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幼稚園の春。
まわりの園児たちはみな長いズボンを履いている。ぼくだけが、半ズボンを今年はじめて履いている。そのために数人の小さな女の子たちからヒーローのように扱われている。この単純さがなつかしい。
自分で履きたいと望んだわけでもない。ただ、出されたものに甘んじただけ。「もう、半ズボンの時期か?」と思ったかもしれないが、どう証明するかも方法は皆無である。
だが、ぼくはうれしかった。そのなかにはじめて好きになったであろう女の子がいたからだ。もちろん、そのことで一睡もできないという境地に行けるわけもなく、プレゼントの授受もなく、失恋を理由づけた仕上げの深酒もない。ただ好きなんだろうな、というおぼろ気なものがただよっているだけである。
しかし、この子が基準になったという仮定の証明だけは、この場で追及しなければならない。
おそらく、この輝ける地位にいる子も、お父さんの仕事の従事により近所の社宅に住んでいたのだと思う。あの辺だろうな、ぐらいしか具体的な居場所もつかみ切れていない。特定するにはデートの誘いに行ったというその後の対応を含まなければならず、その際に手渡す花束を購入するほどの小遣いももらっていない。ひとつの象徴的な姿の羨望なのだから、のちのちの発展もいざこざもなく、与えられたものとして、六才から八才ぐらいまでの彼女を思い出すことしかできない。まだ女性でもない。小さな物体である。色白で、大きな瞳の、黒髪で、うじうじとしていない性分らしい小さな生きる物体である。
このことがぼくのセンチメートルの幅を作り、キロやグラムを決めた。
誰かを好きになってしまう可能性など理解できないまま、そうなっているのだから誰かに製作過程でプログラミングされているのだ。進化というもので延々と、人類は美女を決定づける基準を伝達した結果であるのだと試案を模索すれば、間違いなく美女のもとも源流にいる行き止まりの猿である。ぼくが、猿の子孫を好きになる? なるわけないだろう。
母の胎内にいる。自分の好みがICチップに組み込まれていく。どこかで遺伝子を考慮すれば父が母を悪くないと思った時点で、この母的要素の影響と感化を避けることも不可能だ。すると、うじうじしない女性というのも頷ける。しかし、ぼくの育った地域の大雑把な包まれ方のようにも思う。
得られなかった彼女を求めるのが、この後のぼくの人生の意味ある目標だったのだろうか。いや、ただの基準のプログラムの微小な欠陥が再設定されているだけで、そう行動しないわけにはいかなくなるだけだ。色白で、目もぱっちり、自分を主張することをためらわないひと。はんだゴテで部品がひとつ加わる。レッツ・ゴー。
しかし、相手もプログラムされている。洋服にもバッグにもお金がかかる。じゃあ、それをたくさん有しているひとがトップ・ランナーだ。ある種の実業家。経営者。敏腕弁護士。
恋は妥協の産物であるべきか。遠泳であるべきか。半ズボン姿を褒められた機会を思い出したかっただけなのに、意図せずに、大げさになってしまう。
反対に、ぼくが最初に発した女性への賛辞のことばを思い出そうとする。いつ、褒めたのだろう? けなしたことなら簡単に思い出せそうだ。体質として、ぼくはスカートめくりをして嫌がる様子を欲する側だった。できれば、泣く寸前までいってほしい。だが、泣かないでほしい。先生に言い付けるから、と悲痛に叫んでほしいが、実行は望まない。すれすれにいる美学。なにを言っているのだろうか?
次の日になれば、ヒーローの座も陥落だった。みな、タンスから半ズボンを出してもらっている。王座も天下もあっけないものだ。ローマの次の皇帝が園の敷地の遊戯場で待っている。複数の視線と賛美という誉れ高き月桂樹を頭に頂いている。「ブルータス、お前もか!」と言いたいところだ。その名前を愛しい五、六才の女の子の名前に変えて。
女の子の名前の最後には、決まって「子」がついた。不可思議な名前は知りもしない水商売を匂わせた。園児が理解できるわけもないが、うしろ暗い口調で母がそう言っていた。
最初の子の話でもあった。彼女はいなくなる。みなが美人と認定するような子に化けたようなイメージをぬぐえない。もう半ズボンを履いても、誰も褒めてくれない。目標とする基準を替えることもなかったが、くさやだって美味であることには間違いないことも知る大人である。いつまでも卵焼きとウインナーでできあがっている年代ではないのだ。
弟は八才、年が離れていた。幼稚園の女の子と手をつないで歩いている。ぼくは大人になりかけの途中でその初々しい姿を見ている。まったく、バカバカしいものだ。恋の対象ですらない。当然のことなのだが。ひとりで風呂も入れない子にぼくは恋心を抱いたのだろうか。ひらがなでやっと自分の名前を書くことが精一杯な子たちを、ぼくは女性の最前列に置いたのだろうか。バカな日々である。ぼくは十五才で急に生み落とされたことに勝手にしよう。さらば、胎内。さらば、プログラム。さらば、美の基準とさきがけ。
