爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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償いの書(30)

2011年02月27日 | 償いの書
償いの書(30)

 ぼくらは、晴れてひとつのものとなる。

 彼女の苗字は変わり、そういうことに対して直ぐに馴染む女性というものに、すこしだけ自分は違和感をもつ。やどかりのようにいままで暮らしていたものが合わなくなったので簡単に交換するように名前を変える。自分は、それがどういうことなのか考えようとした。答えはないが、責任の重さは実感としてあった。

 その日に彼女の兄たちは参加しなかった。その関係の亀裂が根深いものであることをぼくは知る。その前に、重たい手紙が彼女のもとに届き、それには来ない理由が滔々と書かれていたようだった。彼女はいずれ読ませてあげるといったが、どこかに閉まってしまい、決して、ぼくの前にそれはでてこなかった。ぼくへの憎悪というものも少なからず書いてあるのだろう。ぼくは、高校生のときに裕紀と別れ、それから彼女は外国に留学した。そこを訪れた両親はその地で命を失った。間接的な原因を作ったのが自分でもあり、直接的な理由を作ったのが無謀でもあった裕紀の行動であることを根にもっているらしかった。詳しくはしらないが、そういうニュアンスのことをむかし、裕紀は語った。それ以降、それを深く掘り尽くすという作業を、すくなくともぼくはしなかった。それゆえに、その問題は座礁した。

 その代わりに、彼女の叔父は愛嬌のある態度で一日を過ごしてくれた。彼は、それ以前もそれ以後もずっとぼくらの側にスタンスを定めてくれ、いろいろとアドバイスや確かな援助をしてくれた。彼女の優しさと同等のものを、その叔父は有していた。それで不和や心配が解決したとももちろん思えなかったが、どうしても、自分と合わないひとがいるのだということも体験的に知るようになっていたので、眠っているものを叩き起こすようなことはしたくなかった。裕紀もそのことは同じように感じているらしかった。ただ、さっぱりと晴れない気分は、こころの奥には残ってしまうのだろう。

 翌日には、ぼくらはニュージーランドに旅立った。ぼくらが、まだ高校生の頃、彼女は家族とそこに旅行に行った。そのときの戻ってきたときに言った言葉である「新婚旅行に行くならああいうところがいいな」を彼女は、長い時間をかけて守ったことになる。

 飛行機で時間を過ごしたあと、ぼくらは新たな土地の地面を歩いている。何日かホテルで泊まったあと、彼女の知り合いがいるということで、そこに向かった。

 彼女が旅したときに作った友人で、ぼくらと同年齢の夫婦だった。だが、もうすでに子どもがいてラグビーをしていた。その日は、練習試合があるということで、ぼくらも車に乗せてもらい同行した。話の途中で、裕紀がぼくもラグビーをしていることを告げ、「練習にちょっと加わってみたら?」という少年の父の言葉に後押しされ、また解放的な気分も手伝って、ぼくは、その芝生の感触を足の裏に気持ちよく感じ、歩いていった。

 ぼくは楕円形のものを両手でつかみ、懐かしさをこめてその匂いと手触りを楽しんだ。

 ぼくは、すこし走ってからパス回しの一員に入り、少年たちのタックルをときにはかわし、ときには無残に浴びた。しかし、倒れた身体から上空を見ると、とてつもなく美しい青空があり、そのことだけでぼくは涙が流れるほどに幸せだった。ぼくは、もう裕紀の前でラグビーをしている姿を見せることなどできないと思っていた。だが、そのお遊びであろうが、ぼくの姿を見てもらったことを嬉しく感じている。

 練習を途中で切り上げ、少年たちと握手を交わし、ぼくはシートが並んでいるところにもどった。父はよくやるじゃないか、という風に親指を突き上げた。その妻は、「ワンダフル」とか、そういう感嘆した言葉を発した。ぼくは、それでも気分が良かったのだが、さらに裕紀が、

「ひろし君が、むかしに戻ったみたいで素敵だった」という単純な言葉で暖かい気持ちになった。

 爽快な気分で汗をかき、その後、戻った家で少年たちと(彼はぼくがラグビーができるという事実で存在を受け入れてくれた)楽しく食事ができた。少年とふざけあい、彼が眠るとその両親とたくさんの話をした。

 その晩は、そこで裕紀とともに泊まり、楽しい思い出がひとつ増えたことをただ喜んでいた。

 次の日に、ぼくらが出かけてしまうことを少年はとても悲しんでいた。ずっと手を振って見送ってくれ、手紙を書くとも言ってくれた。裕紀は、きちんと関係性を作れる人間なのだとあらためて認識した。それを簡単に自分はずっと前だが、一瞬で壊すようなこともしたのだ。その自分の態度をいまさらながら恐ろしいものだと感じている。

「ひろし君は、子どもにいつも好かれるんだね。同じ視線に入るからなのかな。ああいう子どもが欲しい?」
「それは、いつかね」こうしたときに発言する言葉は、なんの意味もないのかもしれないし、また、重要じゃない形をとりながらもこころの底で願っていることの無防備な発露なのだろうか。
「いつか、ああいう姿をわたしもまた見られるといいな」と、彼女はその願いが叶ったかのような優しげな表情で言った。
 その後、ぼくとニュージーランドの少年がラグビーボールの端と端を持っている写真を裕紀は大切なものとして保管した。
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償いの書(29)

2011年02月26日 | 償いの書
償いの書(29)

「なにか良いことが待ってるみたいな顔してるのね」会社をでて外回りをしようとしていると、いつも犬の散歩をしている女性とすれ違いざまに声をかけられた。最近は懇意になって、会釈をしたり、すこしぐらいは世間話をするようになった。しかし、その存在自体が謎のままのひとだった。

 華美ではないが、全体的には華やかさがあり、優雅さを先天的にもって生まれてきたような印象があった。

 そこで、ぼくは立ち止まり小さな犬の頭をなでながら、その犬もそうされているのを喜んでいる顔つきでいたが、返事をした。
「そうですか? あるんでしょうかね」しかし、自分の発した返事は曖昧なものだった。
「永遠のものが見つかったとかでしょう」
「分かるんですか?」
「そういう商売をむかし、していたのよ。嫌気がさしたけどね」
「そういう職業もあるんですね。身近にいないものだから」ぼくは、びっくりしたような表情をしていたと思う。確かではないが。

「まっとうな仕事ではないけど、プレゼントをむりやり好きでもないのに渡されたみたいなものよ。しかし、一瞬一瞬を大事にしないといけないわよ。その永遠のものを」
「そうします」犬は、あまりにもなつきすぎ、もっと触れ合いを要求し出した。ぼくは、仕方なしにカバンを地面に置き、身体をかがめ、両手で犬の首辺りを撫でた。
「一回、失った。また、それを手に入れた」

「はい?」犬の動きに注意をとられ、ぼくはその言葉を聞き逃しそうになった。
「あなたは、一度、失ったものを、もう一度、思いがけなく手に入れた。取り戻した」
「その通りです」
「優しさがなんであるかを、その子はもっていた」
「正解です」
「あなたには、罪の意識もどこかに消えないまま残っている」
「忘れようとしているんですけど」
「その子には、悲劇的な過去があり、それもあなたは自分の問題として背負おうとしている」
「そうかもしれませんね。別に負担とは感じていませんけど」

