爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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リマインドと想起の不一致(15)

2016年02月28日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(15)

 試験も終わり、合否が分かるまでの束の間の自由な時間があった。予習はもう念頭にも計画にもなく、多少の復習が待っているだけだ。

 復習によって、自分の身になることも多いが、模倣というのは、比較すればつまらない側のものだった。クリエイティブな人間は新鮮な手垢のついていないものを喜ぶ。ぼくは将来という地点に足を踏み入れる段階にいた。

 放課後に後輩の部活の練習をぼんやりと眺めていた。自分が一生懸命に取り組んだものを同じ意気込みで後輩たちもしている。誰に頼まれたわけでもないのに。

 あり余るエネルギーの発露が競争心となって表面化された。勝てばうれしく、負ければ正当に悔しがった。その前段階として練習に熱心にはげむ。ぼくもその場で得た友人たちと策略もなく仲良くなった。その関係をなつかしむにはまだまだ早過ぎた。

 校舎からひじりが出て来る。髪を切ったばかりだ。その髪の一部は彼女から離れた。切られて地面に落ちた髪をぼくは愛することができない。それはひじりではない。こちらに向かって歩いて来るのがひじりの存在のすべてだった。

「自分でも、もう一度やりたい?」横にすわったひじりが訊く。
「どうかな」

 時間や秒数を縮めるためにグラウンドで格闘していた。一秒でもなるべく早くなるために。いまはまったく反対の気持ちで、この関係を長持ちさせることを一心に望んでいる。ひとはさまざまなことを要求する。

 能動的に仕組んだ作戦を企て、試みることがスポーツの醍醐味だった。いまは、ひじりの質問や疑問に見合った答えを探すという受動一方のような状態を楽しんでいた。外は晴れていて、空気は乾いている。長距離走の練習に打ち込んでいる後輩がいた。ゴールラインを越えると、屈んでひざに手をつき、肩で息をしていた。苦しみは爽快さにもつながる。ぼくはただ楽しいという境地にいた。苦痛も、努力も鍛錬もいまのぼくにはない。それもまたさびしいものだった。

 ぼくらは手をつなぎ、もう反対の手にはカバンがあった。教科書もノートももうぼくらは増やさないですんだ。次の学校でまた新しいものを手にする。この日々もあと一月ぐらいだ。何かが終わるということが感傷的な気持ちをもたらすとは思ってもみなかった。もっと解放感が先頭に立って歓喜だけが訪れると信じていた。

 ぼくは後方で起こった歓声を耳にする。ぼくのためではない。グラウンドで頑張る者だけに与えられるプレゼントだった。


リマインドと想起の不一致(14)

2016年02月27日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(14)

 ぼくは早起きして、試験会場でもある高校に向かった。この三年間の総決算でもある。

 受かればぼくはここに通うのだ。失敗は許されない。

 しかし、ここしか受けていないのだ。頭数をそろえるために確約に近いものがあるのだろうが、本人の不安が完全に一掃されるわけでもない。ぼくは願書を出す際に道に迷ったが、今回はその失敗もない。

 ぼくはひじりのことを頭から追い払う。できない相談でもない。ひとの頭は複雑だ。一つのことばかりに集中することができない。ぼくはいまはテストの問題をクリアすることに専念している。学んだことを思い出して、さらに答案に見合ったものに応用する。夏のあの日に覚え込んだことと同じだと思い出す。ひじりのこころはあの時、誰のことを思っていたのだろう。

 次の科目になる。なかなか順調にすすんでいた。ぼくは友人たちのことを考えている。全員、合格してほしいと願いながらも、その望みは充たされないことも知っていた。今日は私立校の受験日だ。公立はまだ先だ。両方に受かった場合はどうするのだろう? 両方が二位や三位の希望校なら、どのような妥協を見せるのだろう。

 ぼくはひじり以外に告白されたことはない。もし、順番が違っていたら、他の誰かと交際をはじめていたのだろうか。成っていない日々を想像しても答えはでないが、この幸せを別の女性が与えてくれるとは思えなかった。

