爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

リゾット・パルミジャーノ

2015年05月29日 | Weblog
リゾット・パルミジャーノ

 上野は馴染みの場所だった。

 幼少時には最初の行くべき都会として君臨する。盛り場。いまは美術館と昼酒の町である。

 どちらに属さない経験もある。女性と歩けば景色も変わる。ビルの地下の異質な食材ですら美しく感じられる。香辛料の強そうな缶詰も小道具としての役割を充分に発揮した。気分は、ミュージカルの主役である。

 あとにもさきにもあの料理をここでしか食べていない。ビルの上階にあったイタリアン・レストラン。ワインも飲んだ気がする。大人になってからアルコールを一滴も入れない夕飯など、そうそうもない。日常は安い缶チューハイであったにしても。

 前菜もおいしかったはずだ。しかし、かなりの時間が経っても記憶にのこっているのはひとつだけだ。

 大きな固まりのチーズにスコップで掘ったような窪みが真ん中にある。それがワゴンで運ばれてくる。テーブルの横に鎮座しても、その後の近い未来の結末を知らなかった。すると熱々のお米が運ばれてきて窪みに落とす。衛生的にどうかと思うほど潔癖にはできていない。

 その凹みのなかでチーズと格闘である。熱にほだされたチーズは自分の襟元を緩め、ご飯とからまる次第であった。包容力と溶解のチームワークだ。

 スプーンですくって熱々のタッグを舌にのせる。誰がこの乱暴な方法で、繊細な味を発見したのだろう。

 この場面は赤ワインを抜きにして考えられない。

 お店自体がいまもあるのか把握していない。興味もなくなった。いや、その女性との思い出を今後ものこそうと願っていないのだ。夢よ、さらばであった。

 そして、お米というのをできるならば食べたくない。赤貝と日本酒、貝と白ワインが理想であった。胃というのは思い出とはまったく無関係に縮こまる運命を有していた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 69

2015年05月29日 | 最後の火花
最後の火花 69

 律義に彼は翌日さきにやって来ていて静かにすわっていた。約束でもない約束も守るタイプなのだろう。わたしははじめて向かい合ってすわる。当然の権利のように。彼はこれまた交渉をはじめるように律義に名刺を取り出した。わたしは名前を小さな声で読み上げる。

「中庭英雄」わたしはメモ用紙を破り自分の何度も書き慣れた名前を丁寧に書いた。「漢字でひかりの子、と、えいゆう」

 わたしはその紙片を貸すべき本に挟み、贈答物のようにうやうやしく差し出した。
「ありがとう。読み方、ひでおです」
「そっちか。これ、無理やりみたいで、迷惑じゃないといいんだけど」わたしは用が済んだので、名刺の肩書や住所を見る。「父の会社もお世話になってるところだ」
「どこですか?」

 わたしは返答する。彼はわたしがその身分のように、いくらか卑下した様子を見せる。力関係で優位に立つ。わたし自身の力でもないのだが。

「本、好きなんですか?」ここに居るぐらいだから、答えは分かっている。
「はい、ひとりになれるから」
「そう。遮断。拒絶。カーテン。という意味合いでの本なんだ?」わたしは極論から突破口を開く。譲歩はそれからだ。
「もともと、物語を追うことも好きですよ」彼はわたしが差し出した本を見守る。「眠られぬ夜のために。不眠症ですか?」
「まったく。真冬のクマぐらい眠たい」

 彼は笑う。もっと、笑った顔を見たいと思う。これでは道化師の発想と同じだ。
「ぼくは、ゆっくりとしか読めないから、返すのに時間がかかるかもしれませんよ」
「全然、気にしないで。たまには、ここにも来る?」
「はい。部屋は狭いから」
「ひとりで?」
「はい」
「実家は?」
「ありません」
「ない?」疑問がのこったが、彼のこれ以上は質問するな、という視線で躊躇する。その障壁を乗り越えるのは容易そうではなかった。

 わたしの分も彼はコーヒー代を払ってくれた。駅までの道は川があった。たくさんの樹木が植えられ、すがすがしい空気がただよっている。名前、印象、雰囲気。大まかなものとして把握して、それが悪いものではないという単純な回答。減点と加点。理想と親しみある現実。

 わたしは電車に乗り、バルザックの谷間の百合を読む。この作家のあくどいまでの執拗さ、人間味に比べると、これだけ上品すぎるようにも思える。慕われるよろこび。なかなかはかどらない関係。わたしはいつも関係を結ぶのが早過ぎた。中庭さんはそのことを疑うかもしれない。自分で撒いた種だが、いくらか後悔もしている。いや、その場の快楽を追ったときのことを冷静な頭で考えてはいけない。酔ったときの醜態と同じだ。わたしはいろいろなものに酔えるのだ。

 別に約束したわけでもないので会えないときもある。だが、偶然にも会える回数が多くなる。そもそも彼はひとりになりたくてそこに来ているので、話しかけるわたしを迷惑だと思う可能性もある。しかし、その表情から察するに、別に深い拒絶の刻印という段階や層には達していない。決めたわけでもないが、どちらも水曜に寄ることが増えた。手探りの状態を越え、ひとりで本を読むということを求めなくなってしまったので、別の場所で会うようになってしまった。やはり本より、リアルな生活を二十代は懇願している。しかし、彼はなかなか誘ってこなかった。わたしは拒むというより受け入れる準備もできていて、そのシグナルも発しているはずだったのにである。

 眠りの導入はいつもすこやかなのだが、この頃はすこし時間がかかる。はじめて交際をしたときのようだ。わたしたちは別に恋人同士になった訳でもない。ただ頻繁に会うだけである。大人というのは意志をその都度、確認するものなのだろうか。日数と時間を多く費やした関係こそが神秘的であり、貴いのではないだろうか。

 わたしは焦れている。直接、問い質すこともためらっている。もしかしたら、必要以上に断られることを恐れているのかもしれない。明らかになるより、うやむやなままの方が安全だ。しかし、健全ではない。

 わたしはあのときの不安な気持ちでいっぱいの少女のようだ。いろんなことを経験したのに、いちからやり直し。恋とは厄介だ。絶対に自分が好きになったひとに好きになってもらうよう無言で要求する。強要する。自分に有利にならない以上、恋でもない。確かに恋だが、恋の成就ではない。必死さがなければ成立しない。

 わたしは職場で案の定、ミスをする。上の空だ。プロとは呼べない。プロは体調や精神の度合いで合格点以下を出してはいけない世界的な民族なのだ。また落ち着いてデスクに向かうと、ちょっとでも会えないかなと考えたりもしている。もしかしたら、うっかりわたしがコーヒーをこぼさなければよかったのだ。原因はあれだ。苦しみの根源もあの日だったのだ。

 わたしは忘れるようにむかしの彼氏に会う。そういう関係になる。代用品は緊張を強いることはなかった。満足であり、不満だ。不満であり、合格点といえばそこそこ合格点なのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 68

2015年05月28日 | 最後の火花
最後の火花 68

 テストで成績の順位が分かる。上の下。中の上。試験のコツもポイントも方法論も分からなかった。骨組さえしっかりすれば、あとは適度に筋肉がつくことは理解できる。その丈夫な骨格をつくるアドバイスが必要だった。わたしは家庭教師というものを手に入れる。有名な大学に通っているひと。方法論を知っているのだろう。それでいて美人だった。おしとやかとも形容できる。