「しかし、悲劇がなければ、あなたには罪の意識もなく、またあなたを引っ張ってくれるものがあることを願望しているのかもしれない。違うね。もう限界」
「凄いですね。彼女のことも見てもらいたい」
「もう、終わったのよ。箱にはプレゼントは残っていない。いまは、ただ犬を散歩させるおばさん」
「充分、きれいですけど」
「あなたが、何人にもそう言ってきたのも映像としてあるのよ」

 ぼくは、意識していなかったが背中の方を振り向いた。もちろん、そこには、見慣れた自分の会社の出入り口であるドアがあるのみだった。そこからとその宣告から逃げるように、もう一度、犬の頭を撫でカバンを拾い駐車場に向かった。

 カバンを横に置き、ぼくは車のエンジンをかけた。その後数秒のことだが、ぼくは罪や罪悪感のことを自分の脳のなかに広げた。ぼくは、彼女に悲劇的なことが起こっていなければ、それほど、この関係を大事にしなかったのだろうかと疑問に思い出した。しかし、その考えを何度も跳ね返したり、払拭しようと努力した。だが、車を走らせ、信号で止まっている間にはもう自分の気持ちも切り替わっていた。数週間後には、ぼくらは世間が認める関係になる。それを自分は永続させる人間として頑張ろうとしている。それだけで充分だと思っていた。

 仕事もすんなりと終わり、夜は裕紀に電話をした。会話の流れから、ぼくが職場のそばで会う女性には、不思議な能力が備わっているかもしれないと言った。しかし、彼女はそのことを気味悪がったので、話は発展することもなく終わった。あとは、ぼくらのこれまで一緒に過ごした時間の確認をしたり、それから先の未来の話に転換していった。

 話が終わり、自分らが行うパーティーのことで上田さんに電話をした。彼は自分の仕事でつながりのあるひとを探してくれ、そのひとに任せた。その最終的な調整ができたという報告をもらった。だれよりも上田さんと智美は親身になってぼくらのことを考えてくれた。ずっと大切な友人であると思っていたが、結婚がきまってからは、さらにもう一段深い関係にぼくらはなったのだ。

 ぼくは、残されたひとりの時間を堪能するように冷蔵庫からビールを出し、好きな音楽を聴いて寛いでいた。目をつぶると、いくつかの映像が浮かび、それは眠りの導入口までついてきたが、実際に眠ってからは、夢となって追っかけてきた。15秒のコマーシャルが連続して流れるように、その夢はぼくが女性に言ったいくつかの優しい言葉や冷たい言葉をつなぎあわせていた。だが、最終的には自分が言わなかった暖かい言葉も含まれていった。

 目覚ましが鳴る前の最後の映像は、ある映画館の中だった。ぼくは、地元の職場の同僚と転勤前に映画を見に行った。そこで会った雪代と島本さんの映像が、はっきりと自分の頭のなかに記憶として残っていた。喪失感を思い浮かべながらぼくは眼を覚ます。しかし、直ぐに手に入れた幸福に自分の標準を定めるように、残り数日のぼくのひとりの時間を幸福なもので満たそうと考えていた。
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償いの書(28)

2011年02月20日 | 償いの書
償いの書(28)

「赤ちゃん、見てきたよ。大きくなってた。写真、現像したら見せるね」
 何日か経って、裕紀はうきうきした気持ちで、その後に、妹やその息子を訪れた時の様子も語った。赤ん坊は手足を自分の意図とは関係ないように伸ばし、その小さな指を裕紀は握ったと言った。その感触がいまだに残っているように、彼女は細長い自分の指を眺めていた。
「それで、ゆりちゃんは?」
「そこから、電車に乗って帰った」
「なんか、言ってた?」
「別に。楽しかったとは言ってたけど、他にはないよ。なんで?」
「別に」

「そう」気に留めた感じもなく、道中のことや、彼女らの小さなときのエピソードを詳しく話した。そうした面で彼女の記憶力は、とても優れていて、無菌室のさらに密封された箱に思い出がしまわれていたように、新品なものとして過去の事柄をぼくに提供した。ぼくは、妹や山下の現状の生活を聞き、いくつかの質問をして、いくつかの相応しい回答を得た。

「元気にしてるんだ」と、最後には、そういって妹たちの生活を思い巡らしながらも話は終わった。
「ゆり江ちゃん、可愛いよね。もし、私が先に死んでしまうようなことがあったら、ああいう子と結婚してね」
「なんで、唐突に、また。まだ、なにも、ぼくらの生活は、始まっていないのに」

「ただ、なんとなくそう思っただけ。ひろし君を誰かが支えなければならないと、いつも思ってるの。紐のついていないタコのように感じるときがあるんだもん。だから、それを繋ぎとめる役割として、次には、ゆり江ちゃんみたいな暖かい子が必要だと思っているんだ」
 彼女は、作為もなくそう言ったのだろう。なにかの裏面があると考えたり、なにかを誘導する悪意のある質問の提起など彼女は考えるはずもなかった。

「ぼくは、裕紀以外に誰も考えていないよ。それに、永遠とか永久という言葉自体が美しいものだと考えているよ」
「わたしもそう思っているけど、ただ、実際的なことを思いついただけ。もし、両親が事故にあったときに、どちらかだけ生き残っていたら、それはどういう意味合いをもつのだろうかと、たまに考える。おじさんにも、そうしたことは言えていない」
「ごめん。なら、ぼくも、ゆり江ちゃんをしっかり二番目の奥さんにするよ。裕紀が願うなら」と、冗談交じりに話して、その話題を打ち消した。彼女は、怒ったような、また、笑ったような、そして、安心もしたような不思議な表情を浮かべた。

 しかし、そうした話題を話しながらも、ぼくらの間には確実な愛情があった。それを継続性のあるものとして考える自分がいて、ひょっとしたらなにかの不幸があるため中断してしまう可能性があるものとして捉えている裕紀がいた。その頃の自分は、しかし、なにも理解していなかったのだろう、という浅はかな思慮に欠けた自分があったのも事実だった。

 ぼくらは、今後のいくつかの計画を練り、結婚式や新しい家のことを話した。ぼくは、社長にこれまでの経過を打ち明け、実際的な解決法を導き出してもらおうとした。彼は頼りにされると、力以上に本領を発揮する人間の常として、ぼくらの新しい家のプランをいくつか紹介してくれた。安く、使い勝手がよく、これこそが生活というリアルな空想の面を打ち消したような部屋がそこに含まれていた。それは、本来はぼくらが必死に(そうならなくても買い手はたくさんいた)売り込む部屋だったのだが、「お前を東京に送り込んだお詫びとしての部屋」という定義で、ぼくに見せてくれた。

 ぼくは、その部屋の鍵を持っていた。ひとりで、その部屋の立地や場所を把握し、さまざまなものを検討して合格点を与えた。
 ぼくらの部屋にあった家具をいくつか運んだ様子を想像し、裕紀がそこで動いていることをイメージして、ぼくはその部屋を客観的に眺めていた。それが点から面に変わり、頭のなかにあるものが事実として反映されるのも間近だった。
 そんな時に、ぼくは職場に一通の封筒が机のうえに置かれていることを知る。

「ひろし君
 その後、元気ですか。
 結婚することになるみたいですね。
 おめでとう。
 誰よりも、わたしは、ひろし君の幸福を願っていることを忘れないでくださいね。
 もう少し、女性に優しい言葉を告げられれば、無敵だと思いますけど、もう、そういうことは覚えたのかな?
 わたしは、自分の子どもの成長がこれほど、楽しいことだとは思ってもみませんでした。
 意外と、母性があったことに自分でも驚いています。
 いつか、こっちに戻る機会があれば、また、ひろし君も見てくださいね。
 ただ、幸せを願っています」

