爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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とっくりとチョッキ(4)

2017年03月29日 | とっくりとチョッキ
とっくりとチョッキ(4)

「あだ名つけて」とマリアが言う。
「どうして?」
「だって、一度もつけてもらったり、呼んでもらったりしたことがないから、これまで」

「マリアって、くずしようがないか。そもそも、あだ名って日本語がメインか」
「マリアだって、充分、日本語だよ」

 ロケット。八時半の男。これはあだ名とは呼ばないのか。愛称。俗称。
「まるで浮かばないな」
「だって、気さくに呼び合えれば親密さがレベル・アップすると思わない?」
「そうだね。でも、強制されるようなことでもないし」自分の発想のなさの言い訳や、貧困さを隠すことに汲々としている。そして、明日までの宿題にされる。

 小さな巨人。人間山脈。ピクシー。流通王。巌窟王。ひとはレッテルを貼りたがる。ぼくは大げさに考え過ぎている。恋人を気軽に呼ぶときのことだけを念頭に置けばよいのだ。しかし、マリアという三文字には変更が利かない。三角形の内角の秘密のように。削ぐ部分もない。だから、関係しない余計な逃げ場に頭を使ってしまう。

 マリア名人。名刀マリア。いや、刀は男性のための形容詞だ。剣や刀は男性名詞。鞘が女性名詞と適当なことを考える。魔術師のマリア。だが、魔術師になるのはあるひとときだけだ。

 人間機関車。トーマス君。天使の微笑み。ダイエット・マリア。無添加マリア。マリ。マー君。リー君。リー兄弟。アー君。

 翌日になる。名前を呼ぶ機会などそうそうない。両者はただそこにいる。しかし、なんの決意も覚悟もなく、ぼくは「マリ坊」と呼んでいた。

「やめてよ、普通にして」という抵抗のことばで、あだ名問題は直ぐに解決する。違う。取り下げられた。ぼくの頭脳もようやくしがらみから解放されると思ったが、そうでもない。

 貴公子。ノミの心臓。伝家の宝刀。サブマリン投法。
「なんか、退屈なの?」
「別に」
「こころ、ここにあらずだから」マリアは古臭い表現をつかった。
「ひとの印象を端的に、簡単にまとめたあだ名とか愛称って、不思議だなって」

「なんて言われたい?」
「不正をしなかった、とか」
「この前、カードの請求でもめていたのに?」
「あれは白黒はっきりさせる過程だから」

「コンビニとかスーパーで飲み物、わざわざ奥から引っ張り出すのに」
「胃腸が弱い消費者の防衛の判断だから。分かったよ、高望みし過ぎた」
「決して、高望みをしない男だった、とかは?」
「よくないよ。向上心は重要なアイテムだよ」そう言いながらも若いときの意地や潔癖さなど有している訳もなかった。「不正を許せなかった。ときには守れなかったけど」
「でも、そんなとこも好きだよ」

 ぼくの顔が緩む。上下に伸びる。律することを愛した男。ふところの広い男。背中の広い男。肩幅が多少、狭くても。年相応の成熟を拒否した人間。たったひとことの甘いセリフでなびく、見境なく尻尾を振る駄犬のような男。それでも、快適であるなら問題なかった。死ぬ直前まで、笑顔を欠かさなかった男。なんか違うよな。
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とっくりとチョッキ(3)

2017年03月26日 | とっくりとチョッキ
とっくりとチョッキ(3)

 会話。

「いちばん好きだった外国の女優さんは?」ぼくらは部屋で映画を見て、今しがた終わった。
「ウィノナ・ライダー」
「それ、誰?」

 説明する。

「ああ、ブラック・スワンの哀れなおばはん」
「こら」

 ひとは若い頃、自分が年をとるのはずっと先だと考えている。ぼくも含めて。
「いちばん手強い相手は?」
 しばし、考える。
「O・J・シンプソンの弁護士」
「誰、それ?」

 説明する。

「怖い話だね」マリアは恐怖より、悲しいという顔をした。「いちばん、好きな歌は?」
「好きかどうかは分からないけど、耳にのこっているのは」ぼくは節をつける。「十五、十六、十七と」

