壊れゆくブレイン(130)
暮れも押し迫ってきた。一年が終わり、新たな一年がはじまる。だが、来年のことを考えられる余裕もなかった。仕事は忙しく、雪代の店もセールで大忙しだった。
広美は東京の友人と旅行に行くとかでもういなかった。あと数年で働くようになれば、それほどの自由は与えられない。自分の使いたい時間は細切れに探さなければならなくなる。その前に楽しんでおくことは正しいことだった。ぼくらはその細切れの時間を継ぎ足した。しかし、あと数日もすれば休みも待っていた。
「休み、どうする? どっか行く、ねえ」と雪代が訊いた。
「どうしたい?」
「といいながらも、これといってないのよね。なんだかエネルギーが不足している」
ぼくらは予定も決められずに、夕飯をいっしょに食べていた。テレビ番組も普段のものとは違うのを放送していた。それがまた世の中を慌ただしいものへと変化させているようだった。それで、食事も済むとぼくはテレビを消して、静かな音楽を流した。片づけが終わり、雪代もとなりに座った。また今年の一日がこのような形で減る。あと2時間もすれば翌日だった。そして、今年の残りも一週間ほどになっていく。
「一年もあっという間だね」
「一年も、二年も、十年も、二十年も」
「大げさだけど」
「早くない?」ぼくは当然のこととして質問した。
「それは、早いよ。自分にも広美のように責任のない時代があった。お風呂はいれば?」
「うん」
ぼくは湯船に浸かる。身体を伸ばし、体内の疲れを取り除こうとした。一晩眠れば、すべてが十年前の体力に回復され、戻っているというかすかな願いがあった。だが、それは願いから一歩も出てくれないことも知っている。それで、髪や身体を洗い、またリビングに戻った。雪代はうとうとしているようだった。
「風邪ひくよ」
「うん。わたしもお風呂入る。布団暖めて」
冬の冷気が寝室を覆っている。ぼくは冷たいものを飲み、寝室のドアを開けた。そこは1、2度温度が低いようだった。リビングの暖かさが名残惜しいが、寝ないわけにもいかない。雪代も風呂から上がり、化粧水をつけ、髪をドライヤーで乾かした。その姿をぼくはずっと見てきたのだとあらためて思った。何気ない瞬間の積み重ねが生活になり、さらにふたりの歴史になった。その歴史は誰の目にも触れない。ただ、ぼくらが互いを必要としていることを確認する際に思い出すだけだった。
「寒い。そっち入ってもいい?」と雪代が訊いた。
「いいけど。子どもかよ」
彼女は無言で布団をめくり、ぼくの領域に入ってきた。ぼくは腕を伸ばし、彼女の首をそこに載せる。その流れに言葉は必要とせず、彼女も黙って頭の後ろにくぼみをつくってから自然に下ろした。
「あと何年こうしていられるんだろうね・・・」
「二十年も三十年も」
「わたしと知り合って良かった?」
「もう知り合わなかった自分なんか考えられないよ」
「良かったかどうか」
「悪かったら、こんな風に重い頭を受け止めてないよ」
「良かったかと訊いているのに。そういう返事はないと思うよ」
「良かったよ。ぼくの若いころも美しいものにしてくれたし、これからの人生だって、雪代との生活しか考えてないから」
「よかった。ありがとう」彼女は小さく笑う。「きょうはここでこのまま寝るよ。腕がしびれるけど我慢して」
「うん。我慢する」
しかし、次に気付いたときはもう朝になっていた。となりのベッドのうえの布団はきれいなままだった。腕はしびれていることもなく、となりに雪代もいなかった。その代わり、となりの部屋で音がきこえた。
「なんだ、もう起きているんだ」
「あ、おはよう。そうなのよ、今日は早目にでて、いろいろお店の整理をしたり、仕入れたものをチェックしたりで忙しいから。そう、帰りも少し遅くなりそう」
「そう、大変だ」
「ひろし君は?」
「もう峠は越したから、あとはちょっとお得意さんまわりみたいなことをする」
「そこで、あんまり飲みすぎないでね」
「うん」
「もうふたりきりなんだから」
「分かってるよ。どうしたの急に?」
「となりで寝ているひろし君が、もう若くないんだなと思ったら心配になった」
「いいよ、面倒見てもらうから」
「わたしの方がちょっと年上だよ。それに小さなお婆さんには、どうやってもいまから成れない」
「無口な大人しいお婆さんにもなれない」
「ばかみたい」しかし、彼女は笑っていた。
「大根の匂いがする」
「ひろし君が好きなものをつくったのって、わたしがいちばん長くなると思うよ」
「そうだね。ありがとうございます」
「わたし、来年、いくつになると思う? もう五十だよ。五十歳。早いね」
「まだ、そんな年齢には見えないよ」雪代がぼくの目の前にあらわれたのは十九ぐらいだった。あれから三十年も彼女を見つづけてきた。ときには、自分だけのものであり、また何年間かはぼくと離れて過ごした。しかし、いまはこのような朝を迎える関係になった。それはぼくが最も望んだことなのだろう。だが、同時に三十六年という短さで命を燃焼させてしまった女性もいた。ぼくは、彼女の三十七歳のときも、三十八のときも、四十という年齢を越えた時期も知りたかった。それは不可能であり、不平等な人生だった。何が不平等なのかと問われれば、ぼくがこうして自分の好きなものを、好きなひとにつくってもらえる朝を漠然と迎えられることかもしれない。しかし、どれもこれも夢か、もしくは、夢のつづきなのかもしれない。