 すべての科目が終わる。二月の空気は冷たい。それでも解放にともなう安堵感が冷気に耐えることをことのほか喜んでいた。

 ぼくは電車に乗る。前の座席に小さな女の子が母親とすわっていた。どことなくひじりと容貌が似ていた。彼女のあの年頃は、どういう性格だったのだろう。シャイを克服する少女もいて、サイズが変わっただけでまったく同じ性格を毎年、更新するひともいる。女の子はなぜか急にぼくに手をふる。ぼくは離れた場所で、ひじりがしてくれた行動が乗り移ったようにも感じていた。

 駅に着く。そのまま家に向かった。疲れたのか夕飯前にねむってしまった。

 目が覚める。高校生に夢のなかでなっていた。ひじりの新しい制服姿に会った。ぼくらは会う範囲、出歩く地域を拡げる。彼女が好きになった場所を教えてもらい、ぼくが見つけた新しい場所に彼女を連れて行く。

 未来はどうやら訪れていないからこそ美しいのだった。


リマインドと想起の不一致(13)

2016年02月26日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(13)

 もちろん、たまにはケンカもした。親しくなればなるほど甘えと不一致が微妙に入り混じって、許容と拒絶の狭間とその隙間に小石のようなものがまぎれ込んで、多少の傷をつける。小さければ回復は即座という観点でも可能だ。ぼくらは幸運なことにまだほんの小さな傷しか身に受けていなかった。

 怒りというのは持続しない。ぼくは自分のプライドや正解に伴う見栄より、ひじりのことが好きだった。嫌いな相手であれば、ぼくはそれらの感情の副作用を何よりも優先しただろう。後年には自分が誤っていても、信号を無視するドライバーのように意図的に反則の揉みつぶしを押し通すこともしばしば起こした。

 人生はゆずるという行為をくり返す場としては、かくも残酷で、野蛮過ぎた。そういう所にすることの容認に無言で自分も大いに加担していた。

 電話や、あるときは直接にでもだが、ぼくが率先して謝ったり、ひじりが同じことをする場面も度々あった。そのうちの数回はひじりも頑固な人間だなと気付かされる機会もある。それでも、表面に思わずこぼれでたらしいふくらんだ頬は愛らしいものだ。ぼくは人差し指で彼女のそのふくらみの頂点を押す。彼女は笑いだして、ぼくも仲直りのきっかけが与えられた印と記念のように同じく笑った。

 受験も近付き、会う時間も減らすように努力している。時には互いの感情に振り回されて約束を破ってしまうこともあった。だが、のんべんだらりと時間を無駄にすることは確実に減った。お互いの未来が天秤の向こうにかかっていた。

 ぼくは高校生になった自分を夢想する。いまとは違う大人になった人間が架空のなかでだけできあがり、そこには優越さとさびしさが混じり合っている状況の如く、あいまいなものとして必要以上に立体的になることを拒んだ。

 ひじりも少女から大人へと変わる。その日々の変化をぼくは片時も漏らさずに認識できるのだ。

 今日のひじりは、大体が昨日といっしょだ。だが、一年後は違う。十年後にはもっと違いが明らかだろう。その変化はずっと共に生活しなければ手に負えないほどの相違を加えてしまうかもしれない。例えばどこかで別れて、ある日、どこかで再会しても当人であることに気付かないこともあり得た。ぼくは、いままさにひじりの横顔をながめる。しわ一つないつやつやとしたほっぺた。ぼくの数十年後はどうなっているのか。ひげが口元を覆い、自然に示す態度に横柄さを中年の腹周りの肉のように身につけている。自分のなりたくなかったものに知らず知らずのうちに征服されている。

 ひじりもそうなるのだろうか? セールの真っ最中に人混みをかき分けて洋服の奪い合いをしているのか。どこかで砂場で遊ぶ子どもを見守っているのか。いつも、油断したわけでもないが気付くと、あっという間にひじりの家の前まで来てしまっている。

 別れた後に、友人に会ったので家まで自転車の後ろに乗せてもらった。

リマインドと想起の不一致(12)

2016年02月25日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(12)

