『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1960】釈迦の遺言は二本立て

2009-02-24 21:57:35 | 思索
『釈迦の遺言は二本立て』は、朝日新聞夕刊のコラム『日々是修行』(佐々木閑氏)の題名です。
とても興味深い内容でした。

★釈迦は「私が死んだ後の拠り所は二つある。一つはお前たち自身。
そしてもう一つは、私の教えである」と言い残して移行したそうです。

仏教は「自分で修行する宗教」であり、
悟りへの道順は『教え』として示されています。

この「自分の修行」と「教え」という二本立てが、
他の宗教とは違うところです。(^^;ゞ

「白光の教え」も、「自分」と「教え」の二本立てですね。(^^;ゞ

『世に、すぐれた教えや思想は多いが、それを知るだけでは意味がない。
自分で考え、実践する気概があってはじめて価値が出る。』のだそうです。

【1959】「退屈」・「面倒」と思ってもよいのです(*^_^*)

2009-02-24 21:54:44 | 思索
【1957】で、「退屈」「面倒」という語句を書きましたが、(^^;ゞ
これは否定的な言葉です。

こういう想念(言葉)も、「消えてゆく姿」だと思いました。

つまり私は、「退屈は嫌だ」・「面倒は嫌だ」という自分の気持ちに把らわれていたのです。(^^;ゞ

『「退屈」・「面倒」と思う自分は良くない』という価値観を当てはめて、
勝手に苦しんでいたのです。(^^;ゞ

「退屈」・「面倒」と思う自分を受け入れることができていなかったのです。(^^;ゞ

生きている最中に、「退屈」・「面倒」と思うことがあってもよいのです。(*^_^*)

「退屈」・「面倒」だと思うのが嫌なら、
そう思わない人生を、自分で築き上げればよいのです。

自分次第なのです。(*^_^*)

【1958】人は、「自分が生きていることの意味」に気づいて感動をする

2009-02-24 21:39:46 | 思索
【1957】を書いた後に、何に感動をしたのかを考えてみました。(^^;ゞ

それぞれの人たちが、それぞれの思いを遂げるために、
この世に誕生していて、それぞれが、そのカルマ(縁)を完とうしようとしている
「けなげさ」や「ひたむきさ」に感動したのだと思いました。 (^^;ゞ

自分の周りにいる、私に縁のある方たちも、
私と共に生活することによって、
いい意味でも悪い意味でも(笑)、
「私を助けてくれている」と思えると、嬉し涙があふれます。(^^;ゞ

私は、「自分が今ここに生きていることの意味」に気づいて感動し、
涙が出たと思うのです。 (^^;ゞ