座間コミニティー

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◆私は眠っていましたが、心はさめていました。

2011年09月24日 20時06分09秒 | 聖書
(雅歌五・二)

クリスチャンの経験の中に逆説は無数にある。花嫁は眠っていたが、心は覚めていたとあるのは、その一つである。深い経験をもつ人にして、初めてこの信者のなぞを解くことができる。今夜の聖句の二つの要点は、悲しみに沈む眠りと、希望に満ちた目覚めである。
「私は眠っていました。」自分のうちに住む罪によって、聖なる義務を怠り、宗教上の働きを煩わしく思い、霊的喜びに鈍感となり、全く怠慢となり、不注意となる。いのちを与えてくださる聖霊の内住される者にとって、これは恥ずべき状態であり、きわめて危険な状態である。賢い娘たちも、時にはまどろむだろう。しかし、今はすべての者が怠惰を振り捨てるべき時である。サムソンが肉の安全のひざの上に眠っている間に髪の毛を失ったように、多くの信者が力を失っている。私たちの周囲の世界が滅びつつあるのに眠るとは! 永遠が間近に迫っているのに。それは愚かなことではないか。私たちのうち一人も、目覚めていなければならない時に目を覚ましていない。時には雷鳴が響くほうが私たちのためになる。そして私たちがただちに目覚めないならば、それをさまざまな形でもつことになろう。すなわち、戦争、疫病、愛する者との死別、損失などの形で。おお、肉の安楽の床を離れ、燃える明かりを掲げて、おいでになる花婿を歓迎したい。
「心はさめていました。」これは幸いなしるしである。いのちは衰え果てているが、全く死んではいない。新しくされた心が生来の重圧と戦う時、私たちはこの死のからだの中にも、いくらかの活力を残してくださる主権者の恵みに感謝すべきである。イエスは私たちの心に耳を傾け、私たちの心を助け、私たちの心を訪れてくださる。なぜなら、目覚めた心への「あけておくれ」という声は、愛する方の声だからである。聖なる熱情は必ず戸を開くであろう。
 お立ちになっておられる愛の御姿
 私のたましいはこの客をお迎えする
 すべてのまといつく罪を振り捨て
 開いた心と苦しむ手を伸ばして


●守秘義務について●

2011年09月24日 08時11分22秒 | 労働法
会社が持つ営業秘密やノウハウを会社の承諾なく使用したり公開してはいけない義務で、在職中はもちろん退職後にもその義務があります。この守秘義務には契約上の守秘義務と不正競争防止法上の守秘義務があります。通常就業規則には、守秘義務に関する規定が置かれています。これに反すれば守秘義務違反を問われることになります。具体的には損害賠償です。一方、就業規則などが無い零細企業であっても、不正競争防止法上の営業秘密については、同法上の制約を受けることになります。具体的には損害賠償や不正行為の差止請求などに加えて、刑事罰が課される場合もあります。

出エジプト記14章10-18節

2011年09月24日 07時52分41秒 | 聖書
14:14 「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」 イスラエルの民は、エジプトの軍隊が自分たちに迫ってきた時、モーセに対して文句を言いました。自分たちを、ここで死なすために連れてきたのか。自分たちは、エジプトで、パロに仕えていた方が良かった、などとつぶやいたのです。死の現実に直面したので、死への恐れが、このような思いをもたらしたのです。 しかし、モ-セは民に向かって、黙っていなさい、と告げました。黙るということは、つぶやきをやめるということです。そして、導いてこられた主を仰ぎ見るということです。モーセはここで、主があなた方のために戦って下さると告げました。主が導いて下さったのですから、主が守って下さると伝えたのです。私たちは、恵みによって、イエス様による救いに預からせて戴いた者です。しかし、信仰のために困難や不安が到来しますと、こんなはずではなかったと言って、つぶやきを言うことがあります。しかし、こうした時こそ、私たちは、さらに主を信頼して、主を仰ぎ見るのです。

◆心 を 与 え よ

2011年09月24日 07時44分09秒 | 聖書
わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。
あなたの目は、わたしの道を見守れ。(箴言二三26)

文語訳では、「わが子よ汝の心を我に与え」となっています。私が、若い時から暗唱し、祈るたびに心に浮かんでくるようになった聖書のことばの一つです。
ヨハネは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」(Ⅰヨハネ三16)と言いました。私たちのためにすべてを与えられたお方が、「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ」と言っておられるのです。
私は、その人となりや人生から、平和とか喜びとか思いやりとかの圧倒的な力がにじみ出てくる人におめにかかったことがあります。そういうものは、教養とか財力とか権力ではなく、人生のほんものの力です。そんな人は、心を神に与えている人だと、私は感じています。旧約聖書に「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(Ⅱ歴代一六9)ということばがあります。神に心を与えきった人には、力が与えられるのです。
その心を神に与え、その心が神と一つになっている人とは、どんな人なのでしょう。ヘブル語の原語から見て三つの意味があります。
第一に、神に対して全く平和になった心です。くだけきって、神に逆らう石の心の部分がありません。悔い改めて罪ゆるされたからです。
第二に、まるごと神に明け渡した心です。一部分でも私するところがありません。
第三に、ささげられた心です。神のみ声がかかったら、すぐに従って実行する心です。
神は全世界を見まわして、捜しておられます。そんな心を! そしてその人に、愛や喜びや平和の力を与えてくださいます。


◆私は道中の敵から私たちを助ける

2011年09月24日 07時38分22秒 | 聖書
部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。(エズラ八・二二)

護衛は、巡礼の群れにとっては望ましいものであったろう。しかし、聖なる恥を知るエズラはそれを求めることができなかった。彼は、異教の王が、エズラの神に対する信仰告白を単なる偽善とし、あるいは、イスラエルの神はその民を守ることができないと思いはしないかと恐れた。明らかに主の用であることに、肉の武器を借りることはできなかったのである。それゆえ一行は、目に見える何の保護もなく、彼らの剣であり盾である神に守られて出発した。
神に対してこのような聖なる思いをもつ信者がほとんどいないことは、懸念すべきことである。ある程度まで信仰によって歩む人も、時によると人の助けを切に求めて、そのいのちの輝きをだいなしにする。財産も支えもなく、主にのみ支えられ、千歳の岩の上に堅く立つことは非常に幸いである。もし信者が、カエサルの助けを求めることによって主の御名が汚されることを思い起こすならば、まるで主が必要を供給することができない方であるかのように、自分たちの教会のために国家の寄付を求めるようなことはできない。ひたすらに主の御腕にのみ頼ることが主をあがめる道であることを思い起こすなら、なおろうばいして親族友人の援助を求めることはできない。
私のたましいよ。ただ、神にのみ仕えよ。ある者は言うだろう。「しかし手段もまた必要ではないか」と。しかり。だが私たちが手段をなおざりにすることで失敗することはほとんどない。むしろ神を信ぜず、手段を過信することで失敗する。人の助けをなおざりにしすぎる人はほとんどいない。多くの人はそれに頼りすぎている。愛する信者よ。手段を用いることによって主の御名を汚す結果となるならば、むしろ手段を放棄して神の栄光を現すことを学べ。