Untrue Love(72)
「駅前に新しくパン屋さんができたの知ってた?」何日か経ってユミがそう質問する。彼女はぼくが住んでいる町にも思い出ができる。必然的に記憶ができる。ユミの仕事の休みは週ごとに決まっていて、いつみさんの分は別の曜日だった。大して深い意味合いを自分は決めずに船は航行してしまっている。彼女らの休みが互いにずれていることによって、ぼくは衝突を避けられていた。さらに、このひとつひとつが長続きするともあらかじめ考えていなかった。だから、例えていえば、食料も着替えの心配もせずに長い船旅に乗り込んでしまったひとのように、ぼくは場違いであり、その場で遊んだり寛いだりすることも馴れていなく、どこかで自分に制限をかけていた。しかし、限りがあったとしても船が斜めに傾けば、ぼくという水のような存在は、流れやすい方に向かった。それで、いまはユミと部屋で向かい合っていた。
「開店前に、そういえばチラシみたいなものを配っていたな」
「そうなんだ。それでね、そこでパンを買ってきたから、食べよう」ユミが袋からパンを取り出した。フランスパンみたいな固い生地らしいが、外見は丸かった。特別な名称があるのだろうが、そのときのぼくは呼び名を知らなかった。
「ごめんね、きちんとご飯でも作ってあげられればいいんだけど」いくらか申し訳なさそうにユミが言った。ぼくは、そのような心配気な顔をしている彼女の様子を不思議と場違いだと感じていた。
「考えてもいなかったよ。だから、全然、気にしないで」ぼくは、自分には正直さ以外のなにもないという風にまで思ってしまった。実際は、この生活に正直さなどは、ほぼなかった。
「なら、その言葉に甘える」
ぼくは女性の手料理について、思い巡らしてみた。ユミがぼくのキッチンに立っている姿など記憶にない。彼女はその器用な手先でぼくの髪を切っている。いつみさんは先日、ふたりで酔ったまま彼女の部屋に行ったときに、冷蔵庫からチーズを取り出した。木下さんは自分用に作った多目のシチューを温めなおして、ぼくに出してくれた。しかし、それはぼくが頼んだから作ったものでもない。自分は、それで、それぞれの料理の腕前などにはまったく無頓着であることを知った。ユミはさっき、そのことで詫びた。ぼくは理由をたくさん持ち出し、否定することも可能だった。だが、それは後のことを考えれば、口に出してはいけないことだった。厳禁の秘密。
「とっても、おいしくない?」ユミの目は輝いているという表現が正しかった。
「おいしいね。ありがとう」
「わたしに礼を言わなくても。ただ、買ってきただけだから。でも、これぐらい作れたらいいね。平らな台で、こねて、白い粉まみれになって」
「器用にできているんだから、やってみたら、簡単じゃないの? ぼくみたいな不器用な人間では話にならないと思うけど」
「そうかな。やってみようかな」それは誰かの余り重みをもっていない発言でも、ひとを動かす能動的な言葉になり得るというきっかけを与える場面だった。彼女は、その後、いっしょに入った本屋でパンの作り方の内容が書かれたものを立ち読みしていた。ぼくは、その姿を想像する、カラフルなエプロンと頭を覆うものをかぶり、台にむかって熱心に力を押し付けているユミ。粉は粘度をもち、発酵して食べ物になる。何かが形となって作られる過程には、いったん誰かの手によって押さえつけられる時期があるのだ、ということをぼくは説明的に考えていた。それは、学生というものがもつ耐えがたいひとときでもあり、跳ね返してすべてを無にしてしまう危険性も伴っていた。ぼくは、無にした何人かを知っており、当時ですら、ひたすら風が上空を通り過ぎるのをじっと待っているひとも知っていた。どちらも、それなりに我慢がいるようでもあった。直接の我慢か、長い時間を経ての我慢かはそれぞれの選択によっても違うのだろう。これも、解説的にすぎた。
「そうだ、まだ手をつけていないけど、こんなのあったんだ」ぼくは、咲子がもってきた田舎からの贈り物を取り出してテーブルのうえに置いた。「食べてみる?」
「おいしいね。どうしたの?」
「咲子の母親がくれたんだ。この前、戻ったときにおいしいとぼくが言ったから、わざわざ。律儀だね」ぼくは、自分が放ったそのような一言でさえ無責任にも忘れていた。「そうだ、そういえば、まだ、咲子の髪も切っているんだって?」
「言ってなかったっけ? でも、切られたスタイルから、わたしのことが突き止められそうだけど」彼女ははにかんだように笑う。「何人目かのカスタマー。お得意様って、言うんだっけ」
「毎月かな、会うことに責任が生まれるんだね。そのひとがいなくなると、自分の意志が伝えにくい」
「そこまで、いくには時間がかかるでしょう。もっと、いつかだけど、自分のことを理解してくれる誰かがあらわれるかもしれないしね」
それは髪型だけの話をしているようには思えなかった。もっと、根源的な求める気持ちを代弁しているかのようだった。ゆだねるとも、任せるともいう立場があり、もう片方は、そのひとの善を見極め、手助けする。共同で美しいものを作る。裏切りがあってはいけないとぼくは勝手に、単純に思う。
「もっと、食べれば?」
「うん。でも、何か食べ過ぎたら、のど、渇いてきた」
「冷蔵庫になにがあったかな」ぼくは立ち上がり、ユミの伸ばした足をまたいだ。それほど広い部屋でもない。だが、密着するほどでもない、この距離がなにを意味するのか知らない。ただ、ぼくはグラグラと揺れる船のただひとりの乗員なのだ。波が起これば、ただ丸太のように自然と転がっていく。