「随分と、日焼けして色が黒いのね」と、その女性の第一声を浴びる。
「スポーツが好きだから」
「勉強も簡単だよ」跳び箱も縄跳びも簡単だよ、という風な気軽な口振りだった。

 大人になりかけの女性は良い匂いを振り撒いた。「随分と本が多いのね」柴田さんと自己紹介した彼女は数冊を手に取る。「これじゃ、文学部ね。でも、あんまりお金にならずに、就職もむずかしいのかな」と自分の未来を決めるように言った。

「数学とか理科があんまり得意じゃないみたいなんです」
「教えてあげるから、心配しないで。乗りかかった船でね」
「沈みかかった船」わたしは相変わらずひとこと多いのだ。
「じゃあ、浮き輪を投げてあげるから」快活な女性だった。

 彼女は夕飯をいっしょに食べている。室内を見回して家具を誉め、母の服装も賛美した。父も早めに帰ってきて様子を見た。教育というのはお金がかかり、それを回収するためには偉くならないといけない。

「きれいな娘でしょう」と母は新たに娘がひとり増えたように言ったが、実際は、母性の欠けらもまったくないひとだった。わたしはお友だちの家で料理を習いながらそのことを知ってしまった。比較して、やっと到達する真理もある。

「ものになるでしょうか?」妹は無表情のままで訊いた。それで、みんなが笑った。

 わたしはスポーツで汗をかき、週の数日は勉強を教わり、隠れて料理を習った。望んでもいなかったはずなのになかなか忙しい生活に足を踏み入れてしまった。柴田さんの日常も自然と分かってくる。弁護士になる夢があった。それで、せっせと自分も勉強している。だが、その必死さは表面にはまったく出ていない。毎日、遊び歩いているような、日毎の生活を楽しみ尽くしているような輝きもあった。

 ひとに説明するのが好きなのだろう、教え方もうまかった。無口な弁護士というのも考えれば厄介なものだ。法廷で恥じらう姿など一切、必要ない事柄かもしれない。わたしはすべてを終えて、ひとりでベッドで本を広げる。「アメリカの悲劇」しか、そういう題材をもとにした本はうちにはなかった。

 誰も幸福になり過ぎたいとも、同時に不幸になりたいとも願っていないが、結果として別の誰かに接触することによって思いがけない事件が起こってしまう。まあ、それが小説といえば、その通りだった。揺れ動く男性。しかし、起きたことはすべて望んでいないにしろ事実だ。事実を事実として証明する。わたしは決して陪審員になどなりたくない。そこでも物語を探して、より美的な内容を求めて誤った評価をしてしまうだろう。美というものは壮絶に追い駆けないといけないのだ。不戦勝や、ずるや取引や、収賄など起きてはいけない。カンニングもダメだ。だが、わたしは恵まれている。柴田さんを見つけてくれたのだ。

「分かってきた?」
「大体」
「それ、口癖だね?」
「そうかな」なぜか、わたしは赤面する。そのことを指摘されて赤さは増した。「でも、結果は次の試験まで待たないといけないんだよね」
「もう一冊、問題集を探すといいよ。スイングしたバットの数だけ、ヒットが増える」
「野球、やってたの?」
「ソフト・ボール」柴田さんは下手から投げるマネをする。いまはその痕跡もないほどのきれいなすらっとした指だった。

 それで翌日、お小遣いをもらい本屋さんで問題集を買った。柴田さんがいなくても素振りはできるのだ。しかし、意気込みだけでわたしは本に後ろ髪をひかれてしまう。

 ひとがひとの内面をジャッジするのは正しいことではないようにも思える。だが、事実を積み重ねた天辺に真実がかろうじて乗っているようだった。本音をいえば裁判など他人事だ。訴えられることもなければ、誰かのウソや偽りを暴きたいとも思わない。

 仕事というのは学歴ではなく女工とか、手に職を若いときからつけるという時代でもあった。いまはなるべくならひとから羨ましがられたり、尊敬に値するほどのものではなければいけなくなった。そのライセンスとして高い教養、誰もが認定する学校というものが不可欠だった。柴田さんはもう持っていて、さらに高い資格を有するよう頑張っている。

「柴田さんは、ずっと弁護士になりたかったんですか?」
「本当は体操選手」
「どうして、あきらめたの?」
「変な骨の折り方をしてつづけられなくなったの」
「ソフトボールは大丈夫だった?」

「違う場所をつかうのかな、そんなに気にならなかった」
「でも、弁護士さん?」
「勉強も得意だったしね、わたしたちが幼いときは、シュバイツァーのことを教えられたからね。世のため、ひとのため」
「一日一善」
「ふふん、おもしろいのね。さあ、勉強しよう、光子ちゃん」

 誰かの影響を受けることは幸福でもあり、不幸を誘引することもある。柴田さんはずっと前者だった。黄色いワンピースが限りなく似合っていて華やかな雰囲気で本の部屋を彩っていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 67

2015年05月27日 | 最後の火花
最後の火花 67

 何度かお給料ももらった。仕事は慌ただしいが、それでも、こころは落ち着いてきた。いくらか馴染んできて余裕もできたのだろう。仕事以外の楽しみでも、数人の男性とそういう関係になった。帯に短し、たすきに流しである。燃え上がる恋愛というより、日々の体調のメンテナンスの一環のようでもあった。悪いことでもない。良いこととも胸を張って言い辛いが。

 夜はいつものお店で本を読む。いつもといっても週に一度か多くて二度だ。集中しているので周囲をあまり気にかけないが、なんとなく顔なじみのひともでてくる。淋しそうな様子のひともいる。疲れているひともいれば、快活そうな若い女性もいる。

 ある日、うっかりとした行動を取る。無神経に振った腕がほかの席のテーブルのコーヒーをこぼしてしまう。それでなくても静かな店なのに、保たれていた静寂が破られる。

「ごめんなさい」
「平気です。そんなに気にしないでください」同じぐらいの年齢なのだろう。世間から己自身を隔絶しようと挑んでいる様子のひとだった。

「ごめんなさい。うっかりして」わたしは咄嗟にハンカチを出し、テーブルを拭いた。服にもはねたかもしれない。だが、そんなに吸水力の良いものでもない。急いで近寄った店員さんがおしぼりをいくつかビニール袋を破り、無造作に、しかし結果としては丁寧に拭いた。

 わたしは慌ててレジに戻り、代金を支払う。店を出るときにさっきの座席に目を向けると、その男性は何事もなかったかのように静かに膝元の本に視線を落としていた。わたしは安心したが、同時に、泡立つ、波風立つ何物かを感じる。

 その翌々週、きれいに洗濯されたハンカチを返される。わたしはどこにいったかも忘れていた。先週のうちにもう準備していたのかもしれないが、わたしは別の男性と来ていた。本に無関心なひとで直に飽きたようなので大した時間もいないで出てきてしまった。そのきれいになったハンカチは善意というより、貸し借りを生じさせない打算と決着のようにも思えた。きっぱりと縁を切るように。しかし、ふたりともそこに来ることを止めなかった。その後も、会話をするようなことも、目が合うようなことも皆無に近いが、わたしは意識をせざるを得ない。わたしという存在を無視することに仕返しもしてみたかった。

