歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

伊賀市・東条1号墳 6世紀前半の円墳から銅製四獣鏡、銅釧など350点の副葬品が出土

2012年12月14日 | Weblog
 三重県埋蔵文化財センターは12日、伊賀市東条(ひがしじょう)の標高117mの丘陵上から直径10mの円墳・東条(ひがしじょう)1号墳(6世紀前半)が見つかり、埋葬施設から銅製の四獣鏡や、銅釧と呼ばれる腕輪など約350点の副葬品が出土したと発表した。 四獣鏡の出土は県内8例目で、同時代の古墳からの出土例は県内では珍しいという。
 古墳の埋葬施設は、木棺直葬墓2基と横穴式石室1基(注1)の3基があった。
(注1)横穴式石室は調査区外のため詳細は不明だが、木棺直葬墓2基より後に設けられた。
 木棺直葬墓2基は東西に並び、西側に男性が、東側に女性が、それぞれ葬られたとみられる。
 西側の木棺直葬墓の墓坑の全長は推定6.4mほど、幅1.8m。深さは0.7m。 墓坑の底に割竹形木棺(全長5.8mほど、幅0.8m)を据えた跡が残る。 棺内遺物に、鉄刀(全長115 ㎝、刃渡り95 ㎝)1振、鉄鏃5本、刀子2本。 棺を納めた墓坑を埋める途中で墓上祭祀を行ったと見られる須恵器が配置され見つかった。
 東側の木棺直葬墓の墓坑、木棺は西側のものと比べるとやや小さい。 棺内遺物に四獣鏡(国産)1枚、銅釧1個、翡翠製勾玉、ガラス製勾玉などからなる石製首飾り1点、ガラス製小玉102個からなる腕輪1点、ガラス製粟玉200個以上などが出土した。
 四獣鏡は、直径13 ㎝、外縁部の厚さ5㎜、重量190g。 中央から、紐、四獣、櫛歯文・鋸歯文などが描かれている。
 銅釧は直径7.6 ㎝の円形で、断面は楕円形。 県内では、名張市夏見 上山9号墳(直径15mの円墳)出土の1例(長径5.7 ㎝・短径5.1 ㎝の楕円形、6世紀後半)に次ぐ、2例目。
 棺を納めた墓坑を埋める途中で須恵器を配置(墓上祭祀)したのは西側と同様。
 古墳は標高117mの丘陵上にあり、国史跡の伊賀国庁跡の西約700mに位置する。古墳からは柘植川・服部川を挟んで伊賀国一宮である敢国(あえくに)神社が望める。当地は古代の伊賀國阿閇(あへ)郡で、被葬者は渡来系氏族・阿閇氏に関係した有力者の男女とみられる。
 現地説明会は16日午後2時~3時半に開かれる。
[参考:伊勢新聞、毎日新聞、読売新聞、三重県HP、三重県埋蔵文化財センターHP]



キーワード:敢国神社、阿閇郡、東条1号墳
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橿原市・植山古墳 石室入り口を分厚い土で封印

2012年12月13日 | Weblog
 橿原市教委は12日、第33代女帝推古天皇(554~628年)と息子の竹田皇子(生没年不詳)の合葬説が有力な同市五条野町の植山古墳の2基の横穴式石室の入り口がそれぞれ分厚い土で塞がれ、二度と人が入り込めないよう「封印」されていたと発表した。
 横穴式石室の入り口は石を積んで塞ぐ方式が一般的で、土で固めた古墳は非常に珍しいという。
 東の石室(注1)入り口を塞いでいた盛り土は高さ約4m、奥行き約4m、幅約10m。中央付近からは、幅約1mの通路状の遺構が見つかった。 改葬の際に通路を新たに造り、終了後に再び埋め戻した可能性があるとしている。
(注1)東石室は6世紀末に造られ、竹田皇子が埋葬されていると推測されている。
[参考:共同通信、時事通信、朝日新聞]

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 植山古墳

石室入り口、土で固める=推古天皇合葬説の植山古墳―奈良(時事通信) - goo ニュース
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光州・新昌洞遺跡 韓国最古、紀元前1世紀の絹織物を確認

