座間コミニティー

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◆わたしは、あなたがたをこうばしいかおりとして喜んで受け入れる。

2014年03月28日 16時00分18秒 | 聖書

(エゼキエル二〇・四一英訳)

私たちの贖い主の御いさおしは、いと高きお方にとって、こうばしい香りである。私たちがキリストの能動的な義について語るにしても、また受動的な義について語るにしても、そこにはこうばしい香りがある。能動的な面における香りとは、主が神の律法を尊ばれたことである。そして主は、すべての戒めを、その人格の上にちりばめた宝石のように輝かされた。主の受け身の服従もまたこうばしい香りである。主はつぶやかず従順に、飢えと渇きを忍び、寒さと裸に耐え、むち打つ者にご自身をゆだね、髪の毛を引きむしる者に

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「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、

2014年03月28日 15時59分12秒 | 聖書

ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。
女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9

姦淫の女は石打ちの刑だと断罪した人々は、その投げた石がそのまま自分に返って来た。
罪の無い者が石を投げよ、と言われた時、主のその言葉で自らの姿が映し出された。
彼らは罪がわかったから、投げる事が出来ずに去った。
しかし、彼らは主の前から逃げたのだ。
律法学者やパリサイ人は、はっきりと自分の姿を見た。
これは天国への一歩手前だ。しかし、逃げ去った。
ところが姦淫の女は、逃げずにそのままそこにとどまった。
その女は主から全き赦しを受け取った。
私達はどうだろう。日ごとに、御言葉に向かう時、自らの姿が映し出される。
メッセージを通して、自分の罪が示される。
自分の醜い、汚れた、自我にまみれた姿を見るのは痛い。
プライドが傷つく。認めたくない。
棚に押し込めたいし、触れずにふたをして置きたい。
私達も逃げるだろうか。逃げないでとどまった女のように、映し出された本当の自分を認めよう。
そこから造り変えられて行く。何より主の深い愛を知って行く。
-----------------------
年長者から去っていったのは罪深い醜い自分を歳を重ねる度に知らされている、しかし認められないからだ。
私達も醜く、汚れた者に違いないが、いくつになっても主に「聖められたい!」と切に願う者でありたい。

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◆正しい者を飢えさせない

2014年03月28日 07時19分54秒 | 聖書

主は正しい者を飢えさせない。
しかし悪者の願いを突き放す。    (箴言一〇3)

日本人は、「飢える」ことを忘れてしまいました。私たちのまわりには、あり余るほど食べ物があるようです。しかし今でも世界人口の三分の一は飢えています。三分の一は十分食べられないで、おなかをすかしたまま寝るのです。残りの三分の一だけが、十分食べているそうです。
今の日本人の多くは、食べ物には飢えていません。しかし、この富める社会にも飢えがあると思います。それは、人と人との間の心のぬくもり・愛情の飢きんです。教育は十分、お金はどっさり、着る物は流行の先端をいっていたとしても、この飢えは解決されません。
この飢えは、神の愛を知ることによって満たされます。十字架にかかってくださったイエス・キリストの愛を受け、自分も他人に与える喜びを知った時、この飢えは初めて解決するのです。人間関係も変わってきます。神を知り神の愛を心に住まわせる人に、一人として飢える人はないのです。
パウロはこのことをあかしして、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ四19)と言いました。
神の愛を知らず、知ろうとせず、自分の能力や自分の魅力だけでやっていこうとする自信家は、やがて突き放されてしまいます。

 

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◆人知をはるかに越えたキリストの愛……。

2014年03月28日 07時19分00秒 | 聖書

(エペソ三・一九)

