爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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償いの書(48)

2011年04月30日 | 償いの書
償いの書(48)

 裕紀のことを考えている。

 ぼくが浮気をすることと比較して、それ以上にぼくが雪代のことを考えていることを知ったら、彼女はそちらを憎むのかもしれない。比較としての話だ。どちらも嫌なことは間違いない。だが、ぼくの頭から消えない印象を雪代はまたしても残してしまった。

 ぼくはビールを片手に文庫本を読みながら特急電車に乗っている。暗くなった窓外にいくつかの家の明かりが見える。そこに、ぼくは手料理を作って待っている裕紀を想像し、また、その窓外には雪代の清らかな表情も同時に映った。

 ぼくらが別れてから、もう5年ぐらいは経ってしまっているはずだ。彼女は、そのこころのなかにぼくのことをどう印象付けているかは知らない。あの口調ならば嫌われていないことは多分、事実だろうが、ぼくはもしかしたらそれよりずっと好意的な感情を抱いて欲しかったのだろう。もう、関係の修復などは無理なのだが。

 そして、ぼくは手に入れられなかった彼女の5年の推移をまた懐かしがっている。もっとたくさんの素敵な時間を裕紀は作ってくれた。ぼくは、それにとても感謝している。辛い時期にそばにいてくれぼくを楽しませてくれた。彼女の笑顔がぼくの救いになったのも少なくない数にのぼった。逆に彼女に対して、同じようなことを返せているのかが心配になる。ぼくは一度、彼女を見放したのだ。それは、都合の良い話だがぼくの傷になっていた。あのようなことをするべきではなく、またもう繰り返しても良い問題でもなかった。ぼくは、今後ずっと彼女を放さないと決めたのだ。その覚悟をしていたのだ。ぼくは揺れ行く電車の中でその気持ちを再燃させようとしていた。

 うとうとして夢を見る。ぼくはラグビーで島本さんのチームと戦っている16歳だった。彼に敗者のみじめさを教えられ、悔し涙をこらえている。汚れたユニフォームでロッカーに引き上げる。勝者の側に雪代もいた。ぼくの側には初々しかった裕紀がいた。ぼくの這い上がろうとする気持ちには裕紀が含まれていて、結局、登りつめた瞬間には雪代がいる世界に足を入れていた。

 そこには敗者と勝利者の両極の世界があった。ぼくは覚醒しかけている脳で、そのことを理解するのだ。もしかしたら、裕紀がいる場所にいられるのは、ぼくに元気がないときだけなのだろうか? あの東京の孤独感を埋める必要があるときに、裕紀は再び登場し、ぼくをある面で成長させてくれた。そこに安住することを望んでいない自分は、もしかしたら向上心と称して違う世界を見つけ、そこに向かうことを望んでいるのだろうか。

 ぼくは、はっきりと目を覚ます。飲み残しのビールは冷たさを保っていなかった。ぼくは、その温くなり始めたものをそれだけの確認のために口にする。

 特急電車の終点に着いた。ぼくは文庫本をしまい、お土産で膨らんだ不恰好なバックを右手に持ち、左手で空いた缶を握った。

 改札を抜け、別の地下鉄に乗った。仕事の成果で自分はきちんと評価され、その判断を与えられたことに満足している。だが、満足のいかない部分もあった。島本さんは、あの雪代を幸せにしているのだろうか? 彼女の様子は、それらを度外視して輝いていた。だが、それが彼女が望んでいる状態なのかは分からない。ぼくを捨ててまで(ぼくは捨てられたのだろうか?)見つけようとした場所なのだろうか。

 そう考えていたが間もなくぼくは自宅に着く。見慣れたドアの色。勝手をしっているポストの番号。レバーを握り、ぼくは部屋に入る。そこには見慣れた裕紀の顔があった。ぼくのさまざまな葛藤を知らない裕紀の表情。ぼくは、でもとても安堵している自分がいることを発見する。ぼくの社会から、彼女を追放してしまってはいけないのだ。無知な10代の自分には戻ってはいけないのだ。ぼくは、そこで感じ取る。
「どうだった、お仕事?」
「きちんと評価された」
「良かったね。疲れた?」
「まあ。変わったことなかった?」
「とくには。少し休むといいよ」

 ぼくらは、あの高校生のときと当然ながら会話の中味は変わってきている。もっと、精神的な部分が重要視されている。ぼくはバックを開き、荷物を取り出す。
「これは、お土産。こっちはクリーニング」
「ありがとう。懐かしいひとに会った?」ぼくは、そこでなぜだか過敏になる。
「両親とかだけど、そんなに自由な時間もなかったからね」
「そう」彼女は、ぼくと雪代の関係を心配しているのだろうか。それを感じさせてしまう自分を罪深いものとして、ぼくは認定する。
 ぼくはテーブルに座り、裕紀のいつもの表情を見つめる。たった数日なのに、ぼくはそれを忘れてしまいそうになる。もっと鮮烈なものが自分に起こってしまったのだろうか。ぼくは、再確認するように彼女の顔を見つめる。
「どうかした? 変な味」
「違うよ。裕紀の顔って、どんなだったかなと思って」
「忘れちゃった?」

「忘れてないよ。新鮮だよ」ぼくらは、お互いがこの世界に存在することを知って、15年ほどが経っていた。それが短いものなのか、長いものなのか、またその記憶が永続するものなのか判断しようとしていた。しかし、瞬間、そのときの瞬間の積み重ねしかぼくに実感させるものはなかった。

償いの書(47)

2011年04月29日 | 償いの書
償いの書(47)

 ぼくは、裕紀には見せなかった自分自身の姿があることを知った。全身全霊で彼女を愛する気持ちを失ってはいないが、それも一先ずはどこかに預けた。苦い後悔のような気持ちを抱き、逆に甘美な時間を有した。天秤にかけるようなことはしなかったはずだが、ただ、自分を浪費する時間も必要だったのだろう。

 こう書いても、どれも言い訳だ。ぼくは、裏切ったのであり、彼女はそれを知らなかった。いつも通りの朝を迎え、いつも通りの夜を送った。

 それから、本社に帰る用件ができた。ぼくは荷物をまとめ、衣類をバックにしまい、電車に乗った。段々と見慣れた風景に自分も馴染んでいき、郷愁的な気持ちがよみがえった。そこはぼくが多くの時間を過ごした場所であり、たくさんの思い出が原石のまま、置かれた場所であることを知った。まだまだ回顧する年齢には早かったが、気持ちのどこかで昔を振り返って懐かしむのも悪くない時間だとも思っていた。

 そして、そこにはまだ雪代がいた。ぼくのこころの中の彼女の存在は日々、減っていく傾向にあるが、それはまったくの無になるわけでもなかった。また無にする必要もなかった。ぼくの思い出のなかには当然、彼女が存在していて、自分の過去を振り返って彼女を登場させないことは不可能だった。ロミオのいないジュリエットみたいなものだ。

 ぼくは、駅に着きタクシーに乗る。自分の母校の横を車は通り、その日も体育の時間なのだろうか、多くの生徒たちが若さゆえの躍動を表現していた。ぼくも、こころだけはあの時間に戻っている。だが、ぼくらはもっと苛烈な行動を求められていた。それを望んだのも自分であり、受け入れたのも自分だった。

 会社に入り、挨拶を済ませ、会議を終える。会議中のビルの空には、懐かしい空気が漂っていた。ぼくが暮らしている東京とは別の空気だった。裕紀もこれを覚えているだろうかと思い、箱にでも入れて、彼女に見せたかった。また、雪代は当然のこととして、これを毎日見ているのだろうと思った。彼女が東京で仕事をして戻ってきたとき、嬉しさの一部は、この空気感に触れたことなのだろうと、今更ながら気付いた。

 その思いは、ぼくと彼女を結びつける。ぼくは、実家に寄った。出張費としてホテル代が出るが、たまに戻ってきて味気ない部屋で過ごすより、自分の家の放つ雰囲気に触れ、また母親の手料理を食べた。

 それでも、夜はまた呼び出され、社長と酒を飲んだ。彼も少なからず老い、自分の両親も下降線をくだっていく。ぼくは自分のエネルギーのピークを感じないわけにはいかなかった。そして、楽しみも喜びも今を中心に回っており、そこに裕紀がいる喜びを感じた。

 社長は、ぼくの東京での生活と仕事ぶりを訊いた。ぼくは、それを満足げに答え、また彼の息子と義理の娘のはなしを期待通りに話した。

 彼は、そこそこに切り上げ、ぼくは反対にだらだらと居座り続けた。地元の料理やお酒が、このように自分を解放するとも思っていなかった。そして、自分の使う言語が、前のように戻ってしまうのも感じている。

 ぼくは背後にある雰囲気を感じる。それは期待の報いであり、動揺のはじまりでもある。ゆっくりと後ろを振り返る。数人の女性が快活な声をあげ、店内にはいってきた。そこには、雪代がいた。東京では、このような偶然はありえないのかもしれないが、ぼくらはまだ小さな、それでいて手心のしれた社会に生きているのだろう。

「ひろし君、戻ってるんだ」回りの女性は会話を止め、一瞬だけ空白の時間があった。彼女らはぼくの存在をどう受け止めたのか、知りたかったがそれはできなかった。

 雪代たちは、離れたテーブルに座り、ぼくは様子が分からないままでいた。だが、帰るきっかけを失ったのは事実だろう。少しは、会話をした方が良さそうである。

 20分ぐらいたったのだろうか、雪代はハンカチを片手にぼくのとなりに座った。
「仕事で? 元気にしてる?」それは聞き覚えのある声だった。ぼくはその声も忘れられなかったことを知る。
「そうだよ。雪代の店のひと?」

「きれいでしょう? ひろし君は病気が出ていない、浮気の?」
「なんか、知っているの?」ぼくは、島本さんの存在を身近に感じた。彼は、なにかを言ったのか?
「知ってるわけないでしょう。こんなに離れているのに? してるの? あの可愛いこを悲しませないでね」

 雪代は、彼女の名前を絶対にくちに出さなかった。それをすれば、彼女を高貴なものとして認めてしまう恐れがあるかのようだった。

「してないよ。雪代には悪いけど、過去のものだし、封印した」だが、それは真実とは程遠い。
「悲しませないでね」と、同じことを言った。「長いの? こっちは」
「明日の夕方には帰るよ」
「そう、元気でね。前もって言ってくれれば時間ぐらい作れるのに。会いたくない?」
「そんなことはないけど」
「ふうん、じゃあ、またね」と言い残し、彼女は席を立った。ぼくはお会計を済ませ、彼女らのために何かを頼もうかと考える。だが、ささいな勇気はぼくから消え、ただ、そこを立ち去った。

 ぼくの雪代に対する思い出や印象はすこしだけ更新され、その名残惜しさをまた感じている。

償いの書(46)

2011年04月25日 | 償いの書
償いの書(46)

 筒井さんと賃貸の契約を交わし、それでも、ぼくらはその後、数回会った。

 単純にぼくは彼女に興味を持ち、向こうも同じような感情を有していたらしい。ある時、こう言われる。
「近藤に女性を奪われた、と島本さんは言ってたね」と。

「それは、結論から言えば間違いです。彼らはぼくが高校生のときに付き合っていました。それは似合いの二人でした。でも、彼らは一時的に別れて、ぼくと付き合うようになった。ぼくらの付き合いも6、7年あり、うまくいってると思ってたけど、そうではなかったのかもしれない。ぼくらが別れた後、彼らは結婚し、子どもが生まれた」

「あなたも結婚した」
「そうです。ぼくは何も奪っていないし、喪失感があるとしたら、ぼくの方で間違いないと思うけど」
「それは、あなた側から見た見方」
「そうですかね?」
「一面的に見過ぎている気がする」
「島本さんは魅力的ですか?」ぼくは、筒井さんと彼の関係の本質をまだ知らない。もしかしたら、ただ、仕事上の関係であるというのは嘘ではないかもしれないと考え始めている。
「まあ、そうかもね。でも、あなたも魅力的だと思うけど」

「ぼくが?」
「本当は、それを信じていて、疑念すら感じていないように思うけど」またもや、言葉にならない「分かっている?」というセリフが続くようだった。
「そんなことは、ありませんよ。さっきも言ったように、喪失感があるのは自分ですから」
「あんなに可愛い奥さんがいるのに」
「それとは、また別の問題です。箱の中身が違うようなものです」
「ひとつは埋まっているけど、ひとつのなかは空っぽ?」

「そうでしょうね」ぼくは、ここで本質的な間違いをしていたのだろうか。ひとつが埋まっていればそれで充分ではなかったのか。ずっと、空っぽの箱を抱えて生きていくこともありえたのではないだろうか。もし、裕紀と再会していなければ。だが、その起こった過去や、起こりえる未来のことを結びつけることなど、ぼくには根本的にできないらしい。

 ぼくらは、話しつかれて、無言の時間が許されそうな、彼女の知っている落ち着いて静かなバーに行く。彼女のグラスの中身はみどり色だった。ぼくのものは適度に炭酸が立っていた。静かな店内にはその炭酸の発泡する音まで聞こえそうだった。ぼくは、トイレに行き彼女が頼んだものの名前を聞きそびれている。しかし、そのまま訊かないままで彼女が飲むのを見ていた。

 ぼくは、まだ裕紀以外にも愛されるのかを試そうとしている。それが、いずれ彼女を傷つけるであろうことを知っている。だが、本能的な部分では、それを自分に許そうとしていた。

 そして、ぼくはそれを許した。結婚して、いや、付き合い始めてからぼくは他の女性を知らないでいた。だが、女性は裕紀だけではなかったことを知る。しかし、それゆえに裕紀の放つ魅力が最高なものなのだとも感じた。ぼくには彼女以外はありえなかった。こうしたことを経験しなければ、その感情の地へたどり着けなかった自分を悲しいものだと感じた。

「誰のこと、考えてるの?」と、筒井由布子という女性は言った。ぼくは、もちろん、裕紀のことを考えていた。だが、その名前を出すほど無作法ではなかったが、名前を出さなくても多分、気付かれていたのだろう。

「とくに、誰のことも」
「わたしも、大人だから、いちいち告げ口するようなことはしない。島本君にも」
 ぼくは、彼の存在のことを忘れていた。こうして、ぼくは軽蔑している人間の後釜に居座った。そして、自分も軽蔑されるべき人間であることを認めた。どちらの存在にも大した差はないのではないか、とはっきりと認めざるを得なかった。
「ぼくの前には彼がぶら下がっているような状態が続くのでしょうかね?」と、質問する相手が間違っていることに気付かないまま、ぼくはその言葉を暗い中に発する。
「自分次第だと思うけど」
「しかし、彼とあなたが遠慮なしにぼくの前に表れた」
「あなたの小さな世界を壊してしまうように」
「きっと、壊されませんけど」ぼくは、つまらない意地を張る。この世界はぼくにとって重要なものなのだ。裕紀のいない世界などあってはいけないのだと感じている。だが、行動はまったく反対のことをしている。
「さあ、その世界に帰りなさい」

 ぼくは、彼女の高級な部屋を後にして、自分の身の丈に合った地下鉄に乗り、裕紀がいつも通っているスーパーの消えた照明と無造作に置かれた段ボールを横目に、自分の世界に戻った。
 裕紀は、テレビを前にうとうとしていたのだろうか、眠そうな顔をしていた。
「遅かったね」
「ちょっと」

「あんまり、付き合いばっかりしていると太るよ。ラグビー選手のころから離れてしまうよ」と、彼女は笑顔でそう言った。
「シャワー浴びるね」ぼくは、自分の今日を洗い流そうとしている。そして、裏切りを信じていない彼女の存在を身近に感じ、心苦しかった。それも、やはりぼくの側からだけ見た意見だった。

 だが、こころのなかでぼくは他の女性にも愛されるのだと実感していた。だが、最終的にぼくが選ぶのは、いつも裕紀なのだった。それは、ただずるいという一言で解決されるような意見だが、紛れもなくその日のぼくの感情だった。

償いの書(45)

2011年04月24日 | 償いの書
償いの書(45)

 ぼくは、筒井という女性と何度か連絡を取り合い、いくつかの候補を選定し、その鍵をもって出掛けることになった。鏡の前で身だしなみに気を付け、そう悪くもないという自分の確約を取り、職場から出た。駐車場で車に乗り込み、いくつかのルートを頭のなかで作った。そのうちのひとつを選び、車を走らせた。

 それでも、彼女の人となりというものが、まだ分からずにいた。訊くべき相手がいたとしたら、島本さんだったが、彼と話したいとも思っていなかった。そこには、かすかな嫉妬のようなものも含まれていたのかもしれない。彼は、ぼくが以前に大好きだった女性と結婚していた。彼女のちいさな子どもの父親でもあった。ぼくは手に入らなかったものを、それゆえに妬み、空想した。そういう自分がいることも、また嫌になり、極力、忘れようとした。だが、そう簡単にいかないのも、また事実だった。

 待ち合わせの場所に彼女がいた。ぼくは路肩に車を止め、横に彼女を乗せた。

「ありがとう、一番お勧めのものから見せて」
 ぼくは、また頭の中でルートをこしらえ、それを実行した。彼女の身体から、いままで嗅いだこともないような香水の匂いがした。ぼくは、裕紀が化粧するさいの瓶のいくつかを想像した。だが、それらとは、まったく別のものが存在していることをその時に知った。

「島本さんは、たまに東京に来るんですかね?」
 ぼくらの共通の話題には彼を持ち出さないわけにはいかなかった。それが楽しいことでもないのだが、もしかしたら、雪代のいくつかの情報を得られるかもしれないという期待もあった。
「たまにね、彼は世界のあちこちにも買い付けに行くんでしょう。知らない?」
「そうなんですか」ぼくは、なぜか、知らないことにした。なにも知らなければ、もっと新たな情報が得られるとでも思ったのだろうか。
「わたしも、洋服を誰かに着てもらう仕事もしている」
「画廊だけじゃなく?」

「あれは、死んだ父の遺産。その管理を任されている」
「そういうことなんですね」分からないながらも、そう返事をした。自分の父がぼくに遺産を残すようなことは、多分、なかった。そして、そういう身分のひとがいることも知っているが、自分は父の毎日の労働も神聖であると判断していた。むろん、裕福なひとが裕福なだけで軽んじられる必要もないが、ぼくも毎日のきちんとした労働を続けるしか方法はなかった。

「わたしは、それを無くすことを求められていない。新しい才能を発掘するよう、いくらかのお金が毎年、動いている」彼女は、言葉の最後に音にはならないが「分かる?」という表情を付け加えることによって、会話を完成させようとしていた。ぼくには、分かることもあり、理解できないこともあった。だが、ここは、先ずは場所を紹介しなければならないのだ、とそのことに専念するよう自分を縛り付けた。

 駐車場に車を止め、一つ目を紹介した。シャッターを開け、太陽の日射しを取り入れると、中は空だったが、そこにあるべき未来をイメージすることができるようだった。ぼくは、また雪代の店を想像している。何度も前を通りかかり、彼女を迎えにもいった。子育てから手が離れた彼女はそこでいまも働いているのだろうかと、動いている姿を作り上げた。

「ここで、いいじゃない」
「そうですか?」
「そう思って最初にここに来たんでしょう?」
「そうですけど、もういくつかあるので見てもらってからの方が」
「そうしたい?」
「まあ、筒井さん次第ですけど」
「じゃあ、そうする。連れてって」
 ぼくらは、また車に乗り、あと2軒だが廻った。しかし、彼女の頭のなかでは最初のところと決まっていたようで、それは儀礼的なものだった。ぼくは鍵を開け、中を紹介し、またそれが終わると閉めた。いつも、していることだが、彼女の波長が不思議なもので、ぼくは自分のペースで仕事を勧められていない印象があった。

「多分、最初のところにすると思うけど、悩んでもいい。それと、少し相談に乗ってくれる?」
 筒井さんは悩んでいる様子もなかった。相談も必要ないようだった。自分で自分のことは解決できるような気がしている。だが、責任もあるのでぼくは頷くしかなかった。また、彼女と島本さんの間柄にも興味があった。糾弾する立場にもないが、その関係への憧れもあったのかもしれない。そして、いくつかの面をもつ彼女に興味が膨らんでいくことも正直な気持ちだった。

 ぼくは、彼女と待ち合わせした場所まで戻り、彼女は車から降りた。

「明日、仕事が終わってから相談に乗ってくれる?」と最後に彼女は言った。ぼくは仕事の成果以外にも、何かを求めていたのか、また、求められていたのかという微妙な立場に自分を置いた。それは、悪くない感情だったが、裕紀のことも心配した。

 正直な気持ちになれば、裕紀がぼくを愛しているのは事実だが、それ以外の女性はぼくに関心があるのだろうかと余計な気持ちをもった。ぼくは、ラグビー部時代の歓声のまぼろしをそこで聞く。誰もが、ぼくの走る姿を応援していた。ぼくはタックルや敵の猛追を逃れ、その歓声を独り占めにする。それを正当化させようとしているずるい自分もいた。こうして、ぼくは、自分の人生にスパイスと称して、なにかを振りかけようとしていた。

償いの書(44)

2011年04月23日 | 償いの書
償いの書(44)

 午後のひととき、ぼんやりとなるような時間に、ある女性からの電話ということで、ぼくにつなげられた。
「近藤さん?」ぼくは、その声をきいても誰だか思い出せない。人間の印象を声や口調で記憶付けているのだなと理解する午後のひとときだった。
「どちらさまでしたっけ? お会いしましたでしょうか?」
「この前、島本さんの横にいた」

「ああ、ごめんなさい。顔を見れば直ぐに分かったと思いますが、声の印象があまり残っていなくて」ぼくは言い訳のような言葉をつなぐ。お客さんを相手に商売をするものとして失格である。「それで、ご用件は?」
「あることを相談しようと思っていたら、それなら近藤に訊けよ、と彼が言ったもんだから」
 彼とは、島本さんのようだった。ぼくは、ペンを探して握り、メモを取った。
「そうなんですか?」

「彼のことを軽蔑している?」不意に別の質問がきた。
「そんなことは、もちろんないです」
「近藤さんは、嘘が下手なんだね」
「まあ、少しは」

「やっと、正直になった」電話の向こうで彼女は笑った。そのひとの名前は筒井と言った。「男のひとは、いつでも正直であるべきよ」と、確信をもって彼女は言った。そうしないと、誰かから決定的に信頼を得られないだろうと宣言しているようだった。
「そうします。ところで、用件というか相談の中身は?」

「そう、焦んなくてもきちんと言うから。わたしも信頼に値するのか、このような会話から判断している」
「そうですよね。島本さんはそれでも、ぼくの名前を出した」
「彼は、不動産を扱っているから、どっかにコネぐらいはあるんだろうと言ってた。近藤さんがね」
「まあ、それは」

「わたしは画廊をもっていて、そこのビルから立ち退きをくらった。そこで、新しい場所を探している」
 ぼくは、画廊という文字が直ぐに頭に浮かばなかった。しかし、この前の美術館にいた彼女を思い出し、そのイメージから連想され、きちんと結びついた。そして、資料のなかに丁度、手ごろな物件がいくつかあるのを思い出していた。
「いくつか、ありますね。場所なんかの希望があったら、紹介できますよ」
「一緒に見て回るの?」
「もちろん、鍵も必要ですし」

「そう、希望と金額なんかを、また連絡する。担当は、近藤さんでいいの?」
「ぼくで構わないです。実際にあとで細かい資料のやり取りは別のものがするかもしれませんが…」
 そこで、電話が切れた。ぼくは、彼女の声が自分にインプットされたことを確認し、名前や連絡先をメモに書きとめた。そして、会うことも考えることもしたくなかった島本さんと少なからず縁ができたことを皮肉に感じた。さらに、その向こうにいる雪代のことも考えた。島本さんは、ぼくのことを雪代に話すのだろうか? その内容はどういうものなのだろうか? ぼくは、午後のぼんやりとした時間が終わる前にその空想を楽しんでいた。

「仕事の話でした?」取り次いだ同僚は、ぼくの空想を振り払うかのように言葉をかけてきた。
「昔の知り合いの友人が、画廊を探しているんだって」
「画廊。あの絵の画廊?」

「そう、あれ、あそこ使えそうだよな」と、ぼくは資料を取り出し、いくつかの写真を眺めた。

 ぼくは、家に帰り、今日の経緯を裕紀に話した。彼女は単純に驚き、ぼくのことを不思議そうな目で見た。島本さんからの信頼を勝ち得ている人間。だが、反対にぼくは彼のことを少なからず軽蔑していた。その間にいるぼくのことをいぶかしげな表情で見た。だが、これは生き様の問題ではなく、ただの商売の話だった。ぼくは自分の会社のビルや管理している物件を誰かに貸さなければならない。そこから、収入が上がるのだ。だが、なぜ、ぼくはこうも言い訳を必要としているのだろう。

 裕紀が片づけをしている間、ぼくは雪代の洋服屋のことを思い出している。彼女は数年、モデルをして地元に戻って貯金したお金でそのお店を開いた。彼女の念願が叶った瞬間だった。ぼくは、その彼女の歴史の1ページに加わっていたことに対して自尊心があった。島本さんが関係のあるその別の女性に、また違った場所を提供しようとしている。彼女と島本さんの関係はどのようなものなのだろうか。ぼくは、仕事としてもそのことに関与する自分がいて良いのか判断を棚にあげていた。

 裕紀と再会してから彼女を悲しませるようなことは一切したくなかった。ぼくと雪代との関係が微塵もないということを、ぼくは彼女に知って欲しかった。彼女は片づけを終え、ぼくの横のソファに座った。彼女のぬくもりを感じ、だが、頭の中では雪代の洋服屋をもった喜びの日を消し去れずにいた。

 ぼくは、ずるかったのだろうか。会えないひとに対して、強い郷愁が残ることがあった。ぼくは眠る前までその日のことがずっと残っていた。

 ベッドに入り、「島本さんを軽蔑している?」というセリフがずっと自分に迫って来た。彼女は、ぼくの返事を伝えてしまうのだろうか。それとも、それは些細な会話の一部として見捨ててしまうのだろうか。だが、ひとのこころの中など依然としてぼくには謎だった。

償いの書(43)

2011年04月17日 | 償いの書
償いの書(43)

 裕紀が仕事の関係者からもらった絵画展のチケットを手にして、そこに二人で向かった。天気も良く、仕事から解放されていることを実感しているような良き日だった。さまざまなことを話しながら、到着して、チケットを渡し、半券を戻され、ぼくらは中に入った。声のトーンは落としたが、ぼくらは印象をそれぞれに語った。彼女が留学時代に行った美術館の話もぼくは事前にきいていた。しかし、その広大さに比べて、ぼくらがいるところは高いビルの1フロアーだった。

 ぼくらは半分ほど見て、高層ビルから見える下界の景色を無意識に感じ、ベンチに座っていた。前半も楽しかったのだが、後半はどのような展開や見応えのある絵画があるのかをも楽しみにしていた。

 ぼくは、そこで後方から肩をたたかれた。
「やっぱり、近藤だったのか? 似ている奴がいるもんだなと思ってた」
 そこにいるのは島本さんだった。斜め後ろにはきれいな女性がいた。ぼくは、島本さんに会ったことを驚いていたが、後ろに妻になった雪代がいるかもしれないことに、もっと驚く予感がした。しかし、それは別の女性だった。安堵と怒りの入り混じった気持ちが瞬時に湧いてきた。彼は、一体、こんなところで何をしているのだろう? だが、ぼくは彼を一時は尊敬するほど、憧憬していたのだ。さまざまに沸き起こった感情を表情に出さないようにして、敬意を含めた口調を作った。
「あ、島本さん、お久し振りです」
「紹介しろよ。彼女がその?」
「妻です。裕紀って言います」

「島本です。あ、こっちは仕事の関係者」と、彼は後方を振り返って、また首を戻し、優しくそう言った。その女性は軽く会釈した。その洗練された物腰と服装が、その場所を一瞬にして華やかにした。ぼくの見方が普通ではなかったのかもしれないことを島本さんは感じたらしく、それ以上の言葉を無言で制した。しかし、彼は、「後でお茶でもどうだ」と付け加えた。

「そうですね」という曖昧な言葉を残し、だが、それをはっきりとせぬまま、彼らはそこを立ち去った。
「あの人、誰だっけ? どこかで見たことがあるような…」と、裕紀は困ったような表情をしていた。
「ぼくらの相手の強かったラグビー部の先輩」彼女は、その言葉を聞き、点と点が結んだように、認識したというような表情に変わった。それは、別のある女性が現れることにつながった。
「じゃあ、その?」
「雪代さんの夫」
「なのに?」
「なのに、別のきれいな女性と歩いている」

「知らないのかな?」それは、返事を待っている言葉でもないようだったが、ぼくもそうしたことをするかもしれないという不信感の予感のようなものも彼女にはあるのかもしれなかった。だが、実際には、もうぼくは裕紀と結婚してから、そうした類いの噂も実行もなかった。
「あとで、会うの?」
「どうしよう」
「責めたいな」
「いいよ、止しなよ」

 後半の絵画への期待は、もろくも崩れ、ぼくは、ただ、目の前のものがこころに入って来ない状態で、動揺していた。それは、どういうことなのだろう、と深く追求したかった。結論らしきものは、雪代が裏切られているかもしれないという漠然とした不安感だった。

 その気持ちが伝染したように裕紀もそわそわしていた。彼女は腕をぼくに絡め、ぼくがそこから逃げてしまうかのように、しっかりと掴まえた。
 何の約束もなかったが、エレベーターで一階に降りると、彼らはそこで待っていた。その女性は長い指でタバコを挟み、心地良さそうに白い息を吐いた。

「ちょっとだけでしたら」と、ぼくは先輩を前に言った。現在がどうであろうと、ぼくは彼を尊敬した日々の自分を思い出し、自分へのけじめとしてそう振舞わざるを得なかった。

 ぼくらは、となりのビルの地下にあるお店に入った。小さな音でジャズがかかり、薄暗い店内をムードあるものにしていた。
 それぞれが注文をしたが、誰も口を開かなかったので、それ以降も会話はすすまなかった。しかし、島本さんの連れの女性が裕紀に年齢や仕事のことを尋ねた。ぼくは、裕紀の口から自分も知っている情報を聞いた。

「若く見えるね」と彼女は言って、そこで口を閉じた。
「オレは、近藤に女性を奪われた」と、冗談のような口調で島本さんは言った。そんなことをするのだろうかという不可解な表情で、連れの女性はぼくを見た。ぼくは、どうでも良かったが裕紀のことを考えると言っては欲しくない言葉だったのは事実だ。
「それは、違うと思いますけど」
「ま、嘘だけどね。傷ついた?」その言葉はぼくになのか、それとも、裕紀に言ったのかは分からなかった。
 それからも、会話は楽しいものになるべく用意はされず、ただ、むなしい時間が過ぎ去った。
 ぼくら二人は、彼らを店内に残して、また陽光の下に出た。
「嫌な気分になったらごめんね」

「別に、いやでもないけど、彼は、もっと凛々しかったような気がしていたけど、違ってたのかな」
「ぼくも同意見だよ。昔は尊敬に値するひとだった」付け加えたかったが、彼はなぜ変わってしまったのだろうという心配をして、もっと雪代の現在も心配した。また、小さな子どもの父親として、彼は適任なのだろうかとも考えた。だが、それはぼくがどうこうする問題ではなかった。

 ぼくらはテラスのあるような店に入り、彼女は紅茶を、そして、ぼくは冷えたビールのグラスを掴み、ある一日の期待と結果を見守ろうとした。

償いの書(42)

2011年04月16日 | 償いの書
償いの書(42)

 裕紀の存在がぼくをこの世界に繋ぎとめているんだな、と感じることがあった。

 夜中に目を覚ますと、彼女の小さな寝息がきこえる。ぼくはそれを聞くこともなく生活しなければならないかもしれなかった。休日に何の目的もなく散歩をしている。それも、ぼくはずっとひとりでするのかもしれなかった。だが、他愛もない会話をして、それが無駄に時間をやり過ごしたという失望感を自分に与えることはなかった。ぼくらには意思の疎通があり、共同体という一体感もあった。

 彼女は何日か、友人や叔母さんと旅行に行き、家を空けることがあった。ぼくは、数日はさまざまな用事や、普段できなかったことを片付けたり、職場の同僚と仕事の終わりに飲んだりして時間の経過を忘れたが、何日かすると、微かだが喪失感のようなものも感じた。ぼくは、眠る前に誰かと話したい欲望を感じ、それは、もちろん誰でも良いわけではなかった。裕紀であるべきだったのだ。

 ベッドの中で眠れぬままごろごろしていると、自分の過去に起こったことが映像となって自分の前にあらわれた。そうなると、やはりぼくには裕紀の前の時代もあった。スポーツ選手として名を馳せた時代と裕紀に再会する前の時間が、そのような油断とも呼べるふとした瞬間にぼくに迫ってくる。記憶をその時間に戻すように迫ってくるのだ。ぼくは、それに抵抗しない。自分の意思より、記憶に刻み付けられたものの方が強い力を持っていた。

 ぼくは、自分の動かない核のようなものを掴みきれないでいる19歳ぐらいだったのだろうか? ある海辺にいる。そこには最愛のひとりであった雪代がいた。彼女の髪は、どのコマーシャルよりぼくに印象付けるべき風に揺れていた。彼女も20代の前半で、子どもをもつなどと考えられないほどフレッシュで生きいきとしていた。ぼくは、彼女から大人として認められたいという欲望があり、また、このまま彼女の優しい庇護を受けたいという矛盾した気持ちを持っている。賢い発言をしたいと思いながら、自分が会話をリードする必要もあまりなかった。その微妙な立場が、とても居心地がよく、その揺れる彼女の髪が、そのぼくのこころの象徴のように映像として映っている。

 ぼくらにも衝突はあったし、口喧嘩もしたはずだが、それはすべて忘却という言葉で片付けられそうだった。もっと、感情のぶつかりの仕方のない結果だとしたら、もっと、もっと、それをしても良かったのではないかとも思っている。

 彼女は、いつの日かぼくから離れようとしている。ぼくは、嫌われていくという事態を無視しようとしたが、そこには焦りと失望があり、どこまでもこころに残り、また反対に目をつぶろうとした。直視したくない当然の気持ちがあったが、いまでは彼女はぼくのことをちっとも憎んでいなかったということを書き換えられた事実にしようとしている。当人と話すことがない分、ぼくは塗り替えられた記憶を、新しい記憶として、そのまどろみの中で新しく入れられたコーヒーの匂いや味のように昨日の同じものを忘れていく。

 ぼくはそれを手放し、裕紀と会った。ぼくをこの世界に喰い止めたのは、コンビニエンス・ストアで裕紀の姿を確認したからなのだ。ぼくにそれが例えばなかったら、自暴自棄になり、また無力な失われた記憶をもつ人間として悲観した人生を、こころのなかに残していたかもしれない。

 ぼくは、いつの間にかまどろみ、気付くと朝になっている。支度の慌ただしさの中、ぼくは夜のひとときに蘇った記憶を思い出すことはなかったが、手すりにつかまった電車のなかで、昨日のことがまた同じようにふたたび訪れた。

 ぼくは家にいる。テーブルで大学の勉強をしている。鍵が開き、東京からもどった雪代がドアからすり抜けて入ってくる。彼女のその時の笑顔と安堵が混じったような顔をぼくは、地下鉄の車内のガラスに写っているかのように身近に感じる。
「ひとりで淋しかった?」
「もちろんだよ」
「もう少しでこっちに戻ってくるよ」と、雪代は言って、ぼくはペンを指から話して抱き疲れるままにした。彼女の髪がぼくの頬に触れた。

 一日をこうしたさまざまな記憶という誘惑と戦い、ぼくは仕事を終える。いつもの道をさまざまな考えを道連れにして、歩いて帰った。ドアを開けると、料理の匂いがした。

 裕紀はスリッパをかすかに引き擦り、こっちに近寄ってきた。ぼくは愛用のバックを靴箱の上に置き、彼女が飛び掛ってきて抱き疲れるままにした。
「ごめんね、淋しかった?」
「うん、もちろんだよ」
 彼女はぼくの手を引っ張り、玄関から上げた。いくつかの品はテーブルに並び、最後の仕上げのように冷蔵庫からビールを出していたその後姿があった。ぼくは手を洗い、洗面所の照明をつけて、自分の顔をたんねんに見た。ぼくは、あれから10年という月日が経っているのを知る。タオルで手を拭い、経過した年齢がそのタオルで消えるかのように顔を拭った。

 ぼくは、テーブルの前に陣取り、裕紀の後姿を見た。この世界、この現在を刻々と失いつつある世界に繋ぎとめるのは裕紀かもしれず、残された記憶もまた、ぼくをこの楽しさと悲しさの入り混じった世界に繋ぎとめているらしい。

償いの書(41)

2011年04月10日 | 償いの書
償いの書(41)

 裕紀は仕事を辞めて、家にいるようになった。ぼくらは、どちらも30歳という年齢を越え、ある面での若さを失い、ある面での経験を手に入れた。ぼくは、それだけ稼げるようにもなったが、その分だけ忙しくなり、自分の自由な時間や思考を手放しつつあった。

 彼女といっしょに出勤することや帰宅することはなくなった。同じ時間を共有するということも当然のように減った。ぼくらは、そういう社会に組み込まれており、想像するだけしかないが、どこかの田舎や森林のなかの家で、手に職をもって互いの存在を濃密にすることなど、不可能だった。

 彼女は仕事を辞めたが、以前に関係をもったひとびとから頼まれ、自宅内で無理しない程度に、文章を翻訳したり、契約書の違う世界の言語に訳す際の不備を見直したりした。そのために、ある場合には出かけて行って打ち合わせをした。まったく何もしないで生活することなど人間にはできないのだろうから、彼女にとっても、それは張り合いのある生活らしかった。彼女が喜んでいれば、それはぼくにとっても同程度以上の喜びになっていった。

 彼女は、その頃から疲れやすい体質に変わっていった。あまり、それを口に出さないものだから、ぼくは時間が経てばその症状が軽減していくものだと予想した。それでも、たまにそのことを言えば、ぼくも、心配したが結局は、なにか簡単なことを手伝ったりするだけで、あとは、「病院できちんと見てもらうといいよ」と促し、それを見届けることもしなかった。まだ、自分たちの年齢で、大病することなど、あまり考えられなかった。それは、ぼくがあまりにも若い頃に身体を鍛え上げたため、病気を一切しない身体になってしまったこととも関係があるようだった。そして、ただ、何年も働いてきたために、仕事を辞めふと隙間と余裕が入ってきたために一時的に身体が不調を訴えてくるのだと思おうとした。だが、ぼくは医者でも看護師でもなかった。ただの夫だった。

 彼女は自分の仕事で手に入れた収入で、妹のこどもに洋服を買った。ぼくは、それによくつき合わされ、見慣れない小さな服を自分でも手にした。それから、ぼくへのプレゼントもたびたびくれた。それなりに仕事で会うひとびとも増え、彼らの役職もそれなりに高くなっていった。そのために、ぼくがつまらない服装をして見下されるのを恐れるように、彼女はぼくの外見を気遣った。だが、ぼくは彼女は自分のために使うことを望んでいたし、たまにはそうしてもいるようだったが、基本的には他者を思いやることで費やされているようだった。

「自分のものも買えば」ぼくは、自分のネクタイやシャツや妹の子どものための服やおもちゃを手にしながら、その言葉を何度も吐いた。

「もう充分ある」と言って、彼女はそのことばを7、8割ほど無視した。

 休日は、それらをコイン・ロッカーにしまい、その後で映画を見たり食事をしたりした。ご飯を食べながら字幕の言い回しをぼくに解説したりもした。彼女は字幕を必要としない言語力を有していたので、小さなメモ帳に先ほどの言葉の訳し方をレストランのテーブルの上で書いた。

 ぼくは、それを見ながら、ぼくらが離れていた月日と原因のことを考えないわけにはいかなかった。ただ、彼女の無心な表情を見ていると、それを過去の象徴的な海の中にでも捨てる時期に来ていることを知った。ぼくは、それでも薄らいでいく記憶をもちながらも、そのことを忘れることを難しく感じていた。

 また荷物を取り出し、ときには妹の家にそのまま寄った。ぼくにとっての甥っ子は裕紀にとてもなつき、彼女がいればそのそばにずっと寄り添っていた。彼女の明るい笑顔を見ていると、彼女の日頃の身体の不調のことなど、ぼくは忘れてしまっていた。
 妹は手際よく料理を作り、ぼくらを歓待した。ぼくはその様子を不思議なことといまだに感じている。また慣れというものが、すべての才能を追い越すこともあるのだとも考えている。夫である山下の食欲は、ぼくが知っていた学生時代よりもかすかだが減っていった。ぼくは、そのことにも驚き、スポーツ選手の早すぎる老いや限界を感じた。彼にとっても別の人生を片隅に作り出す必要があるのかもしれない、と考えた。だが、それを口に出すことは躊躇してしまい、結局は訊けずにいた。自分でも心配しているならば、そして、ぼくが必要とされているならば、当人から直接訊いてくるタイミングがあるのだと思った。それを言う前に自分から言うのは気が引けた。そして、真剣な話もない、楽しい夕飯のひとときとなった。

 甥っ子へのプレゼント分だけ軽くなった荷物を抱え、ぼくらはそこを後にする。日曜の緩やかな時間の流れの上にぼくは漂い、裕紀がそこに留まらせていてくれた。明日からは、また忙しい日々になるのだろう。

 家に着き、裕紀はシャワーを浴びている。ぼくは、その缶にビールを開け、若かった、どちらも若かったぼくと山下のことを思い出している。ふたりで過ごした楽しい時間はとても貴重なものだった。その彼が夢を叶えたにせよ、その報いは永久的なものではなく、新たな生活を切り開かなければならないことを悲しみと応援をしたくなる気持ちの矛盾を不確かなまま、それでも確かめていた。

償いの書(40)

2011年04月09日 | 償いの書
償いの書(40)

 ぼくは、普通のことだと思っていた。

 それなりにハードな一日を終え、時間が合えば待ち合わせをして地下鉄の駅までふたりで歩いた。彼女の何気ない話を聞き、ぼくも思ったままの何も結論も回答もない話をする。そして、交互に相槌を打ったり、質問をしたりした。彼女は途中で飲み物を買ったり、洋服屋の前を通るときはちらと一瞥したりした。ぼくは美容院の前のポスターを見て(前の女性はそのような仕事もしていたので習慣になってしまっていた)それから、裕紀の髪型を見た。

 それを普通のことだと思っていた。ある疲れはそこで飛散してふたたびぼくに戻ることはなかった。

 ひとと会話すること。それも、とくに裕紀とそのように仕事の帰りに話していることが大切な時間とも思っていなかった。それは、あまりにも日常的であり過ぎ、具体的な効果があったにせよ、それほどには認めていなかった。

 そのこともあと何日かで終わりを告げる。彼女は数ヵ月後に仕事を辞めるため、早めに上司にそのことを伝えた。説得や「もう少し頑張れないか?」という言葉があったにせよ、最後にはこころよく辞められることに決まった。

 その日も、ぼくらは帰り道を歩きながら、彼女からその情報を教えてもらった。それから、何日か時間が合わず、ぼくはひとりで帰ることになった。その瞬間にぼくは、今後、もうこういう緩やかな情熱とも呼べる時間がもてないことを知った。淋しさもあり、また孤独感もあった。以前の状態が普通のことだと決め、そこに設定をもうけてしまった。

 先に家に着いていた裕紀にそのことを語ろうか迷っている。ぼくは、幼い少年ではないのだ。ひとりで帰るのが淋しいとも言えなかった。だが、食事を前にしてテーブルに座り、やはり、思っていることは伝えようと決心して、「今日、ひとりで仕事の帰りのいつもの道を歩きながら、ふとね、もう裕紀と会話しながら歩くことができないんだなと思ったら、さみしさがこみ上げて来たよ。あの時間がぼくらにとって、大切なものであることを知ったんだ」
「そう、うれしいね。もう、歩けなくなることじゃなく、そう言ってくれることが」
「うん」
「仕事辞めるの、やめようか?」
「それは、また別の問題だよ」

 ぼくは思ったままを告げた。それは相手に届き、彼女のこころが一瞬だが変化を及ぼす。違うふたつの生命の間に交信がある。ぼくらは、それを大切にするしか方法がないのだ。そこに、誤解や衝突がときにあったにせよ、最後はこのような温かい交流を求めるべきなのだ。それがなかったら、なぜ自分は存在するのだろう? とまで、思うかもしれない。

 次の日は、ぼくは、少しだけ本屋で立ち読みして彼女を待った。電話でも聞いていたが、妹の夫のラグビー選手がある試合で怪我をしたことが記事になっていた。痛々しい様子で倒れている写真があった。ぼくは何度もそのような場面に遭遇したが、彼の不屈な態度を知っていたので、それほど恐れることはなかった。あいつなら、またどうにか頑張れるだろう、というかすかな自信のようなものも不思議に感じていた。

 彼女はそこに表れ、ぼくの肩に手をかけた。ぼくは彼女の匂いを感じ、振り返った。いつもの目。いつもの目のまわりの化粧。そういうもののひとつひとつを覚えておこうとぼくは決めた。

 彼女はぼくに寄り添い、腕を絡めてきた。昨日の言葉をそれは意識したものだったのだろう。
「山下が怪我をしたのが記事になってた」
「そう、それで、どうだったって?」
「彼のチームは、それで絶望的になったと書いてあった」
「チーム・スポーツだもんね」
「彼もそういうことに責任を感じてしまうだろう」
「早く直るといいね」
「今度、また家にでも行ってみよう」

 彼女はいろいろ思案しているようだった。また、彼女は妹の子を抱き、幸せを感じ、喜びを満たしていくのだろう。彼女はその後、自分の仕事を新しい子に移管させるための苦労を語った。長年かかって作った方法論を誰かに移植する難しさやもどかしさを話した。それは、新しい子がまた長い年月をかけて構築していくものなのだろう。それは、裕紀の責任でもなかった。

 ぼくらは電車に乗り、小声で話す。前の席が空いたので彼女が座った。ぼくは、雑誌を取り出し、吊り革につかまりながら眺めた。地下鉄はぼくらの町に着き、大勢の人間とともに押し出される。ぼくらはスーパーマーケットに寄り、買い物をした。ぼくの手にはもうひとつの荷物が増え、彼女は聞き慣れないメロディーを鼻歌のようにして口から出していた。

 その一連の行為自体がぼくは普通のことだと思っていた。貴重なものでも宝物でももちろんないと思っていた。だが、残り数日で、こうしたものもなくなるのかと思うと、それはまったくの反対で、大切なものだったのだと過ぎ去っていく時間を後悔のような気持ちをもって眺めるようにした。

 あの日の裕紀は寒そうにして顔が紅潮していたとか、あの日のハンカチで汗を拭く姿とかが、それこそ走馬灯のようにぼくの記憶から取り出され、目の前に表れた。

 それらの日々は普通ではなかったのだ。しかし、過ぎ去っていく時間を停めることなど無力なひとりの人間になど、もちろん出来るわけもなかった。

償いの書(39)

2011年04月03日 | 償いの書
償いの書(39)

 仕事をしながらも資格をとるために家で勉強もしていた。そのような時は、裕紀は音を立てないように小さな音量で静かに音楽を聴いていた。その甲斐もあってか、ぼくは何年もかかったが、やっと資格を手に入れた。それで、人生が急に好転するわけでもないが、一先ずの目標は達成されたのだ。もっと早く取れた方がそれは良かったに違いはないが、それでも、遅すぎて失望したという感じも残らなかった。

 いままでこころの中に重く圧し掛かっていた責任のいくらかは回避され、あとは自分の人生を楽しむことを優先させられる段階に入ったのだ、と考えるようにした。それでも、仕事はそのまま続き、役割も増えていった。何人かの面倒を見て、彼らの仕事ぶりの責任も自分に来るようになった。それが、社会で生きることなのだと考えた。

 ぼくと裕紀は休日になれば、家の周りを散歩して、たくさんの会話をするよう心掛けた。曇りの日もあれば、快晴の日もあった。それは、人生ととても良く似ていた。ラッキーなことが続くこともあれば、どうしようもなく避けられない不運も目の前に転がっていた。だが、そのときの不運のいくつかは乗り越えることが困難なものなど、なにひとつとしてなかった。少しの努力と頑張りで、その困難は跡形もなく消えて行くように定められていた。それが20代というものなのだろう。

 だが、そのぼくらの20代も間もなく終える時期になっていた。ぼくらは再会して2年ほどの交際があり、それから結婚した。そして、月日はあっという間に過ぎて行こうとしている。ぼくらの愛は冷めることなどないと信じ、また、実感としてその予兆のようなものもなかった。これが訪れるのはないと思い、ぼくらはお互いが70や80になるまで、このまま仲良くやっていけるという漠然とした自信があった。

 それまでに、数十年もぼくは裕紀を目の前にしての生活の楽しみがあるのだと思っている。危機はなく、ただ真っ直ぐの道路を走っているような安心を含めた快適さがあった。

 東京はある意味で故郷と呼べるまでになった。もしかしたら、それは言い過ぎかもしれないが馴染みのある関係になったのだ。それも、ぼくは裕紀がここにいてぼくと会ったからなのだ、ということを忘れないようにした。それがなかったならば、やはりこの土地とも疎遠なままで終えたかもしれない。そして、自分の人生の不思議さを感じた。また、ひととの出会いのことを喜んでいる。

 また、不思議とぼくらには子どもができなかった。田舎の両親は、それとなく心配した。だが、それもいつか時間が解決してくれるだろうと思い、確かにこのふたりでの生活でも満足がいったものだったが、新しい家族が増える準備もこころの側ではできていた。

「子どもがいたら、もっと楽しいと思う?」と、裕紀もある日、そのことを気にしていたのかそっと言った。
「ぼくは、いまのままで充分に満足だよ。でも、いたら、いたで楽しいだろうね」
「そうだよね」と、少し彼女は申し訳なさそうな顔をしたが、当然のごとく、彼女に責任があるわけでもなかった。満足のいく生活だったが、彼女がそのような淋しげな表情をすると、ぼくのこころも有体にいえば痛んだ。しかし、ずっと心配しているわけにもいかず毎日の生活が些細な支障を乗り越えていく。