 彼は本棚に向かっているので背中が見える。運動をしてきたひとのように筋肉が発達して、背筋もまっすぐに伸びている。あの辺りの棚は外国の小説が並んでいた。わたしは読みかけの自分の本をバッグから取り出して読んでいた。ヨーロッパの映画の音楽が静かに流れている。ここは知的なパラダイスなのだ。その世界にも、また別の社会にも居心地の悪そうな背中があった。

 彼が取った本の表紙が見える。
「幻滅、もっとも偉大な本」
「え?」彼は当惑したような表情をする。自分の帰るべき犬小屋を無惨に破壊された犬のように。
「それ、バルザックの幻滅」
「ああ」彼は自分の手元を見る。いつの間につかんでいたんだろうという不安な目だった。「読もうと思っていたんですか?」先に譲ろうとするように、わたしの鼻先にぶら提げた。
「いいえ、どうぞ。きっと、面白いと思いますよ」

 彼は自分の座席にもどる。わたしは、きっかけを作れたことをよろこび、そして、もちろんそのことをひた隠しにして店を出た。でも、次はいないかもしれない。いなくなってもわたしは困らないのだ。

 家にもどり、幻滅を探す。わたしはまたはじめから読もうとするが、直ぐに眠ってしまった。

 翌朝、あのハンカチをまたバッグに入れる。コーヒーのしみがひとつもない。縁というのは不思議なものだ。わたしは失敗をした。恥ずかしい思いもした。迷惑もかけた。だが、ひとがひとに対して迷惑をかけないと誓った場合、自殺しかのこされていない。その自殺もはた迷惑なものだった。

 わたしは仕事の研修などがつづいて、なかなかあの場にいけなかった。ひと月半ぐらいが経ってしまった。季節は夏を過ぎる。店のドアを開けると彼がいた。色が黒くなっていた。

 わたしは内装が少し変わっているような印象を受けた。しかし、きょろきょろ周りを見渡すこともない。彼はそろそろ帰るのか、ポケットの小銭を探している素振りを見せた。わたしの横を通過する。急に思い出したように振り返って視線を下げた。

「あれ、もう読み終わりましたから、もし」
「うん?」
「幻滅」
「ああ」わたしの存在が幻滅なのだと勘違いする。「ああ、ありがとう」
「それ、面白いですか?」彼はわたしの手元を指差す。きれいな細い指をしている。少し節くれだっている。
「まあ、なかなか。良かったら貸してもいいですよ」
「ありがとう」

 借りたいとも、貸してくれとも言わなかった。まどろっこしい。わたしは追求しないと気持ちが悪い性質なのだ。トイレに立つふりをして後を追う。「今日中に読み終わるので、明日」

 彼はきょとんとしている。わたしは強引だった。彼はわたしの顔をじっと見る。なつかしいひとに会ったように、ふと、前世の記憶がよみがえったように、別れ別れの肉親を見つけたように。しかし、ずっと期待をもたないように暮らしてきたみたいにそっと目を伏せた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 66

2015年05月26日 | 最後の火花
最後の火花 66

 わたしは中学校に通うようになっている。段々と個性が目立ち、それを生かす方法も知らないまま毎日を送っている。頭脳の程度を測られ、美醜の採点を男子生徒からされている。ひとはランク付けをされる。柔道やボクシングのようにあからさまな体重別ではない。だが、そのランクによって進むべき学校も決まり、将来の生活環境も選別される。

 社会のシステムも教わる。成功しなかった統治形態も学ぶ。大きな終わった文明も教科書に書いてある。その遺跡の写真を見る。父のコレクションしているレコードのようにどれも昔のものだ。わたしにとって。

 本の好きな友だちが蟹工船を読んでいる。終わったら貸してくれるそうだ。わたしの家には思想の強いもの、強烈なものはあまりないのかもしれない。過剰な物語への愛だけが強かった。

 彼女はわたしの家に遊びにくる。とても色が白くてかわいい子だった。わたしはスポーツをして色が黒くなってしまっている。父は喜んでいるが、母はそうでもないらしい。お手伝いさんが驚くほど食欲もある。
「学校のお昼には、そういう食べ方をしないでね」と、母は注意をする。わたしをバカだと思っているようだ。

 わたしは宿題を先延ばしにしてモーパッサンを読んでいる。数行で簡単に別の世界に導いてくれる名人。だが、この楽しみも束の間、学校には定期的なテストがあるのだ。

 色白の子のお母さんは小さな飲食店をしている。わたしも大人になって困らないように料理を習えるよう友人を介して説得してもらった。家には内緒だ。放課後や土日にちょっとだけ手伝う。その分の代価としてのご飯をもらったり、お小遣いもくれた。わたしは働く楽しみを知る。そのお金で洋服や小物を買った。自由というのは労働から得たお金のことのようでもあった。

 わたしの手際の良さを誉めてもらった。家ではなにもしないと叱られているのに。お手伝いさんがすべてをしてくれる生活では仕方がない。わたしは家のキッチンをつかって、簡単なものを披露した。

「どこで、覚えたの?」と母が訊く。
「学校で」
「こんなに家庭染みたものを学校はつくらせるのかね?」父の疑問はただしい。きんぴらごぼうなど学校では教えないだろう。推理に長けた探偵だ。

 父はそれをつまみにお酒を飲んでいる。味付けがちょっと濃いが、その方がお酒はすすむと言った。
「お酒飲みと結婚すると、大変よ」と母は言う。顔はそう迷惑がってもいない。

 弟子入りして習得するものもある。お金はもらえないが、その間の衣食住は安泰というものもあった。ひとは職場で一人前にしてもらう間も給料は払ってもらえる、と父は語った。最近の若いもの、という言い方はしない。父は誰かが成長する姿を見るのが好きだった。年賀状の枚数で、その一端を知る。

 わたしはラジオを聞きながら勉強する。悪い点でもかまわないという風にはならない。ひとには埋め込まれた戦闘能力があるのだ。上に行きたい。できるだけ上位を目指したい。

 しかし、この忙しない日々も数日で終わった。わたしは友人の家に寄り、お昼ごはんをもらう。わたしの無限の食欲を誉めてもらう。友人は少ししか食べない。その後、食器を洗い、キャベツを千切りにした。ニンジンを切り、玉ねぎもみじん切りにする。ハンバーグのもとをこね、金属のトレイに並べて冷蔵庫にしまった。家族の夕飯で合格したら、お店でも使うそうだ。わたしは別のテストをしている。

「試験、どうだった?」
「大体、できたよ」

 わたしは階段をのぼり、夕飯前に眠ってしまう。大人になっても受験の苦しみの夢を見ると言っているひともいた。わたしはプールで泳いでいる夢を見た。底は深く、わたしはどこまでも潜れた。水のなかは快適で誰も進路を邪魔しない。水から顔を出す。誰もいなくなってしまっていた。

「ご飯、温まったわよ」母の高貴なる宣言。わたしは顔を洗い下に降りた。妹がお茶碗にご飯をよそっている。
「わたしのもお願い」頼んだら無言でやってくれる。

 わたしは点検するように、ひとの味付けを調べる。わたしの舌は子どもであることをやめない。月のなかでも体調が変わる。母と妹は楽しそうに話している。わたしは父と話しが合うようになった。きょうは遅くなるらしい。いろいろと会社には仕事のあとの用事があるらしかった。わたしは勉強から解放されて早く身体を動かしたかった。