(完)2012.9.19
暮れも押し迫ってきた。一年が終わり、新たな一年がはじまる。だが、来年のことを考えられる余裕もなかった。仕事は忙しく、雪代の店もセールで大忙しだった。
広美は東京の友人と旅行に行くとかでもういなかった。あと数年で働くようになれば、それほどの自由は与えられない。自分の使いたい時間は細切れに探さなければならなくなる。その前に楽しんでおくことは正しいことだった。ぼくらはその細切れの時間を継ぎ足した。しかし、あと数日もすれば休みも待っていた。
「休み、どうする? どっか行く、ねえ」と雪代が訊いた。
「どうしたい?」
「といいながらも、これといってないのよね。なんだかエネルギーが不足している」
ぼくらは予定も決められずに、夕飯をいっしょに食べていた。テレビ番組も普段のものとは違うのを放送していた。それがまた世の中を慌ただしいものへと変化させているようだった。それで、食事も済むとぼくはテレビを消して、静かな音楽を流した。片づけが終わり、雪代もとなりに座った。また今年の一日がこのような形で減る。あと2時間もすれば翌日だった。そして、今年の残りも一週間ほどになっていく。
「一年もあっという間だね」
「一年も、二年も、十年も、二十年も」
「大げさだけど」
「早くない?」ぼくは当然のこととして質問した。
「それは、早いよ。自分にも広美のように責任のない時代があった。お風呂はいれば?」
「うん」
ぼくは湯船に浸かる。身体を伸ばし、体内の疲れを取り除こうとした。一晩眠れば、すべてが十年前の体力に回復され、戻っているというかすかな願いがあった。だが、それは願いから一歩も出てくれないことも知っている。それで、髪や身体を洗い、またリビングに戻った。雪代はうとうとしているようだった。
「風邪ひくよ」
「うん。わたしもお風呂入る。布団暖めて」
冬の冷気が寝室を覆っている。ぼくは冷たいものを飲み、寝室のドアを開けた。そこは1、2度温度が低いようだった。リビングの暖かさが名残惜しいが、寝ないわけにもいかない。雪代も風呂から上がり、化粧水をつけ、髪をドライヤーで乾かした。その姿をぼくはずっと見てきたのだとあらためて思った。何気ない瞬間の積み重ねが生活になり、さらにふたりの歴史になった。その歴史は誰の目にも触れない。ただ、ぼくらが互いを必要としていることを確認する際に思い出すだけだった。
「寒い。そっち入ってもいい?」と雪代が訊いた。
「いいけど。子どもかよ」
彼女は無言で布団をめくり、ぼくの領域に入ってきた。ぼくは腕を伸ばし、彼女の首をそこに載せる。その流れに言葉は必要とせず、彼女も黙って頭の後ろにくぼみをつくってから自然に下ろした。
「あと何年こうしていられるんだろうね・・・」
「二十年も三十年も」
「わたしと知り合って良かった?」
「もう知り合わなかった自分なんか考えられないよ」
「良かったかどうか」
「悪かったら、こんな風に重い頭を受け止めてないよ」
「良かったかと訊いているのに。そういう返事はないと思うよ」
「良かったよ。ぼくの若いころも美しいものにしてくれたし、これからの人生だって、雪代との生活しか考えてないから」
「よかった。ありがとう」彼女は小さく笑う。「きょうはここでこのまま寝るよ。腕がしびれるけど我慢して」
「うん。我慢する」
しかし、次に気付いたときはもう朝になっていた。となりのベッドのうえの布団はきれいなままだった。腕はしびれていることもなく、となりに雪代もいなかった。その代わり、となりの部屋で音がきこえた。
「なんだ、もう起きているんだ」
「あ、おはよう。そうなのよ、今日は早目にでて、いろいろお店の整理をしたり、仕入れたものをチェックしたりで忙しいから。そう、帰りも少し遅くなりそう」
「そう、大変だ」
「ひろし君は?」
「もう峠は越したから、あとはちょっとお得意さんまわりみたいなことをする」
「そこで、あんまり飲みすぎないでね」
「うん」
「もうふたりきりなんだから」
「分かってるよ。どうしたの急に?」
「となりで寝ているひろし君が、もう若くないんだなと思ったら心配になった」
「いいよ、面倒見てもらうから」
「わたしの方がちょっと年上だよ。それに小さなお婆さんには、どうやってもいまから成れない」
「無口な大人しいお婆さんにもなれない」
「ばかみたい」しかし、彼女は笑っていた。
「大根の匂いがする」
「ひろし君が好きなものをつくったのって、わたしがいちばん長くなると思うよ」
「そうだね。ありがとうございます」
「わたし、来年、いくつになると思う? もう五十だよ。五十歳。早いね」
「まだ、そんな年齢には見えないよ」雪代がぼくの目の前にあらわれたのは十九ぐらいだった。あれから三十年も彼女を見つづけてきた。ときには、自分だけのものであり、また何年間かはぼくと離れて過ごした。しかし、いまはこのような朝を迎える関係になった。それはぼくが最も望んだことなのだろう。だが、同時に三十六年という短さで命を燃焼させてしまった女性もいた。ぼくは、彼女の三十七歳のときも、三十八のときも、四十という年齢を越えた時期も知りたかった。それは不可能であり、不平等な人生だった。何が不平等なのかと問われれば、ぼくがこうして自分の好きなものを、好きなひとにつくってもらえる朝を漠然と迎えられることかもしれない。しかし、どれもこれも夢か、もしくは、夢のつづきなのかもしれない。
(完)2012.9.19