『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

『胆に銘じなさい』(五井先生の法話)の後半(その2)

2012-01-15 21:11:39 | 思索

偉い自分などあったらだめだ。

偉い自分も、偉くない自分もないのです。

貧弱な自分もなければ、強い自分もない。

 

そんなものは空々寂々(くうくうじゃくじゃく)、空寂々だ。

それがわかった時に、本当の偉さが出てくる。

 

偉いとか、偉くないとかいうのは、自分で決めるんじゃなくて、はたが決めるんです。

自分で自分は偉いんだろう。自分は少し偉くなったか、

そんなことを思っているような貧弱な心では、偉くならない。わかりますね。

 

自分は人より偉いんだ、聖者なんだ、なんて思っている人があるかも知れないけれど、

五井先生というのは、偉いんだとか、聖者なんだとか、思ってもいない。

 

みんな神さまのほうから云ったり、人が言ったりするんですよ。

このことは胆に銘じておきなさい。

 

 

我欲は一切ならん。我の想いなんか、自分が損するだけだ。甘やかしてくれることはいいことじゃない。

今まではいい。今まではみんながこうやって集まって、五井先生に親しんで、

みんな心がなごんで、つながったからそれはいい。しかし、これからはそれでは亡びてしまうのだ。

 

みんなが本当に世界を救う立場に立たなければならない。

少なくも世界平和の祈りの同志というものは、甘えに来るんじゃないんだ。世界人類を救うために来たんだ。

 

みんな前生からいえば菩薩級なんだ。世界平和の祈りでこのように集まっている人は、

全部、自分では知らないけれども、おばあさんであろうと、おじいさんであろうと、

昔から人を救うため、人類を救いたい、と思う念願で、生れかわり死にかわりして来た人たちである。

 

それをこの世の業(ごう)のためにわからないで、甘える立場になっているけれども、

実は、甘える立場ではなくて、人を救う立場なんだ。

 

世界人類三十億を救うということは、宇宙が平和になることなんであって、

三十億を救うための自分たちなんだ、ということを心にしみて想いなさい。

 

甘えなんか一切いらん。そんなもの何になる!一時のものではないか。そんなものは吹っとばせ!

今度は、きびしく本当に自分を見つめて、

自分の中に甘えがあったら、甘えを世界平和の祈りで消す。

 

怒りがあったら、怒りを世界平和の祈りの中で消す。

不安があったら、不安を世界平和の祈りの中で消す。

自惚(うぬぼ)れがあったら、自惚れを世界平和の祈りの中で消す。

 

自分の中のあらゆる業想念を、自分でもって、世界平和の祈りの中へ入れなさい。自分で入れなければだめだ。

 

今までさんざん、口が酸っぱくなる程五井先生から教わったのだから、もう言葉として教わる必要はない。

だから自分たちで世界平和の祈りの中へすべて入れなさい。

 

自惚れもだめ、

不安もだめ、

嫉妬もだめ、

甘えもだめ。

そんなものは一切消えてゆく姿。

 

これからは世界が変わる。思いもかけないほど変わる。今までのような世界に、人間がいくら生きたって何にもならん。今までの地球人類が何になるか。虫けらのようなものが生きていて何になるか。

 

そんなものはいらない。死ぬなら死ね。貧弱な地球人類なんかあったってなくたっていいんだ。

もう一遍全部やり直したほうがいい。

 

しかしそれでは、折角の神さまの愛もなくなるし、みんなが折角やってきたのに、何にもならないから、

あなた方、世界平和の祈りに集まっている人たちが、まず先頭に立って、

自分たちから甘えというもの、自分の想いというものを全部捨てて、世界人類を救う立場に早くなりなさい。

 

自分の生活は、一切五井先生にまかせてしまいなさい。私が全部引き受ける。

そしてあなた方のやることは、消えてゆく姿で世界平和の祈り。

迷いが出たら祈る。

甘え心が出たら祈る。

不安が出たら祈る。

短気が出たら祈る。

自惚れが出たら祈る。

 

あゝこれは私じゃない、消えてゆく姿なんだ、世界人類が平和でありますように、と心の底から思わなきゃだめ。

心のドン底から思わなければ、自分が損しちゃうんです。

神の子の永遠のいのちを、ここに現わすために、私たちは生きているんです。

みんな肉体を持っている。肉体の波に惑(まど)わされてわからないけれども、

もう永遠に光り輝いているものなのですよ。それがだんだんわかって来ます。

 

頭でもわかってくることは大きいことですよ。それはやがて実際にわかることです。

一切の甘えを捨てよ。

自惚れを捨てよ。

不安を捨てよ。

怠惰を捨てよ。

何に捨てるかというと、世界平和の祈りの中に捨てればいい。

必ずよくなります。

 


『胆に銘じなさい』(五井先生の法話)の後半(その1)

2012-01-15 03:25:24 | 思索

いいですか。

  皆さんが世界三十億を救うんですよ。胆に銘じて下さい。

  皆さんが三十億を救う先達(せんだつ)なんですよ。

 

  世界平和の真祈り(まいのり)の中心なんですよ。

自分たちが救われるんじゃなくて、自分たちが救いに立つのです。

 