 父の部屋で勝手にレコードをかける。指紋をつけないようにそっと取り出す。ジャズ・ピアノをかけてモーパッサンを読む。三十分ほどで食べられてしまうものに一生懸命にもなれれば、このようにずっと記録されるものもある。反対に不本意なものが残ってしまう可能性もあった。準備の必要性もあり、一定以上のクオリティを保つのも重要なことだった。

 わたしはソファで眠ってしまう。父が部屋に入ってきた。音楽はとっくに終わっている。

「光子も、趣味がいいんだな」とレコードのジャケットを見ながら、そう言った。それから、別のトリッキーなピアノに替えて、ソファの横にすわって耳を傾けていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 65

2015年05月26日 | 最後の火花
最後の火花 65

 仕事をするようになった。憶えることがたくさんあって大変である。同年齢以外のひとが大勢いる。それが会社だった。それだけ多様な価値観が輻輳している。敵対しないで話しを合わすことが重要だ。反対に、そうなれるには自分の意見をしっかりもたないといけないということでもあった。だから、疲れることになる。

 五月病ということばがあって、自分はそんな類いのものと無縁でありつづけると思っていたが、そうでもなかった。気分がどんよりとしている。しかし、緑の下を歩いていると快適な気持ちがよみがえってきた。こころの油断や隙に恋ごころが紛れ込む。不法侵入だ。違法占拠だ。就業後や休日に会う。時間が限定される。これも会社員の常識だった。

 話す内容も変わってきた。仕事の失敗や悩みを相談する。そして、される。簡単に一遍で解決されるわけでもないが、口にすることも大切だ。共有した事実が情であった。

 このひとのために素敵な女性になろうと考える。だが、素敵なという感嘆がつくような雰囲気だか実質を自分に当てはめることが可能だろうか。恋は偉大なパワーを有するという意味合いの歌もある。だが、その歌手も悲恋でマスコミを賑わせている結果になった。わたしは段々と大人になるにつれ皮肉屋になっていった。

 本で自分をプロテクトする。しかし、本の題材として失敗や滑稽なことや悲劇が、ある面では似つかわしい。どんなに幸福だったかを追求するのは困難だ。

 わたしは、「グッドバイ」という短い物語を手に取る。美人の秘密という題を勝手につける。魅力というのは案外、こういうものだろうか。わたしの新しいスーツはハンガーにかけられ、いまはパジャマを着ている。髪を束ねてすっぴんだ。社会人は化粧をする。忙しいときは電車でする。母に叱られる。母とわたしの時間の分量は違うようだった。

 だが、運命の出会いをすっぴんで迎えるわけにもいかない。わたしは反省をする。しかし、いまは笑い転げながら本を読みすすめている。笑って多少のストレスは減る。すると、電話がかかってくる。わたしは部屋の子機で取る。妹への電話だった。わたしはつなぐ。残念だ。恋は待ち遠しいものだった。

 朝起きて、きょうやるべきことを頭のなかでリストアップする。忘れると困るので手帳にメモする。だが、会社について先延ばしにしていたことを指摘される。うっかりである。元気でいようとした月曜の気分は、二十分ほどで消滅する。昼、職場の近くのベンチで頭を休める。木陰はうつくしい。

 夜には彼と会う。初任給でおごってくれるという。大した金額ではないだろうにうれしい反面、心配でもあった。わたしはサービスをする。サービスをされる。終電で家に帰り、翌日に備えた。若さというのはいつまでも眠いものだ。目覚まし時計を止めてまた眠ってしまう。さらに時間がなくなり急いで化粧をする。ハイヒールのかかとが痛い。でも、せっせと走る。駅は遠い。光子は走った。

 電車の座席で大口を開けて寝ているひとがいる。虫が入り込むほどの大きさだ。だが、車内に虫はいない。善意の集団であり、無関心の集団でもあった。わたしは興味と好奇心を消せないままちらちら見ていた。

 仕事は八割がた順調で、すこしの成功と少しの失敗がある。みんな、これぐらいだろう。わたしは就業後、ひとりになれる場所を探す。ちょうど、途中駅に本をたくさん置いた喫茶店があることを知った。コーヒーはおいしく、どの本を読んでもいいし、自分がもってきた本を読んでもいい。時間はゆっくりと流れ、日々の喧騒を簡単に流し去った。わたしが居る場所だった。

 曜日によって客層が違う。晴れや雨などの天候でもすこし違う。その日は雨だった。わたしは傘をすぼめ、傘入れに放り込んだ。似たような取っ手の傘があり、心配になったがそのままにした。

 わたしは自分のバッグから文庫本を取り出す。誰かが読んだ冊数を長距離走の周回のように数えてくれていたらよかったのにと思う。わたしの分も。でも、その数字を知ったからといって何も変わらない。ただ、強い記憶としてのこっているものが最上なのだ。それも若さゆえの無知と傲慢かもしれない。

 会話も最低限の音量で保たれている。クラシックの日もあれば、ミシェル・ルグランの映画音楽がスピーカーから流れている日もある。父が聴くフリー・ジャズなど似つかわしくない。前衛も突飛さも探究も必要ない世界なのだ。みんな静かに本を読んでいる。同士たち。ついでにライバルたち。

 ある時間からはお酒もメニューに加わる。もちろん、それが最大の目的としてくるお客さんなどいなかった。どんちゃん騒ぎなどもっての外だ。ほとんどが常連さんで決まったような場所にすわり、決まったような注文をした。世界の動きと逆行している。そこがなつかしくもあり、魅力的だった。

 わたしは一時間ぐらいそこにいた。財布からちょうどの小銭を取り出す。時間のゆったりとした流れと同じく急な値上げなども考えられない場所だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 64

2015年05月22日 | 最後の火花
最後の火花 64

 進路ということで両親が会話している。母はなるべく将来に有利になるように気にかけ、父は普通のひとと同じことをして後は自分で這い上がれという信念があるようだった。当人のわたしの意見ではない。そもそも意見などない。野心もなく、反対にバカでいたくもない。ただずっと本が読めればいい。

 読まないと理解できないひとと、耳で聞かないと理解できないひとがいると父は言った。そのことが仕事の進め方に大いに関係があるそうだ。どんなに饒舌に説明されても読まないことには分からないひとに対しては無駄であり、どんなに時間をかけて手引きを書いても耳を頼りにするひとにとっては労力を捨てたようなものらしい。

「お父さんもビジネス書で学んでいるんだよ」と父は何気なく言う。「光子は読む人間だな」
「話もきくよ!」
「聞くより、話す方が多いじゃない」と母が揶揄する。しかし、そういう部分は母に似たんだと思う。

 妹はマンガを読んでいる。彼女は彼女で絵とかイラストで理解しているのだろう。トイレの男女のマークは便利である。非常口の看板。横断歩道。消火器や消火栓の赤い色。ひとは複数のもので個別に理解している。同時にいろいろなものを見落としてもいる。

 成長するための物語をさがす。「あすなろ物語」という本が並んでいた。横には、「しろばんば」があった。うちは本屋さんより品揃えが良いところもある。

 物語の少年は訳があって祖母と暮らしている。人質のようでもある。両親もそばにいる。だが、そのいびつさにもすっかり満足しているようだ。わたしは加藤さんの家に居候すると考える。加藤さんも夫の転勤とかでうちに通うことをやめてしまうらしい。それでも、後釜となるひとの手配をしてくれるひともいる。元締め。

