歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

大津市・穴太遺跡 渤海使がもたらしたか? 平安時代の「腰帯具」出土

2022年10月30日 | Weblog
 大津市文化財保護課は30日、同市弥生町の穴太(あのう)遺跡の発掘調査で、平安時代(9世紀後半~10世紀)の小川の跡から金銅製の腰帯具(ようたいぐ)の巡方部分(2.7cm×3.2cm)が出土したと発表した。腰帯具には忍冬唐草文と呼ばれる文様があり、当時日本と直接の交易のない契丹系の文様要素があるとし、朝鮮半島の北で栄えた渤海の使者からもたらされたものとみている。
 今回発見された腰帯具は、韓国・済州島の龍潭洞遺跡で見つかったものと文様が一致したという。
[参考:共同通信、毎日新聞、産経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 穴太遺跡
 渤海
 腰帯(具)
 済州龍潭洞

渤海使が日本にやって来たことは、『続日本紀』巻十神亀四年(727)を初めとして、延喜二十年(920)までの間に多数書き残されている。
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慶州市・チョクセム地区 新羅時代木槨墓から中国式金銅製腰帯装飾が出土

2020年11月19日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立慶州文化財研究所は、2019年に発掘調査した慶州チョクセム(쪽샘)L17号木槨墓(목곽묘)から中国(中原)式腰帯装飾(허리띠장식)と各種馬具類、闘具と鎧片、多量の土器が一緒に出土し、以後この遺物は保存処理を経て最近復元を終えたと発表した。
 L17号は主槨と副槨をもつ木槨墓で、それぞれの墓壙が長さ8.5m、幅4.1mと残存長さ2.7m、幅4.1mの規模で今まで発見された慶州地域木槨墓中で最も大きいという。製作時期は4世紀。
 腰帯装飾はL17号主槨西側から出土した。 金銅で製作され模様は龍が彫られたと推定される。龍頭はなくなって正確な形態を分からないが、龍の胴と足、尾部分が残っていて一部模様の様相を確認することができた。このような中国式腰帯金具装飾は一般的に中国で製作されて韓半島に輸入された最高級物品の中の一つで、新羅王京である慶州で初めて発見されたことはその意義が非常に大きい。
[参考:2020.11.16聯合ニュース]

関連ニュース・情報
帯金具
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金海大成洞古墳群88号墳と91号墳のその後

2012年09月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 金海市大成洞古墳博物館による金海大成洞古墳群7次発掘調査が2012.6.4から始められ、現在も進行中?である。
 日本の歴史を探る上でも関連のあるとても重要かつ大きな発掘成果であるが、残念ながら日本では新聞に取り上げられていないし、日本の考古学者・歴史学者などからの発信もされていない。 ところが、日本の考古学者・歴史学者も多数訪れているという。 いかに「歴史」といえども、大事なニュース性があるのであれば、早い対応(発表など)を望むところである。
 韓国の「新聞」「ニュース記事」より、6月4日以降、現在までの簡単な発掘調査経緯を追ってみた。

6月4日 発掘調査を開始
8月8日 現場説明会を開催
 今回の発掘調査結果、竪穴式石槨墓5基、木槨墓2基が発見された。 この中、88号および91号木槨墓は規模からみて支配者階層の墓と推定され、特に特に91号墳は墓の規模と出土遺物からみて王級墓に該当する。
 91号墳墓は4世紀第2四半期築造と見られ、龍文金銅辻金具、金銅鈴など慕容鮮卑系の遺物が出土した。
 88号墳は4世紀第3四半期築造とみられ、巴形銅器2点、銅鏃など倭系の遺物が出土した。
8月16、17日 2日間で約10人の日本の考古学者が大成洞古墳群を見学した。
8月20日 大成洞古墳博物館に嶺南・九州考古学共同研究会所属の日本考古学者約40人のほかに、日本から来た研究者を併せて70名余りが訪問して第7次学術発掘調査結果を確認した。
 この日までに、88号墳では巴形銅器が計8個見つかった。 巴形銅器が6個相次いで出土した場所では木製盾と箭筒の痕跡も確認されている。
 91号墳で発見した馬具、馬鈴、銅鋺(青銅器)等の三燕時代の遺物に関する関心が高い。 日本では5世紀後半古墳時代に三燕の影響を受けた遺物が発見された。 この遺物を基に、倭と三燕が直接交流したという説と伽耶か新羅を経由した間接交流がなされたという二種類説があるが、ともに根拠が充分でなかった。 しかし91号墳で4世紀前半三燕遺物が発掘されて伽耶を通じた交流が確認されたわけだ。…としている。