 風邪で体調をくずして、ひじりが学校を休んでいる。見舞いも看病の権利もぼくは有していない。急に無関係の間柄になったようにも思えた。

「心配しないで」という用件だけを言う短い電話をひじりがくれた。ぼくは自分と別個の存在に、それほど気にかけない性分であることを自ずから訂正する。軌道修正というほどに大げさなものではない。ペットを飼ったこともない自分は、愛情のかけ方という事柄に対しても不馴れであった。

 その前後に神社の前を友だちと自転車で通りかかった時にひじりの回復をお願いしたい気持ちにかられたが、実際は素通りしただけだった。でも、ほんの一瞬、心の中でひじりの名を呼んだ。

 その無心のうめきに効果があったのか分からないが、翌日からひじりは以前のように元気になって登校した。ぼくは昼休みにゆっくり話したが、昨日の咄嗟の行為のことは黙っていた。なにより、現実に見えるひじりだけがいれば、それで充分だったのだ。見えない何かに瞬時に頼ろうとしたにせよ、見えるひじりの姿がすべての面で圧倒して、大差をつけて上回っていたのだから。

 下校時にひじりの手を握る。彼女は時折り、苦しそうにせきこんだ。ひじりの身体を許可もなく通り過ぎたウィルスを一方的に恐れる必要もない。ぼくは彼女の存在を表すすべてを受け入れる気でいた。

 病気とは無関係なところで友だちと話していて、この年頃の通過儀礼から逸れない体験をしたやつも数名でてくることを再確認する。ぼくは愛の達成としてのそのゴールになぜか抵抗感があった。そもそも、履行する場所はどこで? きっかけやタイミングは? 失敗する可能性はどれぐらいあるのか? だが、当然の希求として一体になる誘惑を完全に捨て去った訳でもない。

 ぼくらはいつもの帰り道を歩く。彼女の歩幅、彼女の歩く速度、彼女の肩のなだらかなラインらを、ぼくは歴史の盲目的に投げ込まれる必須の年号と同じように、いや、それ以上にその些細なものたちを記憶に能動的に刻み付けようとしていた。

 帰り際、彼女が手を振っている。ポストに夕刊が突っ込まれていた。自分の家と同じ新聞らしかった。同じというものがあればあるほど単純に嬉しくなった。だが、他者であるからこそ好意が生まれるのであり、さらに持続されるのであり、完成されていくものに思われた。

 他者がひとつになる。その時期は高校生になってからだろうか。彼女の最初の体験は、みずみずしく、神々しく、美しさの極限までいってほしかった。それに見合う女性なのだから。唯一無二の。


リマインドと想起の不一致(11)

2016年02月24日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(11)

 夕方の公園に鐘の音がする。それを合図に数羽のカラスが飛び立った。

 一冊の小説も読んでいないころの情景だが、いまはこのように背景の描写を演出的にも書けた。ぼくは本を読まなくても暇がつぶせた。暇だという感覚も、そもそも、ぼくに追い付いて来なかった。

 自分の過去を記すのに無数のお手本が必要だったわけだ。人間の経験はそれほど異なっていない。しかしながら、ぼくのこの日の個人的体験は格別で、とくに別個のものだと思い込んでいた。人類にとって未曾有の。

 ぼくらは沈黙を共有する。カラスの鳴き声が時折り、耳に入るが、となりにいるひじりの小さな息遣いの方が、ぼくにとってより重要だった。

 遊んでいた子どもはいなくなり、同時に付き添いの彼らの両親たちも視界から消えた。温かな家庭の食事が待っているのだろう。心配もない世界への鍵がある。

 ぼくらは、何も決めていなかったはずなのに互いの唇を触れ合わす。お手本などどこにもないが、結局は人間は同じことをする。欲求の高まりと呼ぶには、ぼくらは子どもすぎた。だが、何もしないわけにはいかない。行動で好意を示すことも肝心なのだから。

 大人への階段というのは、どこかで登らなければならないのだろう。それにしても、この夕刻の一段は突然で急だった。思いもよらずに数秒で大きな扉が開かれた。

「ありがとう」とぼくは無雑作をよそおって言った。確かにぼくは得たのだ。収支はプラスに傾き、同じように彼女もギブだけやマイナスではなく、プラスの感情になっていてほしかった。

