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テレビを見ている。教育的な内容が放送されていた。
ぼんやりとした状況で、一時停止のようになると、脳は勝手に自分たちの作業をはじめるそうである。よっこらしょという感じで。研究者は、なにかの作業をさせているときに脳波の変化を測った。計算したり、思考したり。脳の役目はそういうもので、日常のストレスなき時間、普段の暇なすき間のときには働いているとも、驚くべき数値があるとも予測されていない。うっかりである。
自分もこの事実(現時点での事実)を知るまで、なるべくなら脳は休めない方がよいとの先入観にすっぽりと包まれて暮らしていた。疑うべき理由もない。一瞬でも時間が空けば本を読み、ブログを書き、あれこれ思考する。休みは、マイナスにつながるのだ。片時も許してはいけない。だが、そうでもなかった。考えれば筋肉にも同じことが当てはまるのかもしれない。
しかし、こうなると意図的にぼんやりとしようとしている自分を作りだして、さらにこれも災いだと発見する。さあ、レッツ・ぼんやりである。なかなかむずかしい世の中だ。知識は意外と些末なところで苦しめる。
儀式のように、本屋に入る前にこころのなかで十字を切った。良い本に巡り合えるようにと。若いころの話である。
そうして買いためた本が、大きな本棚のふたつと、カラー・ボックスと引き出しと空の靴箱を埋めている。もう自分には一冊の本を買う余力すら与えられておらず、一から再読して処分する時間にも決定的に足りないことを知る。当然、唖然とする。さらにいえば、ぼんやりとする時間も必須なのだ。無言の作業部隊が通行止めになる時間の到来をヘルメットをかぶって路肩で待っている。つるはしも使ってもらわなければならない。
退化もするのだ。電子レンジの短い未来の達成を告げる金属的な音がしない。なかを見ると空である。お弁当を入れたというのは単なる思い込みだったのだ。ある塾の先生は、失敗する(あるいは負ける側になる)要素として、これもテレビのなかで、準備不足、慢心、思い込みと主張していたように覚えている。ぼくという波打ち際にも確実に、三本の矢の第一陣が訪れていた。
眼鏡をかけながら眼鏡をさがしている。それをかけたとしても焦点はかすかにぶれている。再読もままならないのかもしれない。さらにぼんやりである。
無条件降伏をする。その代わりに脳で隠れていた労働者はせっせと石炭をくべる。すると、どちらが主体者であるのかも分からなくなる。理屈として、二股をかける女性である。いや、多分、ちがう。
準備不足の分岐点。準備することを知っていながら言い訳や理由をつけて怠った。第一のケース。確信犯である。もう片方は、そもそも準備する内容すら見当がつかないのでできなかった。まっさらさんコース。分からないので質問も浮かばなかった。知っていそうなひとも見つけられなかった。だから、怠った。やはり、準備不足というきちんとした帰結に達する。
慢心。
ここまで来るのに、どれほどの苦労をしたと思ってるんだ! 今さら、わざわざ、頭を下げられるか。
自分たちらしいサッカーが、できなかった。
それをお披露目できないのが恥ずかしいのではなく、全世界にもっともつまらないギリシア戦(2014年の夏)を提供したことが恥ずかしい。サッカー・ファンにも申し訳ない。
このらしさ、自分たちの、という栄光充ちる称号をどこかで聞いたな、とぼんやりと思案しているとソニーらしさという語にぶち当たった。みな、傾き出すとアイデンティティーが欲しくなる。がむしゃらより慢心の逃げ口上にも聞こえる。響きは同じだ。
糾弾する。その資格もないのに。やはり、ただのぼんやりとする時間をおそれている。
ぼくは人格があるかのように家の電化製品に声をかけている。ボケているわけではない。「うちに来てくれて、ありがとう」という趣旨のことを肩でも優しく叩くように撫でて言っている。一期一会の人生だし、彼らが来なかったということもあり得たのだ。それは、ぼくにとって、とてつもない損害になったのだ。
カギをしめて家を出る。それらは会議をはじめるのかもしれない。もう少し、頑張ろうかと。おもちゃのバズやウッディのように。
そして、最後にはこの情報社会での調査不足。
本日、書いているのは九月十二日。なんとなく、ヤロン・ヘルマンという個性的なピアニスト、また来日して演奏しないかなとネットで調べると、この秋に何日かの演奏ツアーを行い、東京での最後の、そしてソロの機会が昨日で終わっていることを知る。残業も滅多にしないのに、昨日は年の後半の予算の算出に四苦八苦して、珍しく遅くまで会社の机に向かっていたのだ。残念である。アンテナは張り巡らしておかないといけない。怠ったのもぼくであり、見えない実体なき損害を受けたのも自分であった。さてと、ぼんやりである。どんな演奏だったのだろう。今度は、動画を探す旅である。チャンスは失われつつあった。取り戻すのもむずかしいのか。一期一会という言葉を知っていても、覚悟がなければ結末は似たものとなる。
もう少し先だろう、という勝手な思い込みも追い上げてくる。寿命も当然、もう少しはのこっているよね。