「伊豆七島?」マリアは遠くを見つめる。「そのつづきは?」
「じゅうなな。わたしの人生、暗かった」
「誰が、よろこぶの?」
「誰もよろこばないだろうけど、そういう唄もある。十九のわたしに戻してとか」
「同じ歌?」
「違う。でも、ジョイフルとかそういうんではないことで共通しているかも」

 ぼくは同じ質問を向ける。だが、どれも頭にはのこらない。彼女はCDをかける。その悲しみの内容を自分は理解できずにいる。友情や愛情。圧倒的な絶望の正反対。

「こわいものは?」
「水俣病。無責任な原爆投下」
「そんなにないよ」
「未来なんか誰にも分からないよ」ぼくはそう言いつつ、愛情の絶対的な否定、宣言だとも感じている。永続性と断続。愛情の断面みたいなものを想像する。しかし、木の年輪みたいにしかならなかった。

「マリアのこわいのは?」
「地震とゴキブリ」
「そこにいるよ」ぼくはキッチンの方を指差す。
「やだ」

 これらに時代も流行もなかった。

 音を消したテレビでは野球のデーゲームが行われている。芝生はみどりで、空は青かった。
「目の下の黒いの、あれ、なにしてるの?」
「昨日、門限やぶった罰だよ」
「みんな、遅かったみたいだね」
「まじめなひともいるよ。ほら。ところで、マリアのお父さん、野球、見なかったの?」
「学者だからね」

 答えにはなっていない。それでも、学者が娘につける名前はもっと小難しいものになりそうだなといらぬことを考えても、口にしなかった。

「外、行く?」マリアが訊く。ぼくは窓の外を見る。青空。永続性。

 公園でカメラを子どもに向ける父親がいる。同じように犬を写しているひともいる。どちらも動いてしまって被写体として静かではない。じっとするのも困難なのだ。マリアもおそらく学者である父と似たような時間があったのであろう。子どもはたくさんの質問をする。だが、本当の答えは実体験のみが親切に、丁寧に、ときには乱暴に教えてくれる。だから、自分は学者になれなかったのだと思う。そもそも、そういう遺伝子を有していない。

「戻れるなら、いつ?」
「はじめて後楽園球場で野球を見たとき」

 本当にそれで良いのだろうか? しかし、はじめてというのは根源的な快楽が灯されている。かすかに、だが、しっかりと。はじめてのバイト代。はじめて自腹で寿司を食べたこと。はじめてひとに奢ったこと。はじめての飛行機。そのはじめてという体験に戻れるなら、新鮮さを取り戻せるならいつでも良い気がした。
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とっくりとチョッキ(2)

2017年03月21日 | とっくりとチョッキ
とっくりとチョッキ(2)

 プラザ合意というものをホテルかデパートの協定だとマリアは思っている。自分の理解もそれほど異なっていない。ぼくの青春のはじめ。そして、日本の好景気の終わりのきっかけでもある。

 ぼくは下降線と停滞を知る。マリアの時代は底辺のみだ。日本とドイツは戦争に負けたのか? 長い目で見ればという議論もあった。儲けというものは労働時間で割るべきだ。すると、この二国はまったく異なった環境にあるらしい。死に至るまで労働を。

 ぼくは余分に二十五年だけ経験があるだけだ。新聞をその分だけ読んだ。黒いインクの蓄積があり、それが知性だと思っているのだろう。マリアはタブレットで洋服を選んでいる。ぼくはその横でデパートの屋上で遊んだ風景をなつかしんでいる。上階のレストラン。あそこには自由があった。普段、家では提供されない食べものがある。洋食ということばが生きていた時代だった。栄誉ある絶滅危惧種。

 ぼくらは東京タワーを見上げている。足元の交差点は尾根であり、谷であるという不思議な形状だ。ぼくはこうして地面も見ている。ロシアの大使館には北方領土の模様の絨毯があると、ぼくは偽の情報をマリアに話している。マリアにとって、そこはとっくに日本でもないらしい。惜しいとか、惜別という感覚が昭和にはあった。

 積み上げた事実が歴史だ。東京タワーがない日々はぼくにはない。ぼくはマリアを四十七年間、知らなかった。マリアはぼくを二十二年間、知らない。この期間に塗り重ねられたペンキがぼくというものを体現していた。無数のコマーシャルで購買意欲を刺激され、気に入ったものもあれば、しっくりこないものもでてきた。友だちと交換したり、どこかに売り飛ばしたものもある。カセットが二つ入るラジカセを急になつかしむ。