 ぼくは、その見覚えのある雪代の筆跡で書かれた手紙をいったんは自分のカバンにしまいこんだが、家にあれば、それを裕紀は見てしまうということを恐れ、また職場の机の奥にしまった。ぼくは、彼女をいつも忘れようと必死になっていたのだが、それを誰かは許してくれないようだった。しかし、もしかしたら、自分自身で忘れないようにと、こころのどこかでは思っていたのだろうか。
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償いの書(27)

2011年02月19日 | 償いの書
償いの書(27)

「今度、東京にゆり江ちゃんが遊びに来ることになった」と、裕紀は嬉しそうに言う。
「そう」
「なんだ、関心ないみたいだね」
「そんなことないけど、どうなったのかね」
「なにが?」
「いや、いろいろな様子がね、変わったのかな、とか、そのままなのかなとか想像した」
「会ってみれば、分かるんじゃないの」
「ぼくも、会うの?」
「え、なんで、会わないの?」

 ぼくは、結婚することになる裕紀に対して、これからずっと秘密は作らないようにと決意していたが、過去の問題はまた別であることを知った。ぼくとゆり江という女性は、数年前、誰にも見つからないような関係を持っていた。妹と同じ年で、また、ゆり江と裕紀は子どものころに同じ習い事をして仲が良かったのだ。だからといって、ゆり江という子がすべてを話してしまうほど、子どもだとも思えなかったが、どうなることやらそれ以降は成り行きに任せ、自分はすこし心配が増えた。その晩は、若気の至りが、自分を追っかける夢を見た。いやな汗をかき、秘密を秘密のまま維持しようとしている自分にもゆううつな気持ちを感じた。

「こんにちは、お久し振りです」
 ぼくは、その日になって、裕紀とゆり江ちゃんが待っている場所に向かい、そして、対面した。彼女は、すっかり大人の、それも魅力的な女性になっていた。どういう形であれ、ふたりの愛した女性がそこにいるということに、当然ながら、ぼくは違和感がその主張や存在を自分の内部で示していたことを知る。

「あ、すっかりきれいになっちゃって」
「裕紀さん、いつも、ひろしさんはこんなこと言うんですか?」
「さあ、どうだろう、言うかな」
「わたしの彼は、あまり言わない」
 その後、ふたりは楽しげに話し、尽きることのない会話はいつまでも無尽蔵につづくようだった。ぼくは、いくらか安堵して空腹をいやそうと、そこらに出ているものをたいらげた。

「なにかわたしが知らないふたりのエピソードを話して?」と、裕紀は無邪気にそう言った。そのイノセントな気持ちが彼女の未来の命取りにならないことを願った。それから、空をみつめたゆり江はあれこれと考えているようだった。
 しかし、それは、とても美しい話で終わった。

「わたしが最初にひとりで住んだ家は、ひろしさんが車で何軒もいっしょにまわってくれて探してくれた部屋だった。景色を選ぶか、生活のし易い方を選ぶかで迷ったような気持ちもあったけど、仕事から、そこへ帰るのが楽しみになるような部屋にいつの間にかなった。生活の必要なものもいっしょに探してくれたよね? こんなひとがお兄ちゃんや彼氏であったら楽しいだろうな、とかたまに思ったけど、わたしはそう告白もできないほど、裕紀さんにも悪いけど、ひろしさんにはきれいな彼女がいて、あのひとに勝てるひとなど、そう見当たらないといつも思っていた。何回か部屋の様子なんかもきいてくれて、アフターサービスもしっかりしてくれた」

「好きだったみたいだね?」
「どうだろう? 親切と好意がわたしに勘違いをさせたのかも。だが、それ以降なにも発展しなかった」と、その話に結論をくだした。彼女もうそをついたのだ。誰も、裕紀の無邪気な気持ちを壊そうとは考えられなかった。そして、ずっと彼女は真実を知らないままで終わるのだ。しかし、ぼくもいつの間にかそのうそを信じるような気持ちに移行している自分を感じている。だが、それも、ゆり江が時折り見せる表情で簡単に覆された。

「ごめん、ありがとう」
 裕紀がトイレに立ったときに、ぼくは本当に小さな声でゆり江に向かって言った。
「わたし、ふたりのことがとっても好きだから。だけど、貸しは貸し。うそだよ」と、魅力一杯に彼女は笑った。ぼくは、胸の奥がいたくなるほど、それを美しく感じた。彼女の今日の、それも25歳の女性の一瞬の笑顔を見られたことに感謝したい気持ちになった。

「裕紀にも、雪代にも会わなかったら・・・」
「なんか、ひろし君は正直だけど、ひどいね。いいよ、わたしにも素敵な彼氏がいるんだから。そう、美紀ちゃんの赤ちゃんを見ることになった」
「なに、話してるの?」戻ってきた、裕紀がたずねる。
「妹の子どもを見ることになったんだって」と、ぼくは会話の方向がずれたことを喜んでもいる。

「ほんとに可愛い子なんだよ。わたしもいっしょに行こうかな」
 話は、その計画に移っていった。ぼくも、トイレに立ち、自分の選択の結果を考えている。間違いでないのは知っていたが、それでいくつかの可能性を消滅させることになるのだということも感じていた。欲張りな自分を恥じ、自分のいまの幸運を失わないことも願っている。鏡にうつった自分の顔は、そう魅力的でもなかったが、何人かの女性は本気で愛してくれたということもそれは語っており、ただ、不思議な気持ちに包まれている。

 それから、店をでて裕紀の家に泊まるということで彼女らは一緒の地下鉄に乗った。ぼくは、いくらかの小さな玉のような心配もすこし残し、さらにそれ以上の大きな喪失感も酔いが頭の重みを増していくように、そこに確かにあった。
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償いの書(26)

2011年02月13日 | 償いの書
償いの書(26)

 あるひとつの選択自体が力を持ちはじめ、それ自身が動力となっていく。ぼくは、上田さんに彼女と結婚しようと思っている、と静かに語った。

「お前は、大事なものに気付くのが、いつも遅すぎると思うけど」と、言われた。「ラグビーをやめてしまったのも、もったいないと思っていたけど、オレはなにも言わなかった。だが、今度は、別の選択をするようなら、お前は見込みのない人間だと思うかもしれなかった。そういうことだよ」

 と言って彼は満足そうに笑った。彼が、大人になった彼が、ぼくが学生のときに知っているように笑ったのは、久し振りのような気もしていた。最初に知ってから、もう十年以上彼の表情と付き合ってきた。彼の顔は言葉より雄弁になることが多かった。
「じゃあ、良かったことだと思うんですね?」彼は、何を訊いているのだ、という不可解な表情に直ぐにかわった。
「当然だよ。智美も真剣にお前らのことを心配していた。お前らじゃないな、近藤のことを」

 自分の選択を誰もが後押ししてくれるというのは嬉しいことだった。しかし、現在という立場にいる当事者はそれが正解かは決めかねることもある。だが、それが動力となって形をなしていく以上、正しいと思うのは間違いではないのかもしれない。
 真面目な話を終えてから、ぼくらはいつものように軽いふざけた内容の話もした。そうなると、上田さんは誰よりも軽妙で、ひとの笑いを誘引するような雰囲気を発することに長けていた。それで、ぼくも、いささか重苦しい空気を忘れ、笑い転げた。
「上田さんにも言ってみた」
「それで? なんだって?」

