『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2231】すべての人は、「内なる平安」を求めている(*^_^*)

2009-09-21 03:22:49 | 思索
すべての人々は、自分の心が「平安」であることを、求めていると思うのです。
問題は、その「平安」をいかに得るかということなのです。
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昨日は、F市での平和集会(各国の平和を祈る会)に参加しました。

そして各国の平和を祈った後、宇宙子科学研究員のOさんの指導で、
日本を含めた特定の国(紛争のある国々)の人々の意識が次元上昇するように、
「呼吸法の人類即神也の印」を組ました。

★『なぜ、自分がこのような「平和集会」に参加しているのか?』と、考えると不思議です。(^^;ゞ

単純に言うと、祈っている時や平和集会が終わったあとの「気持ち良さ(快感)」(笑)を求めていると思うのです。 (^^;ゞ

それは「爽快感」のようなもので、ボランティアをしている時や、楽器を弾いている時の快感に似ています。(^^;ゞ

「~であるにも関わらず、・・・・」というような、「あえてしている自分」への陶酔感(笑)なのかも知れません。


★考えてみますと、どんな人も、「内なる快感(平安)」を求めて行動していると思うのです。 (^^;ゞ

自分の欲望(望み)を叶えるという方法で、「快感(平安)」を得る人もいれば、

瞑想や祈りをすることによって直接、「自分の心」に働きかけて、「心の快感(平安)」を得る人もいます。(^^;ゞ


★「自分の欲望」を叶えるという方法は、「業」を「消えてゆく姿」として「表わす」ことで、「自分の心」を平安にする方法です。

それは同時に、「自分の業の結果」を、なんらかの形で受け取ることなので、再度、自分の心を平安にするために、

また、別の「消えてゆく姿」を表わさなければならないことになります。(^^;ゞ

それに比べて、「自分の心」を、自分で「平安」にする方法は、「業」の結果を受け取ることがないので、「心の平安」が長持ち(笑)します。 (^^;ゞ


★集会責任者のSさんに、「もう、断食はしていないのでしょ」(笑)と言われました。

 私にとってのあの『不食の日々』は、「把らわれのない体」に変わるサイン(「消えてゆく姿」)だったようです。


私のこのごろは、状況に応じて「食べる」という「自然体」です。(^^;ゞ

「食べる」ということに対して、だんだんと無頓着になりつつあります。(^^;ゞ

「食べても良い」「食べられなくても良い」という心境になりつつあります。(^^;ゞ

「これ」が食べたいと思うものが無くなりつつあります。(^^;ゞ