2012年12月13日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立光州博物館は11日、発掘20周年を迎えた光州・新昌洞遺跡(광주 신창동 유적)特別展「2,000年前のタイプカプセル」を準備する過程で、出土織物を分析した結果、紀元前1世紀頃に生産された国内最古の絹織物(비단、緋緞)を確認したと11日発表した。 これまでは、百済武寧王陵(6世紀)で出土した絹織物片が最古とされてきた。
 調査対象となった布切れは、①幅2cm x長さ3cm、②幅5cm x長さ6cmの2点。 調査結果、①が絹糸で軽くて薄い絹織物である穀(곡)(注1)、絹織物は捩じれが強い強撚糸を使って平織で製織した。 ②は麻織物と分析された。 ともに、これまで確認された韓半島で最古の絹織物と麻織物という。
1995年と1997年調査で、紡錘車(가락바퀴)、糸巻き(실감개、絡子)、ボディーなどの製織関連道具と布切れ、麻の実などが出土されていた。このような遺物からみて、今回確認した絹織物と麻織物は外部から流入したものでなく新昌洞遺跡で直接蚕の繭や痲で繊維を撚って糸を作り、織機を利用して多様な種類の織物を生産したことを見せる証拠としている。
 新昌洞遺跡特別展「2,000年前のタイプカプセル」は12月25日~来年3月3日まで開催される。 今月27日には「新昌洞の木器と漆器」を主題に国際学術シンポジウムも用意される。
[参考: 聨合ニュース、ソウル新聞]

(注1)絹織物の穀(곡)の意味がよくわからない。一般的に「穀」とは籾のついたままの穀物の意味であるが。

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 新昌洞遺跡
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渋川市・金井東裏遺跡 古墳時代の鎧を着けた人骨1体が出土

2012年12月10日 | Weblog
 群馬県埋蔵文化財調査事業団は10日、渋川市金井1827の金井東裏(かないひがしうら)遺跡の発掘調査で、約1500年前に噴火した榛名山二ッ岳火山灰層の下から武具である甲(よろい)(注1)を着けた古墳時代(6世紀初め)の成人男性の人骨1体が出土したと発表した。 実際に装着した状態で見つかるのは初めてという。
 (注)小札甲(こざねよろい)とみられるとしている。
 現地説明会は12日(水)午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、報知新聞、産経新聞、FNNニュース、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP、群馬県HP]

2013.4.24追記
 群馬県埋蔵文化財調査事業団と県教委は、金井東裏遺跡で昨年11月に見つかった甲(よろい)を着た人骨の身長が1.63mと推定されると発表した。 [参考: 読売新聞]

2012.12.13追記
昨日(12月12日)、金井東裏遺跡で現地説明会が開かれた。
 甲(よろい)を着たままで初めて見つかったことなどから新聞紙上でも大いににぎわい、現地説明会には2600人以上が参加した。
 これまで、出揃った情報を基に下記に整理してみた。

