとりなして、回復したように、花嫁の最後に任される仕事、それは、とりなすことです。

自分が良ければそれで良いという心は、花嫁のこころではありません。目を覚ましていない人々と主との間に立たなくてはなりません。

それは、10人の乙女のたとえの中で言えば「花婿がやって来た!」と叫ぶ者の声ということもできます。

■A:考えてみよう

目を覚まし、人々との間に立ち、祈り、叫び続けましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。