9月10日までに91号墳で龍文様が透彫された金銅製腰帯金具が出土した。 一方、88号墳墓では巴形銅器の出土が合計12個に達したという。

今回、韓国のメディアが、出土した遺物の漢字表記で違和感を覚えたものが2つあったので挙げておくことにする。
① 金銅辻金具(금동십금구)→ 金銅十金具と表記している。
② 巴形銅器(파형동기) → 波形銅器と表記している。

過去の関連ユース・情報
 2012.8.9大成洞古墳群 4世紀の木槨墓2基を発見 うち1基は鮮卑族との交流を示す遺物が出土

2020.11.19追記
2013.08.30から大成洞古墳博物館で大成洞古墳群の重要遺物が初公開された。
一年前に4世紀大王級墓である88号墳と91号墳から、龍模様が彫られた立派な金銅製遺物など合計150点余りの重要遺物が出土したが、この遺物がたくさんの写真資料とともに展示された。
龍模様のある金銅製遺物は韓国で発掘された遺物中最も古いことが確認され、大成洞の4世紀代古墳で発掘されたという事実は、その当時この地域が先進地域であり、中国・倭との交易中心地だったことを語っているとしている。
最初に91号墳から出土されたという龍文金銅製腰帯装飾は88号墳からの出土に変わっている?

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公州市・水村里遺跡 百済時代古墳4基をあらたに発掘 金銅履物などが出土

2011年11月01日 | 韓国の遺跡・古墳など
 忠南歴史文化研究院は1日、公州・水村里遺跡(공주 수촌리 유적)を発掘調査した結果、百済時代古墳4基(内訳は石槨墓2基、石室墳1基、土壙墓1基)をはじめとして青銅器時代土坑、初期三国時代土坑を含む計23基に及ぶ遺構を確認したと発表した。
 中でも8号墳内部ではかなり腐食が進行した金銅履物一組と柄か鞘に漆を塗った刀子などが収集された。
 百済時代土器の遺構からは、大壺、広口壺、広口長頚壺、短頚壺、短頚小壺、高杯などの土器類、他に環頭大刀、輪轡、鐙、棺釘、鎹(かすがい)、腰帯、勾玉、土製防錘差、石鏃などが発見された。
 水村里遺跡は2003~2004年の発掘調査結果、百済時代墳墓6基が確認され、金銅冠2点と金銅履物3組など4~5世紀台の百済の遺物が多量に発見された。
[参考:聨合ニュース]

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忠南燕岐郡・羅城里遺跡 百済漢城時代5世紀頃の豪族や中央官僚クラスの集団集落を確認

2011年05月12日 | Weblog
 韓国考古環境研究所は12日、忠南燕岐郡の錦江(금강)北岸の羅城里遺跡(나성리 유적)約10万㎡を昨年5月以来発掘調査した結果、ここが百済漢城時代首長層の集団集落であることを示す証拠を捜し出したと12日明らかにした。
 昨年の調査では、土壙木棺墓から金銅履物、金銅腰帯、木の鞘の刀と青銅に金箔を被せた玉類、金銅製矢筒などの遺物が収集され、韓国最古の氷庫(빙고)跡が見つかっている。
 特に今回の調査であらわれた区画屋敷(구획 저택)18ヶ所と付属建物跡、道路痕跡などは日本考古学界では豪族居館と呼ぶ遺跡に該当すると評価され、古代韓半島と日本列島間の文化交流様相を追跡するのに貴重な資料になるとしている。
 最大長さが34×30mの平面梯形状の区画屋敷や約15×10mの周溝付建物跡などが発見された。
[参考:聯合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2010.11.8 羅城里遺跡 4~5世紀の物流センター 韓国最古の氷庫跡も確認

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忠南燕岐郡・羅城里遺跡 4~5世紀の物流センター 韓国最古の氷庫跡も確認