「自分のことのように喜んでいた」その後に会った裕紀は、それで安心したように笑った。「でも、ぼくがラグビーを続けなかったことを、また持ち出した。それで、大学時代の友人に同じことを言われたのを、ふと思い出した」
「でも、いろいろ考えての決断なんでしょう。そこに、わたしはいなかったから詳しくは分からないけど」

 彼女はそのことを、とても残念そうに言ったが、ぼくは、それをいつかは忘れたい記憶と思っている。彼女は、そこに居るべきでもあったし、もちろん、居てはぼくの人生が困ることになった。

「いろいろ考えてだとは思うけど、もう人生は続いてしまったのだし」
 ぼくは今後、彼女と生きることになる。彼女の好みの傾向を判断して、それを最優先させることや、ぼくの好き嫌いも知って欲しいと思っている。消せるものや、どうでもいいことは後回しにして、なによりも大切なものはなにかということを考え続ける日々になるのだろう。父親や母親は、いったいどうしていたのだろう? ぼくと妹が不自由なく学生時代をおくれたのを大切なこととして記憶しているのだろう。ぼくは、もう少し誰かを喜ばすことができたのかもしれないと今更ながら感じている。しかし、何人かには遅かった。いまからでも手遅れにならない関係は、とても貴重なものとして優しさを示したりするよう、その場ではっきりと決意した。

「これからは、なにか心配事があったらわたしに相談して。わたしもひろし君に訊くから」
 裕紀は安心しきったような表情を浮かべた。彼女には頼りにする存在が必要なのだろう。家のそばにはおじさんが住んでおり面倒を見てもらっていたが、それは決定的に両親とは違う存在だった。その代わりをぼくが引き受けるという大それた考えももったが、相互に助け合っていけばいいのだ、と軽く簡単に考えようとした。

「そうするよ」
 彼女のつくった料理を食べた。その味は、ぼくの規定のものとなる。ぼくは、洗濯を終えた衣類をベランダから取り込んだまま無造作に置いていた。ぼくが近くの店に必要なものを買いにいっている間、それは丁寧に畳まれていた。それも、ぼくの規定のものとなっていくことになるのだろうかと、その固まりを眺めながらぼんやりと考えている。

 ぼくの優しさを込めた言葉が、彼女の基準となり、それを越えることがなく低いままならば、ぼくが弱っていたり怒ったりしていると勘違いしてしまい当惑するかもしれない。

 ぼくの電話の回数を覚えていて、それが減れば、彼女は悲しむかもしれなかった。それらの基準をふたりで積み上げることがたくさんあるような気がした。ぼくらには設定の変更が必要なのだろう。でも、それは、それほど難しく考えることではないのだ。少しずつ調整していけば、人間には適応力が備わっており、彼女も外国でも暮らした経験があるのだから、ぼくともそう衝突するのだとは考えられなかった。そして、彼女は奇跡のように不満をあまり漏らさないタイプの人間なのだ。

 ぼくの部屋に彼女のこまごまとしたものが増えていった。また、彼女の部屋にぼくのTシャツがあり、それはタンスの中にしまわれていた。それらが、いつかひとつになったことを想像すると、ぼくらは目覚めから眠るまでの期間をそれぞれが大切な存在として生きていくんだということをおぼろ気ながらに象徴しているようだった。
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償いの書(25)

2011年02月06日 | 償いの書
償いの書(25)

 そして、妹にも子どもが生まれた。元気そうな男の子だった。顔は不思議とぼくに似ていた。もしかしたら不思議なことではないのかもしれないが、自分に似た存在が別の形となってベッドに寝ている姿に驚いただけなのだろう。驚いたとしても、その似ているということで、ぼくはその対象を直ぐに好きになり、簡単に新しい存在を受け入れた。

 妹は、すこしやつれていたようだが、それでも達成感に満ち足りたのか、別の次元の美しさがあった。ぼくは、自分の両親や山下の両親ともいくらか話し、直ぐに帰ってしまった。それは、家族の重さというものを必要以上に感じてしまったからなのだろう。だが、その週末には裕紀も見てみたいというので、ぼくはふたたび妹を見舞った。

 その小さな存在を裕紀は真剣なまなざしで見ていた。もともとが子どもが好きなひとだったのだ。彼女は恐れもせずにその子を抱き、なにか小さな声で話しかけていた。その母性の表れをぼくは客観的に眺め、また妹の表情をみた。誰からも愛される存在を期待し望んでいるならば、彼のスタートは良好なものだった。ぼくらは居過ぎても悪いので、すごすごとそこを出た。だが、裕紀は名残惜しそうにしていた。そして、病院をでてからも、いかに赤ちゃんが愛らしかったかを述べつづけた。

 ぼくらは土手を歩き、高校生が部活動でジョギングして横を通り過ぎるのを感じるともなく感じていた。そのような暖かな気分がいたるところに漂い、ぼくらを解放的な気分にしてくれた。

 河川敷では野球やサッカーが行われ、小さな子たちも運動に励んでいた。さっきの子どもがそこまで成長するためには、どれほどの愛情が注がれる必要があるのかを考えた。

「ひろし君も、ああいう子がほしい?」
「それは、いつかね」
「近いいつか? 遠いいつか?」
「近いいつかの部類に入るんじゃないのかな」
「そう」
「ぼくが、もしそうなるなら、その子のお母さんになるのは裕紀だけだよ」ぼくは、川の向こう岸を見ながら大切な言葉でもないふりをして、そう言った。

「ほんと?」
「ほんとうだよ。いつか結婚しよう」
「え?」
「いや、聞こえていたはずだよ」
「ううん、聞こえなかった」
「いつか結婚しよう」
「とても大切なことを、ひろし君はいま言ったんだよ」
「知ってるよ。でも、こんな天気のもとで心配もない気持ちのときに聞いてもらいたかった」
「高級なレストランを予約するわけでもなく?」
「そう」
「寒い空のなかで夜景がきれいに見える場所でもなく」
「そう。暖かな太陽を浴び、少年たちは無心にボールを追いかけるのを見守りながらね」
「ひろし君て、やっぱり、そういうひとなんだね」
「残念?」
「ただ、自分に正直でありつづけようと思っているみたい。ときには間違った道を歩みそうになるけど」
「それでも、着いてきてくれる?」
「うん」と小さく彼女は頷いて、ぼくの肩にもたれてきた。

 ぼくは、いまの瞬間までそのようなことを口にするつもりもなかったのかもしれない。だが、別の面から見れば、どこかで言うべきタイミングをずっと探していたのかもしれなかった。再会してから、いい加減な気持ちで付き合いを始められなかった以上、この言葉が出る必然性はあったのだ。それが、いまの瞬間を待っていただけなのかもしれない。ぼくは、まだ10代の半ばで裕紀をはじめて見たときの印象を思い出している。それから、数年のことも思い出せた。しかし、ぼくは彼女を失い、また別の大切なもうひとりの存在の胸に飛び込んだ。東京に出て来ても、忘れられなかったその女性のことを、再会した裕紀が胸の焦がれを消してくれた。このようなぼくの大切なストーリーがあった。その帰結として、この土手に座っているふたりがいたのだ。