 コレクターは後ろ向きな存在なのか。今後、欲しいという望みが推進力となる。東京タワーを手に入れようとは思わない。これは公共のものなのだ。信号機もいらない。ガードレールも不要だ。マリアは必要だ。女性には公共などないのだ。

「はじめて、見たのいつ?」
「いつだったかな。もう思い出せないかも」

 ぼくの原始の風景にはアメ横があり、不忍池があった。港区も千代田区もぼくの守備範囲ではなかった。だから、記憶もエラーする。そのぼくの美的感覚や嗅覚が最終的(途中経過かもしれない)にマリアを選ぶ。

 ぼくらはコーヒーを飲み、窓の外の東京タワーを眺めずとも意識する。択捉タワーとか歯舞(読めた)タワーとか、あったら良いのになとぼんやり考えるが、もしかしたら、そこも守備の範囲を越え、あるいは場外という素手や素足の自由を有しない感じなのだろうか。いくら現実のコーヒーがうまくても。

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とっくりとチョッキ(1)

2017年03月18日 | とっくりとチョッキ
とっくりとチョッキ(1)

 まだ町にはポストと同程度、いや、それ以上に公衆電話のボックスがあった。統計は調べる気もない。印象だけが大事だ。ひざ辺りには分厚い電話帳もある。離れたひととの意思の疎通に性急さを求める場合は、電話は群を抜いて活躍していた。しかし、家の電話は留守番の用まで果たしてはくれなかった。黒い電話はチャレンジという気持ちが欠けていた。一徹ということばが信条のようだ。

 夜には、チャルメラという共通認識のラッパに似た音がラーメンを売りに来たことを告げる。夕方は別の音が豆腐を家々に紹介して、夏には金魚まで売り歩いていた。

 VHSにも特許があるらしいが、その分け前は現在、どの程度あるのか分からない。ソニーという会社は別の形態を試みて、戦に負けた。資本主義と共産主義のように。その後も、アップルという舶来の会社に最大の武器でもあった製品の市場を奪われる。周知の事実である。やはり、試みというのはした方が良いという結論に至る。

 MDという過渡期の品物もある。メモリには制限がある時代だ。カメラも現像というものを通して、自分に帰ってきた。あの日の瞬間を切り取って振り返るのには、数日かかった。それでも、子どもの運動会の名場面は撮りたいものである。

 こんなことを長々と語っているのは、ぼくは運よく、あるいは運悪く、若い女性を知ってしまったからだ。いちいち説明する暇もいらなかった同年代の女性たち。省くという感覚もない会話。95年に日本は終わったという仮の提案を受け入れざるを得ない映像たち。ぼくらは、あそこにいた。好意の対象はブルマを履いていた。

 居間の箱のなかにはバカボンがいてルパンがいた。拳銃の固有の名前をエンディング曲のなかで高らかに歌っていた。大らかな時代だ。

 ホーナーにとって神宮の野球場は小さ過ぎた。野球はしかしスターを変え、さらには年俸をアップさせて生き残っている。

 チッパー・ジョーンズという名詞をマリア(若い女性の名)はジーンズのブランド名だと勘違いする。リーヴァイス、リー、エドウィン。チッパー・ジョーンズ。そう悪くない並びだ。ぼくは、アメリカ合衆国が管轄している野球が好きなおじさんに、センスのある答えという質問を勝手に作り上げ、マリアに説明していた。

 同じような話題で、ソクラテスとファルカンという名前も口にする。マリアは哲学かサーカスの話かと思っている。有名なサッカー選手も時代で代わる。息が長いということは確かに意義深いことなのだった。ぼくは彼女の古びた筆記用具にセーラー・ムーンのシールを発見する。男の子のヒーローはもっと無骨であり、あるいは愚かなロボコンあたりだった。ロビンちゃんもいつまでも少女のままではいられなかった。

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仮の包装(25)

2017年03月14日 | 仮の包装
仮の包装(25)

 大きな音で目覚めた。目を開ける前に別の音で意識が次第に回復する。鳥の鳴き声だ。ぼくは用心深げに薄目を開ける。朝日がまぶしい。いや、この日射し、朝と断定できるのか?