「駅前に新しくパン屋さんができたの知ってた?」何日か経ってユミがそう質問する。彼女はぼくが住んでいる町にも思い出ができる。必然的に記憶ができる。ユミの仕事の休みは週ごとに決まっていて、いつみさんの分は別の曜日だった。大して深い意味合いを自分は決めずに船は航行してしまっている。彼女らの休みが互いにずれていることによって、ぼくは衝突を避けられていた。さらに、このひとつひとつが長続きするともあらかじめ考えていなかった。だから、例えていえば、食料も着替えの心配もせずに長い船旅に乗り込んでしまったひとのように、ぼくは場違いであり、その場で遊んだり寛いだりすることも馴れていなく、どこかで自分に制限をかけていた。しかし、限りがあったとしても船が斜めに傾けば、ぼくという水のような存在は、流れやすい方に向かった。それで、いまはユミと部屋で向かい合っていた。
「開店前に、そういえばチラシみたいなものを配っていたな」
「そうなんだ。それでね、そこでパンを買ってきたから、食べよう」ユミが袋からパンを取り出した。フランスパンみたいな固い生地らしいが、外見は丸かった。特別な名称があるのだろうが、そのときのぼくは呼び名を知らなかった。
「ごめんね、きちんとご飯でも作ってあげられればいいんだけど」いくらか申し訳なさそうにユミが言った。ぼくは、そのような心配気な顔をしている彼女の様子を不思議と場違いだと感じていた。
「考えてもいなかったよ。だから、全然、気にしないで」ぼくは、自分には正直さ以外のなにもないという風にまで思ってしまった。実際は、この生活に正直さなどは、ほぼなかった。
「なら、その言葉に甘える」
ぼくは女性の手料理について、思い巡らしてみた。ユミがぼくのキッチンに立っている姿など記憶にない。彼女はその器用な手先でぼくの髪を切っている。いつみさんは先日、ふたりで酔ったまま彼女の部屋に行ったときに、冷蔵庫からチーズを取り出した。木下さんは自分用に作った多目のシチューを温めなおして、ぼくに出してくれた。しかし、それはぼくが頼んだから作ったものでもない。自分は、それで、それぞれの料理の腕前などにはまったく無頓着であることを知った。ユミはさっき、そのことで詫びた。ぼくは理由をたくさん持ち出し、否定することも可能だった。だが、それは後のことを考えれば、口に出してはいけないことだった。厳禁の秘密。
「とっても、おいしくない?」ユミの目は輝いているという表現が正しかった。
「おいしいね。ありがとう」
「わたしに礼を言わなくても。ただ、買ってきただけだから。でも、これぐらい作れたらいいね。平らな台で、こねて、白い粉まみれになって」
「器用にできているんだから、やってみたら、簡単じゃないの? ぼくみたいな不器用な人間では話にならないと思うけど」
「そうかな。やってみようかな」それは誰かの余り重みをもっていない発言でも、ひとを動かす能動的な言葉になり得るというきっかけを与える場面だった。彼女は、その後、いっしょに入った本屋でパンの作り方の内容が書かれたものを立ち読みしていた。ぼくは、その姿を想像する、カラフルなエプロンと頭を覆うものをかぶり、台にむかって熱心に力を押し付けているユミ。粉は粘度をもち、発酵して食べ物になる。何かが形となって作られる過程には、いったん誰かの手によって押さえつけられる時期があるのだ、ということをぼくは説明的に考えていた。それは、学生というものがもつ耐えがたいひとときでもあり、跳ね返してすべてを無にしてしまう危険性も伴っていた。ぼくは、無にした何人かを知っており、当時ですら、ひたすら風が上空を通り過ぎるのをじっと待っているひとも知っていた。どちらも、それなりに我慢がいるようでもあった。直接の我慢か、長い時間を経ての我慢かはそれぞれの選択によっても違うのだろう。これも、解説的にすぎた。
「そうだ、まだ手をつけていないけど、こんなのあったんだ」ぼくは、咲子がもってきた田舎からの贈り物を取り出してテーブルのうえに置いた。「食べてみる?」
「おいしいね。どうしたの?」
「咲子の母親がくれたんだ。この前、戻ったときにおいしいとぼくが言ったから、わざわざ。律儀だね」ぼくは、自分が放ったそのような一言でさえ無責任にも忘れていた。「そうだ、そういえば、まだ、咲子の髪も切っているんだって?」
「言ってなかったっけ? でも、切られたスタイルから、わたしのことが突き止められそうだけど」彼女ははにかんだように笑う。「何人目かのカスタマー。お得意様って、言うんだっけ」
「毎月かな、会うことに責任が生まれるんだね。そのひとがいなくなると、自分の意志が伝えにくい」
「そこまで、いくには時間がかかるでしょう。もっと、いつかだけど、自分のことを理解してくれる誰かがあらわれるかもしれないしね」
それは髪型だけの話をしているようには思えなかった。もっと、根源的な求める気持ちを代弁しているかのようだった。ゆだねるとも、任せるともいう立場があり、もう片方は、そのひとの善を見極め、手助けする。共同で美しいものを作る。裏切りがあってはいけないとぼくは勝手に、単純に思う。
「もっと、食べれば?」
「うん。でも、何か食べ過ぎたら、のど、渇いてきた」
「冷蔵庫になにがあったかな」ぼくは立ち上がり、ユミの伸ばした足をまたいだ。それほど広い部屋でもない。だが、密着するほどでもない、この距離がなにを意味するのか知らない。ただ、ぼくはグラグラと揺れる船のただひとりの乗員なのだ。波が起これば、ただ丸太のように自然と転がっていく。