 ひじりは無言でいる。彼女にとって大きな感情の揺れがあった一日だったのだろう。映画の中身で泣き、夕方にぼくの愛情を受け止める。すれっからしの女性のようにこの数分は何事もなく、波風など立たないと平静でいられるわけでもないだろう。ぼくはなぜ急にあえて生身の存在を汚すようなことを書きたくなったのか。自分の青い時期と真正面から打つかるには、ぼくは老いすぎたのだ。

 当事者であることに耐えられる時間は限られている。だが議会の速記者のように時間の流れのすべてをこと細かに記載するのも不可能だ。時の経過で忘れ去られたものもあり、こうして、落第した生徒のようにぼく自身からうまく卒業できない記憶も少なからずあった。

 ぼくらは帰りの電車に乗っている。こころもちひじりは頭をぼくの肩にもたせかけている。一日で変わったのだ。それでも、学校内ではある程度の距離を置くことになる。そこで彼女は泣きもせず、その淡い唇を牛乳びんとリコーダー以外に触れさせないであろう。

 ぼくもブルースハープ以外には近付けない。蛇足ということを知っていたのにみすみす失敗する。


リマインドと想起の不一致(10)

2016年02月23日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(10)

 映画のチケットを売り場で買った。ぼくの小遣いはもともとが父親が働いて得たお金だ。ぼくはまだ自力でこの世界で一円も稼いだことがない。その事実に感謝も抱いていない頃の話だ。

 飲み物を買って座席にすわる。相手を知りたいと思いながらも黙って画面を同時に眺めることになった。同じことをしているという安心感もあった。終わったら感想を言い合うこともできるだろう。ぼくは以前、ここに友人ときた。あの時のカンフー映画の内容の一部を思い出していた。すると間もなくブザーが鳴り、画面の上のカーテンがするすると横にスライドした。

 真ん中頃になると、ひじりはとなりで泣きだしたようだった。感受性が豊かなのだろう。さらに言い訳のようにも考えるが、男女では物事の捉え方も違っているのだ。父がテレビで野球にチャンネルを合わせ、母はドラマの進行にこころを傾けるように。

 時間が過ぎる。飽きたのでもないが、ひじりの顔はどうだったっけ? 泣くと様子は変わるのかと考えている。席を立つひとをしり目にぼくらは上映が終わってもすわっていた。彼女は涙の袋を衝撃で破ってしまったように、なかなか泣き止まなかった。しかし、そうじのおばさんが片付けはじめたので、ぼくらもそれに合わせて立ち、屋外へと出た。

「ごめん、こんなに泣いて」
「別に誤ってもらうようなことじゃないよ」優しんだね、とはなぜか言えなかった。
「うん」

 ぼくらの胃袋は、性能の悪い機関車のように数時間で燃料となるものを費やし尽くしつつあった。ただ、空腹になったという事実をまどろっこしい方法で表現している。

 ぼくらはスパゲッティーを食べる。ワインが飲める年代でもない。食後にアイスを食べた。去年の今頃は部活の試合で男くさい汗をかいていたはずだ。いまは映画を見て泣きだしてしまった少女とご飯を食べている。店員さんが大人の男性にするように、うやうやしく勘定書きを伏せてぼくの側のテーブルのはじに置いた。

 ぼくはチップという制度があることをさっきの映画で確認したが、そこまで生意気にふるまうことはできなかった。

 ひじりは礼をのべる。ほんとうはぼくの父のお金だ。彼は息子のデートの相手に関心をもっているのだろうか? それよりも日々の晩酌にこころを奪われているのが妥当な帰結のようだった。


リマインドと想起の不一致(9)

2016年02月22日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(9)

 制服姿のひじりを目の前にしているのが通常の状態だった。日常の姿。日常は平凡とは言い切れないが、だが、今日は違う。駅前にいるのは私服の彼女だ。

 場所も違う。いつもぼくらは学校と互いの家の三角形の内側にいた。それは正三角形に近かった。今日はその枠外に出る。
 彼女は手をふる。ぼくは普段はしない腕時計を見た。この時計も数ヵ月ぶりの外出だ。

「ゆきのおばさんに会った」ここまで来る間に友だちの母親に会ったらしい。「ひじりちゃん、デートみたいな格好ね」とからかわれたようだった。母は出会いをゆきに告げ、彼女はそれをきっかけにぼくのことを話すかもしれない。そのうわさのまな板にのる自分はどのような評判を得ているのだろう。ひじりに見合う人間か、それとも、まったくの正反対なのか。ぼくの思考はこういう面に向かいやすかった。見合うとは?