 ぼくは結婚式の途中にいた。息苦しさを覚えながら黒い服に包まれているはずだった。しかし、身体をまさぐるとよれよれのコットンの手触りになっている。そもそも、ここは電車のなかだった。なぜだ。

「お客さん、終点ですよ。降りてください」
「はい」返事は直ぐに出たが、腰をあげることはなかった。「あれ、ももこは?」
「誰かといっしょでした?」

「そういうわけじゃないんだけど…」狐につままれる。意味のないことばだけが、この状況を証明する。
「他のお客さん、全員、降りましたよ」やんわりと催促される。

「はい」ぼくは遅々としながらホームに出て、身体を伸ばす。ポケットには携帯と昨日のレシートがあった。ぼくは着信の履歴を確認する。良枝から何度もかかってきていた。外の風景を見ながら、仕方なくかけ直す。

「あ、やっと、つながった。いったい、どこにいるの?」
「どこだろう」山菜そばというのぼりが風に揺れている。周囲は山しかない。
「なに言っているの、しっかりして。きょうは新居の家具を買いに行く約束じゃない」

「そうだった」ぼくはホームの柱の時計を見つめる。「昼過ぎには戻れそうだから、どっかで待ち合わせしようよ」

「いま、どこなの?」ぼくは駅名を告げる。自分でもはじめて口にしたかもしれない駅の名を。「なんで?」答えを言ったら、良枝は余計、冷たい口調になった。
「飲み過ぎたかもしれない」
「分かった。少しは、心配してるんだよ」彼女は悲しそうな声を出す。

 その後、待ち合わせの場所と時間を打ち合わせて電話を切った。ぼくは時刻表を調べて、次の電車が直ぐにないことを知ると、急に空腹を覚えて駅の外にいったん出た。あののぼりの店で温かいそばでも喰おうと考える。

 どこかで見たような店内だった。造りもカウンターも似ている。ぼくは注文をして、新聞を広げる。やはり、昨日の次の日付だ。

「お客さん、観光ですか?」
「そういうつもりでもないんだけど」山登りの格好でもない。返事を聞かなかったのか、話し相手が欲しいだけなのか決めかねるが、店主は歩いていける名所を説明しだした。すると、どこからか猫が入ってきた。床には餌が置いてある。その猫は祈るように皿の前で目をつぶって数秒だけじっとした。

「信心深そうでしょ?」
「ええ」ぼくは空腹に誘われるまま、そばをすすった。思ったより大きな音が出る。その豪快な音で猫はびくっと身体をふるわせた。

 そろそろ次の電車が出発する。ぼくは呆然としながら帰りの電車に乗る。もう眠れそうになかった。待ち合わせの場所で良枝はふくれている。当然だ。ぼくはコーヒー店でいくつものお世辞を言い、彼女の機嫌が回復するよう、なだめたり笑わせたりした。そうしながらも、家具の値段を書いてあるメモ帳にいたずら書きをした。

「なに、それ?」
「へびの足」それはへびではなく、恐竜のようになっていた。「今度、海でも行こうか?」ぼくはももこがいた地名をさりげなく口にする。
「やだ、ハワイかグアムにでも行こう。償いとしてなら」

 ももこはパスポートをもっていたのだろうか? お腹が安定してから行く新婚旅行のために作ったような気もする。



 政治的な蛇足。

「そうだよな。でも、あそこ、なかなかいいらしいよ」ぼくは調子にのって、執拗に海辺のホテルの名前を、意図を悟られないようにそっと持ち出す。
「だから、やだって。あんな場所にホテルなんかないよ。原子力発電所しかない町なんだから」

 へびはぬるっと消える。




2017.3.14

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仮の包装(24)

2017年03月13日 | 仮の包装
仮の包装(24)

 順序を追うべき事柄。

 ぼくは、ももこにプロポーズをする。ボーナスをまるまる指輪代にした。その前に彼女と下調べをしていたので、突然のフックという感じではなかった。ぼくは断られないのを知っていながら、少し不安もあった。空振りには気をつけていても。