キリストの愛の麗しさ、その満たし、その偉大さ、真実さは、人間の知り尽くし得ないものである。人の子に対するそのたぐいない愛を語ることばがどこにあろうか。それは全く広く大きいので、つばめが水面をかすめて飛ぶように、すべての人のことばは表面に触れるだけであり、測り知れない深さは、依然としてその下に横たわっている。
「おお愛よ。あなたは測ることのできない深淵だ」と詩人が歌ったのは、まさに真実である。なぜなら、このキリストの愛は測り得ないものであり、だれであっても、その深奥を極めることはできないからである。
イエスの愛について正しい概念をもつために、私たちがまず知らなければならないことは、主の初めの崇高な栄光の高さと、受肉された恥辱の深さである。しかしだれが私たちに、キリストの栄光の崇高さを語ることができようか。主がいと高き天上の王座におられた時は、主の主、神の神であられた。もろもろの天とそこにある万軍とは主の造られたもので、全能の御手は天体を支え、ケルビムとセラフィムの賛美の歌は絶えず主を囲み、全宇宙のハレルヤコーラスは、その王座にみなぎっていた。主はすべての被造物を統べ治め、万有の神として永遠にほめられるべき方であられた。いったいだれがその栄光の高さを語り得ようか。
また一方、主がいかにへりくだられたかを語ることができようか。ただ人になられたということと、悲しみの人になられたということとの間には、非常に隔たりがある。神の子であられた主が血を流し、死に、そして苦しまれたのである。そのご苦難は無比であり、恥辱の死を遂げられ、父なる神に捨てられなさったのである。これこそ、いかに深い霊感を与えられた人もうかがい得ない、愛によるへりくだりの深奥である。
ここに愛がある! その愛は、「人知をはるかに越えた」ものである。ああ、この愛により、私たちの心を賛美と感謝に満たし、その愛の力を現実に現すものとしてください。

 

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第1サムエル記13章5-7節

2014年03月28日 07時17分23秒 | 聖書

13:5 ペリシテ人もイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。


 さて、戦いのために、ペリシテ人も人を集めて陣地をもうけました。

ミクマスに陣を敷いたと書かれています。

ミクマスというのは、イスラエルの民が集まっているギルガルから、それほど遠いところではありません。

ところが、その所に集められたペリシテ人の数は、度肝を抜くほどでした。

戦車3万、騎兵6千、それに海辺の砂のように数の多い民であったというのです。

そのことを知った民は、顔が真っ青になりました。

現実を見て、彼らは敵の数の力におののいてしまったのです。

そこで彼らは、逃げの一手を考えるようになり、戦いに出るはずであったのに、岩山や洞穴、岩間に隠れるようになってしまいました。

ある者は、ヨルダン川を渡って対岸に逃げる始末でした。

また、サウルの所に残った人々も勇んでいたかと言いますと、そうではなくて、震えながら彼に従っていたのです。

もう敗以外にないと思ったのです。


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使徒の働き 5章12-14節 (レビ記5章)

2014年03月28日 07時15分51秒 | 聖書

 ★  また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。

ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。
そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

■O:今日のコラム

使徒の時代、聖霊の激しい注ぎを通してしるしと不思議、力ある主の業が行われました。その中で大胆に福音が宣べ伝えられ、魂の大収穫がエルサレムから始まり異邦人の地にまで及んで行きました。
 
使徒の働きから、神の国がこの地にもたらされる為のシンプルな秘訣を学ぶ事が出来ます。それは「一致した祈り」です。

彼らは毎日共に集まり、心を一つにして祈っていました。迫害や困難の中にあっても祈りを通してもたらされる聖霊の力が初代教会を力強く前進させて行きました。

どの時代のリバイバルを見ても、必ず聖徒達の熱烈な祈りがある所に、魂の大収穫が起こっています。さらに祈りのある所に聖霊の注ぎ、異言の祈りが必ずあります。

初代教会が爆発的な力を持って宣教して行ったのは異言で祈る様になってからでした。

この終わりの時代に主は歴史の中で最も大いなる聖霊の注ぎを与えて下さいます。その主の計画に私達が応答する為に異言によって祈る事は非常に大切な事です。

異言の祈りを通して天の軍勢がこの地に介入する事となります。また御霊により私達は主と一つ心になり、その事を通して力強い一致が聖徒達の内にもたらされます。毎日、大胆に異言で祈りましょう。

■A:考えてみよう

毎日1時間、異言で祈る事をチャレンジしましょう。

■P:祈り

主よ。私の舌を聖霊様によって捕らえ治めて下さい。日々、御霊の言葉で祈る事が出来る様に祈りの油注ぎを下さい。心からイエス様を愛します。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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