償いの書(30)
ぼくらは、晴れてひとつのものとなる。
彼女の苗字は変わり、そういうことに対して直ぐに馴染む女性というものに、すこしだけ自分は違和感をもつ。やどかりのようにいままで暮らしていたものが合わなくなったので簡単に交換するように名前を変える。自分は、それがどういうことなのか考えようとした。答えはないが、責任の重さは実感としてあった。
その日に彼女の兄たちは参加しなかった。その関係の亀裂が根深いものであることをぼくは知る。その前に、重たい手紙が彼女のもとに届き、それには来ない理由が滔々と書かれていたようだった。彼女はいずれ読ませてあげるといったが、どこかに閉まってしまい、決して、ぼくの前にそれはでてこなかった。ぼくへの憎悪というものも少なからず書いてあるのだろう。ぼくは、高校生のときに裕紀と別れ、それから彼女は外国に留学した。そこを訪れた両親はその地で命を失った。間接的な原因を作ったのが自分でもあり、直接的な理由を作ったのが無謀でもあった裕紀の行動であることを根にもっているらしかった。詳しくはしらないが、そういうニュアンスのことをむかし、裕紀は語った。それ以降、それを深く掘り尽くすという作業を、すくなくともぼくはしなかった。それゆえに、その問題は座礁した。
その代わりに、彼女の叔父は愛嬌のある態度で一日を過ごしてくれた。彼は、それ以前もそれ以後もずっとぼくらの側にスタンスを定めてくれ、いろいろとアドバイスや確かな援助をしてくれた。彼女の優しさと同等のものを、その叔父は有していた。それで不和や心配が解決したとももちろん思えなかったが、どうしても、自分と合わないひとがいるのだということも体験的に知るようになっていたので、眠っているものを叩き起こすようなことはしたくなかった。裕紀もそのことは同じように感じているらしかった。ただ、さっぱりと晴れない気分は、こころの奥には残ってしまうのだろう。
翌日には、ぼくらはニュージーランドに旅立った。ぼくらが、まだ高校生の頃、彼女は家族とそこに旅行に行った。そのときの戻ってきたときに言った言葉である「新婚旅行に行くならああいうところがいいな」を彼女は、長い時間をかけて守ったことになる。
飛行機で時間を過ごしたあと、ぼくらは新たな土地の地面を歩いている。何日かホテルで泊まったあと、彼女の知り合いがいるということで、そこに向かった。
彼女が旅したときに作った友人で、ぼくらと同年齢の夫婦だった。だが、もうすでに子どもがいてラグビーをしていた。その日は、練習試合があるということで、ぼくらも車に乗せてもらい同行した。話の途中で、裕紀がぼくもラグビーをしていることを告げ、「練習にちょっと加わってみたら?」という少年の父の言葉に後押しされ、また解放的な気分も手伝って、ぼくは、その芝生の感触を足の裏に気持ちよく感じ、歩いていった。
ぼくは楕円形のものを両手でつかみ、懐かしさをこめてその匂いと手触りを楽しんだ。
ぼくは、すこし走ってからパス回しの一員に入り、少年たちのタックルをときにはかわし、ときには無残に浴びた。しかし、倒れた身体から上空を見ると、とてつもなく美しい青空があり、そのことだけでぼくは涙が流れるほどに幸せだった。ぼくは、もう裕紀の前でラグビーをしている姿を見せることなどできないと思っていた。だが、そのお遊びであろうが、ぼくの姿を見てもらったことを嬉しく感じている。
練習を途中で切り上げ、少年たちと握手を交わし、ぼくはシートが並んでいるところにもどった。父はよくやるじゃないか、という風に親指を突き上げた。その妻は、「ワンダフル」とか、そういう感嘆した言葉を発した。ぼくは、それでも気分が良かったのだが、さらに裕紀が、
「ひろし君が、むかしに戻ったみたいで素敵だった」という単純な言葉で暖かい気持ちになった。
爽快な気分で汗をかき、その後、戻った家で少年たちと(彼はぼくがラグビーができるという事実で存在を受け入れてくれた)楽しく食事ができた。少年とふざけあい、彼が眠るとその両親とたくさんの話をした。
その晩は、そこで裕紀とともに泊まり、楽しい思い出がひとつ増えたことをただ喜んでいた。
次の日に、ぼくらが出かけてしまうことを少年はとても悲しんでいた。ずっと手を振って見送ってくれ、手紙を書くとも言ってくれた。裕紀は、きちんと関係性を作れる人間なのだとあらためて認識した。それを簡単に自分はずっと前だが、一瞬で壊すようなこともしたのだ。その自分の態度をいまさらながら恐ろしいものだと感じている。
「ひろし君は、子どもにいつも好かれるんだね。同じ視線に入るからなのかな。ああいう子どもが欲しい?」
「それは、いつかね」こうしたときに発言する言葉は、なんの意味もないのかもしれないし、また、重要じゃない形をとりながらもこころの底で願っていることの無防備な発露なのだろうか。
「いつか、ああいう姿をわたしもまた見られるといいな」と、彼女はその願いが叶ったかのような優しげな表情で言った。
その後、ぼくとニュージーランドの少年がラグビーボールの端と端を持っている写真を裕紀は大切なものとして保管した。
ぼくらは、晴れてひとつのものとなる。
彼女の苗字は変わり、そういうことに対して直ぐに馴染む女性というものに、すこしだけ自分は違和感をもつ。やどかりのようにいままで暮らしていたものが合わなくなったので簡単に交換するように名前を変える。自分は、それがどういうことなのか考えようとした。答えはないが、責任の重さは実感としてあった。
その日に彼女の兄たちは参加しなかった。その関係の亀裂が根深いものであることをぼくは知る。その前に、重たい手紙が彼女のもとに届き、それには来ない理由が滔々と書かれていたようだった。彼女はいずれ読ませてあげるといったが、どこかに閉まってしまい、決して、ぼくの前にそれはでてこなかった。ぼくへの憎悪というものも少なからず書いてあるのだろう。ぼくは、高校生のときに裕紀と別れ、それから彼女は外国に留学した。そこを訪れた両親はその地で命を失った。間接的な原因を作ったのが自分でもあり、直接的な理由を作ったのが無謀でもあった裕紀の行動であることを根にもっているらしかった。詳しくはしらないが、そういうニュアンスのことをむかし、裕紀は語った。それ以降、それを深く掘り尽くすという作業を、すくなくともぼくはしなかった。それゆえに、その問題は座礁した。
その代わりに、彼女の叔父は愛嬌のある態度で一日を過ごしてくれた。彼は、それ以前もそれ以後もずっとぼくらの側にスタンスを定めてくれ、いろいろとアドバイスや確かな援助をしてくれた。彼女の優しさと同等のものを、その叔父は有していた。それで不和や心配が解決したとももちろん思えなかったが、どうしても、自分と合わないひとがいるのだということも体験的に知るようになっていたので、眠っているものを叩き起こすようなことはしたくなかった。裕紀もそのことは同じように感じているらしかった。ただ、さっぱりと晴れない気分は、こころの奥には残ってしまうのだろう。
翌日には、ぼくらはニュージーランドに旅立った。ぼくらが、まだ高校生の頃、彼女は家族とそこに旅行に行った。そのときの戻ってきたときに言った言葉である「新婚旅行に行くならああいうところがいいな」を彼女は、長い時間をかけて守ったことになる。
飛行機で時間を過ごしたあと、ぼくらは新たな土地の地面を歩いている。何日かホテルで泊まったあと、彼女の知り合いがいるということで、そこに向かった。
彼女が旅したときに作った友人で、ぼくらと同年齢の夫婦だった。だが、もうすでに子どもがいてラグビーをしていた。その日は、練習試合があるということで、ぼくらも車に乗せてもらい同行した。話の途中で、裕紀がぼくもラグビーをしていることを告げ、「練習にちょっと加わってみたら?」という少年の父の言葉に後押しされ、また解放的な気分も手伝って、ぼくは、その芝生の感触を足の裏に気持ちよく感じ、歩いていった。
ぼくは楕円形のものを両手でつかみ、懐かしさをこめてその匂いと手触りを楽しんだ。
ぼくは、すこし走ってからパス回しの一員に入り、少年たちのタックルをときにはかわし、ときには無残に浴びた。しかし、倒れた身体から上空を見ると、とてつもなく美しい青空があり、そのことだけでぼくは涙が流れるほどに幸せだった。ぼくは、もう裕紀の前でラグビーをしている姿を見せることなどできないと思っていた。だが、そのお遊びであろうが、ぼくの姿を見てもらったことを嬉しく感じている。
練習を途中で切り上げ、少年たちと握手を交わし、ぼくはシートが並んでいるところにもどった。父はよくやるじゃないか、という風に親指を突き上げた。その妻は、「ワンダフル」とか、そういう感嘆した言葉を発した。ぼくは、それでも気分が良かったのだが、さらに裕紀が、
「ひろし君が、むかしに戻ったみたいで素敵だった」という単純な言葉で暖かい気持ちになった。
爽快な気分で汗をかき、その後、戻った家で少年たちと(彼はぼくがラグビーができるという事実で存在を受け入れてくれた)楽しく食事ができた。少年とふざけあい、彼が眠るとその両親とたくさんの話をした。
その晩は、そこで裕紀とともに泊まり、楽しい思い出がひとつ増えたことをただ喜んでいた。
次の日に、ぼくらが出かけてしまうことを少年はとても悲しんでいた。ずっと手を振って見送ってくれ、手紙を書くとも言ってくれた。裕紀は、きちんと関係性を作れる人間なのだとあらためて認識した。それを簡単に自分はずっと前だが、一瞬で壊すようなこともしたのだ。その自分の態度をいまさらながら恐ろしいものだと感じている。
「ひろし君は、子どもにいつも好かれるんだね。同じ視線に入るからなのかな。ああいう子どもが欲しい?」
「それは、いつかね」こうしたときに発言する言葉は、なんの意味もないのかもしれないし、また、重要じゃない形をとりながらもこころの底で願っていることの無防備な発露なのだろうか。
「いつか、ああいう姿をわたしもまた見られるといいな」と、彼女はその願いが叶ったかのような優しげな表情で言った。
その後、ぼくとニュージーランドの少年がラグビーボールの端と端を持っている写真を裕紀は大切なものとして保管した。