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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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悪童の書 al

2014年09月15日 | 悪童の書
al

 幼稚園の春。

 まわりの園児たちはみな長いズボンを履いている。ぼくだけが、半ズボンを今年はじめて履いている。そのために数人の小さな女の子たちからヒーローのように扱われている。この単純さがなつかしい。

 自分で履きたいと望んだわけでもない。ただ、出されたものに甘んじただけ。「もう、半ズボンの時期か?」と思ったかもしれないが、どう証明するかも方法は皆無である。

 だが、ぼくはうれしかった。そのなかにはじめて好きになったであろう女の子がいたからだ。もちろん、そのことで一睡もできないという境地に行けるわけもなく、プレゼントの授受もなく、失恋を理由づけた仕上げの深酒もない。ただ好きなんだろうな、というおぼろ気なものがただよっているだけである。

 しかし、この子が基準になったという仮定の証明だけは、この場で追及しなければならない。

 おそらく、この輝ける地位にいる子も、お父さんの仕事の従事により近所の社宅に住んでいたのだと思う。あの辺だろうな、ぐらいしか具体的な居場所もつかみ切れていない。特定するにはデートの誘いに行ったというその後の対応を含まなければならず、その際に手渡す花束を購入するほどの小遣いももらっていない。ひとつの象徴的な姿の羨望なのだから、のちのちの発展もいざこざもなく、与えられたものとして、六才から八才ぐらいまでの彼女を思い出すことしかできない。まだ女性でもない。小さな物体である。色白で、大きな瞳の、黒髪で、うじうじとしていない性分らしい小さな生きる物体である。

 このことがぼくのセンチメートルの幅を作り、キロやグラムを決めた。

 誰かを好きになってしまう可能性など理解できないまま、そうなっているのだから誰かに製作過程でプログラミングされているのだ。進化というもので延々と、人類は美女を決定づける基準を伝達した結果であるのだと試案を模索すれば、間違いなく美女のもとも源流にいる行き止まりの猿である。ぼくが、猿の子孫を好きになる? なるわけないだろう。

 母の胎内にいる。自分の好みがICチップに組み込まれていく。どこかで遺伝子を考慮すれば父が母を悪くないと思った時点で、この母的要素の影響と感化を避けることも不可能だ。すると、うじうじしない女性というのも頷ける。しかし、ぼくの育った地域の大雑把な包まれ方のようにも思う。

 得られなかった彼女を求めるのが、この後のぼくの人生の意味ある目標だったのだろうか。いや、ただの基準のプログラムの微小な欠陥が再設定されているだけで、そう行動しないわけにはいかなくなるだけだ。色白で、目もぱっちり、自分を主張することをためらわないひと。はんだゴテで部品がひとつ加わる。レッツ・ゴー。

 しかし、相手もプログラムされている。洋服にもバッグにもお金がかかる。じゃあ、それをたくさん有しているひとがトップ・ランナーだ。ある種の実業家。経営者。敏腕弁護士。

 恋は妥協の産物であるべきか。遠泳であるべきか。半ズボン姿を褒められた機会を思い出したかっただけなのに、意図せずに、大げさになってしまう。

 反対に、ぼくが最初に発した女性への賛辞のことばを思い出そうとする。いつ、褒めたのだろう? けなしたことなら簡単に思い出せそうだ。体質として、ぼくはスカートめくりをして嫌がる様子を欲する側だった。できれば、泣く寸前までいってほしい。だが、泣かないでほしい。先生に言い付けるから、と悲痛に叫んでほしいが、実行は望まない。すれすれにいる美学。なにを言っているのだろうか?

 次の日になれば、ヒーローの座も陥落だった。みな、タンスから半ズボンを出してもらっている。王座も天下もあっけないものだ。ローマの次の皇帝が園の敷地の遊戯場で待っている。複数の視線と賛美という誉れ高き月桂樹を頭に頂いている。「ブルータス、お前もか!」と言いたいところだ。その名前を愛しい五、六才の女の子の名前に変えて。

 女の子の名前の最後には、決まって「子」がついた。不可思議な名前は知りもしない水商売を匂わせた。園児が理解できるわけもないが、うしろ暗い口調で母がそう言っていた。

 最初の子の話でもあった。彼女はいなくなる。みなが美人と認定するような子に化けたようなイメージをぬぐえない。もう半ズボンを履いても、誰も褒めてくれない。目標とする基準を替えることもなかったが、くさやだって美味であることには間違いないことも知る大人である。いつまでも卵焼きとウインナーでできあがっている年代ではないのだ。

 弟は八才、年が離れていた。幼稚園の女の子と手をつないで歩いている。ぼくは大人になりかけの途中でその初々しい姿を見ている。まったく、バカバカしいものだ。恋の対象ですらない。当然のことなのだが。ひとりで風呂も入れない子にぼくは恋心を抱いたのだろうか。ひらがなでやっと自分の名前を書くことが精一杯な子たちを、ぼくは女性の最前列に置いたのだろうか。バカな日々である。ぼくは十五才で急に生み落とされたことに勝手にしよう。さらば、胎内。さらば、プログラム。さらば、美の基準とさきがけ。

 むすんで、ひらいて。また、ひらいて。


悪童の書 ak

2014年09月14日 | 悪童の書
ak

 カバンに重しを乗せて、用途に沿わないぐらいに薄くしている。その苦労もつかの間、三本線の入ったスポーツ・バッグを肩にかけ通学している。中味はシャーペンが一本と消しゴムひとつという至ってないほどの身軽さ。ノートなんかなくてもすべてを覚えられる厳かな自信。いまはそれもきれいさっぱりと廃れ、メモ帳の山を自分の周囲に置いている。そもそも、自分の名前は? おそろしいものである。「ほら、あれ?」

 先生たちが身なりを門番のように立ちはだかりチェックしている。関所である。ぼくらは住宅に隣接している壁を飛び越え、そのまま門を通過せずに教室にもぐりこむ。ある日、ぼくの遅刻の回数を見せられて驚愕する。一年のうちの早い途中段階で三桁ぐらいに膨れ上がっている。これも、いまは時間厳守を信条としている。遅刻なんかは病いのひとつなのだ。どうやっても根治できない。しかし、ぼくはした。子どもは眠いものである。

 体操着を数枚、余分に買ってもらってYシャツの代わりに着ている。母のアイロンの手間も省ける。大体が孝行にできている。この方が清潔でもあり、気楽でもあった。上はコットンの半そで、下は学生服のズボン。テレビなどで見るヘルメットをかぶって自転車で通学して、役所のひとの袖の黒い覆いの論理のように教室に居る間はジャージで過ごそう、という野暮な類いのものではない。田舎はおそろしいところだ。

 反対に田舎の医者の診療時のカバンように、または会計士や監査員の仕事帰りのように分厚いカバンをいとわない人々もいた。頑張ったからには賢くなる。クールというのは勉強したそぶりすらないことだとも思っている。額の汗は勲章にならず、愚かなレッテルと化す。生意気なものだ。

 もうひとつ前の年代の学校時代。暗黙のルールとして男子は大きなものにつかうトイレの個室に入り、疑われるようなことさえしてはいけなかった。ぼくらは固く閉じられた一室を叩いたり、蹴ったりする。その際の咳払いで、となりのクラスの先生であることを耳で確認する。走るのだ。逃亡をなんどすれば大人になるのだ。

 大人になる途中でその恥も見栄も見事に霧散する。牛乳も敵の一味になった。あんなにガブ飲みした時期が愛おしくて、なつかしい。ぼんやりとトイレの場所を把握している地下鉄の構内。さすがに壁を飛び越えることまではしない。

 カバンには音楽の携帯プレーヤーがあって、電話があって、入館証がある。大人はさまざまな拘束下にいた。身分証の提示を求められる機会も多く、複数の自分の身分や立場が証明できるものもある。

 みなが自分を知っている。学校という場所はそういうところだった。自己紹介も必要ない。反対に、先入観とレッテルが渦巻く世界である。誰も、その深い海から抜け出すこともできない。

 存在感のうすいひとも稀にいる。特徴がないということが隠れ蓑になる。目立つということは楽しいことであった。一目置かれ、軽んじられることもない。小突かれることもなく、金をせびられることもない。大人しいということは敵の目から見て弱点をあらわにすることだった。なんとしても避けなければならない。

 となり町に絶世の美女がいるといううわさがひろまる。源氏物語のような世界である。反対にケンカに強い大男がいるといううわさも立つ。目の前にすれば、ぼくと変わらない身長だった。ぼくは恨みもないのに殴り合いをしている。有利にすすんでいる。あわや勝ちそうになる。このままなら、ぼくの伝説が生まれてしまう。彼の先輩が横にいて、負けたら許さないとセコンドのように叫んでいる。ぼくはここで運をつかうべきでもなく、また彼の面子を生かすことも大切だと思い、さらにこの境遇しかない自分のあわれさを思い、結局は負けることにする。本物の大男は別の町にいて、イキガッテいる同級生の矢面に立つ役割が、なぜか自分にまわってきた。

 となり町の絶世の美女を口説いた方が楽しそうだが、ただ、受け入れるのは頬の痛みだけである。拳というのは狂気にもなり得る。この町と周辺で名声を得るというのは、つまらない方法しかなかった。

 数年後、居酒屋にいる。一学年後輩のとなり町の男性がいた。かなり酔っている。結果としてからまれる。ずっと聞こえないフリをしていた。大人の対応だ。

「兄貴が強かったから、お前も、イキガッテるんだろう!」

 という禁断の言葉を彼は吐く。ぼくは腹を立て、久々に暴力で解決することを願う。しかし、ぼくは味方である友人たちから羽交い絞めにされ、袋叩きに遭う。自分の評価を下げてしまう瞬間だった。だが、取り調べもなく、いくつかのグラスや皿が割れたぐらいで穏便に終わる。彼はどこかに消え、二度と会うこともなかった。