1.金井東浦遺跡の場所
 本遺跡(渋川市金井1827-1)は、榛名山・二ツ岳の約8.5km東にあり、吾妻川右岸の中位段丘上に位置している。
2.金井東浦遺跡の主な時代
 縄文~古墳時代、中近世
3.古墳時代の噴火の影響
 榛名山は古墳時代に大きな噴火を2回起こしている。 6世紀初頭に起こったFA (榛名二ツ岳渋川)の噴火、6世紀中葉に起こったFP(榛名二ツ岳伊香保)の噴火である。(注1) 過去の発掘調査で、FAの噴火の際、火砕流が最大15km先に及んだらしい。
(注1) 最近の調査では、FAの噴火を5世紀末(495年頃)に遡るものがある。[「榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の理学的年代決定」2009年 群馬大学理学部早川由紀夫教授、(株)パレオ・ラボ共同論文]
4.今回の発掘調査と噴火の関係
 本遺跡を含め周辺地域一帯には、FPの噴火による軽石が約2m堆積している。 この軽石を取り除いた面では、畑を区画する畔や道状遺構などが検出されている。 直径10㎝ほどの大きさの馬の蹄痕なども見つかっている。
 FP層の下には、FAの噴火による火山灰が約50㎝堆積している。この地層から、樹木の周りに石を配置したとみられる遺構が見つかり、周辺から甕や壺、焼土や炭化物・礫が確認され、中央に孔をあけた5㎜ほどの臼玉も出土することから、祭祀が行われていたと考えられる。(注2)
5.甲(よろい)姿の成人男性の骨などが出土した状況
 人骨(年齢不明)は上記(注2)の場所、厚さ約30cmの火山灰に覆われた溝(幅2m、深さ約1m)で確認され、後頭部付近が破損した頭骨と右大腿骨、左上腕骨、左右の足首付近の骨が確認された。 榛名山の方向を向いて、両膝を付き、うつ伏せの状態であった。 そばには鉄鏃十数本や別の甲もあり、乳児の頭の骨も見つかった。 山の神の怒りを鎮める儀式をしていた可能性があるとしている。
6.甲の種類、構造など 
 甲は高さ60cm、幅50cm。 長さ約5cm、幅2cm、厚さ1mmの短冊状の鉄製の小鉄板が相互に重なり合って出土した。 小鉄板を革紐で組み上げた小札甲(こざねよろい)とみられる。 有力者の古墳の副葬品として全国では少なくとも約300点が出土している。



キーワード: 金井東裏遺跡
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韓国康津郡・月南寺址 高麗時代創建と伝わる以前の百済時代(6~7世紀)の瓦が出土

2012年12月04日 | 韓国の遺跡・古墳など
 民族文化遺産研究院は3日、康津郡城田面月南里月出山(강진군 월남리 월출산)南側山の斜面にある月南寺址(월남사지)を発掘調査し、その結果、瓦当と平瓦をはじめとする6-7世紀頃の百済時代瓦を収集し、既に百済時代に創建した寺刹があったことが分かったと発表した。
月南寺は高麗時代の高僧・真覚国師、慧(1178~1234年)が創建したと伝わり、それ以前を遡る文献記録や考古学的証拠がなかった。
 また、月南寺址三層石塔(宝物298号)は、やはり高麗時代に制作されたものと考えられてきたが、百済様式をたくさん備えた模塼塔であり、建設時期を再検討する契機になるものとみられる。
 全南で百済寺刹はこれまで発掘された前例がなく、百済仏教史上および6世紀頃の全南一帯に対する支配体性を再考するにおいても重要な発見である。
 百済時代の出土品: 瓦当・平瓦当・平瓦・・・全南では初出土
 高麗時代の出土品: 高さ23㎝の金銅製風鐸、石の茶磨(茶臼、ほかの事例では江華 禪源寺のみ)、青磁椅子と花盆、香炉、椅子、薬棒、陶板など多様な陶磁器遺物。中には己巳(1329年)と刻まれた平鉢も見つかった。また、建物壁面を飾った建築材料である陶板が多量に出土した。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2012.2.21 韓国康津郡・月南寺址 試掘調査で12~13世紀の遺構が出土

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大阪府河南町・芹生谷遺跡 6世紀後半の横穴石室を有する古墳4基(石塚古墳群)が見つかる

2012年12月01日 | Weblog
 河南町教委は29日、同町中の芹生谷(せるたに)遺跡で、古墳時代後期(6世紀後半)の横穴式石室4基が見つかったと発表した。 これまで存在が知られていなかった古墳群で、未盗掘の状態で銀製イヤリングや土器などが出土した。出土品の特徴から、古墳時代後期(6世紀後半)のものとみられる。
 石室はいずれも長さ3・5m前後、幅2m、高さ最大1・5m。 墳丘はすでに失われているが、直径12~15m程度の円墳とみられる 住所地の小字にちなみ石塚古墳群と命名された。
 また、府教委の調査で同時期の大型竪穴住居跡4棟が見つかった。近くには、国史跡・金山古墳(双円墳、全長80m、6世紀末~7世紀初頭)があり、古墳造営労働者の臨時宿舎の可能性もあるという。
[参考:朝日新聞、産経新聞]

キーワード: 芹生谷遺跡、石塚古墳群、金山古墳
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