座間コミニティー

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◆この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。

2011年09月13日 22時10分39秒 | 聖書
(ルカ一五・二)

この事実に現れている謙遜を見よ。他のすべての人々の上に抜きん出て、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別されている方が、罪人たちを迎えてくださるのである。永遠の神であり、その御前に天使でさえも顔をおおうこの方が……。
このようにすばらしい愛の謙遜を語るには、天使の舌が必要である。失われていく者を私たちが進んで尋ねるのは、驚くほどのことではない。なぜなら、彼ら失われていく者は私たちと同類だからである。しかし、神に対して罪過が犯されたのに、その神、怒るべきお方がしもべの姿をとられ、多くの人々の罪を担い、進んで極悪人を迎えられたこと、これは実に驚嘆すべきことである。
主が「罪人たちを受け入れ」られたのは、彼らがいつまでも罪人でとどまっているためではなかった。彼らの罪を赦し、義とし、みことばによって彼らの心をきよめ、聖霊の内住によって彼らのたましいを守り、主に仕えさせ、賛美させ、主との交わりに入らせるためである。主は、ご自身の心の愛の中に罪人を迎え入れ、はきだめの中から彼らを取り出し、彼らを王冠の宝石として用いられる。彼らを燃え木のように火の中から取り出し、主のあわれみの貴重な記念とされる。
イエスにとって、ご自身がそのためにいのちを捨てられた罪人ほど貴重なものはない。イエスが罪人を迎えられるとき、戸外で迎えるとか、物を乞う人にあわれみを施すように、家の片すみで迎えるとかされるのではない。主の心の黄金のとびらを開いて、罪人をまさしく主の中に受け入れてくださる。卑しい、悔い改めた罪人を、主はご自身につながる者とし、主のおからだの肢体となし、その肉、その骨とされる。このような歓迎はかつてなかった。しかし、この事実は今夜もまた確かである。主はなお罪人を迎え入れてくださる。
どうか、罪人たちが主を迎え入れますように。


レター・泉教会0913

2011年09月13日 06時56分59秒 | 聖書

(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)
昔、女優の和泉雅子さんが北極点に立った、という話がありました。北極というのは氷の上です。氷というのは海の上を動いているわけで、夜寝ている間に何キロも移動してしまう。朝起きると、せっかく昨日、苦労して進んだにもかかわらず、何キロも後戻りしていて、愕然とすることがあるそうです。そういうわけですから、肝心の北極点を決めるというのも、地面が動いている以上、一体、自分が北極点に立ったかどうか分からないわけです。和泉さんは、北極点のすぐ近くにいるらしいのですが、念のためさらに8キロほど北上し、さらに2時間ほどその付近を歩き回ったということです。そのうち、どこかで北極点を通過するに違いない、そう思った。最終的には、870キロ上空を飛んでいる人工衛星ノアとの交信が実現できて、確かに北極点に立ったということが確認できたそうです。私たちの場合ですが、ひょっとしたら、氷のように動くものの上に乗っているのは変わりないのではないでしょうか。人の顔を伺い、社会情勢に一喜一憂し、自分の感情の波は激しく動いている。氷のように少しも留まることがない、動くものの上に乗っている人生なのです。人生という旅が、いつも動くものの上に乗っていますから、和泉さんのように、このあたりを通っておけば、いい線いっているのではないか、ということになりますが何の確信もないのです。しかし大事なのは、和泉さんが自分の位置を最終的に確認できたのは人工衛星だったということです。人生の旅の位置を確認するのも同じことで、動いてしまう地上のものではなく、自分を確認するものは、自分の「外」になければなりません。そういう意味で、神を知ることが大事なのです。私たちは、自分の思い、計画、生活などの外にあるもの、つまり、神さまとの関係によって、自分の位置を確認できるのです。だから神に祈ること、聖書を読むこと、それができる日曜日の礼拝を大事にするのです。