むすんで、ひらいて。また、ひらいて。
幼稚園の春。
まわりの園児たちはみな長いズボンを履いている。ぼくだけが、半ズボンを今年はじめて履いている。そのために数人の小さな女の子たちからヒーローのように扱われている。この単純さがなつかしい。
自分で履きたいと望んだわけでもない。ただ、出されたものに甘んじただけ。「もう、半ズボンの時期か?」と思ったかもしれないが、どう証明するかも方法は皆無である。
だが、ぼくはうれしかった。そのなかにはじめて好きになったであろう女の子がいたからだ。もちろん、そのことで一睡もできないという境地に行けるわけもなく、プレゼントの授受もなく、失恋を理由づけた仕上げの深酒もない。ただ好きなんだろうな、というおぼろ気なものがただよっているだけである。
しかし、この子が基準になったという仮定の証明だけは、この場で追及しなければならない。
おそらく、この輝ける地位にいる子も、お父さんの仕事の従事により近所の社宅に住んでいたのだと思う。あの辺だろうな、ぐらいしか具体的な居場所もつかみ切れていない。特定するにはデートの誘いに行ったというその後の対応を含まなければならず、その際に手渡す花束を購入するほどの小遣いももらっていない。ひとつの象徴的な姿の羨望なのだから、のちのちの発展もいざこざもなく、与えられたものとして、六才から八才ぐらいまでの彼女を思い出すことしかできない。まだ女性でもない。小さな物体である。色白で、大きな瞳の、黒髪で、うじうじとしていない性分らしい小さな生きる物体である。
このことがぼくのセンチメートルの幅を作り、キロやグラムを決めた。
誰かを好きになってしまう可能性など理解できないまま、そうなっているのだから誰かに製作過程でプログラミングされているのだ。進化というもので延々と、人類は美女を決定づける基準を伝達した結果であるのだと試案を模索すれば、間違いなく美女のもとも源流にいる行き止まりの猿である。ぼくが、猿の子孫を好きになる? なるわけないだろう。
母の胎内にいる。自分の好みがICチップに組み込まれていく。どこかで遺伝子を考慮すれば父が母を悪くないと思った時点で、この母的要素の影響と感化を避けることも不可能だ。すると、うじうじしない女性というのも頷ける。しかし、ぼくの育った地域の大雑把な包まれ方のようにも思う。
得られなかった彼女を求めるのが、この後のぼくの人生の意味ある目標だったのだろうか。いや、ただの基準のプログラムの微小な欠陥が再設定されているだけで、そう行動しないわけにはいかなくなるだけだ。色白で、目もぱっちり、自分を主張することをためらわないひと。はんだゴテで部品がひとつ加わる。レッツ・ゴー。
しかし、相手もプログラムされている。洋服にもバッグにもお金がかかる。じゃあ、それをたくさん有しているひとがトップ・ランナーだ。ある種の実業家。経営者。敏腕弁護士。
恋は妥協の産物であるべきか。遠泳であるべきか。半ズボン姿を褒められた機会を思い出したかっただけなのに、意図せずに、大げさになってしまう。
反対に、ぼくが最初に発した女性への賛辞のことばを思い出そうとする。いつ、褒めたのだろう? けなしたことなら簡単に思い出せそうだ。体質として、ぼくはスカートめくりをして嫌がる様子を欲する側だった。できれば、泣く寸前までいってほしい。だが、泣かないでほしい。先生に言い付けるから、と悲痛に叫んでほしいが、実行は望まない。すれすれにいる美学。なにを言っているのだろうか?
次の日になれば、ヒーローの座も陥落だった。みな、タンスから半ズボンを出してもらっている。王座も天下もあっけないものだ。ローマの次の皇帝が園の敷地の遊戯場で待っている。複数の視線と賛美という誉れ高き月桂樹を頭に頂いている。「ブルータス、お前もか!」と言いたいところだ。その名前を愛しい五、六才の女の子の名前に変えて。
女の子の名前の最後には、決まって「子」がついた。不可思議な名前は知りもしない水商売を匂わせた。園児が理解できるわけもないが、うしろ暗い口調で母がそう言っていた。
最初の子の話でもあった。彼女はいなくなる。みなが美人と認定するような子に化けたようなイメージをぬぐえない。もう半ズボンを履いても、誰も褒めてくれない。目標とする基準を替えることもなかったが、くさやだって美味であることには間違いないことも知る大人である。いつまでも卵焼きとウインナーでできあがっている年代ではないのだ。
弟は八才、年が離れていた。幼稚園の女の子と手をつないで歩いている。ぼくは大人になりかけの途中でその初々しい姿を見ている。まったく、バカバカしいものだ。恋の対象ですらない。当然のことなのだが。ひとりで風呂も入れない子にぼくは恋心を抱いたのだろうか。ひらがなでやっと自分の名前を書くことが精一杯な子たちを、ぼくは女性の最前列に置いたのだろうか。バカな日々である。ぼくは十五才で急に生み落とされたことに勝手にしよう。さらば、胎内。さらば、プログラム。さらば、美の基準とさきがけ。
むすんで、ひらいて。また、ひらいて。