 ぼくらは漠然とした未来のことを、それぞれの頭のなかで組み立てていたらしく、口数が前よりも減った。だが、気持ちの方は、以前より強く結び付けあっていたはずだ。

 彼女は、ぼくの家に寄り、ふたりで簡単な料理を作り、その夜の時間を過ごした。ぼくらは大切な言葉を語り合ったからなのか、いつもより視線をぶつけ合うことが少なくなってしまった。もう別れることも可能なのだというぐらついていた他人ではなくなるという予兆があった。

 彼女は、電車の時間を計算し、また服装を直して洗面所の鏡に自分をうつしてからバッグを持ち直しそとに出た。ぼくも、いつものスニーカーを履き、後を追うように駅まで見送った。

「さっきの言葉、全部うそじゃないよね?」別れ際に彼女は、念を押すように確認した。
「もちろん、ほんとの気持ちだよ」

「そう、よかった」彼女の背中は段々と小さくなったが、その言葉はぼくの耳の中でより大きくなり響いていた。
 ぼくは、裕紀を選ぶことにした。そして、なぜか帰る道すがら、もうひとりの女性のことも考え、彼女を選ばなかった理由をたくさん見つけようとしたが、どれひとつとして正解の○を与えてくれそうなものはなかった。
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償いの書(24)

2011年02月05日 | 償いの書
償いの書(24)

 また東京に戻り、日常の業務に追われている。それらを、完璧に行おうとすれば、時間はいくらあっても足りず、手を抜こうとすることは自分の性格が許さなかった。それは、根源的なことなので、自分の気分で変えようという簡単なものでもなかった。そのことで、あることは二の次になり、休日になるまで一時的に忘れることにした。そのことは、悲しいことだが、裕紀のことも含まれてしまうことが過分にあった。

 その日は、待ちに待った休日であり、ひさびさに上田さんと智美にあった。そして、ぼくの横には裕紀がいた。彼女らは、だいぶ前になってしまったが旅行に行ったときの話しをした。時おり目配せをして意味深な表情をしたりした。自分も、その内容に興味があったが、そうした楽しげな様子をみているだけで、ぼくのこころは暖まった。

「この前、地元に帰ったんだな。親父に聞いたよ」と、上田さんは言った。

「そうなんだ。楽しかった?」と、智美もぼくに対して尋ねた。
「仕事だからね。楽しいばかりでもないし、緊張しましたよ」
「良くやってくれてるって、親父も誉めてた。仕事以外にも休暇を与えたようなことを言ってたけど」他人からきく誉め言葉というものは嬉しいものである。

「実家に泊まったみたいだし」と、裕紀も付け足した。ぼくは、その後で家に急に犬がいた話をしたが、それ以降は、ぼくの家族の話を智美が受け継いだ。彼女はぼくと幼馴染なので、ぼくが知らないことも話に含め、もちろん情報として知っていることも多かったので、ぼくはあの時代の古びることも感じなかった自分や家族のことを懐かしさをこめて聞いている。だが、みなのこころの中にぼくと雪代が、もしかしたら会ったのかもしれないという心配の気持ちもあるようだった。それは、ぼくの思い過ごしかもしれないし、疑念を持ち込みすぎている杞憂かもしれなかった。だが、幾分かはその気持ちがあったのは事実だろう。

 しかし、何があっても休日にこのような友人たちと会うことの開放感のほうがずっと多かった。それらのひとを悲しませたり、心配させたりすることは、もうぼくにはどうしてもできなかった。それで、ぼくは自身のこころのなかに閉まっておけるものはきちんと密閉してしまい、出すまいと努力した。

「他になんか変わったことがあった?」と、智美は好奇心で訊く。ぼくは、いろいろと頭のなかで話題を探した。しかし、どうやっても、自分が雪代の女の子を抱いたときの印象がいちばん、強かった。だが、それを払い除けるようにして、会社の性格(そのようなものがあればだが)が変わってしまったようなことや、町並みや自分の東京での暮らしを通じてよそよそしくなってしまったことを話した。

 ぼくらの会話が停滞したところで、ぼくの頭のなかにはまたもや、あの小さな存在が浮かび上がってくる。ぼくは、その重みを忘れることができず、覚えていた。それは、記憶というよりひとつの経験だった。ある日、それは雪代の子ではなく、自分と裕紀の間のものとして抱かない以上、大切なものであり続け、忘却することは難しいようだった。

 ぼくらは、4人で静寂な町並みをぶらぶらし、小粋な店を眺めたりした。裕紀は、形のかわった帽子を買い、直ぐにそれを被った。そうすると、年齢以上に子どもじみて見えた。ぼくが知らなかった時期の裕紀がそこに表れたような気がした。

 それを見ながら、裕紀の父も彼女の小さなころの身体を暖かく抱き、その成長した輝ける時代を知らないまま亡くなってしまった事実を思い出す。島本さんもまた同じように広美と名付けられた小さな子を抱き、その成長を見守るのだろう、ということを考える。それをうらやましいと思う反面、責任の重さも痛感する。ぼくは、どれほどの人間のどれほどの生活を知ることになるのだろう、という答えにならない計算をするが、この場面を大切に記憶に留めておこうということで解決を出したことにした。

 静かな道でぼくと上田さんは、以前のようにラグビーの真似をしてじゃれついていた。ふたりともむかしのような身体は有していないが、それでも、知らないひとが見れば勢いのある風景だったかもしれない。笑い転げる裕紀の身体が、うしろを通りかかったベビーカーにぶつかりそうになって、ぼくと上田さんは動きを止めた。そして、平謝りをしながら、そのお母さんに頭を下げた。ぼくは人生というものが、デジャブではなく、一直線につながっているのだなと実感した。

 そのベビーカーの進むべき道をさえぎったのは裕紀の身体であり、ぼくの揺れ動く思いでもあった。ぼくは、通り過ぎたそれらのひとびとを眺め、自分の人生のある部分がきちんと終わったことを感じた。それは悲しみというより、新たなものを構築するための準備された時間だったかもしれない。

 ぼくらはそれから夕飯を済ませた後、裕紀と連れ立って帰った。ぼくらの前には架空のベビーカーがあって、そのなかを覗いている裕紀の姿をぼくは頭のなかで追おうとした。むなしい努力だったのか、それとも、期待の実現を待つことへの予測だったのか、自分の休日の脳は、とことん突き詰めて解決することをし忘れてもいた。
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存在理由(65)

2011年02月05日 | 存在理由
(65)

 その日をどこで迎えるか思案をしたが、米沢先輩が仕事上で付き合いのある会社の人たちがアジアでの最終予選の最後の試合をみるために、スポーツ・バーを貸し切ったとのことなので、ぼくもそこに誘われ観戦することにした。ひとりで見ることが怖かったのだろうか。それとも、大勢で、その歓喜の瞬間を受け止めたかったのだろうか。

 日付けは1993年10月28日。その日の夜のことだった。

 仕事を終え、米沢先輩と待ち合わせ、そのバーに向かった。彼女は、いつものように隙のない化粧をしていた。その反面、無防備さをあらわすような態度も兼ね合わせていた。いつも、不思議な印象を与える女性である。

 サッカーの試合がはじまる前から、くつろいだ雰囲気でお酒や食事を楽しみ談笑した。その会社はとある金融機関で、米沢先輩はそのうちの一人と交際しているようだった。そのままでいけば将来は、銀行家の妻になることが予想された。そのことは、とても彼女に合っているようにも思えた。

 もっと別の日であるならば、そのことで盛り上がったはずだが、頭の中はその日に行われる試合で一杯だった。彼女は、ぼくの冷淡な態度を横目で見、あんたの批評もききたいんだぞ、という表情をした。その男性が新しいグラスを取りに行っている間に、良い人そうですね、と簡単な相槌とともに語り、詳しくはまたの機会に言いますから、とその場はお茶を濁した。

 やっと試合は始まった。数々のプレーに一喜一憂し、自分の声援で余計に盛り上がり、興奮しているのが分かった。そこにいるほとんどの人が、そのチームを無心に応援していた。

 レギュラーは、ほぼ固定化され、誰が見ても納得のいく布陣だった。だが、逆にいえば、その選手たちを追い抜くことができないほど、選手層は薄かったのかもしれない。しかし、ベストであることは間違いない。

 試合の経過を追いかけてはいるが、その前の長い歴史のことにも思いを馳せる。ちょっと前までは、プロ・リーグが発足すること自体、信じられないことだった。たくさんの海外の有力選手をじかに見ることもできるようになった。グラウンドに立っている当人たちはファンより身近に接するので学ぶことも多いのだろう。

 後半戦になった。あと45分の忍耐の問題である。

 時間は確実に過ぎ、終了のホイッスルを待ち望んでいる我々は日本が2‐1で勝っていることを知っている。きっと、そのままの点差で試合が終わることと決めていた。だが、勝負のちょっとした油断は、決定的にチャンスを狙っている。10代の残酷な美少女のように、求愛の申し出を断ることだけを望んでいるみたいだった。高くゴール前にあがったクロスボール。それに合わせたヘディングシュート。そのボールは、動くことのできないゴールキーパーを笑うように、ゴールの隅に吸い込まれていった。この瞬間をぼくらは待っていたのだろうか。

 テレビの中の選手たちは表情を失い、試合は終わった。崩れ落ちる選手たち。グラウンドの中も、グラウンドの外も。スパーツ・バーで観戦していた人たちも一気に現実に戻され、だれもが落胆していた。ふと意識が戻ると、時間も遅いこともあり、ひとりひとりと静かに消えていった。みどりは現地でどうしていることだろう、とふと脳裏をよぎった。

「あんた、大丈夫? 帰るよ」と米沢先輩に、肩を揺すられ言われた。
「うん。はい。そうしましょう」と、元気もなく返答した。

 タクシーの数は少なく、ぼくが奥に座り、彼女もそれに続いて乗車した。彼女は、落胆と不甲斐なさのまじった言葉を発した。多分、ぼくは答えることもせず、首だけを暗い車内で前後に動かした。最終予選に負けたことは事実だが、あのメンバーは最強だった、ガッツある面子だった、といまの自分は知っている。

 米沢先輩の家の前で、車はいったんとまり彼女は降りた。そのまま、ぼくは乗ったままの姿勢で誘ってくれたお礼と、彼女の交際がうまくいくことを望んでいることを告げた。彼女は、少女のような表情で、「ありがとう」と言い、車は扉をしめ発車して別れた。

 車内の固い座席に頭をもたせ、運転手から先程の試合をラジオで聞いていたのですが、残念ですね、と問われた。無視するのも悪いと思い、きっと4年後はどうにかしてくれるでしょう、と希望のあらわれのようなことを言った。頭の中では、ドーハで取材をしているみどりのことを絶えず考えている。選手と同じように、彼女の長年の夢も崩れ落ちたのだろう。その気持ちを抱えて、みどりは無事に日本に帰って来られるのだろうかと、そのことだけをぼくは心配していた。

(終)
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存在理由(64)

2011年02月03日 | 存在理由
(64)

 みどりとの交際を通じて、確実にぼくの体内に残ったものは、サッカーを見ることだった。もちろん、それだけではなく、多数の影響を受けるのは当然であるが、いまでも見続けているので、最前列に置いても問題はないだろう。

 アメリカで行われるワールド・カップの予選は引き続き行われていた。Jリーグの熱狂とともに、そちらの応援も加熱していた。応援されるだけの魅力がそのチームにはあった。

 アジアには2つの出場する枠が用意されていた。Jリーグの一部に入っていないチームから選ばれたフォワードの活躍もあり、その後、北朝鮮と宿敵の韓国にも勝ち、予選のトップに立った。誰もが期待をもたないでいることは不可能だったろう。とにかく、あと一勝までもちこんだのである。目の前には、自力で念願のワールド・カップへの出場だ。

 季節は秋である。

 みどりとはたまに連絡を取り合っている。自分から電話をかけたりすることはまれだが、共通の友人もいるので、互いが同席することもあった。憎み合って交際を終えたわけでもないので、顔を合わすことも不快だとは思わないが、話しあえることや許せるこころの範囲を自分で設け、それを飛び越えてしまうことは必要以上に避けた。彼女がどう思っているかは分からなかったが。

 ある友人とお酒を飲んでいるときに、仕事を終えたみどりがいつものように大きめの取材バックを抱え、そこに入って来た。そのことを知らされていない自分は驚いた。彼女は、ぼくがいることを知っているらしくいつものように微笑んだ。その友人はぼくとみどりが大きな喧嘩でもして別れて、それで修復も可能か判断しかねている様子で、ぼくらを会わせたがっていたらしかった。しかし、ぼくの一方的な気持ちの変化であることに気付くと、ぼくをなじった。それでも、みどりは同調せず、お互い大人なのだし、これからも別れをたくさん経験すると思うけど、これはそのはじめなのだとも言った。それを聞いて、ぼくは返す言葉もなかった。

 友人は酔い潰れ、ぼくとみどりは彼をタクシーに詰め込み、目的地を運転手に告げ、閉まるドアを見送った。それから、久しぶりに秋の涼しげな夜を二人で歩いた。
「みんなに心配させてしまっているね」と彼女は小声で言った。
「そうだね、いろいろごめん」
「別にあやまることないよ。きちんと誠意をもって対応してもらって不満もないよ」

 だが、そう言われれば言われるほど自分のこころは痛んだ。地下鉄の駅に着き、彼女は反対側のホームに向かおうとしている。その時に、今度サッカーの取材でドーハに行くことになった、と言った。彼女の待ち望んでいたことの一つが叶いそうなことに、当然のごとくぼくも喜んだ。なんの心配もなく、もう出場は確かだよね、とぼくは宣誓した。彼女も60%ぐらいはそのことに同意したが、あとの残りは油断ということへの不注意さを自分の生活にように心配もした。

 駅のホームの反対側に彼女の姿があらわれ、人込みにまぎれてそのまま消えた。その瞬間、なぜか自分は喪失感に包まれた。このときに、きちんと自分は別れてしまったんだな、と実感したのだろう。

 ぼくも次にくる電車を待った。直きに轟音とともにあらわれ、多くの客を吐き出し、あらたに自分をのせて出発した。車内でもサッカーの話題をしているサラリーマンたちがいた。ちょっとした人に与える希望の効能のようなものを自分は感じた。となりの車両に空いている席があったので、ぼくは移動し座席に座った。みどりが働いている出版社のサッカーの雑誌を読んでいる若者がとなりにいた。見るともなく見るが、きっとみどりが関わった記事も載っていることだろう。うとうとしかけたが最寄り駅に到着し、階段をのぼり、ひんやりとした外気に触れ、ここちよさを実感し、少しだけのどの渇きを覚えたので缶コーヒーを買い、それを飲みながら歩いた。

 家につき、服を脱いだ。電話をおおく要求する由紀ちゃんに合わせ、遅い時間だが彼女の家にかけた。寛いでいる時間のせいか、いつもより低めの声だった。会社を出てからのことを話したが、みどりのことには当然のように触れなかった、友人が見事に酔い潰れたことだけを告げ、あとは彼女の話に聞き入った。それをしながらも、頭の片隅には、あと一勝でワールド・カップに行けるのだ、ということがこだまのように響いていた。
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償いの書(23)

2011年02月03日 | 償いの書
償いの書(23)

 この前の仕事が終わり、報告を兼ね本社に帰ることになった。ぼくは駅で切符を買い、特急の電車を待った。その前に、資料が入ったカバンを足元に置き、空腹を満たすための弁当を買った。

 平日の電車は空席が多かったが、なかには自分と同じようにスーツ姿の男性もいた。そこには各自の個性というものはなく、その他大勢という印象を自分に与えた。しかし、彼らひとりひとりにも仕事上の成功や失敗があるはずだった。

 頭のなかでこれからの成り行きを組み立て、その間に弁当を食べた。目をつぶると、あまりの心地よさに眠ってしまったようで、ふたたび目を覚ますと、いつの間にか見知らぬ人々が座席に増えていた。

 駅でタクシーを拾い、先ず本社に向かった。コーヒーで一服する間もなく、直ぐに会議室に入った。ぼくは計画をまたあらためて語り、進捗を話し、その結果を報告した。そして、何人かの拍手とともにその任務を終えた。それからは、別の報告を傍観者のように聞いていた。するべき役目を負えた自分は、ほかの業務に集中するほど、まだ鍛えられてはいなかった。

 昼食は社長に呼ばれ、いっしょに遅い時間だったがご飯を食べた。会議には支店長もいたが、別の用事もあったようで、そこにはいなかった。

「せっかく戻ってきたんだから、ご褒美として数日、休めるように手配したから、夜も、付き合えよ」と社長は、口をもごもごさせながら言った。なにごともあわてて用件を片付けようとするところは昔と変わっていなかったが、ひとに対して、性急さを求めなくなったのは、少し変わった部分だった。

 それでも、夕方まで自分はすることもなく、若い社員に同行して外回りに付き合った。そこはぼくが過ごした場所であり、見慣れた景色だった。しかし、一年ほどの東京暮らしで、いささかよそよそしい場所にもなった。

 夕方、会社に戻って、社長が業務を終えるのを待っていた。以前ほど、彼のワンマンぶりは発揮されておらず、こういうのはおかしいが、きちんと会社として機能していた。去年はもっと彼は思いつきで動き、急な方向転換にも会社はすぐに海路をかえた。小さな操舵で、転覆もせずに進んでいたが、いまはもっと土台がしっかりとしてしまったようだった。ぼくは、それを嬉しいと思う反面、いくらかは淋しい感じもした。手作りになれたひとの仕事ではなく、もう機械の作業を見守るかのような社長の存在を意識したからだった。しかし、企業というものは遊びではない以上そうなる運命なのだろう。

 そこに、ぼくに電話がかかってきた。
 それは、聞き慣れた声だった。
「こっちに帰ってきてるんだ? 聞いたよ。連絡しないで、帰っちゃう積もりだった?」
「だって、もう」
「もう関係ないひと、とか言いたい」と、雪代はすこし笑っているかのような声で言った。
「そこまで、言うつもりはないけど」
「少しぐらいは話せない?」
「島本さんは?」
「彼はわたしの代わりに買い付けに行ってる。その間に遊ぶことを楽しみにしてしまったようで」
「明日、休みをもらった。じゃあ、少しだけ」ぼくは、裕紀のほかには、もう女性を意識しないようにするはずだった。だが、以前の知り合いに押されれば、無下に断るわけにもいかなかった。

 違った気分になり、社長を待った。彼は行き付けの店を増やし、その新しい一軒に連れて行ってもらった。

「うちの有望株。オレが東京に送りつけちゃったんだけど」と、店のひとに彼はぼくのことをそう紹介した。
 ぼくは、小さく会釈し居心地の良さそうな店内を見回した。そして、その後もお酒を飲みながらも明日のことを心配していた。支店長は、もう東京に戻っているはずだった。ぼくは、ホテルを取らずに実家に戻った。家には、もう妹もいなく、新たに小さな犬が増えていた。ぼくは、はじめて見るその姿に驚くとともに直ぐにじゃれついてきた様子を見て、愛らしさを感じる。母親は、やはり誰かと関係性をもつことを楽しみにしている存在なのだ。それを忘れてしまったかのようなふたりの子どもがいた。特に自分は、そうだった。

 翌日になり、ぼくは雪代と待ち合わせた場所に行った。そこにはベビーカーを横に置いている思いがけない姿で彼女は座っていた。ぼくが来たことも知らずに、その中を覗き込んでいて、周囲に注意を向けていない様子だった。
「来てくれたんだ」ぼくが、声をかけると振り向いて彼女は言った。
「やっぱり、女の子なんだね」
「知ってた?」
「誰だったかな、社長だったかな、前に、教えてくれた。名前は?」
「無個性な広美。自分で個性を見つけて欲しいから」
「似てるけど、骨格はまるで彼に似たかのように、しっかりしている」

「あの人は、典型的な遊び人になってしまった。仕事を手伝ってもらって助かっているけど、外国に仕入れに行ってる間、一体、どう過ごしていることやら。ひろし君も結婚するの?」
「それは、多分」
「あの子と?」
「そう、あいつと」
「抱っこする?」それは質問ではなく、強制だったようで、小さな存在をぼくの腕の中にこじ入れるかのように手渡した。その主張をしない小さな姿から幼児特有の匂いがした。ぼくは、それに戸惑い直ぐに彼女に戻してしまった。
「この子は、いまのことを覚えている気がする」と預言者のように彼女は言った。だが、それを確かめるには充分な時間の経過が必要だった。
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存在理由(63)

2011年02月02日 | 存在理由
(63)

 新しい人間関係を土台にして、日々の生活を築きあげることになるが、そう早く一新される訳でもなかった。やはり生活は毎日の単調なことの積み重ねである。それでも、新たな関係が、とくに自分にとって楽しいことであるならば、その単調な時間さえ愛惜しむべきものである。

 それにしても、自分としてはあまりにも長い間、同じ女性と会話したり過ごしたりしていたので、その方法が染み付き、変化するのに戸惑ったりもする。しかし、自分に訪れるすべての変化は必要不可欠なものだと思い、新たな方法を覚えていく。

 由紀ちゃんが目の前にいる。彼女は、ぼくといてとても楽しそうな印象を与える。そのことによって、ぼくもつられて楽しい気持ちになる。彼女は、ぼくがみどりとの交際を終えたことを知り、喜んでいいのか、悲しんでいいのか複雑な顔をした。しかし、人間に独占欲がある以上、仕方のないことだった。

 いまは夏である。眼前には海が広がっている。限りない青い空と、白い砂浜がそこに宝箱から取り出したようにある。彼女の素足には、小さなきれいな砂粒がくっついている。手元には、冷えた飲み物があった。誰にも命令されず、惑わされない夏のこうした一日があることが、自分にとって、とても幸せだった。自分の両親にも、こうした日々があったことが、ふと急に気になりだした。多分、生活に追われて楽しめる日は少なかっただろう。

