天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

岩里 政男(李登輝)と日本人

2016-02-08 19:36:52 | 歴史

政治的立場が違うから、李登輝は危険だ(嫌いだ)とか「彼について触れると北京を刺激する」といった思惑から、ことさらに言動を無視したり、影響力を小さく見せようとしている日本のマスメディア。
このマスメディアの違和感は誇りを捨てた日本人の偽善性にあるのです。

そんな彼が岩里 政男として靖国神社に参拝しています。兄の岩里武則が英霊として祀られているからです。

李登輝は1923年(大正12年)1月15日、日本統治下の台湾で生まれ、兄は2歳年上の岩里武則(李登欽)であり、フィリピンにて大日本帝国海軍二等機関兵として日本軍人として参加し戦死しています。

彼が外国人記者クラブの会見で述べた

「1952年のサンフランシスコ講和条約でも
日本は台湾をどこに返すとも一言も言ってないない。台湾の国際的地位は昔もいまも曖昧である」

「台湾は中国の一部であるという論に根拠がない」

「私は一滴の血も流さず台湾を自由で民主主義の国にした」

「台湾の未来を決めるのは、2300万人の台湾の人々である」

「日本文化のすばらしさ。日本人のルールを守る精神、昔からの美意識がいまも健在であることを確認できた」

というメッセージは一体誰に対してどの様に解釈して欲しかったのでしょうか。


1944年(昭和19年)に学徒出陣により出征する大阪師団に入隊し、台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後日本に戻り、その後名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属され、21歳で終戦を名古屋で迎えています。

1946年(昭和21年)春に台湾へ帰り、台湾大学農学部農業経済学科に編入学。翌1947年、二・二八事件が発生します。

この時の中国国民党は「本来中国の支配者で、わざわざ外蛮の台湾に出向いてやっている」という態度を露骨に示しており、本省人との間で対立が激化していました。

生粋の台湾人であり、旧帝大に在籍していたエリートで、短いながらも日本軍で部隊を指揮する立場にいた李登輝は常に国民党から粛清される恐れがあり、この時に国民党に憎悪を抱き共産党に入党します。

たったの二年で共産党を辞め、編入した台湾大学を卒業したのちに共産主義とは相容れない地主階級の娘と結婚し、資本主義のアメリカに留学します。

台湾に戻った彼には以前と変わらぬ国民党からの弾圧が待っていました。ある日取り調べをしていた警官から「お前みたいな奴なんか蒋経国しか使わない」と罵られたそうです。蒋経国は李登輝と良く似た経歴を持っています。

中国における反共主義の総裁であった蒋介石の息子でありながら父と断交して共産党に入党してソ連に留学したり、父が共産党員を粛清するとスターリンに人質としてシベリア送りにされたりと、

まさに波乱万丈の半生を送った彼がまさか国民党のトップになんてならないだろうと中華民国の誰もが思っていたのです。

1970年代に蒋経国が国民党内で地盤を固めてから、台湾では台湾人の登用と政治の民主化がすすめられました。つまりそれ以前は台湾人は全く政治に関与出来なかったのです。

李登輝は蒋経国の台湾人登用政策の一環として直接国民党に勧誘され、台北市長・中華民国副総統を歴任し、蒋経国の死後は彼の指名で総統に就任しています。

90年代に総統を辞任してからは政界を引退して台湾独立支持。正確には中華民国を台湾国へと改組する台湾正名運動への支持を明確に打ち出しました。現在でも台湾国独立を目指す諸派共通の精神的支柱となっているのです。

2.28事件以降、台湾自治運動勢力も解散させられるか地下に潜るようになり、本省人からは「犬(日本)が去って、豚(中国人)が来た」と揶揄される暗い時代が長きに渡って続きます。

それが蒋経国・李登輝の二代続いた解明的な総統の時代にようやく解消され、李登輝自身の統治最終盤でようやく日の目を見ることとなったと言えます。



彼は3人の日本人を次のようにあげました。

1898(明治31年)年に第4代総務長官として後藤新平氏は元々いた官吏をクビにし(台湾人にこれが出来なかった)、優秀な人材を、日本から呼んできました。そしてその中の一人に新渡戸稲造氏
台湾経済を変えた日本人の水利技術者・八田與一氏このような優秀な人達が今の台湾の基礎を作ってきました。

「金を残すは下、事業を残すは中、人を残すが上」との名言をのこした後藤新平氏は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めました。

当時は、中国本土と同様に台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていました。

「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていたのです。

これに対し後藤氏は、阿片を性急に禁止する方法をとらず、まず阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用しました。この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少しました。

こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明しています。(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。

それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という抗日運動を極力抑える為に意識していたのです。

後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、アメリカから台湾総督府の技師に任命された新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を1日1時間の昼寝と執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させています。

世界でベストセラーにもなり続ける「武士道」の著者でもある新渡戸は、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長として児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献し、サトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残しています。

八田與一氏もその優秀な人材の一人で、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、当初は衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当しています。

もし李登輝が終戦直後から台湾独立運動に参加していれば恐らく彼は30歳の誕生日を迎える前に粛清されるか日本やアメリカに亡命していたでしょう。

もしそうなれば蒋経国の後継者は別人になり、台湾の経済成長はストップし、政治の民主化は消滅し、本省人は未だに限定的な参政権しか持ち得なかったかもしれません。

かつての日本が台湾を併合したことで注入された皇民化教育と人材は戦いに敗れても台湾人の誇りとして李登輝に受け継がれ現在の台湾があるのでしょう。

その皇民化教育と併合を行ったことを反省し忘れようとする殆どの誇りを失った日本人には流暢な日本語を喋る李登輝元総統に得も言われぬ恐怖のようなものを感じるのでしょう。







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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-05-23 00:22:37
日本人は見習わないといけませんね。今度は僕らが日本を守って元の日本に戻し、決して外人に揺さぶられない、舐められない、どこにも負けない国を、つくらたいし、充分出来ると確信しています。
僕ら外人とは出来が違うとわかっています。だからいつ、出来るかどうかだと思います。国をつくって行くのはひとりひとりの国民です。
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