 やんちゃな世界である。美女などもいるはずもなく、血気盛んな若者がいただけであった。拳でしかアイデンティティーを表明できない愚かな群れであった。もう少し、まっとうな社会で育ちたかったと思うが、この地にいながら、ケンカと無縁でいられた仲間もいたのだろう。いまでも、スポーツでガッツを見せない集団に腹が立つ。これも、三つ子の魂の呪いであった。衣服と肌の間あたりに無言でとどまっている何か正体不明らしきものの切なる主張でもある。


悪童の書 aj

2014年09月13日 | 悪童の書
aj

 約束を反故にする。誰に教えられたわけでもないが、自分は契約を守る方である。

 過去の自分の素行台帳らしきものの中から、数百ページに亘るノートのひとつひとつの記述を点検して、自分がしでかしてしまったことを発見する。偉大なる人間賛歌の声を有したサッチモでさえ、子ども時代には悪さをしたのだ。自分だけが、善の領域だけで暮らすこともできない。だったら、産み落とさなければいい。こうして、責任転嫁という美学を押しつけるのだ。インキで塗りつぶすこともなく。

 だいたいは可愛い子から片付いた。彼女たちは恋に破れても、次第に変遷の時代に入る。バトンやタスキは次につながるのだ。だから、自分がいっしょに歩く女性も可愛い子の選べる候補から順々と格下げしていく。友人たちの目を意識している。彼らが驚いたり、失笑したりしない範囲までが先頭集団だ。

 生きた血の通った人間が、これまで書けているだろうか? ずるさをきちんと表現しきれているだろうか。

 ぼくは家にいて、電話をしている。あまりにも暇だった。会話の相手である彼女の主張はオブラートに包んでいながら、しかし、ときに故意に破きながら、ぼくのことを好きだと伝えている。ぼくは関心がない。彼女は先頭集団にいない。だが、会う約束をしてしまう。場所は彼女の通っている高校の近くだったと思う。

 ぼくは天秤にかけている。どうやら、ひとりでは来ない様子だった。ならば、彼女の友だちに可愛い子のひとりやふたりはいるかもしれない。ぼくも自分という商品を不特定多数の目にさらさなければならない。

 ぼくはその間に友人たちにこのことを言う。彼らは総じてきょとんとした顔で、だが、無言で、「なんで?」ということばを発する口になるようすぼめた。

 可愛さを有しないということは罪なのか? ぼくは自分の設定をうまいこと変える。友人たちを非難する側にいるが、結果として簡単に約束したことを決行しないという荒業で打ち返す。やはり、足を運ぶには、こちらにはメリットがなにもない。

 その後、電話もかかってこない。それっきりである。そして、自分の悪行を書こうとして、あっさりと尽きてしまった自分の脳が、都心でわざわざ温泉を見つけようと深くまで掘削して発見したように、このこともチロチロと数滴の生温かいお湯として自分のまえにあらわれたのだった。

 もっと、みんなも悪いことしてるだろう? というのが居直った自分の態度であった。

 ひとりの若い女性のこころの傷など、直ぐに癒えるのだ。しかし、どこかに反省を要するものとしてこころに荷を置いている。はじっこでも。

 来ないということは簡単にいえば興味がないという本心のあらわれだった。うすうす、来ないという方にも彼女の友人たちも賭けていたのではないのだろうか。

「あれ、どうしたの?」と、友人たちに経過を訊かれたようにも思う。
「あ、行かなかったよ」即答に近い、秒にもならない間に言ったはずだ。
「当然だよね」彼らの顔はそう無言で語っていた。女性の性格など二の次だった。

 だったら、女性たちも同じような判断基準をもちだしていないだろうか? 話をすりかえる。「二枚目」という表現でイメージを共有できるそもそものことばは意外とすたれないと驚きつつ、さらに常に選択肢のひとつでありつづけ、「やっぱり、最後は金目だろう!」と、どこぞの政治家のように、自分の財布の中身をきちんと予想できる女性たちにしっぺ返しを喰らう。

 彼女の頭脳は成績ということで判断すれば、優秀な方だった。どちらかというと、ぼくを好きになった数少ないひとは、そういう範疇にいた。頭脳と外見は敵対し、反目し合う関係にあった。アインシュタインの脳に、マリリン・モンローの外見は不可能な組み合わせである確率が高い。でも、稀にいる。ぼくの前にも数人いた。ぼくは野良犬でありながら、愛犬という座敷での居住をのぞみ、千切れるまで熱烈に尻尾をふる。しかし、尻尾の付け根に赤チンをつけるぐらいが関の山だった。ぼくには呪いが課せられている。

 ぼくに似ている下級生がいたので、ぼくを思い出して電話をかけたと彼女は言った。ぼくもその下級生の姿を知っている。似てるのかな? という疑問が当然の如く湧く。しかし、ぼくでなければダメというギリギリの求愛を彼女は自分自身で遠去けてもいる。十代の女性のシャイさでしょう、と応援団はいうかもしれない。しかし、根本的にシャイは男性の領分である。厚かましさが女性の持ち分であり、ベッドできるコインでもある。

 ルーレットは回る。どこに転がり落ちるかは分からない。赤か黒。ぼくらは賭けに参加するために電話をした。ぼくは詩のようなものをもらう。ホイットマンぐらいに優れていたら、ぼくの評価も転じたのだろうか。十代の野獣に劣らない若者が、外見以外のものを考慮することもなかった。一般論にしようとしているが、やはり、このぼくがということだ。

 ぼくの目に賭けたひとは少なかった。振り返ってみれば知っている。もちろん、事前に分かっていれば八百長であり、インサイダー取引でもある。絶対にしてはいけない事柄たち。ぼくのしたことは絶対という境地までは達しない。おそろく、傷つけた、傷つけられたこころがあることも関係したふたりは知っていながら、インフィールドフライぐらいのあいまいなルールのすき間にポトリと落ちる。賭け金も持ち主の手元にそっくりそのまま返された。ぼくには当然、誰に気兼ねすることもなく二次利用する権利があった。借用書もいらないし、付け加えると、もし、学習しなかったならばという奇異な正当化内に限るが。


悪童の書 ai

2014年09月12日 | 悪童の書
ai

 サルのように木にのぼり、ビワを食べている。どこかでこの果物はわざわざ買うものではないと思っていた。小学校のうらの家で。絶対に無断で取っていたことはばれていたはずだが、一度も注意されたことはない。どうせ落ちて無駄になるのなら、腕白な小学生の腹のなかにでも収まった方が良いとでも考えていたのだろうか。

 それでも、食卓にも並ぶ。比率として種の大きい食べ物だった。このころには存在もしらないアボカドというのも、種の存在感は強かった。改良される世の中なのに、まだ手つかずにいる。

 風邪を引いて寝ている。一人暮らしの部屋。あの部屋、好きだったなと初恋の女性を思い出すように甘美な印象しかない。更新もしないで引っ越してしまった。どちらも戻れない日々だった。

 友だちの母親がイワシのつみれ汁を作ってくれる。好物のひとつだ。骨も一切なくなり、それでも感触としてはのこっている。前述の果物とは大違いである。忘れていたが、祖母のお手製のものも好きだった。あれが愛情の結晶のようにも思う。もうふたりに頼むこともできないだろう。帰れない日々である。

 なめろうと落花生の国、と軽蔑感をにじませ、となりの県を馬鹿にする。埼玉の三郷という場所と千葉の松戸からの侵入を看視し、守っている地域だ。砦なのである。

 美しい物語は、「手児奈」さんの悲劇と、「エロスとプシュケ」の邂逅の話に尽きると思っている。言い寄られるという恍惚感を実体験できない自分は、ハンサムなアイドルの容姿を仮にもっていたら、毎日、ナンパしに行くというつまらない発想しか浮かばない。じっとしていても来るものは来るのであった。断るというのが苦手な自分は、それも大変だろうな、とポケットで皮算用をしていた。もちろん、預金は空である。

 市川というところで、ソロバンの試験を受けている。内弁慶であった自分は本領を発揮できずに合格から程遠い。実力のパ・リーグであった。

 兄と弟はスイミングをして、ぼくはソロバンを習っている。この母の取捨選択はどこから来たのであろう。それで数字に拘泥する自分ができあがる。試験場であった大学の机は傾斜していた。その異なった感触と、周囲の雰囲気に完全にのまれている。アウェーということばを大人になって知る。また常連というものになっていることを好む面々も知っている。口を開かなくても一杯目の飲み物が目の前に出てくる。飽きっぽい自分は、そのお任せになじめず、反対に平気でいるひとのどっしり感に圧倒される。

 そろばん塾では、優等生であった。生徒内でテストがあり、一位になったりもする。自分の名前は普通の読み方ではないので、いつも間違って呼ばれた。訂正する気もない。相手は権力者である。こういうことがずっとつづけば、真実というのは決してひとつとは限らないと頭のなかにインプットされる。大げさに考えすぎるきらいがあるが。家族も友人もあだ名で読んだ。ぼくは女性の名前を言うことをためらう。できれば、「ねえ」ぐらいでごまかす。相手は声の届く範囲のそばにいるのであった。

 と書きながらも、ソロバンには常に真実はひとつしかなかった。正解がいくつも、無数にあったら採点もややこしい。哲学やそれぞれの宗教観とは別の類いのものだから。この二律背反の世界にいる。数字を取れば世界はきっちりとして、物語の結末はどうすることもできた。ツーアウトの裏の攻撃である。

 しかし、自分が書いたものを時間が経って読み返すと、もうそこには自分の体臭がなかった。共有の財産、または債権になっている。それを他人事のように読む。結末をどうするか試行錯誤したはずなのに、もう成長した子どものしつけの失敗など、やり直すことはできないのだ。自由に泳げる少年時代は、もうぼくには訪れなかった。木の珠を前後に弾かせるしか、ぼくにはないのだ。

 そのなつかしの大学の構内のプールサイドでジャズを聴いている。管楽器がいくつも並んで奏でる音はいつでも爽快である。野外であることはもっと魅力を増した。1プラス1以上のものがある。無限大だ。ソロバンを習っていた子が是認する話ではない。否定すべき現実である。しかし、事実は事実だ。