 お婆さんはご褒美として直ぐ飴をくれる。その所為で、若いころからすっかり歯がダメになってしまったと自嘲している。甘いものは危険でもあるのだ。

 こういう男の子のことを考えてみる。両親とは違うひとと暮らして育った子。不幸なのか、幸福なのか分からない。愛情というものの深さを与えてくれるのは実の両親だけではないのかもしれない。同時にしつけと訓練も必要だ。無条件の愛、と大人びたことを口にする。そんなものは、でもないようにも思えた。

 部屋は加藤さんによってきれいに保たれている。別のひとになったらどうなるのだろう。この本の多さにびっくりするかもしれない。その反面、それほど賢くないことがばれて、恥ずかしい思いをするだろう。人見知りと淋しがりとなれなれしさと親しさの分量を比較する。

 制服が変わってランドセルを捨てる時期がいずれ来る。ひとには負けないようにと思いながらも絶対に勝てない部分があることを知る。可愛い子もいて、絵が見事なぐらいに上手な子もいる。足が速い男の子がいて、裁縫が上手な子もいた。わたしは不器用にできているようだった。ミシンの糸のラインはゆがみ、ボタンはたるんだ。宿題を加藤さんにしてもらう。ボタンは引き剥がされ、新たな定位置を見つける。

「いつか、男の子にしてあげると優しいと褒められるのよ」と加藤さんは言う。
「男の子も自分でしなきゃ」
「そうかもね。そういう時代になるといいわね」

 だが、実際はわたしはしてあげてもいいと思っている。ピーマンを克服したように、ボタン付けも克服する。習得して、習熟する。日本語はむずかしい。わたしはもっと本を読まなければいけない。

「光子は、将来、なんになるの?」と母が無邪気に訊く。
「分かんない、会社員かな?」
「夢がないのね」

 わたしには夢という観念がない。あるのは現実と目標だけだった。クラスでもこの質問をされるのが苦痛だった。男の子は野球の選手や、レーシング・カーを乗るとか言っていた。野球のコーチや、車を整備するひとだって立派だし、いないと困る。逆にいなければその社会は成立しないはずだった。こういう理屈ばかり考えているから、夢がなくなるのだろう。しかし、わたしの出るべきことばは頭のなかに納まったままだ。

「いつか、やりたいことは見つかるよ」父は暢気そうに言う。自分の実感でもあるようだった。

 わたしは医者にはなれないだろう。教授にもならない。トラックの運転手にもならない。花屋にもケーキ屋さんにもならない。女子プロレスラーにもなれない。自分の未来が限定される。作曲家。園芸家。着物教室の先生。自分は誰にも、何にもなれない気がして不安になる。

 自分の部屋で寝そべって本を読みだす。父はしわがれた声のおじさんのレコードをかけていた。サッチモというあだ名らしい。わたしも知っているディズニーの音楽を楽しそうに歌い、トランペットを吹いていた。世の中は悪い所ではないと思える。トランペットは男性の楽器。ハープや竪琴は女性の楽器。本のなかで若い女性教師は偶像視される。自分もパンツ姿ではつらつと教える姿を想像してみる。誰かが、悪くない世界だとその事実を思ってほしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 63

2015年05月19日 | 最後の火花
最後の火花 63

 友だちとハワイにいて浮かれている。空も青く、海も青く、身体は黒くなった。最初は赤くヒリヒリしていたのだが。

 飛行機のなかでおしゃべりをして、友だちが寝ている間は本を読んだ。アメリカの航空会社は働くひとを外見の美という観点だけでは採用していないようだった。旅についての本はたくさんある。わたしはアルコール飲料を飲み、目をつぶった。イヤホンのサイズが合わず耳が痛かった。気になるので取ると轟音がすごかった。耳栓を次の機会には持参しよう。忘れなければの話だが。

 離陸した飛行機は着陸する。わたしはいつもこのふたつの言葉で悩む。エスカレーターとエレベーターの違いも分からなくなる。

 国の変化は匂いの変化でもある。空港は独自の匂いをもっている。免税店の化粧品の匂いが我先に主張する。それから流れてくるスーツケースを待つ。荷物を解いてから水着を着てビーチで寝そべり、大きなステーキを食べた。

 どこかの夜は朝だった。地球は回転する。海は下にこぼれ落ちることもなく、逆さになっても意に介さない。わたしはそんなことを空想しながら、テラスに出て手軽な読みものである「悲しみよこんにちは」を読む。飛行機のなかで半分ほど読んでいる。自由というものはそのままで自由であると思いたかった。不自由になって代償を支払い再度、自由になる。だが、もう大らかな朗らかな自由はどこにもなくなってしまった。しかし、ここはハワイだ。アイスランドでもなければ、シベリアでもない。わたしは目をつぶって自由を謳歌する。好事魔多し、と無意味に口ずさんでみる。意味があやふやだった。良いことが中断されるのか、悪いことも早く過ぎ去ってしまうのか。家に帰ってから調べようと思った。まだ、覚えていられるかどうかも判断できない。

 夜のレストランで同じぐらいの年齢の日本人に話しかけられる。男性二人で旅行に来るのだから大の仲良しなのだろう。ひとりはユニークでおしゃべりで、ひとりは無口なタイプだった。わたしは笑わせてくれる快感に身を任す。

 出会っても会話をしなければ奥底までは分からない。ひとは表情だけでも情報を受け取れるが、話す内容、語彙の正確さと意味のぴったりとした一致、もちろん肉体上での声の質というのにも好悪があった。波の音は、不快感を与えない。わたしたちは海辺を散歩する。わたしのことを知っているのは、いまは友だちと彼らふたりだけだった。名前を伝え合い、わたしは学生という身分を告げる。それだけで充分だった。日本のどこかに家があり、家族がいた。将来というのもおそらく全部がそこにあるのだろう。

 友だちと無口な方は先に行ってしまう。話すこともなく自然と足が早まっているようだった。わたしたちは寄り道するように笑い合った。砂浜に前を歩く彼らの足跡がつく。規則正しい歩幅。同じところを歩くことはむずかしい。

 示し合わせたように、お互いの部屋に向かった。わたしはおしゃべり君がいる部屋に。炭酸のお酒を飲む。ジンだかウオッカをソーダで割ったもの。もう詳細な味わいも分からない。また理解する状況でもなかった。

 彼は服を脱ぐ。上半身が裸になる。密着すると毛もなく全体的に肌がつるりとしている。イルカを触ったときのようだ。

 朝をさわやかに迎える。着替えて食事をとって四人でクジラを見に行った。海という大きな場所で、丁度よいタイミングで出会う奇跡はどれほどの確率なのだろうか。そういうサービスが成り立っている以上、奇跡と評するには重過ぎる。日常というほどの簡便さではない。ここに来て、誰かと会って、愛し合って、いや、愛という一種の行為をして、翌朝にクジラを見ているという流れで奇跡と考えてみた。どれもこれも深い意味を与えようとしていた。

 何枚かの夕陽の写真を撮る。家族にお土産も買って旅も締めくくられる。彼らはまだ数日泊まる予定だった。鍵をかけることなどできない。また別の誰かを誘うことも考えられた。当然だと思いながらも、淋しくも感じる。東京にもどってもおそらく会わないだろう。わたしたちは荷造りをして、ホテルの鍵を返す。清算してバスに乗る。おしゃべり君はクジラに呑み込まれてみたいとバカなことを言った。わたしは笑いながらもクジラの主食を知らない。サメなら想像として簡単そうだった。