 ぼくらは電車に乗り、となりにすわる。彼女は切符をもてあそんでいた。ぼくはひじりの爪の形を見つめる。それも確かに彼女の一部であり、また全部なのだとも考える。彼女から健康なにおいがする。成長期の少女が発するにおい。ぼくらの側が有しないものたち。果実。

 次の駅につく。間違って各駅停車に乗ってしまった。途中で後続の電車に追い抜かれる。それを気にしているのは自分だけのようであった。日曜の午前ののどかさがぼくらを覆っている。その印象は簡単にひじりに対するものと入れ換わる。

 次の駅名が告げられる。ぼくはこの電車に乗って高校に通うことになるかもしれない。東京のあらゆる場所から来る同級生に囲まれる。未来は何かを手放すことから生じ、その手放すもののうち、きっと、いや絶対にひじりは含まれないであろう。

 また次の駅に止まる。思い出はこの場所にはない。のこそうと思ってのこる思い出などなかった。自然につく痕跡。転んだときの傷のようなまのが思い出となり勝手に収集されるのだ。何駅か過ぎてやっと目的地に着いた。彼女の手から切符がふと離れる。屈んで拾ってから立ち上がった彼女は思いの外、小さかった。もしかしたら、ぼくの背がこの数日で伸びてしまったのかもしれない。このわずかな差が彼女との距離を開かせるような錯覚があった。

 この地も彼女が歩いた。ぼくといっしょに歩いた。交差点は騒音とともに車が行き交っている。向かいには雑踏があった。ぼくらの町とは違う。

 ひじりの後ろ姿を見る。ぼくが彼女を発見し、ぼくも彼女に発見されたのだ。その前から確かにいた。コロンブスが見つける前から土地も人も居たように。

 彼女はこの町を歩いた。ぼくと共に歩いた。手が不意に触れる。切符の感触よりぼくの手の方がいくらかましだろう。


リマインドと想起の不一致(8)

2016年02月21日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(8)

 本ものの勇気や恥かしさを知り、何かを好きになるという深さへの到達が次第に計れるようになった。プラモデルを作るという行為も好きから発生したものの一つだ。だが、そこには、ぼくの作業工程という能動さだけが問題であり、その完成による報いや示した愛情が意志的になんらかを返してくれることはない。一方通行の頼りなさがある。

 いまは違う。愛は相互に行き交った。発火や発電というスタートに無頓着なまま、電流があらゆる感情に導いた。停電もない。ロスもない。公害も皆無だ。そう、ぼくは社会の授業を受けている。あるいは理科かもしれない。テストの点数は、この二分野が劣っている。

 テストの期間だけ会う時間が減った、ぼくはそれを騎士道精神の表明のように考えていた。結果が出ると、ぼくらは共に少しだけ点数があがったことを知った。ぼくはうつつを抜かしているという両親の叱責をしっかりと払拭する。彼女の家族間の関係や立場をぼくはそれほど把握していない。それほどというのも言い過ぎだろう。ほとんどといっていいくらいに知らないのが事実だ。

 あと数カ月で中学生でいられる時期も終わる。体格は大人になりつつあるが、役割は子どもに近かった。そのことに不満もあり、同時に充足もあった。

 テストが終わった後の日曜に外出する約束をする。小さな町。目立たない路線の小さな場所。ぼくはここで生活して、となり駅のそのとなり辺りではまったくの無名だ。

 ひじりはぼくと出会い、ぼくの一部を知る。すべてを知るまでにどれぐらいの時間を要するのだろうか。親や兄弟以上にぼくを知っているという瞬間がある日、訪れるのかもしれない。その到達地もぼくにとってよろこびでもあり、ある種の優越感による気恥かしさもあるのだろう。