 ここに来る前の電車内で、むかしの同級生に会った。きれいな女性であった。同じくぼくの同級生と結婚していた。子どもがふたりいる。誰々のママと普段は存在をあやふやなものとして呼ばれるらしいが、ぼくはいまだに旧姓で呼ぶ。それで訓練されたのだ。いまさら変更も利かない。

「同窓会で再会したときに、なんとなく、このひとと結婚すると分かった」と彼女は言う。ぼくは安堵する。未来は決まっているのだ。予感をバラの花びらのようにすすむ歩幅に合わせ、ばら撒いてみる。彼女には起こったのであり、ぼくは誤って踏んでしまった。そう望んでもいた。

 音楽は終わる。落花生の国にいる。駅前で酒を飲む。灘の酒だった。ぼくは関西も知らない。いつか行かなくてはならないと考える。東京の外れで暮らした。暮らし過ぎた。この基準は果実の種のように自分の体内で大きく膨らんでいる。もう引き抜くことも、取り除くこともできない。世田谷辺りで医者の次男として生まれた自分を想像する。確実に未来は別のものになっていた。そこにもサルのようになれる木が植わっているのだろうか。そろばん塾もあったのだろうか。もう判別することもできない。何度もターンをしてしまった。このプールで。



悪童の書 ah

2014年09月11日 | 悪童の書
ah

 ある会社で仕事の紹介をしてもらっていた。三十二才のときだ。夜も用事があった環境にいたため、残業が多いという一点の消極的な理由を打ち消せずに、熟考もなくあっさりと断ってしまう。新しい仕事をして数か月のころだった。ただ、それを黙々とつづければいい。だが、コール・センターなので「黙々と」という表現は、いかにも不釣り合いだった。

 前の職場でいっしょだった女性が近くで働きだしたので、また会ってお酒でも飲みましょうといううれしい誘いもあった。だが、夜の用と同じ理由と掟で、ふたりで深い関係になることを避け、その提案もみすみす見逃してしまう。ぼくは、いろいろと自由ではなかった。

 だが、いまになって振り返ると、その後、かなりの期間を過ごす羽目になる知人とこの時期に会っていたことになった。あのとき、別の会社に移動していたら? 数か月間だけの顔見知りの打ち解けない相手と連絡を取り合うこともしない。ひとは選んでいないようで選んでいる。また、選んでいるようで、みなこぼれてしまう。

 最初からこういう紹介はどうかとも思うが、大切な一本の糸、中心となる太い柱を抜くだけでバラバラになってしまう不安があるので、やはり、ここからスタートすることにしよう。

 彼は一本の指を失っている。それを元手にハンディ・キャップの認定をある日から受けている。なぜか、美術館や博物館でも効果が有り、無料で、あるいは割引して入れるパスにも早変わりする。誰よりも、大酒のみで、大食漢(ある日を境に、貴重な花瓶が割れるようにこれは失われた。加齢、憎し)で、カレーライスが好きなのに。健康で、顔色もいいのにである。代償というのはむずかしいものだ。

 さらに付き添いも一名は無料でどうぞ! ということになる。健康で大酒のみがふたりなのにである。ぼくは恩恵にあずかる。世の中の仕組みと抜け穴を考えている。さすがに生活保護の受給のノウハウまでは、考えも浮かばない。悪童になりきれなかったのだろうか。意気込みが薄かった。決意も弱かった。軟弱な男であった。

 結果として、絵を見終わったあとに酒を飲む。安酒場の入口の敷居は、ぼくらにとって低かった。かなり地盤沈下もしていた。

 酔って、よからぬ立場に身を置いたこの書の目撃者として、彼がいたことも少なからぬ機会ある。大体が、ぼくが迷惑をかけている。そのことに反省も悔恨の情もない。だから、継続して付き合えるのだろう。いつか、ぼくのことでインタビューでも受け、ささいながらでも収入を得られればいいが、そんなことは未来永劫、起こらない。だから、今後も迷惑の利息だけが着実に増えていくのである。

 ふたりで大阪に行った。大雨が急に振りだしている。泊まっているホテルに向かう。屋根のあるアーケードも終わりに近付いている。すると、ぼくの目の前に風の勢いでするすると流されている透明のカサが、持ち主を求めるように突然あらわれて止まった。モーゼの反対である。ぼくは足元からそれをすくうように持ち上げ、上空に差した。ホテルまで濡れずに済んだ。ひとは、どうでもよいことを記憶している。そして、雨男というレッテルをなすりつける方法を模索する。

 彼はルールを作る。ひとり一万円で、電車の乗り放題のチケットを買い、九軒の酒場で千円を元手に飲み歩く。大人の遠足である。一杯とつまみもそれぞれひとつぐらいだ。ある新宿での一軒は明らかに最初に頼むつまみの量と品目が少ないため不服そうであった。原則の遵守は厳しい対応が待ち受ける、という世の中の鉄則を酒場で教えられる。

 都内は広かった。荻窪があり、蒲田があって、赤羽にも到達した。この無意味な、役に立たない、生産性のまったくない一日をぼくは甘美に追憶している。

 彼の話を聞く。ありもしない仮想敵をつくって、けん命に戦っている。どこが、勝利で、どこが敗北に達するのか明確な基準がない。向上心とも呼べたし、現状の不満の打破にすぎないともいえた。ひとは、どうでもいい内容でも無心にもがけるのだということを教えてもらう。あるいは単純におぼれるひとの悪あがきともいえた。救出の浮き輪を出すも、出さないもこちら側の勝手であった。いつの間にか、ずぶ濡れで地上のどこかの波打ち際にいた。頭だけは直ぐ乾くようにできていた。喉が渇けば、また何か飲めばいい。

 こうして友人を、書く題材がなくなったために売る。完膚なきまでに。いや、そんなことは不可能だ。しかし、生き残るのは当人ではなく、この文章である。サーバー内だけに永続する命があった。

 その後、彼の車で成田に行く。もう、白いご飯におかずとなる何かをのせ、ぶっかこむという作業が、食欲としても美学としても、ぼくは受け付けない身体になっていた。この理屈を実証すれば、冷えた日本酒に、手の技が利いた赤貝が最高のタッグである。あなたの赤貝を。

 ある日、ぼくは自分が時間を過ごした酒場を回顧するため、ネットで店名や場所を検索している。見慣れないブログを発見する。もしかして、彼は? この書き手は? せっかく成田にまで行ったのに、ウナギも食わずに参道を通り過ぎてしまったことを嘆いている。なんだ、この不満タラタラの主張は。

 ぼくは友人をひとり失ったのであった。

 この事実をおもしろおかしく伝達する方法と機会を探している。すると、次も生まれてしまう。やっかいな関係であった。ワールド・カップが三、四回も開催された期間の話である。異性との関係であればとっくに潰えていた長い時間になってしまった。


悪童の書 ag

2014年09月10日 | 悪童の書
ag

 キックボードのようなものに片足を乗せ、土手から連なる坂道を走っている。かなり急だった。だから、楽しかった。そして、数回目には、左側に曲がる二つ目の坂道の途中で転倒する。キックボードだけ先に進み、壁に衝突した。塀の向こうは墓地だった。後頭部が固い地面に強く叩かれる。何度か聞いた死ぬ前の大事故のときに走馬灯のようにそのひとの過去がフラッシュ画面のようにあらわれるということも経験する。だが、死者に口はないはずなのに、なぜ、そう伝えられているのだろう。

 ぼくは坂道で七、八年に満たないが、自分の過去の略歴を目にする。しかし、失われた記憶も多いが、こうして現在ももちこたえているものも多くあったので大したことはなかったのだろう。おそらく、タンコブぐらいで済んだはずだ。病院にも行かず、もちろん、精密検査もない。あそびは続行する。

 その友人たちと小さな公園でボール遊びをしている。柳の木の下にボールが入ってしまう。ぼくらはルールを作っている。柳の下では息を吸ってはいけないのだ。ひとりの友人はその言いつけを守れず、泣き出してしまう。破ったとしても、ぼくらに罰則を行使するほどの権限もない。無邪気なあそびも涙で終わる。

 このことを教訓にするわけでもないが、バカなひとの定義をぼくはつくっている。ありもしない勝手なルールを作り、そのことを守るために自分も、さらに周囲のひとにも強要し、汲々とさせるひとと定義する。当人は、その不可解なルール下にいることに不満すら見せず、金星まで通じるリニア・モーターカーを発明したかのように自慢気である。なるべくなら、かかわりたくない。ぼくがこころに持参している透明な額縁にぴったりとはまれば等しく追放である。そして、過去を振り返れば、ぼくら友人たちは間違いなくバカであった。

 その公園のそばに柳事件の片方の友人が住んでいた。ひとを笑わすことに秀でているひととして彼がはじめて目の前に登場する。そういうタイプの常として、ときにやり過ぎ、うっとうしい一面があった。ぼくは大好きだったが、同じクラスの女子たちは、ときに迷惑そうな顔をした。手加減も加えずに。ひとは個別な特技があるものなのだろう、ということも教えてくれる。笑わすことができなくても、足が早いとか、お小遣いが多いとか、出口はさまざまである。

 大人になったときに何になる、ということも答えを要求される質問だった。あるときは、「野球選手」であったり、「マンガ家」になったりした。でも、どちらも最小公倍数からの選択であって、ぼく自身はほんとうになりたかったのかどうか胸に問い質せば、違うような気もする。では、何になりたかったかと追求すれば、いまだに分からないというのが事実である。さびしいものだ。

 この友人は、その公園のベンチに並べた、「ドカベン」のコレクションを見せてくれる。その当時でかなりの冊数があったが、それでもまだ序章に過ぎない。この主人公の未来の量はもっと増えた。

 彼は普通の小学生と異なった視点をもっていた。ニキ・ラウダの素晴らしさをこのベンチで力説していた。ぼくは車で速いスピードを出す有意義な意味合いをいまだに一回も感じないでいる。ひとは用があってこそ急ぐべきであり、普段はのんびりと暮らした方が良さそうだった。だから、彼の熱意もぼくの上空を素通りしている。聞き役に選んだのがそもそも間違いだったが、熱弁などおそらくそういう結末しかないのだろう。

