レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

波止場カフェ シノブママとの会話

2018-07-29 03:00:00 | 日記
猛暑のニュースが続く日本の皆様には申し訳ないような気がするのですが、レイキャビクでの梅雨のような夏にうんざりしているワタシは「ホンマの夏よ、来い!」と叫びたくなります。

そんな中でのびっくりニュースは「今度の日曜日、レイキャビクは快晴。気温は25度に達する可能性がある」という天気予報が先週の木曜日に出たのです。「今度の日曜日」、つまり今日です!

レイキャビク(とその近郊)の住民二十万は、今日の日を、水着を右手にグリル用のトングを左手にして迎え、「夏日」がようやくやって来る期待感に胸を躍らせているのです。まあ、多少、私の想像ですが。

今日の気温が20度を突破したかどうかは、またそのうちお知らせします。ほとんどの日本の皆さんには、現実味のない話しだろうと思いますが、世界の中には、「25度が欲しい!」と願っている人々も実際にいるのでした。

さて、この梅雨のような夏を、そんなに繁忙期でなく過ごしている私は、先週の水曜日に、近所に住む、麗しい邦人の女性と午後のお茶に出かけました。快晴ではなかったのですが寒くはなく、二人で歩いてこれまた近所にある波止場まで行き、そこのカフェに入りました。




落ち着く老舗のカフェVagininn
Myndin er ur Allrestaurants.eu


その辺りはGrandiグランディと呼ばれる地域で、これまではうらぶれた「昔の波止場」感がいっぱいだったところです。それが昨今のツーリズムの上昇風に乗って再開発が進み、今では外国からのツーリストが群れで歩くような「洒落たポート」に転身しつつあります。

ただ私たちが入ったのはVaginnヴァグニン「ワゴン」という、昔からあるカフェでした。旧港が見渡せるように大きなガラスの窓に囲まれ、テラスもついていますが、雰囲気は大衆的で落ち着きます。お馴染みであるにに違いないような、歳のいったアイスランド人のお客さんも多くホットさせられます。

お相手の邦人女性は私よりも二十も歳が若いのですが、つまりはアラフォーなのですが、才色兼備のシングルマザーです。常日頃から私のことを「お兄ちゃん」呼ばわりして、ワタシが変な勘違いをしないように釘を刺してきます。こちらは対抗して「シノブママ」と呼んでいます。

娘さんがいるので「ママ」と言ったのですが、本人は「チーママみたいに聞こえるからヤメテー」と文句を垂れます。「シノブ」はもちろん仮名ですが、この流れでなぜ「シノブ」か、ピンとくる人はかなり古いです。(^-^;

このシノブママは、フォト、ファッション関係から健康食までいろいろと才能のある方なのですが、特に文才がある、と私は見込んでいます。Facebookとかで、ほんの一言、二言で人の心に刺さる「名言」をしばしばつぶやいています。

ですから以前から「日本でエッセイ集とか出せばー?」というようなことを勧めているのです。今回もそんな話しに触れて、「アイスランドに住む、日本人シングルマザーの子育てとライフスタイルのエッセイ」だったら絶対売れるよー、などと焚きつけたのでした。




カフェvagninn の港側テラス
Myndin er ur Salir.is


「言いたいことは結構あるとしても、それを日本語で表す自信がないなあ」というのがシノブママの弁。「エッ!?」と思い訊き直すと、子育ての問題とかアイスランド語でなら自分の気持ちを的確に表す術を思いつくのだけど、日本語でそこに含まれる情感とかを表し切る自信がないとのお言葉。

ギョギョ! そこまでアイスランド語が生活言語になっているのか? ま、負けてる...

「友達にオーストラリア出身の青年がいて、アイスランド語もペラペラなんだけど、彼も子供の問題とか熱い想いはたくさんあっても、それを伝えるのに英語ではダメだって言ってました」とシノブママ。

これもにわかにはワタシの頭脳には入って来なかったので、説明してもらうと「なんというか、子育てのこととか、アイスランド語で考え始めた問題だから、英語とかでそのことを考えたことない分、その部分に限ってはアイスランド語が先に行っちゃってる、っていうことだと思います」

その点に関してはママも同感の様子。なるほど。

似たようなことは身近にもあります。私の息子は小学生の頃は日本語がペラペラだったのですが、十七、八になり、少し奥深くものを考えるような年頃になってからは、その考えていることを表すのに日本語が追いついていかなくなってしまいました。これは子供の成長過程の一部としてみるならば、非常に自然だしわかりやすい事象です。

でも、そういうようなことが成人した人にも起こり得るということには、正直考えが及んでいませんでした。でも、そういうことが起こるというのは、アイスランド語が相当な生活言語になっている証拠。それはすごいです。

ワタシなんざ、二十六年住んでいても、やはり生活言語は日本語だと思います。ごく限られた状況でアイスランド語が日本語の上に出てくるかなぁ、というところでしょうか。

でも、アイスランド語でなら言えるけど、日本語が追いつかない、ということは私自身は感じたことがありません。もしかしたらこのブログで日本語への転換が鍛えられたか?(*^^*)




オールドポートからのレイキャビク市内方面の展望
Myndin er ur Gramha.is


ああ、でもそれとはちょっと違うところで、似たような思いはありました。ワタシ、詩が好きで、アイスランド語でも詩をよく読みます。スラスラとはいきません。詩を読むのは難しいことです。

で、自分も詩を作ります、アイスランド語で。十年くらい前に詩集を出したこともあります。もちろん自分で詩をスラスラ書けるわけではなく、周りの人に随分助けてもらうのですが。

よく訊かれるのは「日本語でも詩を作るのか?」ということなのですが、これは「いいえ」です。日本語ではまったくダメで、「詩らしきもの」さえできません。理由はわからないです。

母などから「自分で作った詩を日本語に訳して読ませてくれ」とか言われたこともあります。でもそれも「ダメ」です。「訳せるわけがないだろ?」というのが正直な気持ちで、なんというか、違う世界のできごと、なんですよね、アイスランド語の詩と日本語の世界は。

これはうまく説明できないのですが、私に限っての話しをさせていただくと、詩では「この言葉の訳はこれ」というだけではすまなくて、他にいろいろと情景とか、その言葉の対照物とか、なんやかんやと繋がっている部分があると思うんです。

それが「言わずもがな」の部分としてある、それも相当大きな部分としてある。だから、単語の意味を置き換えるだけではとても追いつかないのではないか、と...

逆に日本の「山路来てなにやらゆかしすみれ草」をアイスランド語に訳すのも、おそらく専門的に翻訳を勉強された方でなければできないことだろう、と想像します。

「いまさら〜?」ですが、言葉というのは面白いものですね。今回、シノブママから聞いたこの話しはとても良い思索の材料になりました。まだ、吟味し終わっていませんので、もう少し深くじっくり考えてみたいと思います。

それでは猛暑の続く日本の皆さん。熱中症、くれぐれも気をつけてください。「私は大丈夫よ」というのはやめて、お過ごしくださいますよう。今日が25度になるのを願っている街、レイキャビクからでした。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 真夏の夜のミステリー | トップ | 「なりきり」ボッシュ刑事の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事