 ぼくは誰よりも、ひじりのことを知っているのだろうか。友人のさなえより彼女の内面に同調できているのだろうか。

 今度の日曜にそのチャンスが増すことを望んでいた。


リマインドと想起の不一致(7)

2016年02月20日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(7)

 ぼくらは休み時間や、放課後に語り合った。当面のライバルも恋敵もいない。平和な時期だ。みんながぼくらを一つのセットのように考えている。椅子には机があり、黒板にはチョークがあるように。あるいはおもちゃのレゴで精密に組み立てられた家のような立体的なものとして。

 実際に会いながらも電話でも話す。彼女は塾に通い、その後にも会った。ぼくらは受験をする。そこからは別の合格した学校に通うことになるだろう。ぼくらが密接に過ごせる時間はそう長くない。月曜の朝、朝礼の時間に立つ彼女や、体操着で走る様子。そこに、彼女がいた。

 現在という地点からさかのぼっているので、過去や次第にあらわれた未来を冷静に分析できる。判断が誤っていたのを理解しても、戻せないというもどかしさがあった。当時者でいることが最大のご褒美だ。ジェットコースターで悲鳴を上げる権利があり、涙を乾かすタイミングももっている。

 ひじりの性格の一端が分かりだしていく。それが女性らしさの模範となる。サンプルは少ない。一つの蝶々が世界のある地方にしかいない稀少なものでも、ぼくにとって全世界の品種に接したことと等しくなる。

 もっと後になって浮気性にでもなれば(結局、ならなかったと自認しているが、公認とまではいかない)その地方ずつの蝶々を発見する恵みも得られるだろう。どちらが幸福なのかは比較しようもないが、ぼく自身の経験でいえば(常にこれしか解釈の仕様がない)この休み時間も放課後も格別に楽しいものだった。

 ぼくらの内面は一体となることを望みながらも、反対に外側のものがあることで一体となることを拒んでしまう。これも大人になって反対の事実があることを不謹慎にも会得してしまう。外は一致しているが、内側は愛情などという高貴なものとは無縁でいた。よろこびがないわけでもないが、純真さを秘めているとは決していえない。また大人にとって純真などはアイスの当たり棒のようなもので、甘みの自己制限があり、二本も必要としていない。もっと手頃な、身近なものに愛着がある。

 ぼくらは離れる。淋しいという感情が見知らぬ場所から生まれてくる。うなぎの稚魚と同じと書けば、この文章自体が台無しになってしまう。

 場所を特定できないので消しようもない。次の日に会って、その気持ちが勝手に捨てられていることに気付く。毎日が、こんな感じだった。


リマインドと想起の不一致(6)

2016年02月18日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(6)

 ぼくという存在が、他人の目を通して、判断され、分類される。何人かの目がぼくとひじりをセットとして考える。無言の認可であった。

 ぼくは彼女のことが好きであり、彼女はぼくに気がある。周知というものだ。彼は左利きとか、ほくろがあるという単純なる周知とは異なり、途中で変化があるかもしれない規定のことがら。例えば、先輩は恋人を変える。ぼくもそうするかもしれず、彼女も同じような行動を取るかもしれない。数歩ごとに時間はすすむが、同時に永遠性も感じている。一歩ずつが永遠にとつながる。

 ぼくは質問され、答える。この日に思っていることを。お互いに好意をもったとはいえ何も知らないことにおどろく。知ることが好意ではなかった。好意があるんだから、より知りたいと願い、その増えた知識によっても、好意は増幅した。ぼくは信仰の話をしているようだった。

 いっしょに帰ることになったが、よく考えれば目指す方向は別々だった。どちらかが提案したり促したわけでもないが途中の公園のベンチに並んですわった。そこで静かさを実感する。

「そろそろテストだよね」
「ゆううつだな」ぼくはそう返事をするが、今の気持ちは正反対だった。未来のゆううつは現在をしばることができない。

「得意なのは?」
「好きなのは、英語」
「今度、教えて」

 ぼくは自分の有しているものを対価も考えずに与えることができる。見返りもなく、そして、いくらか尊敬されるかもしれない。だが、もっと彼女の頭の出来の方が上かもしれない。賢いことも魅力につながる。公園に冷たい風が吹き抜ける。ぼくらは立ち上がり、彼女の家へと向かう。契約もなく、約束という決まりもないのに。