 彼とぼくとは二日しか誕生日が離れていなかった。彼の家に入り、ケーキを数種類見せられる。

「あんまり、家で食べないでしょう?」

 と、なぜだか健康で身なりも悪くないぼくを彼の母はそう結論付けている。うまい返答も思いつかないまま、口をもごもごと動かしていた。子どもに気転や饒舌をもとめてはいけない。しかし、なぜ、その疑問がこの親友の母に浮かんだのだろう。

 ぼくの家に弟がうまれた。だから、生活も厳しくなるということがひとつのヒントである。八才も年が離れている。八年も異性と交際をつづける能力がなかった自分は、いまごろになって偉大だなと感心する。そして、どこかで安堵する。

 母は貯蓄より、一度の人生だから旨いものでも食して、楽しんで死んじゃおうぜ! と、どちらかに分類を強いられるならそういうキリギリスさんの一員だった。三人の男の子の空腹のため、大量に料理を準備して、大量に平らげ、その後、少量のあまりが出るぐらいなんでもない、という無頓着な一面を見せる。この母のことを知っている親友の母は、ぼくにケーキをすすめている。ひとに憐みの表情が浮かぶ、ということは心底、恐ろしいことであった。多分、あの日以来、喜ばしいことに経験していない。

 彼は大人になり、洋服のセンスを見せ、いっしょに渋谷や表参道に買い物に行くこともあった。フット・ボールも好きになる。ローズ・ボウルはバラの品評会ではないことも教えてもらった。バイクの免許も、当然、早いうちに取得する。地元の野球のチームに入って、それから、中学でも野球部に入った。校庭のスペースもいびつで、ライト側に強く打つと校舎にぶつかってしまうため、左利きの彼は器用に流し打ちをした。そういうテクニックを身に着けているひとをはじめて生身で見た自分は、少しだけ距離を感じる。笑わすテクニック以上のものが彼にはあったのだ。知らないところで。


悪童の書 af

2014年09月09日 | 悪童の書
af

 伯父は酔うと直ぐに寝た。母の兄である。

 まだ一口も、アルコール類を口に含んでいない自分にとって成分を司る要素としてもともと誘引するなにかがあるのかと想像された。しかし、父は別の反応を示した。中世の城に幽閉されている暴虐なひとが放たれた様子をときに見せた。だから、大柄な身体をたたみの上に横たわらせて、いくら邪魔だったとしても憎むことはできなかった。

 母とその伯父は、いちばん上と、いちばん下の子であった。その為に、兄と妹というより師弟という関係性をぼくに植え付けた。途中に生まれたであろう兄弟たちは、ごっそりといなかった。戦争なのか病気なのか具体的な理由はしらない。最初からいないので問い質しもしない。おそらく今後もしないのだろう。疑問に感じるとっかかりが、そもそもなかった。

 このひとは大工でもあった。子どものときに出席した自分の長男の結婚式に、ハッピ姿の一団がいて、ぼくを心底、困惑させる。だが、誰も違和感をおぼえていないらしい。そういうものだ、という雰囲気であたたかに見守っていた。ぼくは礼儀や格式を重んじ、杓子定規になりたがる自分を発見する。そして、後世、そういうものをひとつひとつ壊したがる自分も破れかぶれに発見する。

 十才ぐらいから住んだ家もこのひとが建てた。夏は暑く、冬は寒いという普通の東京の外れの家である。だが、「結露しない」ということを唯一の住宅の判断の基準とすれば、ここは見事な家屋だった。もちろん、一円も住宅ローンを払っていない自分が口を挟む問題でもなく、禁じるべき、慎むべき発言だった。だが、ここでぼくは思春期の思い出をたくさん作る。

 このひとはPTAの会長のような役目も負っていた。ある日、その学校にいた校長先生がぼくのいる学校に赴任してきた。普通の生徒が足を踏み入れない校長室に、悪いことを一切しなかった(たまにはする。ひとよりいくらか多い程度に)自分は呼ばれる。彼は伯父の様子を訊きたがったが、ぼくはもう一年に一度も会わなかったので、答えようもない。校長はがっかりして、しっくりいかなかった時間からぼくは解放される。こういう機会がこれ以降も数度あった。友人たちは、なぜ、ぼくが目をかけられ、わざわざ部屋に招き入れられているのか明確な理由を訊きたがった。ぼくは、何度かは説明したが、それから訊くひとの範囲も増えると面倒になり、あいまいなままにしておいた。だが、ぼくは怒られてもいない。

 狭い世界だ。

 さらに、ぼくという若いオス犬は、伯父のことなど意識して追い駆けるわけもなく、別の種類の匂いに鼻先は誘われる。これは、また別の話だ。

 もっと、狭い世界になる。

 この学校にいた音楽の教師は母のことも教えていたらしい。すると、三十年近くも教師をしていたことになる。十五才以下の少女のその後の姿など悪夢以外のなにものでもないと思う。悪夢は家に着くと、料理をしていた。有能なる、腹を減らした数人のためのコックになっていた。深い井戸を必死に埋めるように、彼女はぼくらの腹にものを放り込んだ。

 ぼくはずっと学校で教える範囲内の音楽に親しめないでいた。アルト・リコーダーですでに挫折も経験していた。大風呂敷をひろげれば、ジャンゴ・ラインハルトもセロニアス・モンクも教えないで何が音楽だろうと思う。そういう態度でいる自分に与えられた評価は「1」という過酷で手厳しいものである。このわたしが、その後のある一時期、音楽のCDのコレクターになり、いまでも音楽データのコレクターであった。音楽の楽しみは自力で会得した。もちろん、すべての教育の過程を学校に委ねることなどできない。

 伯父は目を覚ますと、競馬をテレビで見ていた。そして、ぼくに騎手になれとすすめる。自分でも子どもが三人もいながら、近所の子も可愛がっていた。その可愛がり方が少し乱暴だなと思っている。そのぼくにも、うちの子になれ、と無心に誘った。ぼくは両親との永久の別れを想像し、さらに騎手になるには身体を大きくしてはいけない、という難しいアドバイスを守れるかどうかを考える。身体など日に日に大きくなってしまうものである。ぼくの意図は加味されないだろう。

 ぼくはこの家に泊まる。ほんとうの両親は家に帰っている。風呂がなかったので銭湯に行った。そこが休みだと別の銭湯に向かった。

 後日、ハッピ姿の結婚式にいた長男の花嫁はクイズ番組に出ていた。父が、この子だよな? という顔をしている。うろ覚えだが、若くして引退した大歌手の遠い遠い親戚のひとがそこにいたらしい。その大歌手と似た容貌の若い女性もいたように思うが、もうすべてが闇である。家はささいなリフォームをしながら、三十年以上も建っていることになる。立派なものである。我が脳の方こそ、リフォームや手入れが必要そうであった。ぼくも遺伝の影響なのか、酒が入れば眠くもなるし、ときには荒々しくもなった。髪の質は伯父の白髪を、どういうルートか定かではないが受け継いだようである。実の父も祖父も大威張りできるような頭を有していないが、ぼくの兄も弟もこの近道をどうにか切り抜け、絶ったらしい。これも現時点でという不確かなものに過ぎない。伯父の家にあった使い込まれたちゃぶ台のように簡単に折りたためて、すき間に仕舞いこまれるのが、力のないひとりずつの人間であった。何かをコレクションし、何かを建てたとしても、すべてがほこりと塵に埋もれてしまうものだった。


悪童の書 ae

2014年09月08日 | 悪童の書
ae

 リーヴァイス501が求める体型に迫らなければならない。肉薄という程度までに。裾上げという妥協と調整と、手加減を抜きにして。

 イタリアのローマ銀座にある夫婦だけで営むような小さな洋品店でシャツを買おうとしている。自分の首は太く、腕もどうやら短いようであった。ここに基準を置くと、こちらに影響が出て、ここに力点を置けば、下流はせきとめられた。自分は平均点にならなければならない。

 柔道着を着るための体型として進化した民族ではない。

 お父さんと呼ぶべきような風貌の店員は、笑いを隠し切れないでいた。まったく厭味のないすがすがしいほどの笑みである。そこで結局、一枚のシャツを買ったように思う。成長すれば、いずれ腕も伸びる。または旅の恥はかきすてとも言えた。夫婦はこの日の夕飯時に、シャツを買ったアジア人を思い出して、笑い合ったかもしれない。夫婦の間柄を永続させる緊張の緩和は、アジア人の腕の短さがもたらした。現代のマルコ・ポーロがジパングから来たのである。

 決して突出しないこと。できれば、一定のところより劣らないこと。たまに水面に顔を出すぐらいの標準値で我慢すること。

 緯度や経度や赤道ということが頭のなかでうまくつかめない。もうメジャー(巻尺)で簡単に計れるようなサイズではなかった。同じ競技をしているはずの野球も、大きいグラウンドとか小さなスタジアムという表現でも明確であり、かつアナウンサーの情報でも真実を上塗りしているが、球場自体のサイズが違うことを大目に見ていた。なんだか腑に落ちない自分がいる。

 しかし、目と鼻と口の数は同じでありながら、美人と不美人を分けている自分もいた。機能は同じである。別に機能で愛を発生させたわけでもない。

 シャネルのコマーシャルに出て、その広告塔になるべき姿を有していることを想像する。不平等な世の中だなと思うが、もし彼女が交際相手でもあれば、不平等であることを忘れ、運という得難いものを手に入れた自信で、眠りさえストップさせる興奮をおぼえるだろう。その姿がポスターになり、看板になり、勝手に基準をつくりあげる。

 そこに個性がなければならない。絶対的な個性。

 写真という表面でなにが具体的に分かるのだろう。ひとは写真をつかって見合い相手を判断する。CTスキャンの映像をもとにして見合いする輩もいない。あるいは、レントゲン。

 3Dのプリンターがつくられる。一体でかまわないが、自分の立体の模型を作製して、きちんと彩色(夏バージョン。色白バージョン)をほどこし、仮に洋服を試着させれば、客観的な自分が発見される。いつか、自由に。