 その翌日、彼女は身体の不調を訴える。健康な若い女性が病気になることもあるが、それらの症状とはちょっと違う。彼女は身ごもるのだ。フックはここで決まる。どのぐらいの小さな生命体か分からないが、ぼくの何かと彼女の健康な何かが共同で働き、別のものに変化する。ぼくは話を先延ばしにしようとしていた。

 しかし、彼女の両親は不本意な手順に対して怒らない。ぼくの両親は電話の向こうで恐縮がり、ぼくの不注意をなじった。仕方がないのだ。世の中に凹凸がある限り、こういうことも起こり得た。

 だが、この後のことをスピードアップして対応しなければならない。ぼくは上司に打ち明け、彼はぼくらのホテルの予定を見つめた。ぽっかりと空いている日がある。大安という訳にもいかないが、そう悪くもない日だった。ぼくは提案されるまま日取りを決め、両親の宿泊もお願いした。

 ぼくは夫となると同時に、いや、そんなに時間を置かずに父親になる。どちらも初心者だ。即席でも訓練があればいいのにと無責任なことまで考えていた。だが、責任はもう既に生じている。今後、ずっと自分のためだけではなく妻と、息子か娘のためにも稼がなければならない。娘か息子という順番でもよかった。不都合はない。

 その日は来てしまう。最初から日にちは分かっていたが、それでも、突然という風だった。さらなるフックかアッパー。ぼくは四回戦ボーイのように緊張している。ぼくが主役の日はそんなになかった。今日は一世一代の主役だ。これも自信過剰だ。こういう場合は花嫁が尊重される習わしなのだ。

 扉の向こうに漁師とももこが待っているのだろう。真紅の絨毯のうえを歩く。ぼくはこの瞬間、場違いのごとく急に冷静になり、なんて幸福な人間なのだろうとしみじみと実感していた。両親は額の汗をぬぐっている。快適な空調と温度設定の室内なのに。窓の外は青空だ。ぼくは馬車にでも乗ってパレードしたい気分だった。華やかなヤンキースの選手のように。

 ももこはプロの手によって化粧をされ、ドレスを身に着けるのだろう。お腹はそれほど目立っていない。目立たないからといって、ないことにはできない。それにしても甘い時期ももう少しだけあってもよかったのかもしれないが、欲張り過ぎな願いなのだろうか。

 漁師は孫を心待ちにしていた。名前をつけると宣言しているが、どの候補も古びた名前だった。世界は狭まる傾向なのだ。誰もが簡単に覚えられる名前がいちばんだろう。どちらにしろ、ぼくらは忘れないが。

 ぼくは子どものときに見たプロレス中継の入場を思い返す。悪役は大体は、傍若無人な振る舞いで控室から出てくる。サーベルを振り回し、重そうなチェーンを頭上で回転させた。ぼくは、やはり幸福な部類の一員なのだ。

 扉が開く。若い女性と日に灼けた男性がいる。その女性はぼくというひとりを選んだ。流れ者に近かったぼくが選ばれた。錨で固定されるように選ばれたのだ。公約を守らなくても、半永久的に当選し続けるだろう。そこまでは甘くはないか。

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仮の包装(23)

2017年03月11日 | 仮の包装
仮の包装(23)

 ぼくは海辺のホテルで働きはじめていた。結婚するにはまだ若過ぎる年齢だ。このホテルで祝われる第一号になるという夢は簡単には実現しない。直ぐには叶わない。ぼくは披露宴の真新しい看板の名前を見ている。ぼくのでもなく、ももこのでもない。もし片方があったら逆に困るだろうが。

 ぼくには寮があった。食事も用意されているが味に飽きるとももこの家に向かった。新鮮な魚があり、酒も豊富にあった。結局、ぼくは同じ場所にいる。風雨にさらされた民宿ではなく、きれいな最先端のホテルに変わっただけだ。ぼくの内面は変わらない。

 外部は変わる。ぼくはローンで中古車を買った。駐車場はももこのところで格安で借りている。たまにドライブにも行く。ももこが運転することもあった。彼女は日々の労働でためたストレスを発散できるといった。そして、車内におかしなぬいぐるみが増える。ゲーム・センターで引っ張り上げられたものもある。彼らの安眠の場所から連れ去る。彼らも透明な囲いに別れを告げ、たまには違った景色を見られてよろこんでいるかもしれない。