リマインドと想起の不一致(5)

2016年02月17日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(5)

 学校の中ですれ違う。他人と親しみの境界線を露骨に感じる。彼女は足早に歩きながら、ぼくに向かって照れたように笑う。ぼくは自分の視線が固まるのが分かった。

「いま、お前のこと見てたよな?」
「誰が?」
「誰がって、ひとりしか通ってないじゃん」健人は、不審そうにこちらの顔をのぞきこむ。「いま通ったのはひじりちゃんだけだよ」

 彼はそれから、その不思議な名前について、つまらない講釈をたれる。その名前の響きはぼくにとって貴く、彼の歯みがき粉の匂いがする口から流れでても、汚されるようなことはなかった。

「ああいうのが、好きだったっけ?」

 ぼくらは、お互いの異性への好意と関心の歴史を共有していた。その年代の友人としては正しいことだった。どうしても隠したいほどの秘密もなく、切に焦がれるような気持ちも、まだ自分たちには訪れていない。最初は美しく、そして、自分のものにするのもむずかしい。ぼくはその前段階にいることも知らなかった。

 教室でさなえがぼくに目を向ける。千里眼という言葉を思い浮かべるが、実際は成り行きをもうひじりの口から聞いているのだろう。お見通しだ、という目に変わり、次には教師の声がする方向に向き直った。

 ぼくは、本物の授業という現実とは別の時間の流れの部屋にひとりで入り込んでいた。そこは無限に暖かく、新鮮なところだった。

 休み時間になると、さなえがぼくの机の上に紙を置いた。手紙だった。彼女は一言も発せずに廊下に消えた。

 ぼくは次の授業がはじまると、その小さくたたまれた手紙を開いて読み出した。内容は待ち合わせていっしょに帰ろうというひじりの思いが書かれていた。ぼくは部活もあり、また、いつも帰る友だちもいた。予定を変更することを関係者に伝えなければいけない。うれしさと緊張につつまれて、ぼくは世界の歴史を学ぶ。聞きなれた教師の声音を通して。

 もう変更の利かない教科書に事実として紹介されている埋もれたヒーローやアンチ・ヒーローのことを。


リマインドと想起の不一致(4)

2016年02月15日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(4)

「おかしな手紙を渡して、ごめん……」昔々の少女たちは控え目であった。完全なる自己肯定も、我先きにという感情もまったくのところない。

 ぼくは即答したい反面、それに値する、見合うべき舌を要していなかった。彼女の顔が赤らむのが見えるような気がする。本当のところは、その後もぼくの耳が刻んだ印象的な声しかぼくには届いていない。

「いや、うれしかった」

 しかし、彼女の沈黙は疑心暗鬼の確かな証明だった。
「ほんとうに?」

「ほんとうに」ぼくはオウム返しという単純な事実が自分に訪れたことにびっくりしていた。その後、確信というものを宙ぶらりんにしたまま、数分間だけ時が過ぎるのに任せる。最終的に電話をどのように切ったのかすら覚えていない。沈黙をひたすら守る武骨な電話機を見守りながら、自分の意図した意志や結果とは別なところで、よろこびも悲しみも存在することを知った。この時点では前者のよろこびだけだが。

「言ってしまった」とぼくは安堵なのか、ため息なのか分からないものを口から発する。すると、階下から夕飯の仕度ができたことを告げられる。この場の雰囲気とは合わない暴力的な感じで。一体、彼女は何を食べるのだろうかと想像してみる。女性と二人きりでご飯など食べたことも皆無だ。どれほどの量を食べ、何杯おかわりするのかも不明だ。情報というのは価値がある。

 彼女は何か作れるのだろうか? ぼくは空想の羽根を伸ばす。反対に現実というのは身近な音で構成されている。

「聞こえないの? ご飯だよ!」という声がまたする。ぼくは階段を降りる。恋はまだ食欲の有無や増減に関与しなかった。いつものように食べ、いつものようにご飯をよそう。


リマインドと想起の不一致(3)