 ゴルフの番組を見れば急に長さの基準、名称がかわった。ぼくは頭のなかである程度の変換を余儀なくされる。基準がずれれば、もうどう正確に判断すればよいのだろう。その世界はぼくの腕の短さを決して笑わなくなるのだろうか。この日に拘泥している。

 カラフルな国の、カラフルな下着のトランクスを自分のために購入する。肌触りもよい優しいコットン。これは世界基準である。試着時に、店員は笑わずに、目を丸くした。と言いたいところだが、試すこともなくパッケージのままレジに数枚、もっていっただけで終わった。いつもの愛用のものと比べれば、サイズという無言の圧力は自己主張をしてこなかった。マフラーもネクタイも同様である。手袋にもそんなに差異はない。不思議と女性たちはぼくの指を褒めた。優美でほっそりとしているそうである。これは、遺伝ではないような気もする。この美点が首にも、腕の長さにも影響として到達しなかったことが謎である。

 手袋屋にいる。

「ユー?」と訊かれている。

「ユー」とぼくは答えている。自分用のとして。もちろん、答えは「ミー」である。なぜ、ぼくははじめて見た店員に急に手袋をプレゼントしなければならないのだろう。いくら、きれいであったとしても。

 空港でビールを飲んでいる。アジア人の自分がひとり憮然として鏡に映っている。機能とすれば、このぐらいの鼻の高さで充分だった。外国人の何人かの鼻は過剰すぎるきらいがあった。目の大きさも、小ささもこれで過不足なく見える。ここに来る前に入った公衆トイレの位置は意に反して高かった。子ども時代の切なさがこみあげてきそうだった。さらにお代わりする。クレジット・カードの縦と横の長さは世界共通である。コインはまちまちだった。どういう細かさが妥当なのか誰が決めているのだろう。ポケットのなかでじゃらじゃらいわせ、サイズで認識することなど一週間ほどでは不可能だ。

 飛行機にもちこむカバンのサイズも決められる。スーツケースの大きさですら、誰かが決めている。越えれば超過料金を支払う羽目になる。腕の短いあなたは、料金が安くなりますと、女性スタッフが言う。すがすがしい笑顔で。

 飛行機に乗る。バスの運転手の息子は車を運転しなかったが、備わった機能の所為か、乗り物酔いをまったくしなかった。それが、どういうものなのかが経験としても分からない。シートベルトをしめる。サイズがある程度、決められているのだろうが融通が利く。このあいまいな融通ということばに、ほんのりとした優しさを感じる。ロッソとビアンコという簡単なふたつのことばを覚えただけで、世界は幸せに、ほんのりとした幸せにも近づく。


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2014年09月07日 | 悪童の書
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「これ、参考にして、勉強してみたら」と、英語の教師が言う。ぼくらは彼女にあだ名をつけていたはずだが、もう思い出せない。手には授業でつかうものとは違う種類である物語のような教材があった。

 ぼくは機会は平等であるべきだと信奉し、いかなる差別も自分の人生にあってはならないと、潔癖に考えていた。これは、逆の意味での賄賂なのだ。こんなことは、黒人たちが働く綿花の農園だけで行われることなのだ。平等たる世界を妨げるあらゆる種や果実に手を貸してはいけない。そう気取った言い分に身を任せたのもつかの間、しかし、意に反して、実際には薄い本を受け取ったが、この病いのような精神の所為で、家で開くこともしなかった。ただ、怠けたい気分の言い訳が最初に出かかっているだけだろうか。結果は、怠ける。怠る。どちらにせよ同じことだ。いまになっても思い出せるバカげたアイドルの唄の歌詞を口ずさむ記憶量があったのに。時間は有限で、なるべくなら有効につかうべきだ。彼女は、まだ十六才。いや、ぼくが十四才ぐらいのころのことだ。

 冷静になれば、文部科学省認可の最低限の知識がつめ込まれた教科書以外のこの別の教材を開いても良かった。ハンプティー・ダンプティーの人生? なんかより余っぽどタメになることが多く書かれていただろう。

 十年ほど経ち、ぼくと友人はアメリカ西海岸に向かう飛行機に乗っている。既にスムーズにいかないことをここから教えられる。機内で働く女性に要求するために発した、「ジンジャー・エール」がもう通じない。第一関門ですら失敗であった。より簡単な、「コーク、プリーズ」は自由自在に利用できる。口のなかの無理強いも、甘噛みもない。炭酸飲料であることには変わらないと自身に納得させる。

 さらに、ホテルの夕飯前の「ヴォッカ・トニック」も空気を微量に震わせただけで終わった。「ビア・プリーズ」を代用としてもちだす。銘柄は? という追っての質問がある。「クアーズ」は耳が覚えていた。コマーシャルは常に偉大である。ぼくは喉を潤す。ぼくが聴いている世界と、彼らが聞きたがる音は似て非なるものだった。あのときの突っぱねた意固地さが、自分をこうして苦しめた。

 目と耳は機能として別であり、独立をそれぞれが主張した。

 ぼくはその後、ジャズという音楽が大好きになる。段々と演奏するひともさまざまな人種や肌の色とまちまちになっていくが、根底にながれるリズム感覚は、これこそ遺伝子としか理由をつけないことには、なだめられない類いの性質であることを知る。音頭。盆踊り。手拍子が、いつか揉み手になる。その自分の体内の奥深くに根付いている現実と向き合わされる度に、当然、不愉快さを感じ、違和感が生じる。

 人の文化。他人の領域との接点。

 だが、外国語をいくつも流暢にあやつれることと、賢さを同列に置くことも否定したい気になる。それはシャツを小さくコンパクトにたためることを自慢するひとより勝った特技ではないのだ。しかし、自分で書きながら言い訳以外のなにものでもないことを実感している。だったら、自分もその賢さ以上のものを示したらいい。現実のお金をもっと稼いだらいい。ひとは机上の空論と怠け癖を別個の部屋にしまっている。暴かれることも望んでいない。

 耳ではなく親切の度合いだと思おうとした。その後、英語圏など縁遠く、フランス語で同じ体験をする。なにも通じない。こちらにもトランプのもち札がほとんどない。アンプティー・ダンプティーを勉強しておけばよかったのだ。

 ラスヴェガスというアメリカの一大ヘルスセンターのような場所は歓楽をもとに作られた人工的な町だ。賭けをする場所の大きな画面に、ベースボールの長谷川という東洋人が巨大なモニターを通して写っている。現在になってこの時期から数年経ったビデオがクローゼットの奥から出てくる。イチローがいて、松井がいて、この長谷川というピッチャーがオールスターの一日に集っていた。アンドリュー・ジョーンズというバッターもいる。彼も後日、自分が日本に行くなどと予想したこともないだろう。そこで、二十四勝で負けがないという奇跡的なピッチャーがいることも知らない。その青年がピン・ストライプのユニフォームを着ることも誰も知らない。

 将来のために、大まかな円を想像して、その空白の塗り絵をつぶすように勉強しておくことが、利益をともなう価値のある学問ともいえた。ぼくは、それを怠った。その為に、多少の差異のある味覚で我慢した。だが、このひとつひとつの小さな摩擦が旅の楽しみでもあり、醍醐味であるともいえた。

 借りた車でガイド付きの少人数のオプションの旅もあった。移動中、運転手とガイドの両方の役目を果たす男性はずっと差別に基づく自分の主張を止めなかった。彼にぼくらは町の隅々まで運んでもらうしか方法がない。最後は、笑いだすぐらい、毒舌はひどかった。

 あらゆる差別を根絶することなどできない。自分がしないということが最大の防御と攻撃でしかない。クリント・イーストウッドの町にも行く。彼も後年、グラン・トリノという名作を映像にする。差別に屈しないひと、克服するひとバンザイである。あの運転手はきょうもガソリンをまき散らすように、世界を相手に毒を吐いているのだろうか。彼もまた悪童の愛すべき一味であった。



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2014年09月06日 | 悪童の書
ac

 三十八才にしてサーヴィスの何たるかを知る。逆にできない、許容できる少しの無駄を、面倒と無意味のタッグとして同一にするひとに憐みを抱くことになる。

 誰かが、どこかで身体のすみずみまでサイズを計測して、服を仕立ててくれる。それは作る側も着る側にとっても好都合であった。訓練とは、そういうものなのだ。放任主義などというのは、程度に限らず、愛情の欠如に過ぎない。捨て子と同じだ。

 サーヴィス。料理の注文が来てから、米を研ぎだす。結果は想像できる。テーブルの子どもはナイフとフォークを打楽器にして遊ぶことに夢中になる。

 満点を目指しても百点までしか取れない。到達と、越える壁との差はかなり大きなものだ。もちろんいくつかの問いには必然的に間違いが生じる。自分が問題を作成したとしても、時が経てば解答はあやふやなものと変化する。満点という設定は少年にとっての父の背中であり、越えてはならない聖域でもある。
 
 しかしながら異なったアプローチを試み、満点を越え、相手の満足を知り、次の仕事につなげる。タイミング(その時点で大まかな調理は済んでいる)を見計らい、締め切りと期日というものから逆算をして、テーブルに運ぶ。出すのは求められている資料であったり、提案の場合もある。ぼくは、あの日々にみっちりと仕込まれ、それ以降、あのひと以上に厳しく、かつ愛情を寄せてくれるひともいない為、まるで練習試合のように肩を壊さないで済んでいる。もう遠投も無理だが、テクニックでごまかすことも学ぶ。

 最大限の力。そのもっと前の仕事の女性リーダーの亡霊もぼくにはいた。ある時まで。仮縫いのような状況まで。

「あなたはまだ手を抜いている。もっと潜在的な力を現実の世界で示しなさい」

 と、難しいことばでいえば、このような無言の圧力をその亡霊はかけた。まだ、ぼくはノホホンとしている。

 変化を遂げたぼくは、コピー用紙がつまるのを恐れ、ネットワーク回線が停滞するのを察知し、業務が通常通り、運営に差しさわりがないよう見守る。その間に自分の仕事もある。こう書くと、卑屈な人間の見本のようでもあるが、決してそうではない。彼は認めてもいたのだ。ぼくというこの豊富な資源を秘めた存在を。深海の底にねむる財宝を。それは誰もが拒否したことだった。カットを拒まれたダイヤモンドだった。あるいは灰だった。

