レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

カフェを知らない自分に気付いた六月

2018-06-10 03:00:00 | 日記
私はアイスランドの国民教会(the National church of Iceland)の牧師をしています。私の職域は移民の人たちに対するサービスと、移民の周辺に生じる様々な問題に対処することです。

私自身が移民ですので、ある面では公私の区切りをつけるのが非常に難しくなることがあります。公私混同ということは、私の生活の中ではかなり頻繁に出てくる事象です。それは必ずしもマイナスのものとは限りません。

まず「移民目線」で社会のあり様を眺められる、ということは移民牧師の職務を果たす上で、かなり特権的なものだろうと考えます。

例えば自分が移民として不快な体験をしたような場合、それが個人の体験に留まらないで、移民全体の問題としての問題提起に発展したりすることが、よくあります。

一番わかりやすい実例は脅迫です。脅迫は何回か受けたことがあります。理由は「移民のくせにアイスランド社会の批判を口にするとはなんだ。黙れ! さもないと...」ということでした。

二回ほどは、泣き寝入りせず、きちんと警察およびメディアにご報告しました。警察は頼りにしていませんが、メディアはきちんと取り上げてくれて、「脅迫なんかに負けないで頑張って!」というにわか応援団ができてくれたりします。

こういう展開を得ることができれば、「脅迫なんてペイしない。逆効果の方が大きい」という事実を社会に示すことができるわけです。私の場合は二回とも実にうまく展開してくれ、誰だか知らない脅迫者には「あっかんべ〜!」の気分を味わえました。

そういう「プライベートから仕事に」という方向のベクトルではなくて、逆に仕事で体験したことがプライベートのあり様に影響を与える方向のベクトルもあります。




難民の人たちとの祈りの会 ブレイズホルトゥス教会


移民牧師の職務の開始の始めから、いくつかの原則がありました。そのうちのひとつは「移民が社会から切り離されたグループにならないよう、移民とアイスランド人が共にいる環境を造る姿勢で臨む」というものでした。

そのため、移民だけを対象とした英語礼拝というものは持たない主義でやってきました。「移民もアイスランド人も、老若男女全部同じ礼拝(マス)に集うのが教会」という理想です。これは間違っていないと思います。少なくとも理念としては。

さて、ここ三年間ほどは、移民よりはむしろ難民申請者のサポートに埋没しているのが仕事の実情となりました。

その過程で「どうしても難民申請者を集めての英語の礼拝が必要だ」という状況が生まれてきたのです。難民申請者の半分は一年か一年半のうちに強制送還されて去っていきます。その送還の是非はともかくとして、そういう不安定で厳しい時期を過ごしている人たちを教会の礼拝に招かない、ということはおかしい、という気がしたのです。

私としては、これはあくまで「仮のプラットフォーム」であり、滞在許可が得られた人たちの場合は、順次、普通のアイスランド人の礼拝へ移って行く、というのが理想像でした。

で、現在の難民の人たちとの英語礼拝では、毎回三十人から四十人が集まります。毎回同じ人もいますが、半分くらいずつ入れ替わります。滞在許可を得た人は、仕事にもついていますから毎回は来られないのです。そういう人たちが半分くらいは毎回入れ替わって出席しているわけです。

ということからもわかることなのですが、メンバーの半数以上が「元」難民申請者になっています。つまり滞在許可を得た人たちなのです。

以前なら「サッサと一般の日曜礼拝へ移ったら?」と言ったのでしょうが、実際に目の当たりにしていることを見ると再考を余儀なくされてしまいました。

参加者の七割以上がペルシャ語を話す人たち、イラン人、アフガン人、クルド人なのですが、実は英語のできない人もかなりいます。そいう人たちのために、英語のできる人が通訳をしてあげます。

これが、礼拝のプログラムに関してだけではなく、日々の生活の必要に関してもこの人たちは助け合うようになっているのです。病院に行く時とか、役所に相談に行く時とか。

さらに滞在許可を得た人が、新しくきたばかりの難民申請者の相談に乗ってあげたりしていることもごく日常的です。こうしてみると、私が担当している英語礼拝は、実際には英語とペルシャ後の礼拝であり、かつペルシャ語のコミュニティとなりつつあるのです。

このように人々が助け合い、支え合っているのを見ていて、「これはこれで、いいではないか?」という風に私の考えも変わってきたのです。

私の役目は、人がアイスランド人の礼拝へ行くようにけしかけることではなく、むしろこのコミュニティとアイスランド人のコミュニティが、定期的に交わる機会を造ってあげることにあるのではないか?と。

これが、仕事で体験した、というか「している」ことです。

今度はプライベートの方なのですが、私はこの二年間ほど。あまりこちらの他の日本人の方々とは接触していません。以前は日本語教室にも参加していましたし、大学で日本語科の手伝いもしていましたので、わりと他の日本人の方々との接触は多かったのです。

で、二年ほど前に日本語教室を引退した際に、「よし、少し『脱日本人社会』を試みよう!」と心に決めたのでした。「アイスランドに住んでいるんだから、ここのちいちゃな『日本』に閉じこもらないように気をつけないと」

さて、先週の木曜日のことです。このブログを読んでくださっている奇特な日本人の女性の方とお会いする機会がありました。「せっかくだからお会いしてお話しでしたいです」ということで、ご主人と共にお会いすることになりました。




この辺まではかろうじて知ってる、近年再開発されたオールドハーバーのカフェエリア


それで「適当なカフェはどこか?」ということを考え始めて気がつきました。知っているカフェがぜんぜんない。なんで?

今のアイスランドは経済再生が波に乗ってきていて、レイキャビクの街並みはあれよあれよという感じで変わっていっています。その中で、消えて行くカフェあり、リフォームしたカフェあり、さらにそれらを上回って新しいカフェが出てきているのでした。

そして、さらに気がついてしまったのです。「オレ、最近カフェにぜんぜん行っていないんだ」なんで?「あっ! 友達いないからだ!」

ジャーン! そうなんです。私「脱日本」して以来、ほとんどカフェというところへ行っていないのでした。

ひとつの理由は、私がアイスランド人と話をするときは、無駄なお金を使わなくて済むよう、教会で会うことが多いことです。コーヒー紅茶は教会でタダで飲めますから。

しかし、もうひとつの理由は、日本人の人と会わなくなったことです。なにしろワタシは「お友達」と呼べる人は日本人の中にしかいないのです。で、その人たちと会わなくなったら、当然カフェに行く機会も消えることになります。一人カフェはしませんので。

ここで、さっきの教会での移民コミュニティの話しにくっつくのですが、やはり日本人が日本人と会って助け合い、サポートし合うのは当然だし、そんなに意地になって「脱日本」をしなくてもいいんじゃないの〜?という気持ちになりつつあります。日本のセンスでの笑いも必要だし〜。

いやいや、それよりも問題の核心はオマエさんが友だちいないことの方だろ?という陰の声が聞こえてくるような気がしますが。

とにかく、このような具合で、仕事での体験が、逆にプライベート生活の見直しのきっかけになったりすることもあるわけです。

まあ、牧師という職業は公私混合の「気」が高い仕事だと思いますし、このような公私間の影響はまったく気にしません。むしろこれこそ「表裏」がない生活をしている証しではないか! と結論付けるワタシでした。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is

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