出エジプト記12章29-32節

2011年09月13日 06時48分32秒 | 聖書
12:29 真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。 神様は最後の奇跡として、エジプトにいるすべての初子を殺されました。そこで、王様の初子から捕虜の初子、さらには家畜の初子まで死んでしまいました。そのことによって王は、初めて激しい苦しみと恐れに襲われました。そして、王はモーセとアロンを呼び出して、このエジプトの国から急いで出て行くようにと命じたのです。神様は、エジプトの国に厳しい裁きを下されました。今までの働きは、王にとっても外面的な苦しみでしたが、今度は自分の子供が殺されるという、内面からくる非常な悲しみでした。それは彼が、神の要求が示されても、なかなか民を解放しなかった彼の行為に由来した、神の裁きでありました。この裁きにあった時、神に対する究極的な恐怖が湧いてきたのです。彼はこの苦しみにあって初めて、神を恐れたのです。今でも人は、死を迎える時に、神に対する恐れを持ちます。遅過ぎる前に、信じて救いに預かるべきなのです。

◆まやかしの食物

2011年09月13日 06時39分23秒 | 聖書
あなたが支配者と食事の席に着くときは、
あなたの前にある物に、よく注意するがよい。
あなたが食欲の盛んな人であるなら、
あなたののどに短刀を当てよ。
そのごちそうをほしがってはならない。
それはまやかす食物だから。 (箴言二三1―3)

「目黒のサンマ」という話をご存じでしょうか。よく労働して体を動かし、健康な食欲があるなら、どんな質素なものを食べてもおいしく、栄養となるものです。しかし、ぜいたくな飽食は、のどに短刀を押しつけるような、人生のまやかしなのです。
私は、旅から旅の生活が多く、さまざまな家庭の食卓にも着かせていただきます。山海の珍味のおもてなしも、お心尽くしを感じてうれしいものです。しかし、そんなごちそうも、二度三度と続くと、すぐ体の調子はもちろんのこと、心のはずみまで狂ってしまいます。貧しいといっていいほどの質素な食卓を、神に感謝しつつ家族といっしょに楽しくかこんでいただく祝福を、私は、人一倍感じています。
私の尊敬する友人、イギリスのジョン・ストット博士から、「今度、シンプル・ライフ・スタイル(質素な生活態度)についてのカンファレンス(話し合い)をするから出席してください」というお招きを、一九八〇年の初めにいただきました。参加はできませんでした。しかし、神を知り、神の愛を知る者として、地球上に住む三分の一の人々が今も飢えている現状と、主キリストすら自らを喜ばすことをされなかったことを思う時、やはり、このシンプル・ライフ・スタイルの大切さを感じています。
イエス・キリストは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ一一28)と言われました。しかし、またこうも言われたのです。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(一一29)。


◆彼らは涙の谷を過ぎるときも、

2011年09月13日 06時32分58秒 | 聖書
そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。(詩篇八四・六)

この聖句は、一人の人の慰めがしばしば他の人に役立つことを教える。それはあたかも、泉が後に来る人々によって用いられるのに似ている。私たちは慰めに満ちた書物を読み、ヨナタンの杖のように蜜のしたたるような感を受ける。ああ、私たちは兄弟が先にここへ来て、自分たちのため、また私たちのためにこの泉を掘ったことを思う。多くの『嘆きの夜』『夜半の音楽』『永遠の日』『運命の曲折』『悲しむ者の慰め』などの書物は、巡礼者が自分のために掘った泉であるが、それが他の人にとってもきわめて有用であることが明らかになった。特に「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか」とのことばで始まる詩篇を読む時、この感をいっそう深くするのである。旅人は人のいない岸を行くとき、人の足跡を見つけて楽しむ。そのように、涙の谷を過ぎる私たちは、そこに巡礼者たちの道しるべを見いだすのを喜ぶのである。
彼ら旅する者は泉を掘るが、不思議にも泉は下からわき上がらず、上から満たされるのである。私たちは手段をこらす。しかし、祝福は手段からはわき上がらない。私たちは泉を掘る。しかし、天が雨をもってそれを満たすのである。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。手段は目的に関係があるが、目的を生み出すものではない。見よ。天来の雨が池に満ち、泉に満ちて水をたたえ、私たちに役立つのである。骨折りは単なるむだではないが、それは神の助けに代わるものではない。
恵みは、その純潔において、蘇生させる力において、またそれが上からだけ下ることにおいて、その下るか否かが人の思いによらないことにおいて、雨にたとえられる。読者よ。あなたが祝福の雨を浴び、その掘った泉があふれるばかりの水をたたえるように。
ああ、天来の微笑みがなくて、手段や儀式に何の効果があろう。それらは、雨のない雲であり、水のない池である。愛の神様。天の窓を押し開いて、私たちに祝福を注いでください。