 パスポートと飛行機のチケット。それだけがもっとも重要なものだった。水着も、帽子も、ビーチサンダルも大きなタオルをなくしてもいい。これだけが必要だ。貞操という古びたことばをなつかしむように使ってみる。むかしの本に多用されている。それさえもなくしてもいい。現在の現実の等身大の女性。自分がそういうものだと仮定する。急にベンチで待っていると眠気を感じる。その誘いはずっと継続して帰りの飛行機のなかではほとんど眠って過ごした。着陸する。離陸したものは、日本の大地に着陸する。小さな人間に誘導され、扉が開く。家まで、まだ時間がかかる。わたしはあれから一度も会わなかった避暑地の男の子を突然に思い出した。肌がつるりとしているだろうか。草のなかでは蚊も多く、虫にさされた跡が無数にあるかもしれない。わたしは架空の微細なことに意味もなくこだわっていた。些事が人生であり、ハワイの海も同様に人生だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 62

2015年05月16日 | 最後の火花
最後の火花 62

 夏の避暑に来ている。父も仕事が休みだった。夏の空は青く、夏の雲は白かった。

 淡い恋というものをはじめて知る。自分の体内がドキドキしていることが分かる。分かったからといって取り除いたり、解決できたりするわけでもない。夏のスイカは赤かった。種をすべて取り除けない。わたしの気持ちといっしょだった。

 わたしは自分の服装が急に気になりだした。身長も伸びている。鏡を見る回数が増える。母は、「おませ」という旧式な用語をつかった。父は、「多感な頃が十年ぐらいつづく」と予言した。その時期に接する娘というものに抵抗がある口調だった。姉や妹がいない父なので、得意ではないのだろう。得意ではないということは即ち苦手に結びつくのだろうか。そう簡単に答えを出すこともない。

 荷物のなかに本も詰め込まれている。わたしは自分の夏とは別に、別の誰かの違う年代の違う季節の違う人生を仮に生きることになる。もちろん、宿題で感想文を書かなければいけない課題の本もあった。父がこの宿題は手伝ってくれるという約束を取り付ける。「言質」ということばをこの日に知る。後々の覆されない約束。刻まれる言葉尻。掟。その代わりにわたしも手伝わないといけないことができた。

 塀の柵をペンキで塗っている。塗り終わったところには小鳥は絶対にとまらないが、その寸前までは知らん顔をして後ろを向いて鳴いている。わたしも同じだ。気になる男の子が自転車で通り過ぎても、気にしないでペンキを塗っていた。なんだか労働をしている姿を見られるのは恥ずかしい。母は庭のベンチで大きな帽子をかぶり冷たい飲み物をストローで飲んでいる。日頃の疲れをいやすという名目だが、本当に疲れているのは加藤さんのはずだった。彼女はいない。近くにいるひとの料理を数日、食べることになる。去年もそうした。それは自転車の少年の母だった。

 夕方になり、その子が両手のうえに抱えるように料理を運んできた。資本主義というものをわたしは知る。彼の母はサービスを売り、父は代価を払う。明日の朝、また取りに来るそうだ。

 朝、わたしはのこりのペンキを塗っている。彼は歩いてやって来る。

「大変だね、お手伝い」と彼は声をかけた。
「そっちこそ」わたしは間違った返事をしたと思う。仕方なくペンキを刷毛にたっぷりと浸らす。
「そんなに浸ける必要ないよ」
「分かってる」
「分かってたらな」と言って彼は皿をもちかえる。背中を見る。セミの鳴き声がうるさい日だった。

 わたしは大きく開けた窓のそばで宿題をしている。外では父がゴルフのスイングをしていた。この近くのゴルフ場に明日、行くそうである。穴にボールを転がして終わり。少ない数で終わらせた方が勝ちだった。わたしも少ない時間で、少ない日数で宿題を終わらせたい。だが、油断をしたり、焦ったりすればミスも生じるのだ。兼ね合いが大事である。

 わたしはまた夕方に彼が来ると思っていたが、もう少し年長のお姉さんがやってくる。笑顔が可愛いひとだった。

「きょうは、ぼくは?」とわたしの母が訊く。
「スポーツの試合があるので泊りがけで出掛けています」と彼女は答える。それから親戚の家に泊まるようで戻ってくる日にちは、わたしたちがここを去ってからということになると付け足した。残念だった。わたしももっと笑顔で、可愛らしいことを言えばよかったと後悔する。来年になってしまう。わたしはもっと背が伸びているかもしれない。大女になる。不快なあだ名をつけられる。顔ににきびもできる。悲観というのは悲しいこころのやり繰りであった。坂を転げるように、わたしの運命は落下するのだ。

 それにしても、ご飯はおいしい。見知らぬ山菜も、野菜もおいしかった。母も習えばいいと思う。わたしの宿題と同じように枷が必要なのだ。だが、父はなにも言わない。だから、この関係性は正解なのだ。

 わたしは寝転がって本を読む。夜になると寒いぐらいに冷え込む。父は早起きするだろう。わたしは苦手だった牛乳が新鮮なのでまた好きになる。自分で卵を焼いた。誰もしてくれないと、自分でするしかお腹は満たされない。

 わたしは子ども向けの本の時期が終わろうとしていた。決意に似たものである。主役でありつづけようとして妹のことに微塵も触れていなかった。わたしは恋をして、もうすがすがしいまでのお姉さんになるのだ。

 松戸とか矢切とか聞き慣れない田舎が舞台の本があった。仲の良い姉と弟であった。わたしも弟がほしかった。わたしが焼いた卵を妹は簡単にまずいと言い、憎らしかった。母は妹のほうをより多く愛している。わたしは、今日こそ一人っ子であると考えることを誓うが、どうやら失敗しているようだ。

 本に戻ろう。ふたりの関係は大人になるにつれ邪魔が入る。世間の目とかさまざまな見えざる視線がふたりの未来をふさぐ。とうとう悲劇が近付く。会えないという状態はダメなのだ。決して許してはいけないのだ。そう思いながらもとなり部屋の妹の寝相が心配になって見に行くと案の定、布団を撥ね退けていた。わたしはまたかけてあげ、自分の部屋にもどって、一人っ子になった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 61

2015年05月14日 | 最後の火花
最後の火花 61

 別々の大学に通うようになって、なかなか会わなくなり気持ちも離れていった。どうしても会いたい、とか、毎日、彼のことを考えて眠れないという夢のような情熱も自然と薄れていった。置いたままで手のつけないコーヒーのように冷めていき、そのことは電話の回数も減って行くことで証明された。

 この気持ちが消えても、若さによる異性への執着がすべてなくなるわけでもない。だから、新しいパートナーが存在することになる。簡単な公式だ。

 大人になるというのは、敷居を低くすることなのだ。泥水でもない限りあっさりと飛び越える。しかし、前例がないということも子どもの弱さだ。新しい恋人は嫉妬深い性質をもっていた。わたしははじめはうれしいと思っていたが、直に戸惑うようになる。警察の取り調べというものも、もしかしたらこういう執拗さが前提としてあるのだろう。詳しくは分からないが。

