爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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問題の在処(8)

2008年09月29日 | 問題の在処
問題の在処(8)

 仕事を終えて、家に着く。いつもの日常の繰り返しだ。妻が玄関に出てきて、「今日はどうだった?」と尋ねた。あとでゆっくり話すよ、と言って奥に歩いて行った。クローゼットに向かって、ネクタイをはずしていると、妻がいつになく厳しい口調で、息子に「明日は、ちゃんとあやまれる?」と訊いていた。なんどか、無言の抵抗がありながらも、その防御は強固なものでは決してないので、いつかは泣きべそが混じった声音で、うんと小さく言っていた。

 息子も寝入ったところで、先ほどの詰問のことをきいてみると、ある女の子にいじわるしたことが見つかってしまい、幸太は何も悪いことをしていない気だったのだが、女性的な観点から見ると、許しがたいことがあるのだろう。

 自分にも罪という意識があった。和代というきちんとした交際相手がいたのに、自分は無頓着に別のこころが伴わない契約をしていた。それを悪いことだとは思っていたのだろうが、ものごとを白黒と決めかねない態度で肉体の交渉をしていた。いずれ、ばれてしまうのも時間の問題だろうとは思っていたが、その時になってしまわなければ自分は辞めないだろうとも、自分自身にあきらめていた。それで都合が良いのかもしれないが、そんなには責められずに、うまくやり過ごせるのではないかとも考えていた。

 それで、なんの拍子かは分からないが、いま考えるとB君の彼女は、しきりに店に寄っていたので、ぼくと店長の奥さんの不自然な関係を見抜いてしまい、告げ口をしたのだろうとも考えられる。違っているかもしれない。

 そういうことを、B君の彼女にそれとなくきかれたこともある。ぼく自身は、B君の女性関係に辟易していたので、お前も自分のことをもっと心配した方が良いだろうに、と思って適当に対応していた。その、いつにない投げやりな態度が、女性同盟の反発をくらったのかもしれない。

 和代は、その問題をうまく切り抜けることは出来なかった。学校を休み、誰とも連絡を取らなくなってしまった。ぼくは和代の親に呼び出され、長い時間、説教された。苦痛に感じた太股の痛さをいまでも思い出すことがあるが、多分、和代の認めている痛さというのは数千倍もあったのだろう。

 ぼくは、それでもある関係をやめなかった。仕方のないことだったかもしれないし、ただ意地になっていただけなのかもしれない。

 和代の父親は、すすんでかしらないが、ある企業のいい立場にいた人間なので、転勤も多かったが、その時にアメリカに移動になった。和代もそれについて行った。それ以来、和代の存在は頭の中にありながらも、肉体という形では見ることがなくなった。誰かを徹底的に傷つけた、という嫌な後悔まみれの印象だけが自分に残っている。

 自分が生き抜くには、多少の悪影響を与えてしまうことはあるだろうが、恐らく、あれはやりすぎだったのだろう、と今では考えるが、そのあと、自分は一切手を汚さなかったなど、ありえないことだとも思う。

 幸太の寝顔をみる。泣きながら母親に謝っていた。ぼくの悪い一面を信じていない祐子が横にきて、「ぐっすり寝たみたいね?」と言った。

 あの時に、しばらく経って、A君は長文の手紙を和代に送っていたことを知る。返事は、もらえたのだろうか? ぼくのことを恨むのは間違っていないかもしれないが、良いところのある奴だから、いつか時間が経過したら、許してやれよ、という内容だったらしい。そんな表面的な言葉は、いつもむなしかった。

問題の在処(7)

2008年09月22日 | 問題の在処
問題の在処(7)

 息子は、ある女の子と遊びたくはないと言う。そのことを訊くと、嫌いな子ではないそうで、逆に好きなはずだと妻はいった。この小さな個体のなかにも、いろいろな判断がうまれるのだろう。

 その小さな存在が、誰かのこころを傷つけることがないといいのだけれど。
 ぼくら友人たちも違ったかたちで、女性を知ることになる。

 B君は、きれいな彼女と順調に交際を続けている。傍目から見ても、それは素敵な関係だった。彼女は、週に一度ぐらいは、ぼくがバイトをしている店に寄ってくれる。普通の子とは、音楽の趣味が異なっており、それもまた彼女の存在を魅力てきにしているものかもしれない。

