座間コミニティー

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◆私の愛している人を私は見つけました。

2011年09月29日 19時14分52秒 | 聖書
この方をしっかりつかまえて、放さず……。(雅歌三・四)

キリストは、私たちがみもとに行く時、過去の罪がどうであろうと、受け入れてくださるだろうか。私たちは、他のあらゆる避け所を試してみたが、そのために主が私たちをお叱りになることはないであろうか。この地上に、主のようなお方がほかにあるだろうか。すべての善の中で主は最善であられ、すべての美の中で最上の美ではないだろうか。
おお、それなら主をほめたたえよう。エルサレムの娘たちよ。タンバリンとたてごとをもって主をたたえよ。あなたの偶像を打ち倒して、主イエスをあがめよ。誇りと傲慢の旗を足下に踏みにじり、この世がまゆをひそめ、あざける十字架を高く掲げよ。主をとこしえにあがめ、私の霊を主の足台の下に座らせ、主の御足に口づけし、私の涙をもって御足を洗おう。
ああ、キリストの尊さよ! なぜ私は、主のことをわずかしか考えていなかったのか。主がこれほどに私を満たし、富ませ、満足を与えられたのに、なぜ主以外のものに喜びや慰めを求めたりするのか。主にある友よ。決して主を離れないという誓いを自分の心と結び、主の批准を求めよ。主に願い求めよ。あなた自身を主の指のしるしとし、主の腕の腕輪としてくださるようにと。花嫁がその身を美しく飾り、花婿が宝石をつけるように、主があなたをご自身につけられるように求めよ。私はキリストの心の中に生きたい。
すずめがすみかを見つけ、つばめがひなを入れる巣を得るように、万軍の主、私の王、私の神様、あなたの祭壇のかたわらに住まいを得させてください。私もまたあなたの中に、私の巣、私の家を造り、あなたの鳩のたましいである私が、決してあなたから飛び出すことなく、おお、イエス様、私の唯一の安息所であるあなたに、よりそっていたいのです。
 尊い主にお会いした時
 私の愛のすべてが燃え上がり
 愛のきずなで主を縛った
 私は主を引き止めて行かせない


出エジプト記15章1-19節

2011年09月29日 12時38分24秒 | 聖書
15:2 「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。15:3 主はいくさびと。その御名は主。」 モーセとイスラエルの民は、エジプトの軍隊から解放された時に、守りの働きをなして下さった主を覚えて御業を褒め称え、感謝の歌を歌いました。主はわたしの力であり、救いであると語っています。主によって私たちは守られ、主によって私たちは敵から救われたというのです。ですから、私たちはこの主を褒め称えると告げています。さらに、「この方こそ我が神」と語っています。神は全能であられ、また全知であられ、すべてのことを成しえるお方です。そして、この方のみが、真の神であられます。ですから、この方を褒め称えますと歌っています。私たちも同じように、この主なる方を私たちの神として、また父として崇めています。このお方によって、私たちも守られ、導かれているのです。私たちも、このお方を、私の神として、心から信頼して称えて参りましょう。

◆見 た も う 神

2011年09月29日 12時33分29秒 | 聖書
もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)

神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。


◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、

2011年09月29日 12時30分09秒 | 聖書
祭司はその患者をきよいと宣言する。(レビ一三・一三)

この規則は一見奇妙だが、その中には深い知恵が隠されている。なぜなら病毒を外に出すことは、からだが健全な証拠だからである。今朝、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。
私たちもまた病者である。そしてこの病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪におおわれ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前に罪があると告白するならば、イエスの血と神の恵みによってきよめられるのである。心中に隠れていて感じることのない告白されない罪が、真の病である。しかし罪があばかれ、罪が感じられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむたましいをご覧になるのである。
自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みのあるものはない。私たちは罪以外の何ものでもないことを告白しなければならない。これ以下の告白は真実のものと言うことができないからである。もし聖霊が私たちに働かれて、罪を自覚させられれば、前述のことを認めるのに何の困難もない。
引用の聖句は、深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることだろう。どれほど黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、だれであろうと神は決して拒まれることはない。犯罪人のように不正直であり、罪を犯した女のように不貞であり、タルソのサウロのように凶悪であり、マナセのように残忍で、放蕩息子のように反抗的であっても、自分によいものが全くないことを感じる人々には、神の愛が注がれる。そして彼が十字架につけられたイエスを信じた時、きよい者という宣告が与えられる。それゆえに、主のみもとに来れ。
「来れ。乏しき者。来れ。罪ある者。そして忌まわしき裸なる者よ。おまえは決して汚れすぎてはいない。あるがままの姿で来れ。」


●会社からの損害賠償請求●

2011年09月29日 12時08分03秒 | 労働法
会社からの損害賠償請求は、労働者に重大な過失が場合に限り認められるもので、そのときにも会社の損害額全額が認められるわけではなく、過去の裁判では1/4にとどまるものがあります。会社を害することを意図して行った場合であれば格別、そうでない場合には、認められないと考えて良いでしょう。軽微なミスなどによる会社が受ける損害に対しては、これは会社が負担すべき損害であって、業務遂行上避けられるものではないわけで、労務提供に従事する労働者がその責めを負う理由はありません。とくに退職時などに嫌がらせのような賠償請求をされることがあるようですが、全く無視すべきものです。