 頭の中で2人の女性を比較してしまう時がある。

 みどりは、あらゆる点で頑張り屋だった。いつも向上する余地がないかと探しているような一面もあった。それでも、それを他人に要求することはないが、まわりにいれば彼女にも最善を尽くしてあげたいという気持ちにさせた。

 一方、由紀ちゃんはすべての人間の良い面を探すことを趣味にしているような気分があった。それなので、よく他人を褒めた。ぼくもそのことに恩恵をあずかるわけだが、他の男性のことも同様にするので、少なからず嫉妬を感じることもあった。

 夜のレストランでは大きなロブスターを食べた。日に焼けた二人は、飲み物で渇きを潤し、饒舌になり、互いの存在をかけがえのないものとして求めた。彼女は金銭的に困ったことがないことは、話しているとすぐにうかがえた。別にそれで困惑することもないが、自分はもっと稼ぐ必要があることは、頭の一部に残った。

 食事を終えた後、暗くなったビーチを歩いた。波の音だけが、快適な音量で耳に入ってくる。

 由紀ちゃんのこれからの予定や計画を聞く。彼女は、いましていることにやりがいを感じ、それをもっと生き生きさせるものがないか調べ、もっと面白いものが作れないかと思案していた。多分、近いうちにそうした責任も与えてもらえることだろう。彼女には、チャンスがたくさんあるのだ。ぼくもその気持ちがいくらか伝染した。そうした会話をもとにした時間は、いくらあっても足りず、休みもすぐに終わってしまう。

 家に着くと留守番の明かりが点滅していた。ボタンを押して再生すると、流れてきたのはみどりの聞き覚えのある声だった。ぼくは、忘れることの出来ずにいる番号に連絡した。

「新しいガールフレンドはどう? 優しくしてくれる?」
 と、簡単な挨拶のあと、単刀直入にきかれた。彼女は、友人関係を辞める気は本気でないらしかった。自分は自身の都合で関係を終わらせたことを後ろめたく思っていたが、彼女の口調からは責める意図などまったくないことが感じられた。

「普通だよ」と答えるしかなかった。

 それから、近況を話したが、そう急に生活に劇的な変化があるわけもなく、両方に関係した友人たちの最近の出来事を話し合い、電話を終えた。

 ある程度の期間、交際してきたので、互いの友人たちの方が、二人が別れたことを心配していた。それらに対しても、彼らにそのような感情を抱かせてしまったことを済まなく感じた。だが、時間はいつもローラーのように、いずれ均してくれるだろう。みどりは、また連絡すると言ってくれた。彼女の両親たちはぼくのことを、どう思っているだろう。長い人生の間、自分の娘の前に一瞬の間だけ訪れたひとりの男性だ、ぐらいに思ってくれるのだろうか。そう遠くない将来に、名前を思い出すこともなくなるのだろうか。自分には答えは与えられないだろうが、それでもこころの片隅では気になっていた。気にしても仕方のないことが増え、誰かの幸福の予感さえ奪ってしまわなければ、生きていけない人間の不幸も感じる。
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存在理由(62)

2011年02月01日 | 存在理由
(62)

 別れを切り出さなければならなくなった。そのことについては、当然のことながら気が重かった。

 だが、先延ばしにしても、解決することではないので、みどりと会った。いつもより話がはかどらないことを彼女は不可解に思って、そのことを尋ねた。尋ねられても、すぐに即答はできなかった。

 しかし、自分の都合ばかりも考えてはいられないので、ようやく口に出した。だが、この段階になっても、自分の結論が正しいことかは判断できずにいた。

 ぼくはこれまでの自分の気持ちの移り変わりを簡単にまとめて言った。それを聞いて、彼女は驚いたようだが、仕方のないことだと言った。多分、その結論は正しいことだとも言ってくれた。ひとりになった時までは分からないが、彼女は人前で泣くようなことはなかった。なので、お茶を飲んでいる店内の周りの人も、そんなに重要なことを話しているとは思ってもみないだろう。

 自分は、二度と会うこともないだろう、と考えていた。それが、けじめのようなものだとも思った。しかし、彼女の感想は違かった。これまでの関係をないことにすることは出来ないので、なんでも相談できる友人として、これからも歩むことは可能だといった。ぼくも、それに対しては反論できず、当面は、それも有りだろうぐらいに気持ちを切り替えた。そのような気持ちになったところで、さまざまなものを手放した安堵と軽い後悔が入り混じった、自分のこころを見つけた。そうなることを予測もしていなかったので、少しの疲労とため息に似た気持ちに包まれた。

「いままで、いろいろありがとう」と、彼女は笑顔で言った。「先に出るね」そう言って、彼女は日差しの強い初夏の陽気のなかに紛れていった。相変わらず、この結論と行動は正しいものだったのかと思い続けていた。

 少し経って、自分も外に出た。毎年のように何度も経験するが、夏になる前の日差しは暑く、それでもいくらか肌に心地よい風があたった。後ろから猛スピードの自転車がぼくの横を通り過ぎた。かすがだが自分の腕と接触し、それまで気づかずにいる自分のぼんやりとした脳を呪った。

 なんとか家に着いた。自分で別れを切り出したはずだが、本当は反対だったような気もしてきた。彼女から、一方的に別れを告げられたような焦燥を感じていた。何もすることを思い浮かべられなかったが、とりあえず手元にあったアルバムをめくった。そこにはぼくの成長とともにいたみどりの存在が決して消えない身体の模様のように、ただ事実としてあった。そのことを当然だと思っていた自分の顔も写っている。しかし、もう新たに写真は増えていくことはないということも、また認識させられた。そのことに脅え、押入れを開け、奥にその2冊のアルバムをしまった。しまったが、その存在は後で大きく主張してくるのだろう。

 忘れるように由紀ちゃんの電話番号を思い浮かべ、指令を受けた指先がかけた。それで、会う約束をとりつけた。着替えて外出するときに自分の非情さを感じないわけにはいかなかった。その薄情な自分に、不快さが募った。

 歩いていても、そのことは頭からひと時も離れなかった。

 いろいろなものに敏感になっている自分がいた。喫茶店にはいり、由紀ちゃんを待っていた。この瞬間を隠れて待っていたかのように、みどりとよく聞いた音楽が流れていた。そのことは思い出と直結し、ガードの緩んでいるぼくのこころに素直にたどりついた。そのことで、また呆然とした。このまま当分は過去の亡霊と対決し、ひとつずつ解決していかなければならないのだろう。下手なゲームのように、ゲーム内のヒーローは役にも立たない武器を持ち、難題にはかならず負け、武器を取られ、勝者になる日は永遠にこないような気持ちがしてきた。

 音楽が終わっても、店の外を歩いているみどりに似た人を自然と目で追っかけている自分も発見する。それを中断するため、ポケットから文庫本を取り出し、ページをめくった。だが、頭のなかはきちんと整理がつかず、本を読む作業に没頭するということも不可能のようだった。あてもなく、店内に飾ってある絵をみつけ、それを眺めていた。もし、自分が描くとしたら、その花びらを上手く表現できるかと考えた。その思考をとおした疑似行為は、束の間だが、みどりの存在を打ち消してくれた。

 しばらくすると、由紀ちゃんが店内に入って来た。一瞬にして、その周りは華やいだ空気になった。彼女の、その太陽のような印象こそ、いまのぼくに必要なものだった。

「どうしたの? 顔色が悪いみたいだよ」と言われ、鏡になるようなものを探したが、ぼくの四方にはそれらはまるでなかった。
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