 ぼくらは同じ経験をする。ある日、ぼくらはぼくの生まれ故郷まで足を伸ばした。実家にも寄る。両親はももこのことを気に入ったらしい。母はいらなくなったアクセサリーをいくつかももこにプレゼントした。それはクラシックと呼べそうな、またある面では骨董品のように古びていたが、彼女は裏表なくよろこんでいた。

「あそこで育ったんだ?」
「海沿いの町で、太陽を浴びながら育ちたかったな」
「スキーもした?」
「したよ。雪下ろしも。メルヘンじゃない現実で」ぼくは故郷をわざと悪く言おうと努めたが、実際は、ただなつかしかった。

「何年かに一遍は行けるかな?」それは未来に対しての約束だった。ぼくらは互いに離れるということが分からなくなってしまったらしい。選択の期間は終えていた。野球少年がいまさらサッカー少年としてのスタートを切れないのと同じことだ。時間が解決するというが、過ごした時間がなにかを決定するのだ。時には小さく細切れに奪いながらも。

 帰りはぼくが運転している。その行為や道のりを帰るという風に考えていた。ぼくの町。あの海沿いの景色。古い民宿。タイルが剥がれた風呂場。女主人のため息。早朝のご飯の炊ける香ばしい匂い。

「いつか田舎に住みたい?」
「まったく。だってぼくが好きな町はあそこだけだから」太陽と潮風。船と漁師たち。カモメと野良猫。

「そう」ももこはしばらく沈黙する。暗くなってなにも見えない窓の外を見ている。「コーヒーでも買おうか、眠そうだから。あともう少し時間、かかるよね?」
「どっかで停めるね」

 両親はいつか、ぼくの働いているホテルに来なければならなくなる。快適なベッドで寝て、花嫁を見る。花婿になった息子を受け入れる。たどたどしい神父の日本語の返事にもらい泣きをするかもしれない。ぼくは未来をつくれるのだ。そのささやかな第一段階がコーヒーを買うという単純なことで示せるのだ。
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仮の包装(22)

2017年03月04日 | 仮の包装
仮の包装(22)

 週が月になり、また週が重なり月に加算される。仕事の段取りも覚える。先輩からこっそり技を盗み、自分に役立てていた。相変わらずトレーナーから名前で呼ばれることはないが、注意は減った。自分の頭で判断できる範囲も拡大されるようになり、咄嗟の対応にも苦慮することはない。取り敢えず、バンカーからは出さないといけないのだ。

 宴会でつかうものの仕入れを任される。ぼくは以前の仕事で発注ミスをして上司が方々に謝った経験がある。あの体験の再現だけはごめんだった。ぼくは繰り返し確認して、他人の目も借りた。チェックも度が過ぎれば遅延につながる。スピード違反も困る。世の中はタイミングがすべてのようだ。

「だいぶ、なれてきたな?」と支配人が言う。質問のようでもあり、同意を促すためだけのことばのようでもあった。

「それなりにですけど、まだまだです」

「謙虚も覚えたし」彼は笑って歩き去る。いったい、陰でどのような責任ある仕事をしているのか分からない。競馬の順位を予想するような気安さで、あるいは真剣さで仕事をしている。見習うべき点だろう。がむしゃらな失敗もあるし、軽やかな成功もある。ぼくは答えのない質問を自分に投じ、あれこれ考えるのが楽しくなっていた。

 休みがまた来る。ぼくは電車に乗っている。自分の車がもてるようになるのはいつのことだろう?

「免許、取ったよ」とももこが誇らしげに言う。手には四角いものがある。「写真映りもまあまあだし」
「どれどれ」ぼくはのぞきこむ。すました顔の若い女性がいる。「ほんとだ」
「わたしからも会いに行けるよ」
「遠いよ、危ないし」
「行っちゃ、ダメ?」

「そんなことないけど。でも、あと三か月ぐらいでこっちに戻ってくるよ」
「一度、どんな所か見に行ってみたいし」

 ホテルはもう建っていた。周囲の芝生や樹木を植えたり手入れしたりする段階になっている。会社が借りていたアパートは無事に役目を終え、また新たな住人に貸していた。ぼくはももこの家の隣にある倉庫のような場所で寝た。寝袋もあり、そこから波の音も聞こえる。

