座間コミニティー

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◆キリストは、私たちにとって、神の知恵となり……。

2011年09月25日 17時23分29秒 | 聖書
(Ⅰコリント一・三〇)

人の知性は安息を求めているが、生来、それを主イエス・キリスト以外に求めようとする。教育を受けた人に至っては、回心の後においてすら、キリストの十字架の単純さを、尊敬と愛をもって見ようとしない傾向がある。昔ギリシヤ人が捕えられた古い網にからまれており、哲学と啓示とを混同しようとしている。洗練された思想をもち、高度の教育を受けた人の陥りやすい誘惑は、十字架にかかられたキリストの単純な真理から離れ、いわゆるもっと理知的な教理を作り出すことである。このため、初代教会にグノーシス主義が入り、さまざまな異端がはびこった。これがネオロジー(新教義)となり、かつてドイツで流行し、今もある神学者をわなに陥れている種々の異説となった。
友よ。あなたがどんな人であっても、また教育がどうであろうと、哲学化された神学では、決して安息は見いだせないことを心に留めよ。あなたは、ある偉大な思想家の説を受け入れ、また他の深遠な推論家の夢を受け入れるかもしれない。しかし、もみがらは穀物に比べて何であろうか。これらの説は、純粋な神のみことばに比べればもみがらのようである。正しい筋道を通っても人間の理知が得るものは、真理の初歩にすぎない。そして、それすら確かさを欠いている。しかし、キリスト・イエスの中には、すべての知恵と知識が満ちあふれている。クリスチャンがユニテリアン(イエスが神であることを否定する教派)や広教会(英国教会の中の自由主義)の思想体系で満足しようとする試みは、すべて失敗する。
しかし天国の真の相続人は、農夫の子の目をも喜びに輝かせ、敬虔な貧しい者の心をも喜ばせることができる。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」この雄大にして単純な事実に帰るべきである。イエスを信じて受け入れる時、最も高度の理知でも満足するのである。しかしイエスを離れては、新生した心は安息を見いだすことができない。
「主を恐れることは知識の初めである。」「これを行なう人はみな、良い明察を得る。」


◆酒  に  酔  う

2011年09月25日 09時52分43秒 | 聖書
わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。
争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。
ゆえなく傷を受ける者はだれか。
血走った目をしている者はだれか。
ぶどう酒を飲みふける者、
混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。(箴言二三29―30)

酒に、自分というものの支配権・コントロール権を売り渡してしまった酔っぱらいの姿が、絵のように描かれています。故人となった落語家の圓生あたりにこの聖書のことばをテキストとして演じさせたら、泣き上戸・けんか上戸・ぐち上戸の目の血走った姿を、さぞかしじょうずにやってのけるだろうと思います。
二三章の後のほうを見ますと、異様なものを見たり聞いたりする幻聴幻覚、ねじれごとをしゃべる放心状態、もうどうにもならないのにもっと飲みたいという飢餓状態も描かれています。「一杯人酒を飲み、二杯酒酒を飲み、三杯酒人を飲む」とは、うまいことを言ったものです。酒は口から飲むのに、全身にまわって、手も足も口も酒が支配し、手が舞い足が踊り口が歌い出します。ギリシャの賢人ダイオゼニスは、つがれた酒をすぐ地面にこぼして捨てるので「惜しいじゃないか。むだにして」ととがめられ、「それでも酒を飲んで、私と酒の両方をむだにするよりましだ」と言ったと聞きました。
新約聖書は、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」(エペソ五18)と言っています。神の御霊に満たされて酔え、酒に酔っぱらうなというのです。しかし、エゴが支配していてはできないことです。
 口は賛美の歌うたい
 手は喜びの舞いを舞い
 足は奉仕の道を行く
人は、陶酔を求めます。神の愛と喜びの中に、最も高貴な陶酔があるのではないでしょうか。


◆こうして神ご自身が義であり、

2011年09月25日 09時48分29秒 | 聖書
また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ三・二六)

私たちは信仰によって義と認められたため、神との平和をもっている。良心はもはや私たちを責めず、さばきも今や罪人に不利とはならない。記憶は過去の罪を顧みて深くそれを悲しむが、来るべき罰を恐れない。キリストが神の民の負債を支払って、神の領収書を受け取ってくださったからだ。だから神が一つの負債に対して二重の支払いを求めるほど不条理な方でない限り、キリストが身代わりになって死なれたたましいが、一人でも地獄に落ちることはあり得ない。
神を義なる方であると信じることは、御霊によって啓発された性質の根本原則の一つである。私たちは神が義でなければならないと感じる。これは初めは恐怖をもたらす。しかし、神は義であるというこの同じ信仰が、後に私たちの確信と平安の柱になるとは驚くべきことである。神が義であられるなら、罪人であり、身代わりのない私は滅びるよりほかはない。しかし主は私の代わりに立ち、私のために罰を受けられた。それゆえに、神が義であるならば、キリストにあって立つ罪人の私は、今や罰せられることはない。主が身代わりとなられたたましいに律法を適用する余地はなく、神はそのたましいの前に態度を変えられるのである。
罪の結果当然受けねばならない神の怒りのすべてを、主が身代わりになって受けられたために、信者は「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」との勝利の叫びをあげることができる。訴えるのは神ではない。神は私たちを義とされた。訴えるのはキリストでもない。主は私たちのために死に、よみがえられた。
私は自分が罪人でないから希望をもつのではない。私は罪人であり、主が私のために死んでくださったので、希望をもつのである。私の信頼は自分の聖さにではなく、主が汚れている私の義となられたことにある。私の信仰も私自身にはなく、キリストがどんな方であって、どんなことをなさり、また現在私のために何をなさっておられるかにある。義の獅子の背に、希望という美しい少女が女王のように座している。