2010年11月08日 | Weblog
 韓国考古環境研究所は8日、忠南燕岐郡羅城里で錦江北岸の羅城里遺跡(나성리 유적)を発掘調査した結果、初期三国時代~百済時代(4~5世紀)住居跡3基、土壙墓6基、甕棺窯6基、竪穴遺構67基、溝状遺構15基、掘立柱建物跡12基などの遺構と道路痕跡、井戸跡、木の柵列などを確認したと8日話した。
 住居地と倉庫地から高床家屋跡が現れ、本遺跡は錦江に入ってきた船の物品を荷下ろしし保管する当時の物流センター場所とみられるとしている。
 ある土壙木棺墓から、木棺の床板が腐らないまま発見され、そこから金銅履物一組と金銅腰帯、木の鞘の刀と青銅に金箔を被せた玉類、金銅製矢筒などの遺物が収集された。
 金属製履物は、上部は腐ってなくなっているが、最下層部が2足とも残っていた。そこには菱形紋が連続して象られている。
墓を作った年代は、出土した広口長頚壺からみて5世紀中・後半頃であると推定され、したがって公州水村里遺跡1号墳で出土した金銅履物(注1)よりは遅く製作されたとみられる。
 ほかに、韓国最古の氷庫(빙고)跡が見つかった。 地面を約2mほどすり鉢状に掘り、溶けた氷の水が外へ排出されるように砂利による排水施設を置いた簡単な構造だ。(注2) 韓国での昔の氷庫は、慶州の朝鮮時代の石氷庫とソウルの東西氷庫などが知られるが、今回発見された氷庫はこれら遺跡より千年以上早い。
[参考:聨合ニュース、大田新報]

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(注1)5世紀初め
(注2)日本では氷室
最近では、府中市武蔵国府関連遺跡(8世紀前半)と奈良市春日大社(奈良時代?)で見つかっている。
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甲府市・塚本遺跡 古墳時代の須恵器平瓶?と奈良時代の腰帯具が出土

2010年06月30日 | Weblog
 甲府市教委が同市の千塚小校庭で行っている塚本遺跡の発掘調査で、古墳時代の陶質土器・須恵器の甕や奈良時代のベルトの装飾品「腰帯具」が見つかった。
 委託を受けて調査している帝京大山梨文化財研究所によると、2点とも当時の役人が所有する品であり、同校があるエリアが地域を治める上で重要な拠点となっていたことが推察されるという。
 須恵器(注1)は高さ、直径ともに約30cm。液体が注ぎやすいように、注ぎ口が中心からずれた位置に付いているのが特徴。祭祀の際、酒を入れるなどして使用していたと推測される。
 腰帯具は縦約2cm、横約3cmの銅製。大きさからみると、役人が身に着けていたものとみられる。今回の出土品の発見によって、少なくとも古墳時代から奈良時代にかけては役人クラスが住んでいた集落だったと推察されるという。
[参考:山梨日日新聞]

注1: 須恵器平瓶か。最上部に出来る穴は塞いで、すぐ隣に穴をあけ注ぎ口を設けているのが特徴。穴を塞いだ粘土板部にはボタン状の貼付文らしきものが見える。


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慶州平野内・塔洞 2千年前の新羅建国勢力の首長の木棺墓を発掘か? 

2010年06月19日 | Weblog
 韓国文化財保護財団文化財調査연단は18日、慶州平野内塔洞(경주평야내 탑동)で小規模一戸建て住宅新築予定地を発掘調査した結果、木材が自然炭化する過程で炭のように変わった木棺の痕跡や多くの遺物を発掘したと発表した。紀元前1世紀中~後半に作られたと見られる首長級人物の木棺墓とみられる。慶州平野でこのような木棺墓が発見されたのは初めて。
 これで新羅が胎動した場所は、「慶州平野一帯辺りではなく、舍羅里130号墳や朝陽洞38号墳と同じ大型木棺墓が発見された慶州郊外周辺地域である可能性が高い」とする考古学界の主張が弱くなるものと見られる。
 木棺を埋めた墓壙は、長方形(長さ296㎝、幅144㎝)で東西方向に軸を設けていた。木棺は発見された痕跡から見ると、平面形状は「ㅍ」字形で大きさは長さ196㎝、幅84㎝であった。
 木棺内部から漆鞘銅剣(칠초동검)と漆鞘鉄剣(칠초철검)、刀の柄の剣把頭飾(검파두식)、青銅釧(청동 팔찌)、首飾り、そして死体の顔を隠すのに使ったものと推定される漆器扇(부채)などの遺物が大量に発見された。また、墓壙と木棺を覆った充填土からは紀元前2~1世紀頃この地域を代表する土器の組合式牛角形把手附壺(우각형 파수부호)、両耳附壷(양이부호)、袋状壺(주머니호)や、北方系遺物と評される鉄鍑(철복)、鉄帽(철모)、轡(재갈)、腰帯の虎形帯鉤(호형대구)、炭化した跡にだけ残った漆器(칠기)も多量に発掘された。
 これら遺物中、カエル装飾が慶北氷川入室里遺跡(입실리 유적)に次いで2番目に確認された。
 この墓は朴赫居世(박혁거세)が新羅を建国した紀元前57年と近接した紀元前1世紀中~後半に作られたと推定される。
 今回出土した死体顔面を覆う扇の事例は、昌原茶戸里遺跡(다호리 유적)1号木棺墓で初めて確認されて以来、慶北星州郡礼山里遺跡(예산리 유적)40号墳、金海市鳳凰洞遺跡(봉황동 유적)、そして慶北慶山市押梁面遺跡(압량면 유적)94号木棺墓から発見されており、今回の慶州発掘事例まで総合すると、このような独特の埋葬風習が紀元前後頃今の慶尚道地域全域にかけて流行したという事実を後押しした。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2008.11.28慶尚南道昌原市北面・茶戸里遺跡 出土品から現れた新しい発見!

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慶南昌寧・校洞古墳群 5世紀半ば以降の銀製腰帯、環頭大刀などが出土

2010年04月07日 | Weblog
 韓国国立伽耶文化財研究所は7日、慶南昌寧の校洞古墳群(교동고분군、史跡 第80号)で5世紀半ば以後に作られて埋葬されたとみられる三国時代の銀製腰帯(은제허리띠)が完全な形で出土したと発表した。
 昌寧郡が行っている校洞古墳群駐車場整備の過程で、横口式石室墳(횡구식석실분)1基を発見した。直径が約19mの中大型墳であり、石室は長軸が6.7mに達する細長方形であった。遺物を入れる副葬空間と死体安置のための屍床台(시상대)、殉葬空間(순장공간)などもあった。
 墓からは、管玉を使った銀製腰帯と環頭大刀が埋葬され、副葬品では各種土器類と馬具類、殉葬人骨片などが発見された。
 同研究所は8~10日の3日間にかけて、午後3~4時に一般を対象に発掘現場を公開して説明会を開催する。
[参考:聨合ニュース]



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渋川市・行幸田寺後遺跡 平安時代の石帯の「巡方」が出土

2010年02月16日 | Weblog
 渋川市が発掘調査していた同市行幸田の行幸田寺後(みゆきだてらうしろ)遺跡で、平安時代の住居跡から役人が身に着けていたとみられる石帯という腰帯に付ける飾り「巡方」(じゅんぽう)が出土した。
 出土した巡方(幅3.3cm、厚さ6.0mm)は、石製で濃緑色。奈良~平安時代の役人は、官位ごとに身に付ける帯金具と石帯で飾られた銙帯(かたい)にも、色や幅が細かく決められていた。
 巡方を含めた同様の装飾品の出土例は県内で100例を超えるとされるが、国衙など大きな役所がなかった同地にも役人が住んでいた可能性があるとみられる。
 同市ではこれまでに、かまぼこ型の飾り「丸鞆(とも)」4例と、巡方と思われる破片の出土があるが、完全な巡方の発見は初めてという。
 出土した巡方は、現在、北橘総合支所内の同課で展示されている。
[参考:上毛新聞、渋川市HP]
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徳島県阿南市・川原遺跡 「那賀郡衙」跡か

2010年01月11日 | Weblog
徳島県阿南市・川原遺跡 「那賀郡衙」跡か(2)
 那賀郡は、大化2(646)年正月、大化改新の詔によって地方組織として国、郡、里が創設された時に置かれた。平安末期に那東、那西の2郡に分割されるが、江戸時代・寛文4(1664)年に両郡が合併して那賀郡が再置された。
 郡衙は阿南市宝田町郡に置かれた説が有力である。
 今回、川原遺跡(宝田町川原)は市営住宅建設に伴って発掘調査された。同遺跡は桑野川下流左岸に位置し、水運の便がよかった。
 次の遺構、遺物が出土した。
 ① 総柱建物跡(東西二間×南北二間)。倉庫跡と考えられる。ほかにも4棟の掘立柱建物跡が見つかった。
 ② 石帯(丸鞆(まるとも)=半円形のもの)2点。
 ③ 緑色の釉薬が施された陶石。この種のものは8世紀から12世紀中ごろまで生産された。
 ④ 須恵谷のミニチュア土器壺、土師器皿、碗等が約6000点出土。
 遺品はいずれも官衙的要素と祭祀関連遺物の強いものから見て、この遺跡は郡衙の一部分と考えられる。
 川原遺跡のすぐ西に「郡」の地名があり、天平時代に創建されたと考えられる立善廃寺跡(注1)と隣接している。
[参考:2010.1.10毎日新聞]

(注1) 立善廃寺跡
那賀川によって形成された沖積地に位置する。現在は地名に「大門」など、寺に関係する地名が残るのみでその範囲ははっきりとしない。古くから近辺で大量の瓦を出土することが知られていた。県内で最古の寺院の一つであると考えられ、当地を支配していた豪族の氏寺の可能性もある。
天智天皇が創建したと伝える古文書があるが、詳細は不明。中世には荒廃していたと考えられている。
[参考:徳島県立埋蔵文化財総合センターHP]

2009.10.22 掲載分
徳島県阿南市・川原遺跡 「那賀郡衙」跡か(1)
 阿南市教委は、桑野川左岸下流域にある川原遺跡(同市宝田町)から平安時代中期(9~10世紀)の掘っ立て柱建物群や当時の役人が腰帯に装着したと見られる石製飾具などの土器が出土したことから、当時に周辺を治めた地方役所跡の可能性が高いと発表した。
 南北2カ所に分けて発掘していた北側から東西11m、南北5mの規模で溝状遺構や柵列、掘っ立て柱建物群跡が出土した。
 遺物として当時の役人が正装時の腰帯につけた石製飾具「石帯(せきたい)」2点や、緑釉陶器椀、9世紀から10世紀にかけての土師器や須恵器などが見つかった。
 同市教委は、一般集落跡からは出土しない高価な遺物が見つかり、近くに「郡(こおり)」という地名が残り、古代の寺院・立善(りゅうぜん)廃寺跡があることなどから、現在の阿南市や那賀郡一帯を治めた平安時代の地方役所「那賀郡衙」跡の可能性が強いとみている。
 現地説明会が既に10月10日に行われた。
[参考:2009.1.22朝日新聞]


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韓国・忠州下九岩里 新羅古墳群を発掘中、現地説明会を実施

2009年07月28日 | Weblog
 今年6月10日に国立中原文化財研究所は、新羅時代最大遺跡地の1つである可金面(가금면)下九岩里古墳群(하구암리 고분군)一帯の分布状況に対する精密実態調査とGPS測量を完了させ、本格的な発掘を開始すると発表したが、本日7月28日(火)、午後1時30分より発掘調査現場で、説明会が開かれた。
 25、27、28号墳の3基を標本として発掘調査。
 古墳3基は皆、南側傾斜面方向に羨道を現わす地上式横穴式石室墳である。
 封土の流失を防ぐために1段の護石がある。
 傾斜面に位置した27・28号墳は封土周辺に溝が作られている。
 稜線の峰に位置した25号墳は棺を安置する玄室の周囲に割り石を使い、1m以上の厚さで補強して、封土を水平に重ね重ねに固めてあげて玄室を密封した版築状態が確認された。
 出土遺物は短脚高杯(짧은굽다리접시)、台付長頚壺(굽다리긴목항아리)の土器類を主として、25号墳の屍床では金銅製腰帯装飾とイヤリング1組が出土した。
 これらの遺物は、2008年に調査した楼岩里古墳群(6世紀中~後半)の出土品と似た様相を帯びているという。
 今後、下九岩里古墳群全域にかけて、実態調査と標本発掘をする予定。
[参考:聯合ニュース]

過去のニュース・情報
 韓国・忠州下九岩里 新羅古墳群の発掘を計画
 忠州楼岩里古墳群を発掘 「本軌道」


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ロシア・沿海地方で高句麗あるいは初期渤海の遺物を初めて発見、陶磁器破片に「道隆弘知」の文字

2009年07月22日 | Weblog
 東北亜歴史財団と釜慶大、ロシア科学アカデミー極東支部が昨年に続き、ロシア、沿海州豆満江付近ポシエト(Posyet)湾周辺にあるクラスキノ城(塩州城、염주성)発掘現場で20日間の共同遺物発掘作業の結果、高句麗時代のものとみられる遺物が初めて発見された。
 沿海州を含む極東ロシアの一部地域が高句麗の支配下にあったという記録はいろいろな文献に出てくるが、考古学的遺物が発見されたことはなかった。

遺物の概要
①住居地2ヶ所と市場などが立ち並んでいた跡とみられる3ヶ所で、せいろ(시루、蒸し器)、陶磁器破片、腰帯、農機具、瓦窯の焼き跡など遺物が多量に出土した。
特に発掘現場1角の深さ約2mの地点で、かまどとせいろなどが出土し、壁面には住居跡であることを示す黒い帯が現れ、初期渤海または高句麗時代の住居跡だった可能性を見せている。
②周囲1.2kmの城跡では、石で地盤を固めて土で覆った土石混築方式の城跡と、城門を防御する甕城(おうじょう、옹성)が発見され、高句麗の伝統的な築造方式のため、この城は高句麗時代の城か高句麗の築造方式をまねた初期の渤海の城とみられる。
③今回の発掘現場では、「道隆弘知」、「世」、「面者」と書かれた陶磁器破片が発見された。
道隆弘知という字は、壊れた陶磁器の中に落書きした形で残り、この字は陶磁器に陰刻されたため渤海の遺物発掘現場で四字の字が一度に出てきたことは非常に異例だ。ある関係者は「日本側発掘団は、道隆弘知が日本人僧侶でその人が渤海に文物を伝播したと主張するが、渤海は日本に34回使節を送ったのに、日本はせいぜい15回の使節を送ったという日本側記録をみると、話にならない説」と一蹴した。
④一方、この城の井戸の場所では契丹の土器が発見され、この城が契丹により滅ぼされた可能性が推定されるため、また、城郊外周辺に女真族古墳200基余りが発見されることにより、この城の主人が高句麗(?)-渤海-契丹-女真族に変わったとみられる。
[参考:聯合ニュース]

渤海(ぼっかい、698年 - 926年)
 中国の東北地方東部・沿海州・朝鮮北部を領土として栄えた高句麗族・靺鞨(まっかつ)族の国。698年震国を建てた大祚栄(だいそえい)が713年唐により渤海郡王に封ぜられ渤海と称した。唐文化を輸入、日本とも頻繁に通交した。都は国都の上京竜泉府(黒竜江省東京城)をはじめ五京(ごけい)があった。926年契丹(遼)に亡ぼされた。(goo辞書より)

過去のニュース・情報
2007.11.16 渤海の遺跡調査で金の装飾品を確認、古代石川と密な交流
 金沢学院大美術文化学部文化財学科の小嶋芳孝教授らは、8―9世紀に今の中国や北朝鮮、ロシアにまたがって栄えた国「渤海」の考古学調査で、金のかんざしや指輪など当時の繁栄がうかがえる貴重な品を初めて確認した。能登や加賀の港を経由して古代石川との交流が深い場所で出土した多様な遺物から、活発な交易が裏付けられたことになる。
 遺物の主な出土地は、塩州城の遺跡「クラスキノ城跡」。当時は延長約1400mの壁で囲まれた中に役所や住居がある港町だった。
 渤海と当時の日本は互いに使節を派遣して物や情報を交換しており、塩州城と越前国加賀郡の郡津(金沢市の畝田・寺中遺跡とされる)、能登国羽咋郡福良津(志賀町福浦港)を行き交う航路は特に盛んに利用された。
 小嶋教授は約10年前からクラスキノ城跡の発掘調査に加わり、昨年10月にロシア科学アカデミー極東支部と共同調査の協定を締結。今年3月、同支部から国内で初めて渤海出土品約30点の化学分析を委託された。
 調査した結果、出土したかんざし3点は銅製で、1点は金メッキが施されていたことが分かった。同じような品は渤海でもわずかな遺跡からしか見つかっておらず、初出土となった金メッキの指輪と合わせ、対外交流で富を得るなどした人物がいた可能性が大きいという。
 唐の古銭や、のちに渤海を滅ぼす契丹の民族が使っていた帯金具など、他国との接触を示すものも見つかり、小嶋教授は「クラスキノ城跡は日本や唐の文化が入り交じったにぎやかな港町だったのではないか」と推測している。
[参考:2007.11.16北陸新聞]

追記
2010.3.3 沿海州・渤海城 発掘調査報告書を発刊
 2007年からロシア科学アカデミー極東支部歴史/考古民俗学研究所と共同でクラスキノ土城(塩州城、염주성)を発掘している東北亜歴史財団は、ロシア側と一緒に2008年度の発掘成果をまとめて『2008年度沿海州クラスキノ渤海城バルヘソン韓ロ共同発掘調査報告書』を最近発刊した。
 報告書によると、城跡から高句麗式土器が出土し、高句麗の村に基づいて建設された可能性が大きいこと、また、住居から出土した土器の底から「道隆弘知」と書かれた銘文は、「道隆」と「弘知」が仏教の普遍的価値を表現したものである可能性が高いとしている。
[参考:聨合ニュース]
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米子市・博労町遺跡 奈良時代の役所か 大型掘立柱建物跡が出土

2009年02月07日 | Weblog
 市教育文化事業団埋蔵文化財調査室は6日、同市博労町の博労町遺跡から奈良時代の役所跡とみられる大型掘立柱建物跡が見つかり、身分の高い人物が使った腰帯具や墨書土器片など多数の遺物が出土したと発表した。
 平安時代に書かれた地誌「和名抄」に登場する奈良時代の「半生郷(はにゅうのさと)」の中心部の可能性があるという。現在の米子市一帯と重なる「半生郷」の可能性を示す遺構が見つかったのは初めてという。
 大型掘立柱建物跡は14個の柱穴が縦11m、横4・4mの長方形に並び、大きさから役所跡とみられる。近くに倉庫跡とみられる柱穴が縦5m、横4mの四角形に並んでいる。ほかに11点の瓦片も見つかった。これらを囲んだと見られる区画溝(幅3m、深さ1・5m)の一部も長さ約40mにわたり見つかった。この区域が特別な区画だったことを示すとみられる。
 腰帯具は青銅製4点、石製1点の計5点が見つかった。青銅製の一つは縦3・5cm、横3・2cm、石製は4cm四方。役人が使っていた腰帯に付けるもので、現在のバックルに当たる。「息」「太」などと墨で書かれた墨書土器片約20点も見つかった。
 同遺跡は県立米子工業高グラウンドにあり、調査面積は約7500㎡。今月13日で調査が終了する。
 現地説明会は11日午前10時から開催される。問合せは発掘現場事務所(0859・22・7209)へ。
[参考:毎日新聞]
前出・2008.4.4
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大津市園城寺町 三尾神社 本殿は室町初期建立を確認

2008年07月06日 | Weblog
 園城寺(三井寺)の寺内社の一つ三尾神社(伊東忠美宮司)は、本殿の建立年代が室町時代初期の応永33年(1426)と判明したと発表した。同神社に残された文書に本殿建立の年代は記されていたが、現存の建物と同一か不明だったため、山岸常人・京都大大学院准教授(日本建築史)らが調査。本堂の構造・工法が室町初期の神社建築の特徴と一致した。
 同神社によると、長等山の神として信仰され、貞和3年(1347)に足利尊氏の命で復興し、慶長14年(1609)に大修理があった。政府の神仏分離政策で明治9年(1876)、寺の敷地外に移され、その際の記録に、応永33年に本殿が建立されたとあり、本殿にも「応永三十二年」と墨書された板材がある。神社の修理記録には、応永10年(1403)に本殿の資材や職人を集めた記述があった。
 山岸准教授は県教委の協力を受けて調査。その結果、
・屋根妻の材木の寸法比や組み合わせ方が、14世紀の同寺の寺内社「新羅善神堂」とほぼ同じで、室町時代の建築様式の特徴がある。
・このうち本殿では、中世の手斧・釿(ちょうな)という工具で表面を削った際にできる波状の跡が材木から見つかり、かんなの発達した近世以降の物ではないいことがわかった。
・建物側面にある木材を合掌に組んだ叉首(さす)と呼ばれる部材の幅が広い。
など、南北朝から室町期の特徴を残していたことが判明し、応永の本殿だと結論付けた。
 記者会見した山岸准教授は「県内の鎌倉から室町初期の神社建築はいずれも国宝・重文に指定されており、それに匹敵する歴史的価値がある」と話した。伊東忠美宮司(59)は「建物そのものから、歴史が裏付けられた」と喜ぶ。
[参考:毎日新聞、朝日新聞、京都新聞]
三尾神社
 祭神 伊弉諾尊
 太古の頃、伊弉諾尊が長等山の地主神として降臨したのが縁起の始まりとされ、神はいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らしていたのが三つの尾を曳くように見えたところから「三尾」と名づけられました。 [三井寺ホームページより]
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