2016年02月14日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(3)

 手紙。

 用事などを書いて他人に送る文書。意味を調べれば回答はいたって味気ないものだ。そこに感激や一喜一憂は微塵もない。悲嘆も衝撃もない。

 ぼくは短い内容が書かれた手紙をもらう。

「さなえから聞きましたが、わたしのことが好きだというのは、本当でしょうか? 冗談でしょうか? もし、本当ならば、うれしかったので。とても、うれしくなると思うので」

 さなえというのは、ひじりの親友だった。ぼくは、なぜ自分の気持ちを告げる気になったのか覚えていない。ただ、絶対的に彼女の耳に入るのは覚悟していた。空振りになっても困ることはない。小さな面子だけが汚されるだけだ。別に誰かを裏切ったとか、不正行為をしたという最低な行動に属するものでもない。フラれるというのは、どこかで通る道なのだ。七五三の小さな衣装のように。普通の男性ならば避けて通ることもできないし、経験する回数も皆無ではいられない。結局は、早いか遅いかだけだ。しかし、結果として、ぼくには先延ばしになってくれるようだ。

 ぼくは電話をする。手紙という悠長な時間を抹殺する。電話のダイヤルを回して、待っている間に、この手紙こそ冗談であり、ぼくをからかうだけのために、はしごを引き抜く楽しみによって仕組まれたプロットという可能性も捨て切れないことに気付く。さなえとひじりは、ぼくが本気にしたという点で笑うのだ。ぼくは急に小さな面子を一気にふくらませる。すると、彼女自身が電話口に出た。


ビートルズで好きな曲は?

2016年02月14日 | Weblog
You've Got To Hide Your Love Away

アルバム「ヘルプ!」の3曲目。

ジョン・レノン作の歌。

メイン・ボーカルも本人。

当時のアメリカのヒーローでもあるボブ・ディランの影響が強い。

片方は現在も音楽を作り、ライブ活動も活発である。

当然のこと、もう片方のイギリスのヒーローはニューヨークで銃弾に倒れる。

心情を吐露することか、アイドル性を保つことか。

もっともっと深く自分の思考を歌にしていく。

40代の彼が作った音楽はどんなものだったのだろう?

再結成の誘惑に勝てたのだろうか?

映画のアイ・アム・サムでもカヴァーされている。

ビートルズの多数の曲がテーマでもある。


リマインドと想起の不一致(2)

2016年02月13日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(2)

 なかなか主役(ぼく以外のもう片方の)を登場させないことに楽しみを覚えている。

 ぼくは手書きという古い手法で、記憶からもれなかったものをノートに書き付けようとしている。ワープロ・ソフトは便利だ。漢字も正確に呼び出せる。いままでは多用したが、今回は後で清書に用いるだけにする。断りをいれなくても、このときのぼくは電子機器に囲まれていなかった。そして、彼女も手紙をくれた。あの日々の少女たちは文字を指先で打たずに、きちんと紙に書いた。手編みのセーターのように市販のものより不格好であっても、ぬくもりがあった。ぼくも、デザインが優れていなくても、そのぬくもりを求めていた。

 守秘義務という開かずの門がある。個人が特定の個人に送ったものなど、その規定に入れるべき最たるものだろう。だが、たくさんの手紙(恋文)が表面で流通している。日記もそうだ。ユダヤ人の少女には秘密を地下や隠れ家に温存させることすら許されなかった。

 ぼくは取りとめもないことに時間を費やしている。直ぐに戻ってくると思っていた記憶は意外にも引っ込み思案な一面を見せた。手紙が残っていれば、過去の解凍は簡単なのだろうが、もう手元にはない。どこにも残っていない。ある日、燃やされて空中の見えない成分に戻った。記憶のどこかにとどまっているのかと、古い通帳の残高のように薄れた記帳された文字を点検する。その数字は意味があるのかもしれないが、実際には、すでにぼくの所有物ではなくなっている。いまは、金庫の奥で増えているのかもしれないし、減っているのかもしれない。その銀行の名前は変わり、彼女の現在も、苗字として前の半分だけ異なってしまっているのだろう。