 全員が自分にとってのあの人に会っていない不幸と幸福を知らない。愚かなテレビドラマの主人公でもあった旧称スチュワーデスの見習いも教官がいたのにである。

 彼はぼくの勤務形態も心配するようになる。正式な契約を結ぶよう計らい、ぼくはひとの手を煩わすことに対してためらっている。だが、結果をいそげばサブプライム・ローンというこの世界の危機と直面して、結局は計画は頓挫する。ぼくは一先ず、安心する。誰かに足を向けて寝れないことなど、ひとつもあって欲しくなかったからだ。

 トレーニングの場から去る。次も、どこも戦場である。司令官がそっぽを向いても、ぼくは厭わない。各自が別々の方角に銃砲を向けても、関係ないのである。経済の危機で一喜一憂した社会をぼくは憎んでいるのだ。このことばもぴったりとしない。愛想を尽かしたという方が正しいのだろう。

 だが、ぼくの透明のスーツはぴったりと身体になじんでいる。糸のほつれも微塵もない。みなのスーツはサイズもばらばらで、ただそこにあるものに袖を通しているだけのように思う。

 相手の満足、あるいは不満の解消に時間を割き、徹底することにも喜びが生じるのだ。ただの一日のみの安堵かもしれない。安堵があるということは、良いことであった。焦りや焦燥は撲滅するべきだ。

 誰かが誰かを認める。その蜜月を第三者は怪訝におもう。やはり、ぼくは別の目を通せば、ダイヤに似せた模造のガラスだったのだろう。

 この愛想もなく、お世辞さえ流暢にあやつれなかった自分は、どこに出しても恥ずかしくないとアピールすることを普通のひとはためらう。さらに、もっと深くまで推察すれば考えもしない。だから、行動もしない。しかし、この一名は確実にしたのであった。ぼくは自分の父ともずっと不仲で、その所為だけではないのかもしれないが、権力や、その地位にあるひと、匂わすひとさえ背を向け、敬遠した。しかし、彼にもそういう雰囲気は充満していたのだが、壁は直きに取り払われた。

 ぼくの仕事での最後の日をむかえる。お互い、二度と会わないことは知っていた。ぼくは会社の玄関を出て、ためらうこともなく彼の電話番号を即時に消す。これもまた二度とかかってこないだろう。彼の見せてくれた世界は甘美だったのかもしれない。後日、似たようにぼくの評価の目盛りを上げるひとに出会う。ぼくは善意の詐欺でさえ信じていない。しかし、ふたりには共通点があった。なんと頭を開いて手術をしていたのだ。そういう過程を経ないことには、ぼくの優れているかもしれない面は、見抜けないのかもしれなかった。それもまた不当であり、真実を追求すべき課題かもしれない。だが、ふたりの身にとって、幸いな状況であったとも呼べない。みな、どこも開かない方が良い。疑うことのない事実であり、わざわざ多数決をとることでもないだろうが。



悪童の書 ab

2014年09月05日 | 悪童の書
ab

 都庁のない頃の新宿西口は美しかったなと。

 ひとはノスタルジーに生きる。ノスタルジーで生きる。

 空き地では少年たちが野球をしていた。成長を遂げない娘や息子もいないようにボールを追いかける少年も別の興味を抱くのだろう。空き地も空き地のまま放って置かれるほど、無秩序ではない。投資と有効活用の名のもとに、誰かが建築物を設計して、それをもとに労働者が働く。汗を流した、あるいは腕にかすり傷をつけたひとりひとりの名前など、建物のどこにものこらない。施工会社と管理会社と歴代の都知事の名前と行動が刻まれるのみであった。カバンに荷物を詰め込むように。

 八十年代というものが、ぼくの十代の生活をほぼ網羅している。夜中に流れるミュージック・ビデオで新宿の西口あたりの映像が流れていたと記憶している。明日の天気を伝え、あとは黒い画面になった。まだ夜通しテレビは放映していなかった。それがまっとうなことだといえば、そうもいえた。数千年の人類の歴史はそういうものだった。

 成長は見込まれ、その成長の余地は善だという漠然とした空気が八十年代の前半までは支配していたように思う。支配という重苦しいことばではなく、もっと軽やかなコットンの手触りのようなものとして、ただよっていた。その日本で育つということは選択をしたわけでもないが正しいことだと実感できた。

 実際にその町を歩くと、平坦な場所ではなく左右を分断するかのような高低があることを教えられる。貯水池か何かが影響しているということだが、その事実を無視しても、不思議と浮遊させる感覚を与えてくれた。

 なぜ、ぼくは少年野球を見ていたのかも思い出せない。きっと、ベスパというバイクの販売店がその近くにあったのかもしれない。結局、購入しなかったので無駄足になったのだろうが、この記憶だけでも行った価値はあったのだ。誰も奪えない。当然、誰も奪いにも来ないのだが、記憶は安らかである。

 反対側にはデパートや新宿御苑があった。ぼくの地元にはもっと大きな公園があるが、都会というオプションを考慮して比較すれば、当然のこと勝ち目はなかった。維持するのは無料では無理なのだろう、数百円を払ってなかに入る。芝生はいつもきれいだった。寝転がって本を読む。サリンジャーは、普段の生活としっくりこない主人公を築きあげる。

 あるときは営業マンとしてこの町を歩く。新宿の南口も開発されようとしていた。歩いていると代々木になり、そこは渋谷だった。その境目のあいまいさをぼくは理不尽に感じる。だが、納得できなくてもとなり町はとなり町である。廻るリストに渋谷はなく、ぼくは新宿にまたもどる。

 あるときは高層ビルで休憩をしている。職場の昼休みだ。下方には新宿御苑の壮大な敷地が見える。上空から見ると、そこは鬱蒼ということばがいちばん似会っていた。

「なに、あれ? ブロッコリー畑?」

 となりで休憩しているグループのひとりの女性がそう呟いた。天然というのは偉大である。その発想力に負けてしまう自分を感じる。笑わせようと努力して笑わせ、怒らせようと意図しないで相手の怒りを引き出す。天然はその窮屈な範囲を越えてしまう。しかし、野菜の育ち方、実り方を知っているのも、罰当たりではないし、どちらかといえば誇らしいものだった。

 歌舞伎町のメインの通りを数回、往復するだけで今夜のディナーにありつけると考えるぐらいに、ぼくとぼくら友人は無知であった。財布に入れたホテルに使うかもしれなかった予算は、始発電車を待つぼくらのポケットにそのままのこっていた。みな、大きなバッグを必要もしないが、金銭は大事なものである。あそこに池があった。のちのち知り合うことになる知人たちはみな口を揃えて大学の運動部時代のやんちゃな行動を回顧していた。男の子は水があれば飛び込みたいものなのだ。誰が、それを引き留める理由を見いだせるのだろう。

 そこも歩きすぎると新大久保になった。別の方向の町の裏には大きな神社もあった。ヨーロッパの都市のアクセントのような教会に比べ、存在としてとても地味にできている。だが、場所を移動させるには地域に根付きすぎてしまっているのだろう。ぼくはこの新宿になにも根を張らせようとしない。髪の毛一本、落としていない。

 ひとりで映画も見た。学校で友人を新たにつくるということをとっくにやめてしまっている。ある日、地元でひとつ学年がうえの先輩に、「あの映画館にいたよね? オレ、彼女と映画、見てたんだけど」と自慢げに言われる。ひとの目はいたるところにあり、ぼくの目は美しい女性しか見つけない。だから、彼も、その女性も視界に入らなかった。ただ残念である。

 ある時から、明治通りのしたを工事している看板を目にするようになる。地下鉄の路線は伸びる余地がある。あの八十年代の空き地が余っている頃は、なつかしさよりもっと遠いところにいってしまった。何度か泡ははじけ、現在にいたる。つまらない音楽が量産された時代でもあったが、同時代にいると明確に、明晰に評価できないのが生身の人間である。そんな雑然とした風呂敷のなかに、大瀧詠一もいた。このことだけでも悪い時代ではなかった。反論の余地もなく。



悪童の書 aa

2014年09月04日 | 悪童の書
aa

 生まれてはじめて定期券というものを購入する。通学で日常的に電車に乗ることになったのだ。意味合いとして「買う」というより「使用した」という方が正しい用法かもしれない。

 十六才の年になる直前の四月。結局、この一枚でぼくの学生生活も終わることになる。教師をもったのは六歳ぐらいからのわずかたった十年。その締めくくりとして定期があった。命あるもの、すべては永続しない。期限が切れるのは三ヵ月後。それからの数日、定期の有効範囲という拘束から逃れ、いつもと違うルートを使った。夏休みを目前にしたころ学校帰りに池袋に出て、渋谷まで行き、違う電車に乗り換えて代官山に向かった。

 ヨーロッパからの移民がはじめて自由の女神像を目にした感動と、このときの体験は等しいのかもしれない。あの地から別天地にたどり着いたのだ。新大陸は腕力と、駄菓子屋が支配する町ではなかった。

 そこに到るクロスロード。

 ぼくの育った町は分岐点になる。片方は東銀座の方面に向かい、もうひとつは日暮里を経由して新宿や渋谷につながる。高校をチョイスするときに、この差はけっこう大きかった。しかし、周回する線路ではなく青い電車は浦和の方に向かった。

 閑静とか、落ち着いたという表現を街に用いてもよいことなど誰も教えてくれなかった。自転車の買い物かごに食材やトイレの紙などの消耗品を満載してこぐ姿が、日常ではないことなど想像もできなかった。