  皆さんの過去世をみれば、みんな相当なものです。

それなのに、この世の垢や芥がついて、ヘナヘナなんかしたのだけれども、

実はヘナヘナした人間など一人もいないのです。みんな神の子なのです。

 

  みんな前生において修行に修行を積んだ人間が集まっているのです。

それでなければこの祈りのことがわからない。五井先生がわからない。

少しでもわかるということは、過去世において修行を積んだ賜物なんです。

 

少しでも修行を積むと、神さまがわかるし、霊のことがわかる。だから皆さんは幸せな人たちです。

 

  世界人類を本当に救うために第一歩を踏み出す時に、五井先生とともに、

手をつないで、世界平和の祈りが出来るということは、なんたる幸せよ、と老子(ろうし)は云うのです。

 

老子はいいことを言って下さる。

皆さん、子供さんを育てるのでも、只叱ってはいけませんよ。

本当にその子を愛してそれで叱りなさい。

 

  叱って死ぬなら、死んでもいいんだ。

そんな生(なま)くらで生きているのなら、死んでもう一遍、霊界でやりなおして、

肉体に生まれ変って来い。そういうつもりで子供の教育をしなさい。

 

 そしたらその気ハクに打たれて、子供もしゃんと直るから。

家出されちゃ大変だ、死なれちゃ大変だ、と思うことはない。

そんなことで親たるものどうするか!

 

そんな人間などいくらいたってしようがない。何遍でも生まれ変って来い、と老子は云うのです。

 

生(なま)くらで五十年七十年生きたって、何にもならないんですよ。それは死んでるのも同じ。

 

生きているというのは、生命(いのち)がピンピン生きていること。

いのちが光り輝いて、それで生活してゆくことであって、グダグダしているのは死んでいるのと同じだから、

いっそのこと、バッサリ死んじゃったほうがいい。

 

そうすればやり直しがきくから。生(なま)くらに生きているから、やり直しがきかない。

 死んでいるのと同じような生き方をするなら、一遍死に切っちゃって、もう一遍生れ変ったほうがいいのです。

 

 幽界でビシビシやられ、一言もなくやられ、それでギリギリ一杯のところで、あゝこれは悪かった、

これではいけなかった、と生れ変ったほうがいいんですね。

 

 生きるということは、それ程厳しいことなんですよ。一分一秒もゆるがせに出来ない。

その厳しさに耐えて、自分を見つめて、自分を鍛え上げてゆくことこそ、

魂の本懐であるし、本心開発の一番の近道です。

 

 五井先生という人は、非常に正直な人です。

いつも真っ裸で、サーッと自分を投げ出している。

だから悪いことは悪い。善くなったことは善くなった、と自分でハッキリ認めちゃう。

 

 ちょっとぐらい悟ったから、自分がちょっとぐらい偉くなったからといって、

鼻を高くしていたら、ガーンと老子に杖でぶんなぐられますから、そのつもりでいて下さい。


【3189】『胆に銘じなさい』(五井先生の法話)

2012-01-15 03:19:43 | 思索

『峻厳なる愛』に通じる『肝に銘じなさい』という法話をご紹介します。

2012年に突入した今こそ、本気で寸暇を惜しんで祈るときだと思うのです。

 

世界人類の平和が達成できるか否かの、まさに瀬戸際(分岐点)なのです。

 

★この法話は以前にも紹介したと思いますが、

 今は、「呼吸法の人類即神也の印」があるので、それを徹底的に納得の行くまで組み続ければ良いです。

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『胆に銘じなさい』(五井先生)

 

  世界平和を祈る会は、みんなが神人でなけりゃだめだ。

みんながなんの想いもない、業想念がない、神の心一筋の人間が集まらなきゃ、世界なんか平和になりますか!

 

  口先で「世界人類が平和でありますように」そんなんじゃない。

みんな突きつめて、 「立派な人間に、神一筋の人間になりますように、どうか神一筋の人間になりますように。

 

私の中の業生を全部、持っていって下さい!どうか神さま、お願いします」って、

血の涙を流して、自分の立派になることを願わなけりゃダメだ。

 

  血涙(けつるい)をしぼるんだ!いのちをぶっつけなきゃだめだ。もう甘ったるくて!

  世界三十億の人間が、生きるか死ぬか、その時に自分が選ばれて、ここに生きて、

世界平和の祈りをしている場合に、オケサ節でもやっているような調子でやってたんじゃだめですよ。

 

  地球世界が滅びるか滅びないか。

  人類がそのまま滅亡するか、しないか。

  そういう大事な瀬戸際に立っている時に、

鼻歌(はなうた)まじりで、宗教をやるとは何事だ!

 

  いのちをかけて

  血涙をしぼって

  世界人類が平和になりますように

  私の天命が完うされますように

  といのちをかけて、血涙をしぼらなければダメだ!

 

  そういう人間にみんながなりさえすれば、世界は平和になります。

  これだけの人間が血涙をしぼって、

  「どうか私の天命が完うされますように

  みんなの天命が完うされますように

  世界人類が平和でありますように」

 

  そのように、いのちをかけてやらなければ、

もう生きていても死んでいるも同じだ!

  今、世界は大変なんです。

(昭和38年8月)