大東亜戦争が終結して4年、家族には「釣りに行って来る」とだけ告げ通訳を連れ釣り船に乗って台湾に渡った"戦神"と呼ばれた元日本兵がいました。
根本博陸軍中将です。
根本博中将は終戦時駐蒙軍司令官としてモンゴルにいたのです。
八月九日以降、ソ連軍が略奪や暴行強姦、殺戮を繰り広げている情報は、根本中将のもとにもたらされています。
八月十五日、中将のもとにも武装解除せよとの命令が届けられました。
しかし、日本人居留民が無事に保護されるという確証はありません。
結果彼は、「民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない」とし、
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、命令を発したのです。
八月十九日、ソ連軍と支那八路軍の混成軍が、蒙古の地へなだれ込んできました。
彼の命令の結果ソ連軍は、敗退し、蒙古侵攻から撤収したのです。
さらにこの戦いに先だち、根本中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し全員、天津にまで逃しています。
八月二十一日、ソ連軍を蹴散らした中蒙軍は戦地から撤収しました。
モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
そこで根本中将は、北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任しています。
北支那にいる軍民合わせて三十五万人の命を預かる身となったのです。
そして日本軍と国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との戦いは、根本中将に率いられた日本の北支軍は、どの戦いでも支那兵を完膚なきまでに叩きのめしています。
次第に根本中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、「戦神」と呼ばれて恐れられるようになったのです。
昭和二十(1945)年十二月十八日、蒋介石が直接北京に乗り込み、根本中将に面談を申し込みました。
蒋介石は、停戦条件として日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をすると約束したのです。
この会見の結果、在留邦人の帰国事業は、約一年で無事全員が完了しています。
全てを終えた根本中将は、1946年(昭和21年)七月、最後の船で日本に帰国しました。
1945年(昭和20年)9月2日の降伏文書調印により、中華民国は第二次世界大戦での勝利が決定しています。
そして、主要戦勝国の1国として国際連合の設立メンバーとなり、GHQからの委託に基づき、1945年(昭和20年)10月15日に台湾に進駐。
同年10月25日に台北で日本側の安藤利吉台湾総督・第十方面軍司令官が降伏文書に署名し、中華民国は光復式典を行って台湾の実効支配を開始します。
アメリカ合衆国政府が支援する中国国民党と、ソビエト連邦政府が支援する中国共産党との間の内戦において、ヨーロッパにおけるソビエト連邦との間の冷戦や朝鮮半島での緊張からアメリカ政府による支援が減ったことが原因です。
1949年(昭和24年)初めには中華民国の実効支配地域が縮小している頃、東京多摩郡の根本元陸軍中将の自宅にひとりの台湾人青年が尋ねて来ました。
根本中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人傳作義将軍の遣いでした。
このままでは蒋介石の命が奪われ、台湾が共産党の支配下に落ちるのも目前という状勢にあったのです。
「なんとか閣下のお力を貸していただきたい」という申し出に、根本中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだと、確信したそうです。
根本中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に「釣りに行って来る」といい残して家を出ました。
当時はGHQが日本を占領していた時代で、旧陸軍士官に海外への出国、出歩く自由すらありません。しかも無一文です。
台湾を行きを決意した根本中将は、まず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長に会っています。
蒋介石率いる国民党が、毛沢東の共産軍に負ければ、その時点で台湾は共産党政権に飲み込まれ、台湾の同胞たちはもっと悲惨な眼に遭う。
明石も、なんとかして軍事面で蒋介石を支援しなければならないと考えており、その気持ちは根本中将と重なりました。
明石も無一文です。資金提供者を求めて回り、ようやく小さな釣り船を手配しました。
根本中将は、その釣り船に乗って、1949年(昭和二十四年)六月二十六日、宮崎県延岡の港から台湾に向かって出港します。
しかし出港を見届けた明石元長氏は、東京の自宅に戻り、そのわずか四日後に過労で死んでいます。まだ四十二歳の若さでした。
根本中将を乗せた釣り舟は、普通なら琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと、延岡から海を最短距離で一直線に、台湾を目指しました。
途中の海は、大しけです。出港から四日目には船は岩礁に乗り上げ、船底に穴をあけてしまい、
しみ出す海水を何度もバケツで汲み出しながら、
出港から十四日をかけて、ようやく台湾北端の港湾都市の基隆(キールン)に到着しました。
その場で密航者として逮捕されてしまいます。
根本中将は牢獄の中で、通訳を介して「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」と何度も主張しましたが、看守達は、まるで相手にしませんでした。
それでも二週間もすると、どうやら基隆(キールン)に、台湾を助けにきた日本人がいるらしいという噂を聞いたのが、国民党軍幹部の鈕先銘(にゅうせんめい)中将でした。
