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高貴なクズ。矛盾。
吉祥寺の小さなジャズ・クラブにいる。数セットの演奏も終わり、音楽だけがもたらすある種の恍惚が含んだ満足感に覆われている。お客として。
友人は演奏したピアニストが好きだった。円熟という境地にいる。ぼくは若いドラマーのことを気に入っていた。音楽を成立させる要素として、ぼくはリズムをいちばん重要視していた。とくにジャズというものを聴こうとした場合は。このドラマーは理想にかなっている。それよりも、その理想をとびこえている。凄いひとはいるものだ。
残りのワインだかを飲み干し、清算も終え、階段をのぼる。その出口付近にこのふたりは座ってタバコを吸っていたように思う。あるいは、その雰囲気に似たくつろぎという状態にいた。話しかけても良さそうなタイミングである。彼らも素直なリアクションを求めているかもしれない。
友人は口を開く。
「あの演奏した新曲、この前は、ちょっと、どうかな? とか思ってたんですけど、正直に、でも、こなれて、今日は良かったですね」
という趣旨のことを言う。褒めているようで貶しているようでもある。あるいは釘を刺しながら本音を吐く。どちらにしろ、その場の空気が少し凍った。
相手は立派な芸術家である。この指の十本のみに頼って暮らしてきた本物のピアニストであった。久々に自分に痛いことを言ったかもしれないひとが急に訪れる。くつろいで油断していたときに。あのとき、あなたはああだった。女性がもちこむ方法論にも似ていた。
トイレにいる。まったくの別の機会。
となりにいる友人らしきふたりの声が聞こえる。
「すごいの、聴いちゃったね!」
ぼくも他人ながら同感だった。池袋の大きな会場で、はじめてオーネット・コールマンというサックス奏者の演奏を聴いた感想であった。この感嘆しか許さない表現がもっとも適している。はっきりと、凄かったのだ。
LAかどこかのハイウェーで、時速三百キロ近いスピードで疾走するような圧倒感があった。首を背もたれに当てていないと一遍に折れてしまいそうな圧力のある音色と演奏だった。あれを聴いていて良かった。もし、彼をレコードのみで判断していたら、まったく違う音楽になってしまう。この反応を知らないまま、彼は母国に帰ってしまうのだろうか。もう散々、聞き飽きたぐらいの賛美なのだろうか。ぼくには分からない。
さらに数年前。残業の予定をごたごたしながらも交換してもらい、チケットをもっていた職場の仲間に誘われるまま文京区のホールでウェイン・ショーターも聴いた。地下でハンバーガーをおごったくらいで代金は済んだはずだ。もう古風なリズムのジャズはとっくに放棄している。個性が必須な音楽のジャンルだが、彼は確実に自分独自のクローゼットをもっていた。この時期のCDもたまに耳にする。太古という意味合いをふくんだサックスの音である。必要なものも、機会も近寄ってくるということを示す一夜になった。ついでにいえば、コンサートに誘ってくれた彼は美人と別れて後悔していた。その付き合えるチャンスもうらやましく、別れる必要性を疑う、というふたつのこともぼくに間接的に教えてくれた。そういう間違いも、また古来より人間がしてしまうことでもあろう。
音楽は空気中に消える。
伊豆方面を一泊で旅して、その帰りに池袋の小さなジャズ・クラブにいる。演奏はリズミカルなピアノを弾く女性ピアニストだった。あと管楽器の男性のふたりだが、その男性のことは記憶からもれてしまっている。
お客も少なかった。演奏も終わり、ぼくはそのピアニストと会話する。
「家でもピアノって、毎日のように練習するんですよね?」
という明らかに無知な質問をぼくはする。聡明という特徴と美点がその女性の表情の隅々にまであらわれている。彼女は紙にスケッチをする。部屋の間取りで、窮屈にピアノにすわる際の様子を口で付け加える。サインなどもらう趣味もないが、このときのラフなスケッチをもらっておけばよかったなという小さな後悔をいまでもしている。どうせゴミとして処分してしまうのだろうに。
実際に演奏、歌う楽しみをぼくは知らない。むかしの職場には複数人そういうタイプのひとがいた。プロの視点から教えられることもあるが、アマチュアや愛好家の意地も熱心さも自分にとって大切な基準であった。
「しおれる花? しぼめる花? しぼんだ花?」
フルート奏者と仕事の合間に話しているときに出した自分の精一杯の知識。彼女は直ぐにそのシューマンだか、シューベルトの音楽を自分のあたまのなかで鳴らしているような表情を浮かべた。「さらう」というのは、こういう顔をもたらすのかとぼくは憧憬する。ぼくは簡単にその作業に移れなかった。
自分は文字で理解する。同時にソロバンの珠を空中に浮かべている。色彩というもので判断できるひともいる。だが、いくつもの音楽体験がぼくにたくわえられている。その感動を与えてくれたひとりひとりが減っていく。そもそも蒸発するのが音楽の美しさであった。この前のたるい演奏も、もうどこかに消えてしまったのだろう。すべてを録音するほどの強迫観念もなければ。そして、この楽しかった体験を文字で書きのこす意味合いの妥当性や正当性を考えてしまう。
もうひとつエピソードがあったのに、メモを省いたため、それも途中で空中に消えた。出てこないかとあたまを揺すってみるが無理だった。これも、音楽にふさわしい状況だ。
