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22720原爆の、その日。生残った重要人物は2人だけ、高野広島県知事と畑第2総軍司令官

2013年08月07日 03時50分36秒 | thinklive

*以下の記述は、鬼塚英明の「日本の最も醜い日」に記述された内容の確認を進めている過程である、

*広島の原爆投下事件で、最重要人物の2人だけが生き残るという確率はありえない、対象から除外されていたということである、

* 原爆投下の真実について述べたのは国内ではこの書だけであり、何故,8/6のその日に。9時前というその時間に、原爆が投下されたのかのナゾを解き明かしている、偶然に、その日。その時刻に投下されるはずがない、明確な目的の元にその日、その時刻で無ければ出来ないことを成し遂げるために原爆は投下された、第2総軍の軍幹部は降伏を受け入れない、もし降伏を東京が受け入れれば、東京へ攻め上り、軍首脳を排除,天皇を擁して最後まで戦う、覚悟でいた、第2総軍司令官がたとえ天皇の命であるといえどもそれは聞けない、と言う状況であり日本が、降伏を受諾できない状況にあった、

だから原爆広島投下は第2総軍壊滅を主目的として行われた、これは天皇の決断でなければ出来ないことだ、と鬼塚は書いている、この事実は聖戦と呼ばれた昭和戦争の真実を解き明かすキーの1となるものであるが,鬼塚のカギを使って戦争の事実を解き明かそうとするものはいない、昭和天皇救済論ばかりが巷には溢れている、

原爆はある意味で降伏へ向けた内戦であるといえるであろう、それ以外にも降伏受諾のまえには皇族を動員した内戦の結末のような事件も起きているだその詳細も同書に詳しい、ボクは戦後史のなかでも、「日本の一番醜い日」が日本の敗戦の真実を歴史的に整合して明らかにしたと考える、

*畑総軍司令官、高野広島県知事の2人が生き延びたのは、畑司令官は比治山の知事別宅に借り住まい、当日の原爆投下を知っていた唯一の人物で、高橋知事は畑司令官からただ1人、原爆投下を明かされた人物、高橋知事は夫人にもその情報を明かさなかった。夫人は市内の知事公邸で死去された、

高野 源進(たかの げんしん、明治28年(1895年)3月15日 - 昭和44年(1969年)1月4日)は、日本の内務官僚、弁護士。官僚としては主として警察畑を歩き山梨県知事・警視総監などを歴任したが、特に原爆被災時の(官選)広島県知事を務めたことで知られる。

 ■畑元帥、背負われて川を渡る

 広島県御調郡出身の宮地稔雄は1945年4月、2度目の召集を受け野砲兵第5連隊に配属された。6月には部隊の名称が中国軍管区砲兵補充隊(中国第111部隊)と変更となった。部隊は広島城の西側にあり、堀を囲むように2階建ての兵舎が4~5棟建てられ、4個中隊が駐屯していた。

 8月5日、宮地は上官である軍曹の許可を得て、山口県光市の親戚に行き、翌6日の朝9時に広島駅に着く列車で部隊に帰ることになっていた。6日、列車が岩国を通過するあたりで原爆がさく裂、五日市から憲兵隊のトラックで広島市内に向かった。しかし、相生橋付近で先に進むことができなくなった。この時、激しい雨が降り始め、全身ずぶぬれとなった。ようやく雨が止んだので部隊に帰ってみると、兵舎は無残な状態で、建物はみな砕け散り、焼けて灰となり、雨に洗い流されて何もなかったようにきれいになっていた。 
 「定かな記憶ではないが」と断ったうえで宮地は、この時、出会った第二総軍畑俊六司令官について、次のように書いている。

  「おそらく8月6日の黒い雨が降った直後、横川の対岸あたりで、第2総軍司令部の畑俊六大将に出会いました。そばに付いている副官から『畑大将をぬらさないように、背負って天満川を渡れ』と命令されました。畑大将は小柄な人で、命令通り背負って川を渡りましたが、重くは感じませんでした」。