 まだ中学生のときに、陸上部のスパイクの裏にはめる鋭いピンを買いに行く。あいにくと、スポーツ用品店はぼくらの町にはなく、となり町まで自転車で行って求めることになった。あるスポーツ店の店員の対応をいまでも思い出してしまう。固く締めすぎたピンはなかなか緩まなかった。自力ではダメなので(決して非力な秀才ではなかったのに)専門店に頼むと、姉と弟らしき店員はケンカでもしていたのだろうか、姉は自宅を兼ねているであろう階段をのぼって、いったんそこにスパイクを預けてまた下りてきた。用途に応じた器具が二階にのみあるのであろう。待たせていることを詫びる間もなく、ピンから解放された我が愛しきスパイクの片方は、上階から無残にも放り投げられる。放物線を描き。愛想笑いする店員。階段を転げ落ちる物体に視線を移し、悲しむぼく。つまりは、自由になるというのは、こういうことなのだ。解放は、放物線なのだ。

 ぼくはやる瀬なくとなり町を歩く。放課後の日常的な風景。日々の暮らし。営み。

 酒場がある。汚い、もしくは味のある、さらには風合いという魅力をなすりつけた暖簾が揺れている。その向こうでは焼き鳥がひっきりなしに焼かれる香ばしい匂いがしている。固いベンチに陣取るおじさんたちのズボンのひざの裏側。ぼくは無数にそれらを見てきた。楽しそうだ。しかし、ぼくは思う。きちんとしたスーツに身を包み、都会的な落ち着いた町に自分は住むのだと。住む権利を自分は有しているのだと。子どもたちはデザインに優れた制服がある私立の小学校に通う。そして、見送った朝ののこりには優雅に外国語の新聞を読む。何とかジャーナルとか、トリビューンという英字のものを。若さというのは愚かな希望をもつことである。

 代官山でひとり歩いている。夢想が現実になる。ここが約束の地だったのか。ぼくが夢のなかで追い求めた場所だったのか。友人の母たちが無理強いのようにあいさつを強要しない町なのだろうか。ぼくは自由である。

 洋服屋に入る。小遣いで買えるものを探す。試着する。金銭を払い、柔らかな感触の袋を代償として手にしている。まだ、放課後と呼べる時間だが、哄笑する客も身近になく、穏やかに風が過ぎ去っていく。ふらふらと揺れる危なげなハンドル捌きのおじさんもいない。燻された作業着もなく。

 ここもクロスロードだった。

 ひとは成りたいものだけになるのではない。

 過去を振り返り、家畜の臓物を食べている。レシピとも呼べない秘伝の製造過程の飲み物にも口をつけている。となりのおじさんは、「川向う」と蔑視をにじませ、ぼくに話しかける。突っけんどんも、また愛情である。少年は老いたのである。野望も負け戦になった。クロスロードで魂を売らなかった所為かもしれない。

 たまに思う。選択肢として、反対側に向かう電車に乗って、高校に通うこともできたのだと。江戸よ、さらば。スポーツで名を馳せる学校もそこそこある。だが、中学生に、とくに中学生のぼくに、先見性はまるでない。谷津遊園と行商のおばさんの町。競争社会を忘れさせてくれる場所。ここも、さらば。

 これもクロスロードだ。母は落花生を食べている。合理的という時代にすすみつつある世界に足を踏み込む息子は、そのカラを剥くという作業は省ける部類なのだと感じている。しかしながら、どこからか送られてくるカニの周りを、その手で取り除いてもらっている。やはり、面倒は女中や下請けに頼むことにするのだ。普通は。

「ねえ、お手伝いさん!」と、ふざけて母を呼び、こっぴどく叱られる。

 父はきょうも酒を飲んでいる。質より量という確たる信念のもと。ぼくは、こうならないのだという生きる見本だった。ひとは成りたいものだけに成れるわけでもない。痛いほど、知っている。ぼくのわずかばかりの歴史が痛烈に教えてくれる。かなり、痛切に。



悪童の書 z

2014年09月03日 | 悪童の書
z

 円。

 グラスの底のリング。使い込まれたカウンターの板のしみ。

 たとえ、飲み干して片付けられてしまっても、その輪が痕跡として味わいの名残りを主張する。

 別の場所の輪。ぼくの家の小さなアンプのうえには、チープな指輪が乗っかっている。リング。ぼく以外の誰かも悪童になるべきなのだ。潜在的に悪など望んでいなくても。

 ぼくは、別にそれが欲しくて手に入れたわけではない。複雑な過程を経て、ここにいる。あるいはシンプルともいえた。どちらにせよ、ここにあり、声高に叫ばないが所有権はぼくにあった。

 自分の天職を発見したひとがいて、その秀でた才能とアイデアを依怙地なまでに表現する。それぐらいの永続する熱狂がなければ天職とも呼べないのかもしれない。普通の一般人は稼げることが仕事となる。愛も夢中も蚊帳の外だ。

 ぼくはある一室にいる。楕円形の部屋。飲み物のグラスの底の形状としてはあり得ないものだった。そのなだらかに湾曲する壁の一面に絵が飾られている。睡蓮。モネの絵。オランジュリー美術館。

 ぼくは彼の絵をそんなに好きでもなかった。偉大なるマンネリとして。だが、その一室に入ってしまったことによって考えをあらためる必要にせまられる。確かにすごいのだ。清らかな怨念のようなものもある。スリという行為でさえ、芸術に高められるというひともいる。財布を盗み、なかの札だけ抜き取り、その財布をもとの所持者のポケットにもどす。その一連のスリリングな過程を芸術と呼ぶ。ぼくのこころも、この室内で同じことが起きた。元手も、旅行の小遣いもすべてかっぱらわれたのだ。呆然とする。実際のお金の話ではなく、ぼくのこころが盗まれたかのように、所在もなく身だけのこして遊離する。芸術には、本場の芸術には力があった。静かな迫力だった。

 腑抜けになった自分は上の空でパリの青空の下を歩く。前提条件として、このことがある。

 橋のうえで音がする。ぼくはまだ呆然としている。すると、後ろから声がする。

「あなたが、落としたの?」

 東欧っぽい風貌の若い女性が手のひらを見せる。その中心に指輪が乗っかっている。

「違うよ」ぼくは信頼や是認も好きだが、疑いや検証も同程度に好んでいた。本来、まっさきに挑む自分のその性質がいまは麻痺していた。

「でもね」彼女は困った様子であったが、ほんの数秒をくみ取っただけで、ぼくの感情はしつこいが麻痺していた。「わたしが持っていても仕方がないし、だから、あげる」

 彼女は指輪を差し出す。

「そう」ぼくはいまだに天職のことを考えていた。あるいは運命のひと。いやはや、青い鳥。しかし、断るのも億劫なので、手のひらを彼女に向けてしまった。ぼくらの邂逅は終わり。パリの空は気まぐれを見せずに、見事に青いままだった。

「あ、ちょっと」彼女の声が背中でする。
「なに?」自分が何語を話していたかも思い出せない。もちろん、あやつれる言語はひとつのみであった。あとはすべて欠けら。砕けたクッキーの袋のすみの屑ぐらいのボキャブラリー。

「それの代わりといっては何なんだけど、わたし、きょう、誕生日なんだ。ちょっと、コーヒーでも飲みたいので、いくらか、どうにか、その・・・」

 あ、そういうことか。いまさら問い質すのも面倒だった。乗りかかった船。おぼれかかった金槌。ぼくはポケットをまさぐる。数ユーロがある。そのうちの数枚を渡す。

「もう少し、何とかなんないかな?」

 ひとは輪を、円形を求めるのだ。指輪の物語。ぼくは数枚だけ加算する。あとは意思を強く持って、上限のリミットを顔色で教え諭す。

「ああ、やられたな」別れたぼくはひとりごとを言う。しかし、違うかもしれない。ぼくのこのリングは本物でもあるし、彼女も誕生日だったのだ。さらに、ぼくはそんな金額で足りないぐらいの酒代を女性たちとともに費やしてきたのだ。痛くもない。でも、すこし、かゆい。

 ぼくの善意は報われることもなく、一日、歩き終わったあと、はじめてのパリの街並みを堪能し終わったころに、かなり遠い場所でさっきのと寸分違わぬ物が落下する音、金属が固い石に落ちる音をきいたのだ。

「やってるな」と、ぼくはひとりごとを言う。見たくなかった。彼女は友人たちにその素行を見られる心配がないのか。そんなことを考えながらも今回のターゲットのある紳士は野良犬を追っ払うような仕草をして、その場から救われる。彼は、モネの絵にとっくに感動していたのだろう。

 数年後、ぼくは同じ町にいる。同行した同じ部屋の男性は無呼吸症候群のように夜中、寝息をとめた。その後、爆発的に空気を吸った。あるいは吐いた。

 ぼくは海外での楽しみと興奮と、もちろんその横のベッドのひとの音で一週間ほど、睡眠が浅かった。もともと、ひとりで寝ることを訓練してきたタイプなのだ。布団に隙さえあれば潜り込もうとする黒猫や黒い髪のひとびとを払い除け。

 その楽しみも終わって家に着く。一週間の寝不足と地元での深酒で油断して床で寝てしまう。冬のガスストーブが足もとで働いている。ぼくは見事に火傷する。その傷が癒えると、黒い円になった。アンプのうえの指輪をもち、その傷に重ねると丁度、同じぐらいだった。ぼくはパリで二つの円を見つける。その二つの事実が隔たった場所に旅に行ったというれっきとした証拠になった。顔や腕に模様を刻印する古い部族のひとびとの風習のように。



悪童の書 y

2014年09月02日 | 悪童の書
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 悪ガキは、悪ガキに負ける。

 週末。ガソリン・スタンドでのバイトを終えた友人たちといつもの店に向かう。ぼくらをハイにするのは梅酒サワーだった。これから、十時前後にはじまり、だらだらと閉店間際の翌朝の五時ごろまで居座りつづける。季節によっては完全な朝になっている。そこから、一眠りしてぼくは九時には目を覚まして表参道辺りの古着屋でいくつかの服をチョイスする。真昼になっても、あくびも出ない若さのピークだった。

 店には、ぼくらの同級生の母が店員としていた。ぼくは年代として最も麗しい中学二年のときにそのひとの娘が好きだった。かといって、それは砂漠のうえの水のようにとっくに干上がっていた。その母はいまのぼくより年齢が下のはずだ。いまの観点から見れば若く、その当時のぼくの冷徹な目を通せば若くはなかった。若さなど残酷に過ぎないのだ。