 近くの公園で裕紀より若そうな女性が子どもを遊ばせている。彼女とぼくはベンチに座り、それを眺めている。ぼくが何か話しかけても裕紀はそれに気付かず、無心に視線を向けている。
「え、ごめん。何て言ってたの?」何度か声をかけると、彼女はやっと返答した。彼女の不規則になった仕事の関係で、いくらか疲れた様子を見せていた。

「仕事、辞めてもいいよ。それぐらい、やっと稼げるようになった」
「考える。ありがとう。でも、好きなことだし」
「なら、いいんだ。ただ、いままで、いろいろありがとうと言いたくて」
「そう、嬉しいな」と言って、彼女は滑り台を下っている少年を見ていた。

 ぼくは転がってきたボールを軽く蹴飛ばし、別の男の子に返した。その父親らしき男性が遠くでぼくらに会釈をした。それは、ぼくと同じマンションに住んでいるひとだった。ぼくも気付いて、同じように頭を下げた。

 満足と呼べば満足と呼べる生活だった。上を見過ぎても仕方がないし、また下方を恐れるほど、ぼくらの生活は空中に浮かんでいるだけでもなかった。きちんと地に足を着けた生活をしており、また、いくらかのゆとりもあった。ぼくは、20代の終わりの自分の生活にかろうじてではなく合格点を与えることに決めた。これ以上、何が必要なのだろう。そこそこだが満足の行く仕事もあって、ぼくには最愛の妻がいた。若さも残っていて、これから訪れることにも挑んでいける自信や体力もあった。あと、何十年も横には、今日のこの日のように裕紀がいるのだろう。そう考えるだけで、ぼくは胸の中が温まるような気がしていた。

償いの書(38)

2011年04月02日 | 償いの書
償いの書(38)

 またもや、ぼくらは日常の生活に戻る。

 仕事に行き、多少は疲れて帰り、夜はテレビで音楽のビデオを見たり、サッカーをテレビ観戦したりした。それが日常の流れだった。彼女は手の込んだ料理をこしらえ、ときには簡単なつまみを作って、ふたりでくつろいでお酒を飲んだ。ぼくは、仕事を忘れるかのように夏目漱石の三部作を読み、彼女はクラシックの音楽のCDをオーディオに入れた。目をつぶって姿勢を整えたまま彼女は音楽に耳を澄ましていた。ときには上田さんや智美と会い、日常のことを瞬間だが忘れ、むかしの自分に戻った。

 音楽は彼女を癒すらしく、聴いた後にふたたび目を開いた時には疲れが取れている様子だった。ぼくはサッカーやラグビーの放つ熱を通して、自分を解放していった。スリリングな場面を見逃さないかのように食い入って見た。ぼくがサッカーのコーチをしていたときに教えていた子たちの何人かは、高校や大学にいってもそれを続け、ある子は与えられた能力を生かし、ある子は裏方に徹する能力があるのか、過去の自分と同じように幼少の子にスポーツの楽しさを惜しみなく伝えた。ぼくは、それらの情報を友人の松田から聞いた。彼の子どもも大きくなりスポーツをする楽しみを知ったそうだ。そういう存在があることをぼくは単純にだがうらやましかった。

 そのうちのひとりが全国大会に出るために東京に来ていた。ぼくは、寒いスタンドのなかでその試合を観戦していた。ぼくが知っていたのは12歳ぐらいまでの男の子のはずだった。会ったこともない裕紀だったが、肩入れの仕方はぼく以上だった。ぼくが知っていた少し意気地のなかった少年はどこかに消え、自分の肉体や思考をコントロールし、チームメートを鼓舞する18歳の少年がそこにいた。ぼくは、自分が大人になる喜びをそこに感じ続けていた。このような経験も自分はできるのだった。そして、過去に自分を応援してくれた何人かにいまさらながら感謝の気持ちが芽生えた。いや、蘇ったのだ。

 その子のいるぼくの地元の高校は勝利し、次の試合もあった。ぼくはその後、声をかけようと思ったが若い女の子たちに囲まれ、彼に近づくのは困難だった。

「ひろし君の存在もむかしはあのようだった」裕紀は、思い出したかのように言った。
「あんなに人気なんかないよ」
「いや、あったよ。わたしの知っているひろし君が離れていってしまうようで怖かったよ」
「そう」ぼくは、そのことを思い出そうとしているが、もう思い出せなかった。あんなに人気なんかあることが自分自身で信じられなかった。

 ぼくは、それでもメモに書いた電話番号を渡し、暇なら連絡をください、と言って彼の手に握らせた。
「あ、近藤さん、します」と言って、彼はそこから消えた。勝利者の喜びと神々しさが彼の周りにあった。
 その日の夕方に連絡があり、翌日会うことにした。試合は、その次の日にあった。

「近藤さん、久し振りです。結婚したんですね」彼は礼儀正しく挨拶をして、横にいる裕紀に目を向けそう言った。
「ま、この通り」と言って、彼女の名前を教えた。彼女もにこやかに笑って、彼のことを見つめた。宿舎で食事を終えたとのことだが、その年代の胃袋は際限がないらしく(自分も経験したので分かる)彼のために焼き鳥屋に入った。ぼくと裕紀は少しお酒を飲んだが、ただ唖然として彼の食事を眺めている時間が多かった。明日の試合の抱負を訊いたが、彼は自信にみなぎった様子で、試合のシュミレーションが自分の頭のなかで構築され、ただそれを展開するだけのようだった。ぼくも、それを信じ、裕紀もまた似た感情をもった。

「明日も応援に行くね」と、裕紀はまだ注文をするらしい彼の食欲を見守った。

 しかし、無邪気な自信が嫌いなスポーツの神は、彼を当然のように見放した。試合は5-0で負けた。ぼくは自分のことのように悔しがったが、失敗でしか学べないことを彼にも知って欲しかったのも疑いのない事実だった。彼は、東京を去る前に電話をくれ、応援してくれたのに負けてしまった不甲斐なさと、昨日の食事のお礼を伝えた。
「奥さんにもよろしく伝えてください」とも彼は言った。ぼくは、ぼくの存在が裕紀を含めたものであることを知るようになっていく。

 その後もテレビで全国大会の試合を見続けた。彼は、自分の過去の反映だったのかもしれない。ぼくは、その全国大会にも出られなかった。ただ、名声が欲しかっただけかもしれないが、報いとしてのプレゼントも自分は必要としていたのだ。
「残念だったね」と、裕紀は言った。「だが、彼のような子に会えて、嬉しかった。ひろし君がわたしの知らないところでも尊敬されていたみたいだし」

「ぼくは、ただ自分の運動不足を解消しようとしただけだよ」と、真実のような嘘のような言葉を吐いた。彼女はそれには答えなかった。ただ、軽く微笑みぼくの手を握った。

「そういえば、手の痺れはどうした?」そのような症状を言っていた彼女のことを思い出したぼくは、そう言葉をつなげた。
「あれ以来、なくなった」と言ったので、ぼくはそれを信じた。言葉は重くも軽くもないものだった。それで、そのときは良かったのだ。