 翌朝といっても明ける前に、ももこの父の船に早起きして同乗した。波は穏やかだった。

「あんなところに寝てもらって悪いな」
「大丈夫ですよ。ぐっすり寝ましたから」
「ももこと一緒になるのか?」
「おそらく」

「父親としては頼りないことばだな」
「そうですね」ぼくは笑う。彼もまた快活に笑った。大漁の日のように。
「こっちも完璧な女性に育てたとは胸を張って言えないもどかしさもあるしな」
「そんなことないですよ」
「あばたもえくぼ」

 ぼくはそれを魚の名前の一種類のように聞いた。

 朝の海は素敵だった。さわやかな風が頬を撫でる。ぼくは可能性が広がるのを感じる。詩人にも、海だけを舞台にする映画監督にでも、なんにでもなれそうだった。錯覚というのはとても気持ちのいいものだった。早起きという休日のなけなしのご褒美の睡眠を代償にしたとしても。

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仮の包装(21)

2017年03月01日 | 仮の包装
仮の包装(21)

 大きな失敗の披露も、また逆の意味の自慢である。ぼくは自慢をよしとしない。だから話さないことにする。

 そして、ももこの失敗を話す。彼女の職場に偉いひとが来る。最初に応対したのは彼女だが、前以っての情報がないためフランクに接し過ぎてしまった。周りはその後ピリピリとして彼女を叱責する。しかし、普通の対応をされることのなくなった偉いさんは、彼女の度胸を讃嘆する。どこかおとぎ話のようでもあった。彼女にそのひとを通じ(いろいろな経路を経た上で)、見合いの話が来る。世界はややこしいところだった。

「おもしろいと思わない?」
「そうかね」ぼくは不服であった。場所が遠いと即座の返答もできない。「するの?」
「しないよ。お父さんも怒ってる」
「なんで?」
「なんでって、あなたがいるからでしょう。お父さんもお母さんもあなたのことが好きだから」

 結果、自慢話をしている。しかし、重要なこととして当人の最新の気持ちが聞けなかった。そして、ぼくも同様に告げない。今度、帰ったときに訊いてみよう。

 建てはじめているホテルのそばに6部屋ほどのアパートがあり、入用だといってホテルが一棟丸ごと借り上げていた。ぼくは、その一室を借りることを許されている。そこから、ももこの家に行く。

「精悍になったね」とももこが言う。
「ももこも女性っぽくなった」彼女の頬は紅くなる。

 最後に会ってから三か月が経っていた。もっと頻繁に帰ってくる約束だが、すべての約束と同じで守ることはむずかしかった。ぼくは実家に寄ったり、さまざまな資格の試験を受けたりした。そのために休日も勉強した。

「だいぶ、完成に近づいたね」ぼくはホテルの前に立って感想を述べる。
「まだまだだよ」
「あと二回ぐらい、もどってこれるかな」
「少ないけど、やっぱり、ここで働くんだよね」
「そうだよ」

 ビーチに向けて教会ができる。ぼくはそのことを伝えていない。よくよく考えれば結婚というのは、ももこにとって早過ぎる選択だった。第一号になるなら二十歳を越えたばかりだ。その前にプロポーズをして受諾して親も説得してと考え、そこからさかのぼれば今日あたりがタイム・リミットのような気もする。なぜ、ぼくは第一号にこだわっているのだろう。あのひとに言われたこと、そそのかされたことを信じているのだろうか。

「佐野さんから手紙が来た」ももこは四角いものを胸の前で指でつくった。
「なにが書いてあった?」
「山梨のことや、名産品を送るとか。まだだけど。それから、ここが恋しいって」
「そうだろうな」

 ぼくは完全に仕事のことを忘れていた。しごかれていることも、数々の失敗も。東京でふたりで住んでいたアパートや近くにあった商店街の活況も。未来は無限であり、過去は有限だった。いつかそのバランスは反対になるかもしれない。その未来になにを引っ張り込めるのだろう。小さな引き出しのようなものを想像する。つめ込めるだけつめるのか、それとも、バランスよく並べるのか。ぼくに答えはないし、ほかのひとに尋ねるようなことでもなかった。

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