 れまでの防衛総司令部を廃し、日本列島を鈴鹿山系を以って東西に二分し、東部を第1総軍が担当、西部を第2総軍が担当、第2総軍は中部軍管区及び西部軍管区の防衛を主任務として、連合国軍上陸が予想される南九州を重点に編成され、連合国軍の沖縄上陸の6日後の4月7日には総司令部が広島市(二葉の里[1])の旧騎兵第5連隊本部に置かれた。

連合国軍の主力アメリカ軍は、昭和20年(1945年)8月6日に広島市へ原子爆弾を投下した。これにより第2総軍の総司令部以下全組織は壊滅的な被害を受けた。総軍の中枢部が崩壊し諸部隊も全滅に近い状態となり、命令系統不全となる。このため爆心地から4kmと比較的離れた宇品にあった陸軍船舶司令部所属の暁部隊が救護・救援活動の主力となった。
全壊全焼エリアの第2総軍総司令部は、午後2時に独断で広島市に戒厳令を布告した[2]。そして在宇品の陸軍船舶司令官佐伯文郎中将を広島警備担任司令官に任命した。以降、第2総軍は原爆負傷者の救護・救援活動を任務とする。だが、8月15日に日本軍は無条件降伏し救援業務を広島県と広島市に引き継いだ。
総司令官の畑俊六元帥は、A級戦犯の被疑者として逮捕され、終身刑の判決を受けた[3]。

 ■高野源進広島県知事 (1895年3月15日~1969年1月4日)

 福島県会津生まれ。東京帝国大学法学部法律学科(独法学)を卒業、1923年に内務省に入省、警視庁警部(警務部警衛課)となった。その後、東京都内の各署を歴任したのち警視庁警務部長を経て、1941年から42年7月まで山梨県知事。

 太平洋戦争中には陸軍司政長官として東南アジアの占領地に派遣。帰国後は防空総本部業務局長・大阪府次長を経て、45年6月、新設の中国地方総監に転じた大塚惟精の後任として広島県知事に着任した。(以上、「wikipedia」より)

 8月6日午前には、芦品郡府中町(現・府中市)におり、随行していた広島県警片岡光人刑事課長らと原爆投下の報を聞いた。高野は黒田増夫秘書らと広島に向い、途中海田警察署で、被爆状況を聞いたあと、午後6時半頃、比治山の多聞院に着いた。広島市中町の知事公舎にいた夫人は死去した。

 多聞院に「広島県県防空本部」を設置し、翌7日早朝、焼け残っていた市内中心部の東警察署(現・広島銀行銀山町支店)に防空本部を移転して臨時の県庁とした。また、この日付けで広島県知事諭告(別項「フムフム資料館」参照)を出した。
この日10時から、二葉山防空壕内の第二総軍司令部で軍・官・民の三者合同会議が開かれ、救護や復興について協議した。この会議は第二総軍の申し入れで同軍の主催とされた。

 

高野知事は45年10月11日、県知事を辞任し警視総監に転出、46年1月15日まで在任した。公職引退後は弁護士となる。また、凸版印刷(株)監査役を務めた。1969年1月4日死去、享年73。従5位勲6等を受勲した。

 総司令官

畑俊六元帥:昭和20年(1945年)4月7日 - 10月15日
総参謀長
若松只一中将:昭和20年(1945年)4月6日 - 7月18日
岡崎清三郎中将:昭和20年(1945年)7月18日 - 10月15日
総参謀副長
真田穣一郎少将:昭和20年(1945年)4月6日 - 9月10日
寺垣忠雄中将:昭和20年(1945年)9月21日 - 10月15日
三好康之少将:昭和20年(1945年)9月21日 - 10月15日(第15方面軍参謀副長と中部軍管区参謀副長を兼ねた)





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