こうして、求不得苦という新たな語彙を得たのであった。
テレビを見ている。教育的な内容が放送されていた。
ぼんやりとした状況で、一時停止のようになると、脳は勝手に自分たちの作業をはじめるそうである。よっこらしょという感じで。研究者は、なにかの作業をさせているときに脳波の変化を測った。計算したり、思考したり。脳の役目はそういうもので、日常のストレスなき時間、普段の暇なすき間のときには働いているとも、驚くべき数値があるとも予測されていない。うっかりである。
自分もこの事実(現時点での事実)を知るまで、なるべくなら脳は休めない方がよいとの先入観にすっぽりと包まれて暮らしていた。疑うべき理由もない。一瞬でも時間が空けば本を読み、ブログを書き、あれこれ思考する。休みは、マイナスにつながるのだ。片時も許してはいけない。だが、そうでもなかった。考えれば筋肉にも同じことが当てはまるのかもしれない。
しかし、こうなると意図的にぼんやりとしようとしている自分を作りだして、さらにこれも災いだと発見する。さあ、レッツ・ぼんやりである。なかなかむずかしい世の中だ。知識は意外と些末なところで苦しめる。
儀式のように、本屋に入る前にこころのなかで十字を切った。良い本に巡り合えるようにと。若いころの話である。
そうして買いためた本が、大きな本棚のふたつと、カラー・ボックスと引き出しと空の靴箱を埋めている。もう自分には一冊の本を買う余力すら与えられておらず、一から再読して処分する時間にも決定的に足りないことを知る。当然、唖然とする。さらにいえば、ぼんやりとする時間も必須なのだ。無言の作業部隊が通行止めになる時間の到来をヘルメットをかぶって路肩で待っている。つるはしも使ってもらわなければならない。
退化もするのだ。電子レンジの短い未来の達成を告げる金属的な音がしない。なかを見ると空である。お弁当を入れたというのは単なる思い込みだったのだ。ある塾の先生は、失敗する(あるいは負ける側になる)要素として、これもテレビのなかで、準備不足、慢心、思い込みと主張していたように覚えている。ぼくという波打ち際にも確実に、三本の矢の第一陣が訪れていた。
眼鏡をかけながら眼鏡をさがしている。それをかけたとしても焦点はかすかにぶれている。再読もままならないのかもしれない。さらにぼんやりである。
無条件降伏をする。その代わりに脳で隠れていた労働者はせっせと石炭をくべる。すると、どちらが主体者であるのかも分からなくなる。理屈として、二股をかける女性である。いや、多分、ちがう。
準備不足の分岐点。準備することを知っていながら言い訳や理由をつけて怠った。第一のケース。確信犯である。もう片方は、そもそも準備する内容すら見当がつかないのでできなかった。まっさらさんコース。分からないので質問も浮かばなかった。知っていそうなひとも見つけられなかった。だから、怠った。やはり、準備不足というきちんとした帰結に達する。
慢心。
ここまで来るのに、どれほどの苦労をしたと思ってるんだ! 今さら、わざわざ、頭を下げられるか。
自分たちらしいサッカーが、できなかった。
それをお披露目できないのが恥ずかしいのではなく、全世界にもっともつまらないギリシア戦(2014年の夏)を提供したことが恥ずかしい。サッカー・ファンにも申し訳ない。
このらしさ、自分たちの、という栄光充ちる称号をどこかで聞いたな、とぼんやりと思案しているとソニーらしさという語にぶち当たった。みな、傾き出すとアイデンティティーが欲しくなる。がむしゃらより慢心の逃げ口上にも聞こえる。響きは同じだ。
糾弾する。その資格もないのに。やはり、ただのぼんやりとする時間をおそれている。
ぼくは人格があるかのように家の電化製品に声をかけている。ボケているわけではない。「うちに来てくれて、ありがとう」という趣旨のことを肩でも優しく叩くように撫でて言っている。一期一会の人生だし、彼らが来なかったということもあり得たのだ。それは、ぼくにとって、とてつもない損害になったのだ。
カギをしめて家を出る。それらは会議をはじめるのかもしれない。もう少し、頑張ろうかと。おもちゃのバズやウッディのように。
そして、最後にはこの情報社会での調査不足。
本日、書いているのは九月十二日。なんとなく、ヤロン・ヘルマンという個性的なピアニスト、また来日して演奏しないかなとネットで調べると、この秋に何日かの演奏ツアーを行い、東京での最後の、そしてソロの機会が昨日で終わっていることを知る。残業も滅多にしないのに、昨日は年の後半の予算の算出に四苦八苦して、珍しく遅くまで会社の机に向かっていたのだ。残念である。アンテナは張り巡らしておかないといけない。怠ったのもぼくであり、見えない実体なき損害を受けたのも自分であった。さてと、ぼんやりである。どんな演奏だったのだろう。今度は、動画を探す旅である。チャンスは失われつつあった。取り戻すのもむずかしいのか。一期一会という言葉を知っていても、覚悟がなければ結末は似たものとなる。
もう少し先だろう、という勝手な思い込みも追い上げてくる。寿命も当然、もう少しはのこっているよね。
こうして、求不得苦という新たな語彙を得たのであった。