 軽く受け答えをしているときに、ぼくに見せる仕種のひとつひとつに女性らしさが表れている。天性にもって生れたものを評価する社会と、後天的に努力して勝ち取った能力を評価されるのは、どちらが正しいのだろう。彼女は、その時点では生まれながらにして優しさが溢れているような人だった。いつも、帰りがけにはぼくに励ましの言葉をかけ、今日は会えて良かったな、という印象を抱いた。

 ぼくに対してそうなのだから、本物の彼氏であるB君は、とても幸せであると想定される。しかし、若い男性のこころが動かないなど、誰も考えていないかもしれない。そう作られていることを残念に感じたりもする。直接、交際をやめてしまうようなことはないが、B君のまわりには不特定の女性がいた。そのことを、真の友人は責めたりした方が良いのだろうか。ぼくには分からなかった。

 A君は勤勉な労働者になっている。学問自体が嫌いなわけではないので、そうした人の遠回りの特徴として、本を手にすることになる。それ以外に確実な方法などあるのだろうか? と彼は言っている。本を読むことに没頭すると、頭の中で理想を追求することが生まれる、と彼は言った。すべての理想には、出来損ないである現実という名前の弟が備わっている。その二つは、距離をある程度とりながら宿命的に一致することはないだろう。

 それで、不思議な結論になるのだが、A君の頭の中には理想の女性というものが生まれてしまったらしい。それが舞台袖から登場するのか、それとも、やはりそんな人が表れないかは分かるわけもない。だが、ぼくとしては登場することを望んでいる。

 そういう頭の中のモンスターがありながらも、実際の愛のない関係は、やはりしていたのだと思う。働いて余ったお金は、どこかで流通させなければならない。それが下水に流れても、水は水である。もとはきれいな山頂の清流であったかもしれないが、下流にいけば生活用水などで汚されている。どうして、人間の営みが汚れから影響されずにいられるだろうか。

 ぼくは、レコード屋のバイト先で知り合った店長の奥さんと、そういうことになる。それは安易と呼べるものなのだろうか、それにしてもぼくにとっては幸福の象徴のような出来事であり、またゴールの幕は切れてしまったという実感でもあった。そのことを、定期的に行うようになり、ぼくの女性観の一部が作られていく過程でもあった。

 もちろん、ぼくには和代という同級生だった女性とも交際していた。彼女は、ぼくの行動を疑うようなことはまるでなかった。ぼくも後ろめたい気持ちも少なかった。

 こうして、ぼくら友人は、なんでも話せるような仲には終わりを告げ、それぞれの秘密を自分の身体に宿しながら、会うようになっている。

 ぼくは、試験前になるときだけ勉強するようなタイプになり、A君は学校での勉強を捨て去ってしまったが、なにかを学ぼうとすることは熱心であり、B君はなにごとにもうまく振舞っていた。バイトをしながらも、いつも成績は優秀で、服装なども洗練されていった。彼には、輝ける何かがあり、将来的にも社会てきに有能な人材になりそうだった。

 こうして、数か月で、それぞれきちんと整備された高速道路の入口にはいったようなB君がいて、平均的な田舎の道路を走っている自分がいて、険しいながらも見晴らしの良い場所にたどり着けるかもしれないA君がいる。それにともない、思い出というものは子供好きの両親のアルバムのように、記憶の中に増えていった。それが甘い分量のが多ければいいが、そうならないものがあるのも、これまた10代なのだろう。

問題の在処(6)

2008年09月19日 | 問題の在処
問題の在処(6)

 息子がいつもの昼間、遊んでいる場所に行きたくないと言った。
 家に帰ってから、妻がそのことを話した。なにか心配になることがあったのか尋ねたが、別に大きなトラブルはないようだった。そのことを息子という脳の中にあるファイルにしまいこんだ。それを再び、引き出して考えることがあるかは、また別の問題だった。

 A君のことをたびたび考えている。彼は、夏休みが過ぎたころ、急に学校を辞めると言った。自分としては、学校にいるより、なにか職業を早く自分のものとして身につけ、ひとりで生きていけるようになりたいと語った。それは、ぼくの側から客観的にみれば、無鉄砲のような気がした。しかし、このような問題でも相談にのることはできるが、決定を覆すようなことはできないし、しないつもりだ。

 ぼくは、そんなに真剣にものごとを追及して考えるようなことはしなかった。大体の流れにのれば間違ったところには到達しないだろう、という認識でいた。それで、制服に身をつつみまた学校に通い始めた。そこを見渡せば、欠けた椅子があり、A君と同じように途中で学業を辞めたひとも何人かはいた。しかし、彼らは机の上の学問ではなく、実践で大まかなことを学んでいくことになるのだろう。その後、机の上の学問が好きになるのならば、再チャレンジができる仕組みになっているのか、それとも、もうベルトコンベアに乗ることはないのだろうか、その当時のぼくは知らない。

 ぼくは、部活をしないで知り合いのレコード店で店番のバイトをした。いまのような大型店舗が全盛の時代ではなく、小さな町に小さなレコード屋がある、という風景が残っていた。そのような店のひとつだった。店長は若いころにバンドをしており、いまでもそのような風采が抜けきらないような人だった。経営にそう熱心でもなかったが、奥さんがよく頑張っており、なんとか軌道にのせているような状態もみられた。それで、ぼくにも自由な裁量が後々に与えられることになった。

 その奥さんは優しい人で、よく食事も作ってくれた。小学生の女の子があり、その子と暇なときには遊んだ。彼女はなぜ、あんなにも慕ってくれたのだろうか。一人っ子というものはさびしいものなのだろうか、といまになっては考える。

 その店で働きだしてB君の彼女がよく遊びに来てくれた。小さいときにピアノを習っていたらしく、いまでもその外見とは別に、静かな音楽を求めていた。店に在庫がないような音楽なので注文し、それが入荷して、また彼女に連絡するというようなことも多くした。彼女は、どこで買っても同じだろうが、ぼくとしてはあまりにも暇だと退屈するので、そんなときに彼女の要件に対応すること自体が楽しかった。そのうち、彼女は学校の友達も多く連れてきて、その時に流行っているCDがかなり売れるようになった。

 売れ行きが上がれば、店長はなおさら店に居座らなくなり、どこかでギターの練習でもしているようだった。たまに、ぼくを外食に誘ってくれたが、いまの音楽の軟弱さをいつも憂いていた。店長にとってみれば、音楽とは、ストーンズであり、ジミー・ペイジであるようだった。ぼくにも聴く音楽に気をつけるように何度も講釈した。それは参考になる意見だったし、当然受け入れる必要のある言葉だった。
 売れ行きに合わせ、注文するリストを書き込んでいると店長は急に顔をだし、聴くべき音楽はあまりない、というような表情をしたが、実際のところは、どの音楽のことも詳しく知っていた。いつ、そんな時間を捻出しているのかは分からなかったが。

 給料が入れば、和代とどこかに行ったり、またA君やB君とも遊ぶことが多くなる。B君はガソリンスタンドでバイトをしていた。ぼくも原付を買い、彼のスタンドで給油した。B君はプロフェッショナルな態度を覚え、去年までの陸上部にいた彼より数段大人になっていた。

 A君は、すぐに調理の学校にでも入りたいと言ったが、その費用を稼ぐためにとりあえず運送屋で働くといって近くの会社で勤め出した。

 それで、A君はぼくらより社会を知ることになり、ぼくはなぜかいつも暖かな環境に恵まれ、バイト後は、店長のいない家庭で、奥さんと、話すことが好きな小さな女の子と御飯を食べている。テレビの下には古いレコードが依然としてあり、それを借りる権利を手に入れた。それだけでも充分すぎるほど幸せだった。

問題の在処(5)

2008年09月18日 | 問題の在処
問題の在処(5)

 息子が公園で転んだようで、ひざを擦りむいている。本人は、もうぼくが帰宅する頃には眠ってしまったらしく、布団をそっとめくり、痛々しげなひざを見た。すでにカサブタになりかけており、数日もすれば、そんな痕もなくなってしまうのだろう。

 子供のうちの小さな傷など、何事もなかったように失われた記憶となっていく。

 15、6歳の別れや傷はどうなのだろう。

 この前の6人での学生時代のグループのデートの帰り、A君とガールフレンドの喧嘩はこじれ、解消しないまま数日が経った。お互いにあやまることもなく、こういったことが過去に何度かあったので、二人の仲は戻ることはないと彼は言った。しかし、お互いの感情を知っている友人たちは、なんとか可能性があるのならば、よりを戻すように働きかけた。それでも、当人たちは乗り気でもないので、そのまま発展しなかった。

 多分、それでも両者は好きだったのだろう。それを認めてはいるのだろうが、へんな意地の張り合いでまとまるものもまとまらなくなる。だが、一回の別れで、すべてが終わってしまうわけでもないのだろう。

 当然といえば、当然なのだろうがA君はそれから落ち込み、なんどか話もきいた。しかし、簡単に打ち明けることもなかったが、お酒がはいったついでというような形で、話してくれることもあった。その時は、やはり彼女のことが好きなのだろうな、ということを再確認するだけで、これといった進展もなかった。やはり、当人がなんとかしないことには、物事がすすまないこともあるのだ。

 翌日、妻は念入りに息子のひざを消毒していた。ぼくは、そんなに気にすることもないよ、と言ったが、彼女は、自分の心配をなくすように、その作業をやめなかった。

 いつものようにマンションから駅に向かった。

 また、A君のことを考えている。

 A君のガールフレンドは、可愛い子だったので、直ぐに新しい代りをみつけた。それを咎めるほど、誰も幼稚ではなかった。しかし、ぼくの恋人の和代が同じことをするならば、気持の良いものではないだろう。そのことをぼくらは話したような気もする。それで、永遠の可能性に話は解決したのだと思う。

 A君のこころは、そう簡単に、そして素早く変化するようなことはなかったように思う。本人は、そのことを忘れているような振りをしているが、彼女についてのあれこれを触れないようにすればするほど、かえって鮮明にその存在が浮き彫りになったりもする。

 そのことを女々しいとも誰も思っていなかった。自分も同じような境遇になれば、受け止める態度はそうは違いはないだろう。

 同じ歩みをしてきたと感じていた学生時代の友人も、物事の対処の仕方を通してだと思うが、その様子はじょじょに変わってくる。

 A君とはべつにB君は、いさぎよくガールフレンドを取り換え、いまの彼女の容貌は、誰もがうらやむような人だった。高校で一緒になったクラスメートだが、会ってみれば気さくで優しい人でもあった。よく彼女はスクーターに乗って、B君の家の途中にあるぼくの家の前を通った。わざわざ止めて、ぼくに話しかけてもくれた。自分の恋人の友人たちとは仲良くしたいと常に考えているような子だった。それにつられて、こちらも同様の感情を抱く結果になる。あの子には、優しくしてあげたいというふうに。

 こんなことをぼんやりと頭の片隅で考え、一日が終わった。

 一日が終わると、風呂に入った子供は、ひざがお湯にしみて昨日は痛かった、と言った。だが、もうその痕も痛さもなくなってしまったようだ。

 A君は、その後、女性観というものに影響が出たのだろうか。出ない訳はないだろう。どこかで、不自然さと不器用さが生まれていくものだろう。それを克服したり、眠らすようにこころの奥に押し込め、大げさにいえば生きていくことになるのだろう。

 息子はいつものように夕飯を終え、しばらくするうちに気づくと眠ってしまっていた。彼を抱え、ベッドにつれていった。その後、妻は一日にあった出来事をとりとめもなく話した。A君の過去と現在の自分は、どちらがリアルなのかは分からなくなっていた。

問題の在処(4)

2008年09月17日 | 問題の在処
問題の在処(4)

 自分の子供が、出勤前と帰宅後で違い、ある事柄が出来るようになっていて驚くことがある。客観的な判断が難しいこともあるが、絶えず息子と接している妻は「そうかしら」などと言い同意するのも多くはないが、それが事実であるのは間違いない。

 中学を卒業して、制服も変わり急に大人びた女性として目の前に現れる女性がいる。通学も同じルートを使っていたので、1、2か月のブランクがありながらも、自然とまた話すようになった。変化をしてしまった日常だが、同じ基盤を確認して、凧のひもを強く握って飛ばないように交際がはじまった。

 週末には、中学の同級生ともまだ会っていた。それで、交際相手を紹介するような形になるが、その以前知っていた女性が、より洗練された姿で目の前に現れるのを見る喜びは、その年代特有のものだろうか。

 匿名性を帯びたいので、ずっとA君とB君とすることとする。彼らは、ぼくと同じ陸上部だった。彼らと学生時代の多くの時間を共有していた。今後、離れるのか、くっつくのかは誰も分からなかった。そして、それは前もって決めるようなことでもなかったし、成り行きまかせにするのが一番だった。

 彼らにも、それぞれに合ったガールフレンドが作られていく。好みの違いがあるので、自分は恋心などまったく抱かないようなタイプだったが、彼らの決定を否定することもなく、純粋にそれらのことを同じこころで喜んだ。それが、友情であるとも思っていた。

 ある日、夏になる前の一日、それでも天気が良く暑い一日だった。6人でそろって遊園地にいった。女性たちは一様に着飾り、気分的にもいつもより楽しそうだった。自分は、そういうことが表面にあまり出ないらしく、待ち合わせのときに、和代に攻められた。しかし、楽しくない訳はなかった。

 園内にチケットを買ってはいり、いくつかの乗り物をチョイスして乗ったりもした。気の強い和代は意外なことにスピード感のある乗り物がダメであるらしかった。彼女は口数が少なくなり、ぼくの手を握った。その暖かさを、今になってもまだ覚えていたりもする。

 お腹が減った十代の6人は、手頃な店にすわりゆっくりと食べた。女性と食事の早さが違うことも、習わなければならない一つのように感じていた。

 その後も、遊園地の中をはしゃいで回り、時間は急速に過ぎ、まわりも暗くなっていった。それぞれ、6人で来たことも忘れ、ぼくも和代とふたり並んで歩いた。その時は、まわりの一切のものが自分に味方をし、また一切のものが自分の視野からは消えていた。

 暖かい言葉を口に出す能力を和代は持っていて、自分を不思議と勇気づけるような気持ちになった。それで、彼女と居ると、自分も優しい人間になろうとか、一人前の人間になろうとか、そうした向上を考える一面を植え付けてくれた。それは、16歳の男の子には、とても必要なものだったのだろう。それを永続させるかは自分にかかっているのだが。

 また、駅前で彼らと合流し、数駅離れた賑やかな町に行こうという計画になり、電車にのって繰り出した。暑い車内は、日曜の終わりのさびしさを見せはじめ、明日からの日常のちいさな心配をポケットにしまい、出すかどうするか躊躇しているような雰囲気だった。

 駅について、その頃の年代の学生が行けそうな店を探し、みんなで夕御飯を食べ、時間をずらして帰った。A君のガールフレンドはなぜかつまらなそうな顔をして、そのことを責められて二人は喧嘩になりそうになっていた。

 それを尻目にぼくらは、店の階段を急ぐように降り、平和な空気が充満している場所にでた。ぼくは、彼女の手を握りながら、この手の持ち主を一生守ることになるのだろうと、ぼんやりとした予感を感じた。その時は、正しかったことも、時間の経過とともに忘れてしまうことはあるだろう。だが、その考えた気持ちは、こころのどこかに残っていて、忘れたり、消してしまうことのできない感情の痕跡を残した。

 彼女の家の前まで送ったが、あっという間に着いてしまった。もう少し、遠くにあっても良いぐらいに思っていた。別れの言葉を口の中でもぐもぐ言い、彼女のにこやかな顔も電柱の明りの下で確認でき、幸せの感情に満たされ、自分の家に向かった。いまだったら友人たちに携帯で連絡でもするのだろうが、しかし、この空白はいろいろと考える時間に充てることができ、有意義であったのは間違いないだろう。

問題の在処(3)

2008年09月08日 | 問題の在処
問題の在処(3)

 こんな日もあった。

 会社での仕事がひと段落つき、休憩室でコーヒーを飲みながら携帯電話をチェックしていると、妻からのメールが届いていた。内容はというと、彼女の姉の娘、妻にとっては姪だが、その子が高校が決まったので何かお祝いの品をあげたいと思っているが、どんなものがいいだろうということだった。自分はいくつかのものを思い浮かべながらも10代の子がなにに興味を持っているのかということに、気持ちを変えていってしまっていた。そして、買えそうな店は、今日の帰りにあるだろうかとも同時に考えていた。

 もちろん即決するような件でもなかったので、そのことは自然と脳に占める比重が減っていった。それに比べて、自分のその年代の頃のことが浮かんできはじめた。

 それぞれ程度の差はあれ、自分の行く学校を目標設定として決め、その学力になるよう勉学に励んだ一時期をもつ。塾に熱心に通う友人もいれば、家でこつこつ将棋の歩をすすめるような仕方で学力をあげる友人もいた。絶対的な方法などないかもしれないが、幼いうちに自分の進み方やものごとの運び方を習得してしまうことは、とても良いことなのだろう。

 自分は塾で勉強の基礎を習ってからは、その重機を使って強引にならすように勉強といういびつな道路を作っていた。ソフィスティケートもされていないが、自分にはその方法しか思い浮かばなかった。

 それで、いくつかの行けそうな高校を見つけ、最後は一つに絞り、それに焦点を合わせて、勉強していった。そのプランは思ったより上手く進んだようにも見えた。しかし、15歳はどう転んでも15歳である。それで、完全な未来などが決定するわけでもない。

 友人たちも彼らに合ったような学校を見つけた。自分より幾分高めの学校に行った人もいれば、スポーツに秀でた学校に決めた生徒たちもいた。だが、同列に並んでいたと思っていた友人たちも、学力の差というふるいにかけられ、最初の淘汰をされていく。そうした仕組みになっている以上、それは仕方のないことだろう。ただ、自分はそんなことには影響されないと誓いはするが、それを守れたかどうかは知らないし、たぶん、小さな自分から見たら、そんなことは問題にされて証言を迫られるようなこともないだろう。ただ、簡単に誓っただけだ。

 気がつくと休憩は終わっていた。もう一度、軽くメールの本文を見直し、帰ってから話し合おうという返事をかえした。彼女は、早急さを求めてもいないかわりに、返事がないことにもたまにいらだつ性分だった。

 部屋に戻り、となりの座席の若い女子社員に、こんなメールが来たのだけど、最近の子はどんなものを喜ぶのかね? と解決を欲しがっていたわけでもないが、たずねてみた。

「なんか私にも買ってほしいな。でも現金がいいですけど」
 と、言ってまたパソコンに向かった。
「そうかもしれないよね」訊いて損したような気持を持ちながらも、無言が続く室内の環境を上司が嫌がるので、たまには自分からも能動的に話さないわけにはいかなかった。

 時計を見ると4時に近づいていた。残業にはなりそうもない一日だった。自分の息子が、そういう環境の中に10数年後に入り、揉まれていることに対して、想像ながらも憂鬱な気がした。そして、その年代に選択や決定を迫る世の中を醜く感じた。しかし、誰もが通る道なら、その醜さを少なくない程度に愛する方法を教えないことには駄目だろうとも思った。

「ノートパソコンとかが実用的なんじゃないですか。あとは、いくらかの旅行券でごまかすとか」
 急にとなりの子が話し出した。それは自分に向かっているようだった。気を取り直して、
「高校前にも卒業旅行とか行くのかね?」と自分は言った。
「さあ、どうでしょう」と彼女はまたもや他人事のような返答をした。長い爪は不自然ながらも、上手にキーボードを叩いていた。この時間になると西日がまぶしいらしく、彼女はブラインドをスライドさせに立ち上がった。

問題の在処(2)

2008年09月03日 | 問題の在処
問題の在処(2)

 翌日は適度に晴れた日曜だった。

 公園のベンチに座りながらも、すこし離れたところで妻と息子が砂場でしきりに話しているのが見える。その声はここまでは聞こえなかった。多分、平日にはよく会うのであろう、数人の子供たちが息子に近づいて共通の何かしらのルールのもとに遊びだした。それを見て、妻は(祐子という名前だが)ぼくの方を見てにっこり笑い、ぼくも笑いかけ彼女はこちらに歩みだした。

 息子にも友人たちと呼べるものが出来はじめ、彼らと遊ぶことを学んでいることに少しばかり感動していた。それと同時に、自分の過去にも思いを馳せる。

 ぼくにも友人たちがいた。同じような土地に生まれ、いま考えれば両親の教育プランや収入は多少こそ違っているだろうが、スタートはほぼ同列だったはずだ。中学は部活に多くの時間を費やした。カール・ルイスという大スターが出だした頃で、世界的な名声を目前にしている時期だった。ぼくも同じようにトラックの上を走った。あんな人間には、どう転がってもなれないことを理解することは、そう遠くない先に待っていることはまだ知らなかった。知らないだけに走ることはやめなかった。そのグラウンドで行われている競技は違うが、その場で同じ汗をかいていることが理由だったためなのか、何人かの友人は自然発生的にうまれてきた。

 長い練習の末、湿ったユニフォームから制服に着替え、帰り道にちかくの店により、買い食いをしたりもした。異性に対しての興味も覚え、意見を交換したりもしたし、それが実らない恋につながったり、実際的な道のりに歩みだすこともあった。しかし、いま考えればすべてオママゴトのような内容だ。

 だが、その放課後のひとときに象徴される関係は、確実に誰に評価される必要もないほどの友情のはじまりだった。

 練習の続いたあとは、結果を確認する義務があった。区内の陸上競技大会にでかけ、思ったような勝利を得ることもあれば、つまらない失敗を実感するときもある。個人てきな意見を言うならば、スポーツの効用は、どんなに練習しても上には上がいるという事実と折り合いをつけることだ。

 決定的な敗北や不甲斐なさを受け止め、それにめげることもなく、すべてを投げ出してしまうこともなく、次回はそれなりの練習を積み重ね、もしかしたらライバルを追い越せるのではないかという偶然を信じ、それでも敗北が待っているという隠せない事実があるのが本当だ。それこそが、スポーツから学べることだ。世の中の勝利など一瞬のことで、あとはすべて地下の報われない頑張りがあるだけだ。

 しかし、そのことを学ぶのはもっとずっと先のことだ。学校があり、放課後のスポーツを通して今後生きていかなければならない世界での社会性を身につけることもできた。そのときに、話せる、または同じことに打ち込む友人がいて、まだ世間との大きな壁を作る前に、そうした時間がもてたことは素晴らしいことだった。
 いつのまにか祐子がとなりに座っていた。

「どうしたの? むずかしい顔をして。考え事?」
「そう? あいつにも遊んでくれる友だちが出来たんだ」
「そうだよ。たまにはおもちゃを取り合いっこしたりするけどね」
 息子(幸太という名前だ)も遊びつかれたのだろうか、頼りなげな足取りで、ぼくらの方に向ってきた。祐子は彼の手を取り、近くの水道で手を洗わせていた。それが終わると、ぼくが見ていた一部始終を幸太はしゃべりだした。それに、自分はいちいち頷いた。ほかの家族も同じようにいつの間にかいなくなり、誰もいなくなった砂場には持主の分からないスコップが置いてあった。

 公園をでると、急に日が傾きはじめ、夕暮れが足早にやってきた。妻は、夕飯の心配をいつものようにした。外食でもと自分はいったが、祐子は冷蔵庫に入っている食材を頭の中に並べ、それに合いそうな料理のうちどれが良いかと尋ねてきた。自分は、それに答え、三人で足りない材料を買いにスーパーに立ち寄った。

 そこは混んでいて、ぼくと幸太はそとで待っていて、その間に彼女は店内に入って行った。戻ってきたときは数袋ぶんだけ荷物が多くなり、それをぼくは彼女の手からもらった。