 何を話題にしていたのか、もう思い出せない。数時間も無言で酒を飲んでいることはあり得ない。だから、語って、笑って、酔ったはずだ。しかし、消化の機能が充分に働き、酩酊も悪酔いもあまりなかったように思う。また、そういう状態をことのほか歓迎しない周囲の目があった。もちろん、網の目から潜り抜けるのも人生である。ニモでなくても。

 ぼくはこのときのことを懐かしく感じ、しかしながら、再現できないことと思っていた。

 手加減もなくときは経ち、三十代の後半になってしまう。

 海外でのツアー旅行の一員として加わっている。

 フランスからドイツの国境を越えるのか、反対にドイツのある都市からフランスに向かうかの道だった。おそらく後者だろう。移動時間の関係で朝という時間にも足りない暗い時間に起き、各自、用意してバスを待っていた。眠い集団のなかのひとりとしてぼくはそこに立っている。明け方まで遊ぶのが若者の特権である。どこからか過去のぼくの亡霊のようなグループが近寄ってきた。生意気とやんちゃであることを名札として。

 彼らはフランス語を話していた。だから、もうフランスの端には入っていたのかもしれない。そこからパリとか中心地に向かうのだろう。ぼくの言語感覚では会話は成立しないはずだが、同じ共通項のある人種であるかのように意図は充たされる。

「どっから、来たの?」
「ジャパン」
「お、サムライ」と言いながら彼らのひとりはカンフーのマネをしたように思う。
「ハラキリ」迎合は見事に無視される。

「これ、吸う?」彼らにとって親愛の最大の結びつきの証明なのだろう、キオスクでは流通していない類いのタバコのようなものを差し出す。サルが互いのノミを取り合うように。信頼は尊いものだ。

「いいよ、吸わないよ」

 このぼくの置かれた立場。ツアー客の一員として真っ暗な朝にバスを待っていて、背中には少なくとも二十数人が視線をそれとなく注いでいるのだ。「ありがとう」とでも言って吸えば彼は納得するのか。

「そう。吸わないんだ」彼はがっかりしたような様子をする。そして、いつの間にかその数人も煙のように朝日の前に消えてしまった。

「さっき、からまれてましたよね」みな、見ないフリをして見ている。これぞ、我が同胞。だが、ぼくとこの指摘したひとには共通のものがまったくなく、あの夜とともに消えた彼らにこそ親しみがあったのではないだろうか。でも、見知らぬ町で逮捕されるわけにもいかない。バスは間もなく発車するのだ。

 なぜ、彼らはぼくをチョイスしたのか。古着のジーンズのサイズがあったかのようにぼくを選んだ。ぼくはその旅行の楽しさを数えられないぐらいにあげられるのだが、いまこうして数年を経過してなつかしんでみると、これこそがぼくが時間と金銭を消費してまでも直面したかったことのように思う。あの若さの日々。永遠という時間などないということを知りもしなかった年代。ずっとつづくと思っていた友人との関係。彼らにもそれぞれ家族ができるという喜び。自分にはその箱がなかったというむなしさ。

 愛らしい同級生の女性の母の年齢を越える。もちろん、互いに年齢はスライドする。しかし、会ってもいないのでその母はあの当時のままである。ぼくが若くもないと勝手に認定した女性は、この日には、限りないという意味で若くもないが、決して老いてもいなかった。同じことが起こる。ぼくも、その当時の年代の目を通せば、ただの中年である。父ではないだけであった。

 もう一度、あの日にもどる。彼のさびしそうな目を見たくないばかりに、意に反して、ぼくは煙をゆっくりと吸い込むかもしれない。世界は、穏やかなものとなるのだろうか。ぼくは反対の立場を想像する。赤のハウスワインではなく、ぼくらの町の独特の梅酒味のサワーを飲ませてあげたいと思う。彼の感想はどういうものだろう。ワインの国のフランス語を話した悪ガキ少年。彼も誰かに恋をして、その子の母と会話するのかもしれない。さすがに細く巻いたものはすすめないだろう。場所と状況とひとをそれぞれ区別して、行動の判断の基準にしなければならない。そういうことを常に念頭に置きだすころには、悪ガキではいられなくなっている。トラックやバスの免許でも取り、見知らぬ観光客をこちらの町からあちらの町へと運んでいるのかもしれない。休憩時にはカフェでの寛ぎぐらいにして、あまり甘い煙はすすめない方がいいと思う。


悪童の書 x

2014年09月01日 | 悪童の書
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 不思議。

 兄と弟の顔の形状は母と似ていた。ぼくは、どちらかといえばという大ざっぱな分類でもなく、父に似ていた。それでいながら、母の兄の真ん中の息子に似ていることを祖母の葬式で知った。ぼくの兄と弟も共に似ていなく、そのひとと、当然、ぼくの父は似ていない。顔の形状など、もしかしたら、六十億などもともとないのかもしれない。遺伝なのか、人形焼やたい焼きの鋳型の話をしたいのか、自分でも書きながら分からなくなっている。

 上達の先陣隊として真似るということが近道で、ほぼ唯一の道だと教えられる。ひとは模倣する。

 兄は家に女性ばかりを連れてきたわけでもない。野球部の先輩もそこにいた。川を何本も越え、都道府県も間にひとつ挟み、遠い学校に通っていた。

 ぼくの通う中学にはもう兄はいない。ぼくは、不良がするような短い髪をさらに丸めたような髪型をしていた。それにも飽き、兄の野球部の先輩の姿に憧れ、自分も坊主にした。季節も夏か秋の入口あたりのまだ暑いころでもあった。土台というのがある。そのひとをいくら真似ようとしても、そもそも二人の容姿は違っていた。ぼくは鏡のなかに二等兵のようなものを見る。ビルマの竪琴。しかし、体育祭とか、修学旅行だか林間学校やらの大きなイベントの直前で、ぼくのさっぱりとした頭髪は先生からの評判が良かった。ぼくはただ、もう少しまともな状態に戻れるぐらいの髪の伸びを望んでいた。そして、ひと月にも満たないぐらいで、もとの風貌にはなった。最初から短い髪型だったのだ。

 野球のピッチャー。背丈も筋肉の付き方も異なっている。繊細な指の感覚や長さも当然のごとく違う。まったく同じフォームや球の握り方を模倣しても、その細部の差異が結果を変えてしまう。

 陸上選手。

 のちにマイケル・ジョンソンというアメリカの選手が、胸を反らせるという短距離界の勝手なタブーを破り、画期的な走法を見つける。もちろん、筋肉の度合いが違う東洋人がマネしても結果は散々になるということは、わざわざ試す事例をもちこまなくても明らかだった。

 マネではなく法則といったらどうなるのだろう? ぼくらは陸上の練習を真夏のグラウンドでしていた。どこからか差し入れがある。練習後の汗だくのご褒美としての青春の味のカルピス。割る分量は法則になる。あの大人数のコップをどう調達していたかは思い出せない。最後に余ったビンに水を入れ、適当に振ってビンをさかさまにして同級生の部員があお向けで飲んだ。しつけやマナーの厳しい地域でもなかったが、その浅ましさに自分は何だか不快になった。

 法則を度外視してしまった所為なのか。

 その地域で部活動をしたということがその後の自分を明確につくっている。

 自分が悪ければ素直に謝り、自分が何かをしてもらったら直ぐに感謝を伝える。「ありがとう」と「ごめんなさい」の二語だけが結局はぼくを守る。こんな簡単な法則を会社で働き、違う価値観の集団のなかにいると、できないひとがいるので驚くことになった。先ずは無数の弁解と言い訳が先頭に立ち、無料の感謝すらケチるひともいた。

 先輩はこわいだけではない。彼らもこの地域の裏表のない兄ちゃんたちなのだ。

 ぼくは悪童の書を記しているのであり、道徳論を軽々しくもちこむべきではなかった。

 ぼくは、無料かつ数秒で実施できることを敢えて「しない」を選んだひとにケンカを売る。ケンカを売られる理由を培養したのは君たちなのだ。

 大人になるに連れ、似ないひとたちと暮らすことになる。多様性というのもまた避けられない美学であった。ある種の肉の摂取を拒んだり、ある時間にある方向に祈る。謝ることは罪を受容したと思われ、その責任を回避したいならば、「ソーリー」という簡単な数語を絶対に口に出してはならないと教えられる。ぼくらは堪能までには到達しなくても、英語をしゃべりたくはなかったのだろうか。

 最も美しいのは、「メイ・アイ・ヘルプ・ユー」に尽きるというひともいる。困る状態というのは確かにある。だが、ガイド・ブックには気軽に小銭をあげないよう注意してある。

 ガイド・ブックのルートをマネる。そこは誰もが目指す見るべき価値のある観光地なのだ。何人もの棒になった足の結晶たちなのだ。

 ぼくは遠回りしている。自分の選ぶ女性の顔がどことなく似ているということの根源を追究したかっただけなのだ。筋骨隆々のアフロ・アメリカンの陸上選手のことなど常に念頭にあるはずもない。ぼくは色が白く、にきびなど一切なく、黒目勝ちで、細身で背が高い女性を探していたのだ。

 ぼくは実家でテレビを見る。母の何気ない感想が副音声となっている。

「このひと、美人だよね」とか「このひとの声、素敵」という研究のうえで導き出された抽出のような真実の回答ではなく、その場限りの思いつきで発せられたひとこと、ひとことに、単純に賛同せざるを得ない自分を感じている。

 外見の相似という表面的な引き継ぎだけではなく、美や美意識への希求という段階でもバケツ・リレーという作業は行われていたのだ。もちろん、こぼれる水も多量にあるのだろう。一滴も地面に浸み込まなかったら、まったくの同じになってしまう。人形焼の型を何代にも渡り、そのまま踏襲するように。そして、ぼくもスタートは一滴だったのだ。目も鼻もない。それでいながら、良く似せるものだった。