 わたしは隠していることもないが、それでも、箱の隅まで入念に点検された。ほこりもチリもない。もしあったとしても、わたしの一体なにが分かるのだろう。それでも、総体的に彼の外見が好きだったので、しばらくは長所と短所を天秤にかけ猶予させた。

 わたしは同時にひとりになる時間を見つけて本を読まなければならない。嫉妬深い本。わたしは本棚の前に立つ。聖なる祭壇に向かうように。知識の祭壇。礼拝所。そのなかに、「オセロ」と「コレクター」があった。オセロはビデオであとで見ることにして、コレクターを引っ張り出す。

 これは綿密に分類すれば嫉妬ではない。入手することと、誤った手段ということだった。せっかく好きになったのに、ある性質によって、そのひとのことを自身で遠ざける結果になる。身から出た錆び。わたしは本に集中できずに、ぼんやりと自分の立場を、雨が降る窓を眺めながら考えていた。

 わたしのなかで複数の路線を並列に走らせるという思考が入り込んだのは、ここらに原因があったのかもしれない。ひとつの電車が終点に着き、掃除も終わって、やっと次の電車が走り出したら、大混雑になるだろう。新幹線も数分おきに走っているそうだ。恋は仕事ではないが、スムーズにいく仕事も、取り敢えずは次の駅まで走らせて、待機させておく必要がある。わたしは自分の浮気ごころを正当化させようとしていた。本命のひとに最後に会うまでは、この方法も理にかなっている。

 嫉妬から離れてしまった。わたしは両親と夕飯を食べる。ふたりの間にはそんな感情はもうないようだった。いまだからないのか、当初からなかったのか分からない。ライバルがいるから燃えるということもある。お父さんはもてただろう。母も黙っていれば、そのままで美人だ。やはり、あみだくじの当たりをつかむように蹴落としたり、追い抜いたり、ずるい策略も取ったのかもしれない。シード権もなければ。

 結論を急げば、好きという気持ちより嫌悪が増したため別れることにした。わたしは一方的に冷めたためサバサバしている。彼はその後、わたしの悪口を言いふらしている。あるひとは本気にして、またあるひとは撤回を求めて、もう数人は情報自体を遮断しているようだった。わたしは狭い世界にも嫌気がさす。だが、狭い世界に生きているのだ。

 優しくて、何事も許して甘やかしてくれるのが愛情なのだろうか。わたしはお箸の握り方も下手で、ナイフもフォークも器用に使いこなせない自分を想像してみた。自分の魅力というのが、いくらか目減りするだろう。別のなにかで補てんできる類いのものでもない。口紅の塗り方や、髪形で収支はトントンになるのだろうか。

「あの子から、電話ないのね?」母は梨を食べている。「次の子、名前、なんだったっけ?」そして、母は違う名前を述べた。わざとやっているんだと思う。わたしもいくつかの名前をそのうち思い出せなくなる危険もあった。しかし、それこそが幸福でもあるのだろう。

 ダイレクトに家族を介さなくても会話ができるようになればいいと思う。そのうち同棲をして家族の目も入らない。不安や心配は増えるのかもしれないが、それも親の役目だった。子どもの心配から断絶できるのは、死という境界の向こうにしかないのだ。わたしは本で読んだことの受け売りが得意になって、頭でっかちに信奉していた。まだまだ自分という個体の証明がないのだ。

 別れた彼と新しい女性が腕をからめて前から歩いてきた。わたしは目のはじで認めるが拘泥しない。束縛が大好きというタイプもいるのだろう。わたしは負け惜しみも段々と得意になる。レールには電車がとめどなく走っているはずだ。前の駅で電車は新しい長所を詰め込んでいる。どんなタイプが良いのだろう。生真面目なひと。本とか音楽に詳しいひと。楽器ができるひと。かけっこの速いひと。もうわたしはそんな年齢ではなくなっていた。

 わたしのことを本気になってくれるひとは逆にどういうひとだろう。東京のひと。田舎のひと。方言がときどき出るひと。淋しげなひと。朗らかなひと。彼の両親に挨拶して、気に入られるかどうかもう悩みたくなかった。すると、両親が事故やアクシデントで亡くなっていることが望ましい。わたしは頑丈な危険な扉を開こうとするのをためらう。すべてのひとが幸せであるべきなのだ。わたしは振り向く。もうそこにふたりはいない。リサイクルされる男性。そして、わたしも。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 60

2015年05月13日 | 最後の火花
最後の火花 60

「あの子、可愛いのに、中身はやんちゃなのね」と母は、わたしの友だちのことを評していた。わたしは一致と不一致ということを学ぶ。外見でひとは性格を予想する。裏切られるとがっかりして、同時にあるひとは思いがけなく褒められることになった。尊敬という高さも用意されているが、そこまではなかなかたどり着けないようだった。

 しばらくしてギャップということばも知る。やはり、内面と外見の不一致が容認し評価される所為でもあった。

「静かに本を読んでいて偉いわね」と、外で見知らぬおばさんに言われた。子どもは奇声を発して駆けずり回るものという先入観がどうやらあるらしい。わたしは猿ではなかった。考える猿でもある。

 代わりに母は子どもっぽくないと言った。しかし、騒ぎまわる子どもが何よりキライでもあった。わたしは帽子をかぶり父を待ちながら本を読んでいた。

 父はどこかへ仕事で遠出をしていた。早めに帰ってくるためわたしたちは大きな駅のそばのお店にいた。いっしょにお昼ご飯を食べようという約束だった。たまに外でナイフとフォークを静かに使う食事を試された。これも大人になるための訓練の一環だった。わたしを王女様のように接してくれる店員さんがいる。彼は微笑みを浮かべて対応できることによりお給料をもらう。ギャップということを考えれば、彼も家に帰ると違う人間になるのかもしれない。

「ありがとう」わたしは手元にジュースを運んでもらった際に、そうきちんとお礼を述べた。父のネクタイはいつもより緩んでいる。スーツケースは店のどこかに預けられた。母は泡の立っている飲み物を頼んだ。細身のグラスのなかで泡は上に急速に移動している。父はビールを飲んだ。午後の仕事はもうないようだった。

「よくここ来るの?」わたしはどちらに向かってでもなく訊く。
「光子が生まれる前はよく来たよ」父は感慨深げな表情を浮かべてそう言う。
「ふたりで?」
「そう、ふたりで」

 すると、三人分の料理が運ばれてきた。わたしは普通にお子様ランチのようなものを食べたかったが、許してはもらえなかった。この店に置いてあるのかも分からない。わたしはいくつかのフォークやスプーンを使って料理を食べた。
 父は赤いワインを飲みはじめている。仕事の話をめったにしないが、今日は成功という味覚の余韻に浸っているように寛いでいた。これで、父は欲しかったギターを買って、母のタンスの洋服が増え、わたしの本棚の隙間も減ることになるのだろう。だから、わたしもうれしくて満足だった。

「どうやって交渉するの?」
「もっと大人になって、いっしょにお酒を飲めるようになったら教えてあげる」

 わたしは将来の自分の姿を想像する。きれいなドレスを着ている。お酒だって飲めるようになるのだ。たくさんアルコールの種類があって、合うのと苦手なものが存在するだろう。父はもっと白髪が多くなる。ハゲているのはいやだなと思う。太ったお腹も厭だった。スマートでギターを弾くお父さん。そのままだったら格好いい。