高貴なクズ。矛盾。
吉祥寺の小さなジャズ・クラブにいる。数セットの演奏も終わり、音楽だけがもたらすある種の恍惚が含んだ満足感に覆われている。お客として。
友人は演奏したピアニストが好きだった。円熟という境地にいる。ぼくは若いドラマーのことを気に入っていた。音楽を成立させる要素として、ぼくはリズムをいちばん重要視していた。とくにジャズというものを聴こうとした場合は。このドラマーは理想にかなっている。それよりも、その理想をとびこえている。凄いひとはいるものだ。
残りのワインだかを飲み干し、清算も終え、階段をのぼる。その出口付近にこのふたりは座ってタバコを吸っていたように思う。あるいは、その雰囲気に似たくつろぎという状態にいた。話しかけても良さそうなタイミングである。彼らも素直なリアクションを求めているかもしれない。
友人は口を開く。
「あの演奏した新曲、この前は、ちょっと、どうかな? とか思ってたんですけど、正直に、でも、こなれて、今日は良かったですね」
という趣旨のことを言う。褒めているようで貶しているようでもある。あるいは釘を刺しながら本音を吐く。どちらにしろ、その場の空気が少し凍った。
相手は立派な芸術家である。この指の十本のみに頼って暮らしてきた本物のピアニストであった。久々に自分に痛いことを言ったかもしれないひとが急に訪れる。くつろいで油断していたときに。あのとき、あなたはああだった。女性がもちこむ方法論にも似ていた。
トイレにいる。まったくの別の機会。
となりにいる友人らしきふたりの声が聞こえる。
「すごいの、聴いちゃったね!」
ぼくも他人ながら同感だった。池袋の大きな会場で、はじめてオーネット・コールマンというサックス奏者の演奏を聴いた感想であった。この感嘆しか許さない表現がもっとも適している。はっきりと、凄かったのだ。
LAかどこかのハイウェーで、時速三百キロ近いスピードで疾走するような圧倒感があった。首を背もたれに当てていないと一遍に折れてしまいそうな圧力のある音色と演奏だった。あれを聴いていて良かった。もし、彼をレコードのみで判断していたら、まったく違う音楽になってしまう。この反応を知らないまま、彼は母国に帰ってしまうのだろうか。もう散々、聞き飽きたぐらいの賛美なのだろうか。ぼくには分からない。
さらに数年前。残業の予定をごたごたしながらも交換してもらい、チケットをもっていた職場の仲間に誘われるまま文京区のホールでウェイン・ショーターも聴いた。地下でハンバーガーをおごったくらいで代金は済んだはずだ。もう古風なリズムのジャズはとっくに放棄している。個性が必須な音楽のジャンルだが、彼は確実に自分独自のクローゼットをもっていた。この時期のCDもたまに耳にする。太古という意味合いをふくんだサックスの音である。必要なものも、機会も近寄ってくるということを示す一夜になった。ついでにいえば、コンサートに誘ってくれた彼は美人と別れて後悔していた。その付き合えるチャンスもうらやましく、別れる必要性を疑う、というふたつのこともぼくに間接的に教えてくれた。そういう間違いも、また古来より人間がしてしまうことでもあろう。
音楽は空気中に消える。
伊豆方面を一泊で旅して、その帰りに池袋の小さなジャズ・クラブにいる。演奏はリズミカルなピアノを弾く女性ピアニストだった。あと管楽器の男性のふたりだが、その男性のことは記憶からもれてしまっている。
お客も少なかった。演奏も終わり、ぼくはそのピアニストと会話する。
「家でもピアノって、毎日のように練習するんですよね?」
という明らかに無知な質問をぼくはする。聡明という特徴と美点がその女性の表情の隅々にまであらわれている。彼女は紙にスケッチをする。部屋の間取りで、窮屈にピアノにすわる際の様子を口で付け加える。サインなどもらう趣味もないが、このときのラフなスケッチをもらっておけばよかったなという小さな後悔をいまでもしている。どうせゴミとして処分してしまうのだろうに。
実際に演奏、歌う楽しみをぼくは知らない。むかしの職場には複数人そういうタイプのひとがいた。プロの視点から教えられることもあるが、アマチュアや愛好家の意地も熱心さも自分にとって大切な基準であった。
「しおれる花? しぼめる花? しぼんだ花?」
フルート奏者と仕事の合間に話しているときに出した自分の精一杯の知識。彼女は直ぐにそのシューマンだか、シューベルトの音楽を自分のあたまのなかで鳴らしているような表情を浮かべた。「さらう」というのは、こういう顔をもたらすのかとぼくは憧憬する。ぼくは簡単にその作業に移れなかった。
自分は文字で理解する。同時にソロバンの珠を空中に浮かべている。色彩というもので判断できるひともいる。だが、いくつもの音楽体験がぼくにたくわえられている。その感動を与えてくれたひとりひとりが減っていく。そもそも蒸発するのが音楽の美しさであった。この前のたるい演奏も、もうどこかに消えてしまったのだろう。すべてを録音するほどの強迫観念もなければ。そして、この楽しかった体験を文字で書きのこす意味合いの妥当性や正当性を考えてしまう。
もうひとつエピソードがあったのに、メモを省いたため、それも途中で空中に消えた。出てこないかとあたまを揺すってみるが無理だった。これも、音楽にふさわしい状況だ。