鈕中将は、根本中将が北支那方面軍司令官だった頃に交流があった人物です。「あの人なら、台湾に来ることもあり得る」とその場で車を基隆に走らせました。
1949年(昭和二十四年)八月十八日、根本中将ら一行は、福建に向けて出発します。名前は蒋介石から贈られた支那名の「林保源」を名乗りました。
厦門(アモイ)に到着した根本中将は、同地の地形等を調べ、即座に「この島は守れない」と判断しています。
三方から攻撃を受ければ、あっという間に陥落するし、厦門は商業都市で、二〇万人もの住民が住んでいます。当然、民間人に犠牲が出てしまいます。
一方すぐ対岸にある「金門島」は厦門湾の外側に位置します。海峡の流れが速く上陸に時間がかかるのです。しかも島の人口はわずか四万です。
根本中将は大東亜戦争時に日本陸軍が得意とした塹壕戦法を再び採用します。海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。
まさに硫黄島や沖縄で、圧倒的な火力の米軍に対して大打撃を与えた戦法です。
根本中将は、共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築や、敵船を焼き払うための油の保管場所、保管方法など、日夜島内を巡りながら、細かなところまで指示を与えてまわりました。
十月一日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が発せられると、勢いに乗った共産軍は、廈門さえも捨て、金門島に立て篭る国民党軍に対し、「こんな小島をとるには何の造作もない、大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけのことだ」と豪語します。
十月半ばには金門島の対岸にある港でジャンク戦の徴発を始め、船がまとまった十月二十四日の夜、いよいよ金門島への上陸作戦を始めました。
この日、金門島の海岸は、上陸した共産軍二万の兵士であふれかえったのです。
彼らが上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃もありません。
共産軍は悠々と全員が島に上陸し、露営の構築に取りかかりました。
突然彼らが乗船してきた海上のジャンク船から火の手があがり、あっという間に広がり、油を注がれた木造の小船は、見るも無惨に焼けてしまったのです。
辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響きました。そしていままで何もないと思っていたところから、突然国民党軍の戦車二十一両が現れ、三十七ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている二万の共産党軍に襲いかかったのです。
船は既にありません。共産軍は、国民党軍の戦車隊が出てきた方角とは反対側、つまり金門島の西北端にある古寧頭村に向かって逃げ落ちました。
これまでずっと敗北を続けてきた国民党軍です。
ほとんど初めてと言ってもよいこの快勝に、兵士たちは血気にはやりました。そしてそのまま一気に古寧頭村に攻め込もうとしましたが、
根本中将は、「このままでは、巻き添えで一般の村民が大勢死ぬ、村人たちが大勢殺されたら、今後、金門島を国民党軍の本拠として抵抗を続けていくことが難しくなる」というのです。
そして、古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させ、南側から猛攻をかける。つまり敵に逃げ道を作って攻めかかり、北方海岸方面に敵を後退させ、そこを砲艇で海上から砲撃させ、戦車隊と挟み撃ちにして、敵を包囲殲滅するという作戦を、湯将軍に進言します。
湯将軍は、根本中将のあまりの作戦見事さに、これをそのまま採用したのです。
十月二十六日午後三時、根本中将の作戦に基づく南側からの猛攻が始まりました。敵は予想通り、村を捨て、北側の海岸に向かって後退します。
そこにはあらかじめ、砲艇が待機しています。
共産党軍に逃げ場はありません。砂浜は地獄と化し、午後十時、共産軍の生存者は武器を捨てて全員降伏したのです。
この戦闘で共産軍の死者は一万四千、捕虜六千となりました。国民党軍は、怪我人を含めて三千余名の損傷です。
戦いは、あまりにも一方的な国民党側の大勝利に終わったのです。わずか二昼夜の戦いで、共産軍の主力が殲滅したという噂は、あっという間に広がります。
そして金門島は、それから六十余年を経た今日も、台湾領なのです。
十月三十日、湯将軍ら一行は、台北に凱旋し、湯将軍一行を迎えた蒋介石は、このとき根本中将の手を握って「ありがとう」とくり返したといいます。
けれど根本中将は、「支那撤退の際、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けた。自分はそのご恩をお返ししただけです」と静かに語りました。
そして結局根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないと、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍については、
公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。
ですから現在ではその記録された資料が全くないため共産党側はその事実を一切認めていないのです。
ただ、行きの漁船に懲りたのか、帰りは飛行機での帰国となりました。
羽田に着いたとき、タラップを降りる根本中将の手には、家を出るときに持っていた釣り竿が、一本、出たときのままの状態で握られていました。
もし根本中将が台湾入りしていなければ、決して大袈裟ではありませんが、中華民國は消滅しウイグル、チベットと同じ道を歩んでいたかもしれません。
現在の台湾の方々で根本中将を知るものは殆どいないでしょう。しかし次は独立の守護神となって日本から見守っていることでしょう。
根本博陸軍中将です。
根本博中将は終戦時駐蒙軍司令官としてモンゴルにいたのです。
八月九日以降、ソ連軍が略奪や暴行強姦、殺戮を繰り広げている情報は、根本中将のもとにもたらされています。
八月十五日、中将のもとにも武装解除せよとの命令が届けられました。
しかし、日本人居留民が無事に保護されるという確証はありません。
結果彼は、「民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない」とし、
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、命令を発したのです。
八月十九日、ソ連軍と支那八路軍の混成軍が、蒙古の地へなだれ込んできました。
彼の命令の結果ソ連軍は、敗退し、蒙古侵攻から撤収したのです。
さらにこの戦いに先だち、根本中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し全員、天津にまで逃しています。
八月二十一日、ソ連軍を蹴散らした中蒙軍は戦地から撤収しました。
モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
そこで根本中将は、北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任しています。
北支那にいる軍民合わせて三十五万人の命を預かる身となったのです。
そして日本軍と国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との戦いは、根本中将に率いられた日本の北支軍は、どの戦いでも支那兵を完膚なきまでに叩きのめしています。
次第に根本中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、「戦神」と呼ばれて恐れられるようになったのです。
昭和二十(1945)年十二月十八日、蒋介石が直接北京に乗り込み、根本中将に面談を申し込みました。
蒋介石は、停戦条件として日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をすると約束したのです。
この会見の結果、在留邦人の帰国事業は、約一年で無事全員が完了しています。
全てを終えた根本中将は、1946年(昭和21年)七月、最後の船で日本に帰国しました。
1945年(昭和20年)9月2日の降伏文書調印により、中華民国は第二次世界大戦での勝利が決定しています。
そして、主要戦勝国の1国として国際連合の設立メンバーとなり、GHQからの委託に基づき、1945年(昭和20年)10月15日に台湾に進駐。
同年10月25日に台北で日本側の安藤利吉台湾総督・第十方面軍司令官が降伏文書に署名し、中華民国は光復式典を行って台湾の実効支配を開始します。
アメリカ合衆国政府が支援する中国国民党と、ソビエト連邦政府が支援する中国共産党との間の内戦において、ヨーロッパにおけるソビエト連邦との間の冷戦や朝鮮半島での緊張からアメリカ政府による支援が減ったことが原因です。
1949年(昭和24年)初めには中華民国の実効支配地域が縮小している頃、東京多摩郡の根本元陸軍中将の自宅にひとりの台湾人青年が尋ねて来ました。
根本中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人傳作義将軍の遣いでした。
このままでは蒋介石の命が奪われ、台湾が共産党の支配下に落ちるのも目前という状勢にあったのです。
「なんとか閣下のお力を貸していただきたい」という申し出に、根本中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだと、確信したそうです。
根本中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に「釣りに行って来る」といい残して家を出ました。
当時はGHQが日本を占領していた時代で、旧陸軍士官に海外への出国、出歩く自由すらありません。しかも無一文です。
台湾を行きを決意した根本中将は、まず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長に会っています。
蒋介石率いる国民党が、毛沢東の共産軍に負ければ、その時点で台湾は共産党政権に飲み込まれ、台湾の同胞たちはもっと悲惨な眼に遭う。
明石も、なんとかして軍事面で蒋介石を支援しなければならないと考えており、その気持ちは根本中将と重なりました。
明石も無一文です。資金提供者を求めて回り、ようやく小さな釣り船を手配しました。
根本中将は、その釣り船に乗って、1949年(昭和二十四年)六月二十六日、宮崎県延岡の港から台湾に向かって出港します。
しかし出港を見届けた明石元長氏は、東京の自宅に戻り、そのわずか四日後に過労で死んでいます。まだ四十二歳の若さでした。
根本中将を乗せた釣り舟は、普通なら琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと、延岡から海を最短距離で一直線に、台湾を目指しました。
途中の海は、大しけです。出港から四日目には船は岩礁に乗り上げ、船底に穴をあけてしまい、
しみ出す海水を何度もバケツで汲み出しながら、
出港から十四日をかけて、ようやく台湾北端の港湾都市の基隆(キールン)に到着しました。
その場で密航者として逮捕されてしまいます。
根本中将は牢獄の中で、通訳を介して「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」と何度も主張しましたが、看守達は、まるで相手にしませんでした。
それでも二週間もすると、どうやら基隆(キールン)に、台湾を助けにきた日本人がいるらしいという噂を聞いたのが、国民党軍幹部の鈕先銘(にゅうせんめい)中将でした。
鈕中将は、根本中将が北支那方面軍司令官だった頃に交流があった人物です。「あの人なら、台湾に来ることもあり得る」とその場で車を基隆に走らせました。
1949年(昭和二十四年)八月十八日、根本中将ら一行は、福建に向けて出発します。名前は蒋介石から贈られた支那名の「林保源」を名乗りました。
厦門(アモイ)に到着した根本中将は、同地の地形等を調べ、即座に「この島は守れない」と判断しています。
三方から攻撃を受ければ、あっという間に陥落するし、厦門は商業都市で、二〇万人もの住民が住んでいます。当然、民間人に犠牲が出てしまいます。
一方すぐ対岸にある「金門島」は厦門湾の外側に位置します。海峡の流れが速く上陸に時間がかかるのです。しかも島の人口はわずか四万です。
根本中将は大東亜戦争時に日本陸軍が得意とした塹壕戦法を再び採用します。海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。
まさに硫黄島や沖縄で、圧倒的な火力の米軍に対して大打撃を与えた戦法です。
根本中将は、共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築や、敵船を焼き払うための油の保管場所、保管方法など、日夜島内を巡りながら、細かなところまで指示を与えてまわりました。
十月一日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が発せられると、勢いに乗った共産軍は、廈門さえも捨て、金門島に立て篭る国民党軍に対し、「こんな小島をとるには何の造作もない、大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけのことだ」と豪語します。
十月半ばには金門島の対岸にある港でジャンク戦の徴発を始め、船がまとまった十月二十四日の夜、いよいよ金門島への上陸作戦を始めました。
この日、金門島の海岸は、上陸した共産軍二万の兵士であふれかえったのです。
彼らが上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃もありません。
共産軍は悠々と全員が島に上陸し、露営の構築に取りかかりました。
突然彼らが乗船してきた海上のジャンク船から火の手があがり、あっという間に広がり、油を注がれた木造の小船は、見るも無惨に焼けてしまったのです。
辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響きました。そしていままで何もないと思っていたところから、突然国民党軍の戦車二十一両が現れ、三十七ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている二万の共産党軍に襲いかかったのです。
船は既にありません。共産軍は、国民党軍の戦車隊が出てきた方角とは反対側、つまり金門島の西北端にある古寧頭村に向かって逃げ落ちました。
これまでずっと敗北を続けてきた国民党軍です。
ほとんど初めてと言ってもよいこの快勝に、兵士たちは血気にはやりました。そしてそのまま一気に古寧頭村に攻め込もうとしましたが、
根本中将は、「このままでは、巻き添えで一般の村民が大勢死ぬ、村人たちが大勢殺されたら、今後、金門島を国民党軍の本拠として抵抗を続けていくことが難しくなる」というのです。
そして、古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させ、南側から猛攻をかける。つまり敵に逃げ道を作って攻めかかり、北方海岸方面に敵を後退させ、そこを砲艇で海上から砲撃させ、戦車隊と挟み撃ちにして、敵を包囲殲滅するという作戦を、湯将軍に進言します。
湯将軍は、根本中将のあまりの作戦見事さに、これをそのまま採用したのです。
十月二十六日午後三時、根本中将の作戦に基づく南側からの猛攻が始まりました。敵は予想通り、村を捨て、北側の海岸に向かって後退します。
そこにはあらかじめ、砲艇が待機しています。
共産党軍に逃げ場はありません。砂浜は地獄と化し、午後十時、共産軍の生存者は武器を捨てて全員降伏したのです。
この戦闘で共産軍の死者は一万四千、捕虜六千となりました。国民党軍は、怪我人を含めて三千余名の損傷です。
戦いは、あまりにも一方的な国民党側の大勝利に終わったのです。わずか二昼夜の戦いで、共産軍の主力が殲滅したという噂は、あっという間に広がります。
そして金門島は、それから六十余年を経た今日も、台湾領なのです。
十月三十日、湯将軍ら一行は、台北に凱旋し、湯将軍一行を迎えた蒋介石は、このとき根本中将の手を握って「ありがとう」とくり返したといいます。
けれど根本中将は、「支那撤退の際、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けた。自分はそのご恩をお返ししただけです」と静かに語りました。
そして結局根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないと、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍については、
公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。
ですから現在ではその記録された資料が全くないため共産党側はその事実を一切認めていないのです。
ただ、行きの漁船に懲りたのか、帰りは飛行機での帰国となりました。
羽田に着いたとき、タラップを降りる根本中将の手には、家を出るときに持っていた釣り竿が、一本、出たときのままの状態で握られていました。
もし根本中将が台湾入りしていなければ、決して大袈裟ではありませんが、中華民國は消滅しウイグル、チベットと同じ道を歩んでいたかもしれません。
現在の台湾の方々で根本中将を知るものは殆どいないでしょう。しかし次は独立の守護神となって日本から見守っていることでしょう。
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