 父のことを知り過ぎているのでギャップはない。だけど会社にいるときはもっと偉そうにしているかもしれない。反対に、臆病な一面があることも考えられる。ひとのすべては分からないのだ。

 また丁寧な様子で食事が済んだお皿が下げられた。最後にデザートが出る。バニラのアイスを父は食べ、わたしと母はケーキをそれぞれ食べた。散々、食べたが母は太ると困るといままでの時間を否定した。父はそう太っていないと本気かお世辞か分からない意見を述べた。これで家族は安泰なのだ。

 帰りに家のそばまで電車に乗って、そこから家まではタクシーに乗った。わたしは真ん中にすわり料金のメーターが変わるたびに数字を言った。母はたしなめ、父は笑った。

 家のまえで父が料金を払う。端数のお金を父は受け取らなかった。わたしはお小遣いとしてそれが欲しかった。

 父は服を脱いでお風呂場に向かった。加藤さんは休みをもらっている。もう夕飯の仕度もいらない。帰りにデパートの地下でお惣菜を買ってきている。

 父の鼻歌が聞こえる。厳粛な顔をもつ父は今日はどこにもいない。わたしはいつか大人になって仕事をして、満足する仕事をして、父とお酒を飲む。それから、鼻歌をお風呂場で響かせる。幸福というのはそんな情景だと思った。

 夕方、本を読みながらベッドで寝てしまった。起きると母は誰かと電話をしている。違和感のある余所行きの声。

 オオカミはベッドでおばあさんのフリをしている。鶴は人間になって機を織っている。カエルは善行をしたにも関わらず無慈悲にもお姫様に壁に叩き付けられた。ひとになったり動物になったり忙しい。お父さんも仕事をしたり、母に優しいことばをささやいたり、わたしにプレゼントを買ったりしてくれる。わたしも勉強をして、意地悪をかくして静かに本を読んで、見知らぬおばさんに褒められたりしている。母の余所行きの声は終わった。わたしもお風呂に入るよう階下から叫んだ。わたしは返事をする。この声が、優等生の口調であるよう願っていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の火花 59

2015年05月09日 | 最後の火花
最後の火花 59

 記念日が来る。プレゼントの準備をしなければならない。センスが普通に問われる。わたしは受験勉強のノルマから逃げるように本のページを開く。賢者の贈り物という悲観主義の最たるものがある。わたしは、このどうしようもないネガティブさが好きなのだ。相手のことを考え過ぎて、それぞれが悲劇を生む。小さな、かつ決定的な悲劇なのだが。

 わたしは長い髪を有していない。髪飾りというものにも嬉しさを覚えないかもしれない。健気な人間たちの健気なやさしさ。健気な思いやり。わたしは自分が物語の主人公のように振る舞う。

 でも、ほんとうは簡単だった。彼が欲しがるものを知っているのだ。リサーチ済み。仕事はそれなりの質問と、正確な回答のみで成り立っていた。裏の隠された気持ちなど考慮しなければ。その所為で、あれこれ思案する楽しみを奪われてしまったのだ。

 わたしはセーターが入った包みをもっている。大体のサイズは分かる。数値もある程度は知っている。男性には大まかなアルファベットの三つのサイズしかないが、肩幅と胸の厚みがそもそも女性と違う。裸も見たことがある。凝視することはできない。わたしには恥という感覚があった。いつまでもあるか分からないが、当面はまだまだありそうだった。

 わたしは手渡す。悲劇の要素はまったくない。彼はいまの服を脱いで直ぐに試してみる。大きさや小ささにも問題はないようだった。タグを切り離してそのまま過ごすようだ。古い愛用のものはもってきた紙のバッグに放り込まれた。わたしはうれしくなる。彼はここに来るまでに用があったので、わたしのものは部屋に置いてあるそうだ。彼の家に向かう。わたしは彼のお母さんに挨拶する。雌猫みたいな扱いをされているような気もする。これも被害妄想なのだろう。

 彼はわたしにカジュアルなバッグを用意しておいてくれた。わたしは持って身体を一回転させる。すると、彼のお母さんが部屋に飲み物をもってきて面食らう。にこやかに笑顔を向ける。母親にとって息子の恋人など減点の対象でしかないのだ。わたしの父も彼に会ったら同じような目を向けてしまうだろう。深い意識もせずに。

「きらわれてる?」と率直にわたしは訊いてみる。
「そんなことないだろう。大体が愛想が良いんだから」

 彼は部屋に鍵をかける。下で物音が大きくなった。母は態度と騒音で自分を主張する。わたしは反対に声を押し殺す。

 夕方も遅くなり、わたしは玄関で靴を履いて彼の家をあとにする。彼の母はもしかしたら髪飾りが似合うような長い髪のきれいな女性を待ち望んでいたのかもしれない。しかし、自分のことでも思い通りにならない以上、家族のことなどもっと掌握不可能なのだ。仕方がない。

 わたしは家に帰ってから、また長電話をする。それからいつものように夕飯を食べて、お風呂に入ってから寝そべって本を開いた。短編は油断すると個々の良さを味わい、堪能することもなくするすると読めてしまう。わたしは同じ作家の別の短編も読みはじめる。

 病院で入院していて生きる気力を失っている。葉っぱが一枚、さらに一枚ずつ木から離れて散ってしまう。最後になる。あれがもし散ってしまったら、自分の命も潰えるだろうと予測する。藁にもすがるという例えの通り、生命力があるものに依存する。結局、何かの作用によって葉はいつまでも在りつづける。その秘密は秘密のままにした方が良いのだろうが、最後には分かってしまう。ウソも方便なのだろうか。真実だけが貴いのだろうか。

 外では風が強いようだ。彼はバイトを今頃、しているのかもしれない。その帰りということもありえた。あのセーターは暖かいだろうか。彼の母は不注意で間違った洗濯の仕方をして一瞬にして縮まらせてしまうかもしれない。わたしへの愛もそのように急速に小さくなることも考えられた。だが、最後の一葉のように、わたしはしっかりとしがみつくだろう。厚い胸板に。

 わたしは今日の日記を書いて、引き出しの鍵を閉めた。わたしの濃密な女の部分がそこにある。誰かに見られてはまずい。

「部屋にあるバッグ、かわいらしい色だね。お母さん、ちょっと借りてもいい?」数日後、母が訊ねる。
「いいわけないよ」
「もらったの?」
「そう」
「センスがいいのね。もてるんでしょうね」

 わざと憎まれ口をきく母。わたしはイライラとする。その反面、誉めことばにうれしくもなる。犠牲と悲観という両極端の気持ちが一気に消えた。わたしは普通の十代の女性だった。大人未満であり、だれかの支配下にいることに満足のもてない年代になってしまった。

 わたしはお弁当を作る。母は子どものようにそれをつまみ食いする。味付けに意見までする。母の味覚は大人の舌で判断するしかない。濃さよりうすさ。甘さより、苦さ。喜劇より悲劇。

「遅刻するわよ」
「まだ、大丈夫だよ」

 玄関で靴を履く。自分の家では背中にじっと熱い視線を感じることはない。彼のお母さんはなにが好きなのだろう。わたしの名前を知っているのだろうか。わたしの美点や欠点に理解を向けてくれるのだろうか。何度、会えば。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする