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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(72)

2012年11月30日 | Untrue Love
Untrue Love(72)

「駅前に新しくパン屋さんができたの知ってた?」何日か経ってユミがそう質問する。彼女はぼくが住んでいる町にも思い出ができる。必然的に記憶ができる。ユミの仕事の休みは週ごとに決まっていて、いつみさんの分は別の曜日だった。大して深い意味合いを自分は決めずに船は航行してしまっている。彼女らの休みが互いにずれていることによって、ぼくは衝突を避けられていた。さらに、このひとつひとつが長続きするともあらかじめ考えていなかった。だから、例えていえば、食料も着替えの心配もせずに長い船旅に乗り込んでしまったひとのように、ぼくは場違いであり、その場で遊んだり寛いだりすることも馴れていなく、どこかで自分に制限をかけていた。しかし、限りがあったとしても船が斜めに傾けば、ぼくという水のような存在は、流れやすい方に向かった。それで、いまはユミと部屋で向かい合っていた。

「開店前に、そういえばチラシみたいなものを配っていたな」
「そうなんだ。それでね、そこでパンを買ってきたから、食べよう」ユミが袋からパンを取り出した。フランスパンみたいな固い生地らしいが、外見は丸かった。特別な名称があるのだろうが、そのときのぼくは呼び名を知らなかった。

「ごめんね、きちんとご飯でも作ってあげられればいいんだけど」いくらか申し訳なさそうにユミが言った。ぼくは、そのような心配気な顔をしている彼女の様子を不思議と場違いだと感じていた。
「考えてもいなかったよ。だから、全然、気にしないで」ぼくは、自分には正直さ以外のなにもないという風にまで思ってしまった。実際は、この生活に正直さなどは、ほぼなかった。
「なら、その言葉に甘える」

 ぼくは女性の手料理について、思い巡らしてみた。ユミがぼくのキッチンに立っている姿など記憶にない。彼女はその器用な手先でぼくの髪を切っている。いつみさんは先日、ふたりで酔ったまま彼女の部屋に行ったときに、冷蔵庫からチーズを取り出した。木下さんは自分用に作った多目のシチューを温めなおして、ぼくに出してくれた。しかし、それはぼくが頼んだから作ったものでもない。自分は、それで、それぞれの料理の腕前などにはまったく無頓着であることを知った。ユミはさっき、そのことで詫びた。ぼくは理由をたくさん持ち出し、否定することも可能だった。だが、それは後のことを考えれば、口に出してはいけないことだった。厳禁の秘密。

「とっても、おいしくない?」ユミの目は輝いているという表現が正しかった。
「おいしいね。ありがとう」
「わたしに礼を言わなくても。ただ、買ってきただけだから。でも、これぐらい作れたらいいね。平らな台で、こねて、白い粉まみれになって」
「器用にできているんだから、やってみたら、簡単じゃないの? ぼくみたいな不器用な人間では話にならないと思うけど」

「そうかな。やってみようかな」それは誰かの余り重みをもっていない発言でも、ひとを動かす能動的な言葉になり得るというきっかけを与える場面だった。彼女は、その後、いっしょに入った本屋でパンの作り方の内容が書かれたものを立ち読みしていた。ぼくは、その姿を想像する、カラフルなエプロンと頭を覆うものをかぶり、台にむかって熱心に力を押し付けているユミ。粉は粘度をもち、発酵して食べ物になる。何かが形となって作られる過程には、いったん誰かの手によって押さえつけられる時期があるのだ、ということをぼくは説明的に考えていた。それは、学生というものがもつ耐えがたいひとときでもあり、跳ね返してすべてを無にしてしまう危険性も伴っていた。ぼくは、無にした何人かを知っており、当時ですら、ひたすら風が上空を通り過ぎるのをじっと待っているひとも知っていた。どちらも、それなりに我慢がいるようでもあった。直接の我慢か、長い時間を経ての我慢かはそれぞれの選択によっても違うのだろう。これも、解説的にすぎた。

「そうだ、まだ手をつけていないけど、こんなのあったんだ」ぼくは、咲子がもってきた田舎からの贈り物を取り出してテーブルのうえに置いた。「食べてみる?」
「おいしいね。どうしたの?」
「咲子の母親がくれたんだ。この前、戻ったときにおいしいとぼくが言ったから、わざわざ。律儀だね」ぼくは、自分が放ったそのような一言でさえ無責任にも忘れていた。「そうだ、そういえば、まだ、咲子の髪も切っているんだって?」

「言ってなかったっけ? でも、切られたスタイルから、わたしのことが突き止められそうだけど」彼女ははにかんだように笑う。「何人目かのカスタマー。お得意様って、言うんだっけ」
「毎月かな、会うことに責任が生まれるんだね。そのひとがいなくなると、自分の意志が伝えにくい」
「そこまで、いくには時間がかかるでしょう。もっと、いつかだけど、自分のことを理解してくれる誰かがあらわれるかもしれないしね」

 それは髪型だけの話をしているようには思えなかった。もっと、根源的な求める気持ちを代弁しているかのようだった。ゆだねるとも、任せるともいう立場があり、もう片方は、そのひとの善を見極め、手助けする。共同で美しいものを作る。裏切りがあってはいけないとぼくは勝手に、単純に思う。
「もっと、食べれば?」
「うん。でも、何か食べ過ぎたら、のど、渇いてきた」

「冷蔵庫になにがあったかな」ぼくは立ち上がり、ユミの伸ばした足をまたいだ。それほど広い部屋でもない。だが、密着するほどでもない、この距離がなにを意味するのか知らない。ただ、ぼくはグラグラと揺れる船のただひとりの乗員なのだ。波が起これば、ただ丸太のように自然と転がっていく。

Untrue Love(71)

2012年11月29日 | Untrue Love
Untrue Love(71)

 ミュージカル映画の登場人物でもあるならば、ぼくは口笛をふき、足取りも軽く歩いているはずだ。しかし、最近になって覚えた駅からアパートまでの近道である入り組んだ細い路地を歩く自分は、少々、うつむいて笑顔になりすぎないように表情を調節していた。もちろん、嬉しくないわけではない。だが、その表情を全面に出すことは危険でもあった。幼稚園のバスを待つ主婦たちもいた。朝っぱらから大笑いをしている場合ではない。

 それで、アパートの前に着くとたいして確認もせずに、家のなかに、自分の部屋に、飛び込もうとした。だが、躊躇する。躊躇わざるをえない。なぜなら、家の前に咲子がいたからだ。

「どうしたの、急に?」ぼくはカギを手持ち無沙汰のようにブラブラさせる。「こういう場合があるから、電話でも前以って約束してもらったほうが、行き違いがなくてすむと思うけど」

 ぼくは、なぜだか後ろめたかった。朝帰りと分かるか、それとも、ちょっとそこまで出たかは彼女に区別がつかない。ただ、朝帰りとするならば、昨日はいつみさんが店を休んでいる。そのふたつを彼女が容易に結び付けるかは分からない。そして、分かったとしても問題はなかったが、この不意打ちになぜかぼくは戸惑っていた。高揚した気持ちが僅かながら目減りした。

「田舎にいったときに、これが好きだっていったから、母親がたくさん送ってきた」その発言の責任がぼくにあると責められているように感じられた。「新鮮なうちに渡したほうがいいかなって・・・」
「でも、こうしていないこともあるんだし」普通は、この時間には特別なことがない限りいるはずだった。

「居なかったら、ちょうど、ポストの隙間に入り込む大きさかなって思ってた」彼女はその様子を繰り返した。「うちのには入ったからね。すぽっととはいかなかったけど」試したことが正解には通じないこともあるのを不可解がってもいた。「でも、まわりがちょっとだけ大きかった」
「入らなかったら、どうしてたの? 待ってた?」
「その玄関の横にでも、メモを書いて、置いておこうと思った。でも、入るはずだったから」
「ごめん、部屋で説明をきくね」ふたりの会話を通り過ぎながら見つめる何人かの視線を感じていた。「まだ、時間あるんでしょう?」

「うん」彼女はうなずき、ぼくの後について部屋にあがった。一日しか経っていないが、室内の雰囲気はぼくによそよそしい態度をとっているようだった。部屋の机もぼくが勉強を中断したことを忘れていなかったらしい。
「コーヒーか、何か別の飲み物でも入れようっか?」ぼくは先ほど、うまいコーヒーを飲んだばかりでいたことを失念していた。だが、言い終わる前にインスタントのコーヒーの瓶の上蓋をとっていた。

「ありがとう」
「そうだ、ぼくの方こそ、礼を言わなくちゃいけないね。ありがとう。部屋に居ないことに集中してしまったんで、わざわざ、来てくれたことまで忘れるところだった。ごめん、ありがとう」何となく、修羅場のようなものではなかったが、あのおかしな言い訳につながる虚勢から切り抜けられたことへの安堵がやっと起こった。「うちの両親にも渡したの?」
「うん。おいしそうに食べてた」

 それで、ぼくは食べ物であるということも確認した。その間に湯が沸騰する。ぼくはふたつのカップを取り出して、スプーンで豆を入れた。それから、熱したものを注いだ。匂いだけはそれなりに香ばしいものを発していた。ぼくはひとつを咲子に手渡した。

「あんまり、うまくないな」ぼくは、いつみさんと飲んだコーヒーにまだ未練があった。コーヒーに対する執着か、彼女との時間を名残り惜しんでいたのか決めかねた。だが、きっと彼女といっしょにいた時間への追憶の方が強いのだろう。それは悩むべき問題でもない。迷うことも無駄だった。ひとりで今朝までの思い出をなつかしんでいても仕方がないので、ぼくは目の前の咲子に注意を向ける。

「これから、大学?」
「今日はない」
「なんか、予定があるの?」
「髪を切ってもらってから、早間くんと会う」ぼくは、そのふたつの予定のうちのどちらからさらなる質問を加えるべきか判断に困った。

「髪はどこで?」しかし、その問題により重きを置いた。
「ユミさんに切ってもらう」
「なんだ、まだ切ってもらってたんだ。お店で?」
「予約してある」きちんと支払って切っているのだ。当然といえば当然だ。ぼくは自分の家で空いた時間に彼女の器用さを利用した。その便宜の良さに自分は慣れ親しんでいった。
「ユミが咲子の髪を切りつづけているのを教えてくれてなかったな」

 咲子は教える必要があるかしら、という表情を浮かべた。両者の間にぼくが立ち入る必要もないのかもしれないし、また会っているときは別の用件で忙しかった。でも、彼女をユミに紹介したのはぼくだった。無論、無料で切ってもらっているので、紹介するのも対価としては充分ではなかった。こうして、誰か女性と話すという行為自体を媒介にして、何人もの女性のことを考えていた。咲子は腕時計を見る。それから、予約の時間のことを口走った。彼女は流しにコーヒーが入っていたカップを置いた。中味はあまり減っていなかった。ぼくもドアを開けて見送った後にさらに口をつけたが、やはり、味としては悪かった。ただ、苦みを起こさせることのみを意図したような味だった。それに、いまのばくは苦みなど感じたくもなかった。人生は甘美なところであると思っていたのは、ほんの一時間ほど前のことだったのだ。

Untrue Love(70)

2012年11月28日 | Untrue Love
Untrue Love(70)

 そんなに時間も経っていなかったがさすがに眠くなりはじめていた。そもそも、自分は家で勉強をしていたはずだ。将来につながるものを求めて勉強をしようとしたのだが、いずれそれは跡形もなく忘れてしまうのだろう。反対にこのいつみさんとの時間は、ぼくの脳に損傷がない限り永久に居残る気がした。この関係がもし絶たれたあとでも何らかの地層のようにぼくの体内に蓄積される。

「あくびばっかりしているよ」いつみさんは寛ぐ姿に服装もかわっていた。「横になる?」
「いいんですか?」
「いいよ。寝そべりな。わたしがマッサージをしてあげるから」

 彼女はぼくの背中にまたがり、首元を適度に押したり、撫でたりした。
「じょうずじゃないですか?」ぼくはただひたすらに感心する。
「そうだろ。母親にしてあげてたんだよ」また話すのをやめ、首を押さえた。「親子喧嘩しても、わたしが大きくなって口もたいしてきかなくなっても、これだけはしてあげた。あのひとも弱音は吐かないけど、さすがにこちらも大きくしてもらった手前もあるしね」

「年季が違う?」
「そう。年季も隠したけど愛情も違う」彼女はすこしのあいだだけ黙る。「でも、もうしてあげられなくなっちゃった」
「したくなったら、ぼくのこの首と肩を貸してあげますよ」
「バカみたい」彼女は強めに抑える。「こうして、ちっちゃいときにトカゲの首をもってつかまえた」
「そんなに冷たくもないし、手触りも悪くないと思いますけど。でも、あんなの、気持ち悪がらずに触れるんですか? ぼくだって、いまはやだな」

「やわだな。触れるよ。ある日、胸のポケットにこっそり潜ませて、弟の前に急に出したら、あいつ大泣きした」
「意地悪い。でも、あのキヨシさんも泣くんですね」いまは、その姿が想像つかないぐらいの大男だ。
「あいつ、弱虫だったんだよ。後天的に身体を鍛えたからね。なんでも、努力が苦にならないタイプのひとがいるんだよ」
「いつみさんは?」
「なんでも飽きる。飽きるかなと予感がきたら、もう終わりの前兆。違うね。その瞬間にはもうきっぱり気持ちが入らなくなってる」

「じゃあ、お店のほうはつづいている方なんですかね・・・」
「あれも、親のお下がり」首の仕上げなのか動きがソフトになった。「この髪の毛、切ってるひと、上手じゃない?」いつみさんは首を触るのをやめた。その代わりにぼくの後ろの髪の毛を指で梳かした。「うまいね」と、また付け足した。
「そうかな。無節操に切ってるからな。それに、意識もしてなかったですけどね」
「そうなの」そして、背中を数回、ポンポンと軽く叩いた。「はい、終わり」

「気持ちよかった」ぼくが振り向くと、彼女はもういなかった。冷蔵庫から新しい飲み物を探しに行っていた。裸足の足のうらがすこし見える。ひとの裸足なんてものは、あまり見かけないものだなとぼくは考えたことを覚えている。そして、髪の毛をぼくは右手で触った。「この前、この髪をほめられたよ」と言えばユミは喜ぶだろうが、その言葉を簡単に言い出せない理由があった。

 ぼくは帰るのが面倒になって、その他にも言い訳はたくさんあって、結局は泊まることになった。ぼくはいつみさんの首元を後ろから身近に見る。店のなかでも背中は見るが、首は大概は髪に覆われていて、明らかになっていない状態の部分であった。それを見たということは、ぼくと彼女の関係が大幅に接近したという証拠だった。肉体的な接触があったとしても、なかなか明かさないことも多くある。彼女の背筋。裸足になった足のうらや指先。爪のかたち。それらが、彼女を理解する助けになる。顕微鏡で、とある小さなものが巨大化されて凝視されるように、いつみさんの些細な箇所もぼくの目は見届けるのだ。

 朝になった。
「ぼく、いびきとかかいてませんか?」
「それほど、気になんないよ」それは、かいているという事実の裏返しでもあったようだ。気にならないぐらいだけど、迷惑はかけている。いや、迷惑でもない。気になるひとは、時計の針がすすむ音もビルの爆破するのと同等の大きさを感じるのだ。
「帰るでしょう?」いつみさんの前には鏡があり、化粧品の瓶があった。木下さんのとも違う。ユミのとも形が違う。母のものは、もう思い出せなかった。

「追い出すんですか?」
「違うよ。ひとが淹れたうまいコーヒーでも飲みたいなと思って。ささやかな贅沢」寝起きとは思えないぐらいにはっきりとした目付きをしていた。「それに付き合うかなと思って。駅前なんだけど」
「いいですよ。飲みます」
「服、そこにあるよ」彼女は指差して教えてくれた。
「着させてくださいよ」

「バカか」彼女は笑う。その笑顔は誰にも似ていない。モナリザでもない。名画のなかの美女のようでもない。おしとやかでもない。手が届かないタイプというのともかけ離れている。だが、いきいきとしている。表情に曇りもない。しかし、擦れてもいない。その魅力に単純にぼくはまいっていた。

 駅前の店でコーヒーを飲んでいてもその様子はかわらなかった。ぼくは目の前にいるいつみさんを、それで何度も執拗にみた。
「なんだよ、ジロジロ、さっきから」顔の前で手で払い除けるような仕草をした。「あまり、店に来なくてもいいよ。会いたいときは、こうして、別の場所で会えばいいから」いつみさんは、急にそう宣言した。それはクラッチが次に変わったことへの宣言だった。モーター音が変わり、注意力も増す。そして、景色も、窓のそとを流れる色合いも変わる。ぼくはその変化に無関心でいるような表情を保った。だが、コーヒーもうまかった。いつみさんがお勧めすることが分かった。

Untrue Love(69)

2012年11月27日 | Untrue Love
Untrue Love(69)

 音楽は終わり、次の曲がかかった。単なる甘ったるいポップスだった。人口甘味料が満載の一時的な収益のために作られたような曲だった。だが、それでも、マーケティングを繰り返したような匂いは微塵もしなかった。そういう時代であったのだろう。女性たちが悲鳴と歓声をあげ、それで終わり。そうなった良さがあり、そうなった悪さもあった。しかし、世に生まれたのだ。誰かと誰かは、作り出すためにそれなりの苦労をした。

「この曲、なんであんなにいいと思ったんだろう?」いつみさんは小首を傾げる。「当時はね」
「さっきみたいな例えでいうと、どんな感じですかね・・・」
「無性に喉が渇くような音楽」いつみさんは言い終わる直前に噴きだすような顔をした。
「目の前の飲み物、もう空ですね?」
「もう終わりにしようっか。外で水でも飲むよ」

 最後の曲は、コッポラの映画の音楽だった。男性は、スーツを着て、殺しに手を染める。それが職業でもあるのだ。財布からポイントカードや割引券も取り出さないひとたち。割り勘の計算もしないひとたち。レジの前で曲を背中に浴び、そのせせこましさに、ぼくは自分に愛想をつかす。

「水、買いますね」ぼくはコンビニにひとりで入り、水と自分のために缶コーヒーを買った。なぜか、甘いものを自分の体内は欲していた。店内には普通に歌謡曲がながれ、ぼくはそのこと自体をほほえましく思う。気取らなくても大丈夫だというように。そして、実際に笑ってしまったのか対面している店員は怪訝な様子をあからさまに浮かべた。遠慮のかけらもなく。

「優しいね」ぼくがボトルを手渡すと、いつみさんがそっと言った。「帰る? もうすこし酔いたい? 家で飲みなおす?」その三つの選択肢がぼくの前に提示されたが、ただ、ぼくは彼女のそばにいたいという願いが気持ちのすべてだった。選択はだからあるとも、ないともいえた。

「飲みなおしたいですね」
「付き合い、いいな」と言って、いつみさんはぼくの背中を思いのほか強く叩く。ぼくは咽そうになる。これも、男性がコメディー映画にでるときの態度だ。シリアス路線ならば、軽くほんの小さな咳払いぐらいしかしないだろう。だが、ぼくはここではこの自分の態度にも満足だった。水を飲むいつみさん。夜の外灯のしたにたたずむふたり。悪いわけがなかった。誰もフィルムを回さないにしても。

「道順、もう覚えたでしょう?」そういつみさんが口に出すことによって、ぼくがそこの場所に行く回数が少なくないという暗示にもなった。部屋の間取りを簡単に思い浮かべることもできた。鏡の場所も分かり、その前に整理されている瓶や小物たち。陳列されている化粧品を製造した会社も述べることができた。急に彼女の趣味が変わってしまうことがなければだが。

 電気のスイッチがある壁面のことも知っていた。トイレの流れる水量のことも。そう考えつづけていると、自分がスパイにでもなったような気になった。だが、それをいったい誰に報告する義務があるのだろうか。自分自身でしかないのは分かっていた。それに未来の自分にも。ぼくは、ある日、思い出すことになるのだ。あの女性の部屋のなかの様子と、そこでぼくに愛を与えてくれた女性当人のことを。

「なに、考えてるの? どっか悪い?」心配そうにいつみさんが屈んでぼくの顔をのぞく。「悪いもんにあたったとか?」
「まさか、これから楽しい時間が待っているのに・・・」
「じゃあ、なんで黙ったの?」
「いつみさんの室内の様子を考えてました。いろいろなものがあるところを知っているなって」
「泥棒ができるぐらいに?」
「そうか、思い付きもしなかった」

 玄関のまえに着くと、いつみさんは物音をさせないように慎重になってカギを開けかけた。だが、暗いせいだろうか思いのほか時間がかかった。

「あれ、どうしたんだろう。ちょっと、やってみて」と、その行為自体に飽きてしまったかのように、ぼくに金属片を手渡した。
「どうしたんでしょうね、誰かがいたずらをしたとか」受け取ると、そう不安そうな言葉をぼくは吐いたが、直ぐにカギは正確にはまった音を立て、開いた。
「あれ、どうしたんだろう」不思議そうにいつみさんは鍵穴をのぞくフリをした。「あ、どうぞ」
「おじゃまします」ぼくは床に置かれたスリッパを履いた。いつみさんは冷蔵庫を開け、つまみになりそうなものを探した。
「チーズ、好きだよね」
「はい、とっても」
「そこの戸棚からグラス取ってくれないかな」
「いいですよ」

「これも、持っていって。そうか、店にいるときも、こういう風にこき使いたいな」いつみさんは愛らしい笑顔をこちらに向ける。彼女にものを頼まれたり、命令されたり、指示されることはそんなに悪いことではなかった。この後に甘美な時間が待っているという期待にも大きな影響力があったのだ。ぼくはテーブルにグラスや皿を並べ、何となくラジオをつけた。時刻がかわったのかちょうどニュースが読み出された。世界はそれなりに動いているようだった。ぼくは、このニュースを明日になれば忘れてしまうだろうと思っていた。しかし、この時間はいつまでも記憶にのこる、あるいはのこってほしいと願っていた。いつみさんの手には皿があり、そこにチーズが並べられていた。店で出すものと同じようなにおいが放たれていた。だから、ぼくは日常のいつみさんの気取らない態度をどこかで感じてもいるようだったし、その日常に加わることができるのも喜んでいた。

Untrue Love(68)

2012年11月26日 | Untrue Love
Untrue Love(68)

「どんな答えを待ってるの? と返事したつもりだったんだけど」いつみさんは核心に触れないように遠回りの道を選んだ。ぼくは近道だけが生きるうえで正しいことだとは思えなくなっていた。「紆余曲折」というあまり自分にとって馴染みもない言葉がひらめいた。だが、口には出さなかった。本当の意味合いと重なっているのか、間違って用いられようとしているのかも分からなかった。「それから、関係ができたからには、それを永続させる義務があるとさっきも言ったから。そうしないと、わたしと母のようになるんだよ」

「誰かと関係が絶たれるということが恐いですか?」
「じゃあ、恐くないひとなんているの?」いつみさんは、いつになくむきになっているようだった。彼女のデリケートな部分への質問に通じているのか。

 ぼくは、しばらく黙って考える。いちばんに早間のことを考えていた。彼は紗枝と別れて、自分自身に何の意味ある痕跡をものこしていないようだった。例えていうなら、夏の蚊だってしばし痒みを体内に起こさせ、その名残りぐらいは留めるだろう。反対に紗枝は、その自分の身の内に何かしらの化学変化に似たものを抱えているはずだ。ぼくは、ひとつの映像を思い出す。幅の大きな浅い川で着物の反物が染付けのあとに洗われている。清らかな水も、もう元の布本来の無垢さには戻してくれない。かえって、その染まった色を鮮明にさせるようだった。ぼくはひとごとなので、川から他人の行状を客観的に眺めていた。すると、ぼくはいまは抜きにして、(この現在の三人がぼくを永久に変えてしまうことは、あらかじめ知っていた)高校時代のガールフレンドがぼくに無意味なものでもかまわないが、なにかを刻み付けてくれたのだろうかと思い巡らした。そのようなことはなかったと考えたが、結論としては、ぼくの新しい道先案内人のような役目を負っているので、影響は皆無ではなかった。彼女自体のことは分からない。ただ、良い思い出を、ささいなものでもいいので、彼女にもたらせてくれたらと願ったが、他人の感情に踏み込むことなど自分勝手にすぎないと思って、考えることもすぱっと止めた。

「恐れないひともいるかもしれないし、いないのかもしれない」
「順平くんは?」
「ぼくは、そんなに鈍感じゃないですよ」早口で、機先を制するかのように熱心に言ってしまった。鈍感であることは、悪であるとでもいうように。しかし、鈍感と敏感さのどちらが優れているかなど、このときのぼくは知らなかった。波風を立てない海のうえをのんびりと航行するヨットか、耐えずレーダーで世界の上空の隅々にまで目を配っている、軍司令官の凝視する目の貴重さに軍配があがるのかなど。それは安堵とストレスの問題にも思えた。ぼくは、いつみさんの感情を機敏に調べながらも、ストレスなど感じていなかった。穏やかな状態を得られてもいた。だから、その問題は、ある場合には両極にはないのかもしれない。白と黒が交互に縫い合わされているサッカー・ボールのようにそれはひとつになって転がっていく。でも、転がる先は、ぼくの足の爪先にも分からないし、知る覚悟もなかった。

「鈍感じゃなければ、言わなくてもわたしの気持ちも事前に分かるし、言ってほしいことばも理解してるはずだよ」
「じゃあ、鈍感なんですかね」ぼくは苦笑する。
「鈍感のフリをして、この場から逃げようとした」彼女は、大口を開けて笑った。「もう追求はなし」それから、いつみさんはトイレに向かった。

 会話用の耳が一時的に閉ざされると、ぼくの耳の奥は室内に流れている音楽に過敏に反応した。ずっと流れていたのだろうが、ぼくは気にも留めていなかったらしい。古い映画音楽のなかの旋律のようだった。甘酸っぱいヨーロッパの、精密さと違う観点で風景を切り取るレンズのなかの色彩を思い出させた。年代のある壁があり、路面電車が通り、薄暗い冬の雨が町を覆う。そこから抜け出て新天地を追い求めたひとたちで構成された、アメリカ大陸の華美な分かりやすい映像ではない。もっと深遠なものであるらしい。ぼくは、もっと簡単な会話を望んでいたのかもしれない。作為もなにもなく、ただぼくの両手を引っ張る幼い女の子たちのように、彼女らにも無邪気にぼくのことを好きかどうか宣言してほしかった。ぼくがしないことを棚にあげて。

「ちょっと物悲しいけど、胸にせまる音楽だと思いません?」
 ぼくはまたとなりにいつみさんが座ると、待っていたように言った。彼女は返事をしないで、その代わりに耳を澄ませている表情をした。それからかすかに肩でリズムをとった。髪がすこし揺れ、耳の飾りもその動きにつられた。唇がちょっとだけ開き、小さな音を発した。メロディーのような、ものうげな息を出すだけでもあるようだった。

「誰がかぶるんだろうと思うような大きな派手な帽子でも頭にのせて、ちょっとハンサムな子とでも歩きたくなるような音楽だね」いつみさんは同時にぼくの手の甲を軽くたたいた。

 しかし、その音楽は終わりに近づいていた。家であれば、もう一度同じものを再生したかったが、この場所では不可能だった。

Untrue Love(67)

2012年11月25日 | Untrue Love
Untrue Love(67)

 いつみさんが休みで、彼女に電話で呼び出される。ぼくは家の電話を切り、やりかけの勉強を忘れるためノートを閉じた。そして、机のライトを消した。集中して文字を見ていたせいか、目がしょぼついていた。手でひげの肌触りを何気なく調べた。もう手早く水道水で顔を洗って終わりという年齢ではなかった。それなりに髪のスタイルにも気をつかい、手入れするための用具も必要になる。だが、ぼくはこのいっしょにいられる時間を惜しむかのように直ぐに家を出た。

 靴のなかに小石があるように感じられた。ぼくは途中の小さな公園がある場所で、鉄の柵に片足を乗せ、靴を裏返しにして何回か揺すった。そして、また履く。それはぼくの心配をあらわすような行為でもあった。小さな異物がまぎれこんでいる。それはユミの笑顔でもあり、木下さんの真っ直ぐとした背筋でもあるようだった。だが、ぼくは払拭するように、いや、粉飾するように? 違う払拭でよかったのだ、歩きを早めた。ぼくは、自分の領域をひろめたことによって、手に負えない、隅々まで自分の理性の支配が及ばないことに、自分のこころ自体を嘆かせていた。だが、その裏返しに歩をすすめる行程を喜びで満たしていた。

「わたしから誘わないと来ない」その言葉をじれったいという態度をからませていつみさんが言った。
「これでも、学生だから、たまには真剣に勉強しないと・・・」
「ひげを剃る時間も惜しむぐらいに?」
「やっぱり、剃ってきた方が良かったですかね」ぼくは質問と自分への問いの中間ぐらいの地点にその言葉を置いた。
「まあ、会うひとをどのぐらいに大事かと考えていることに比例するんじゃない」不服そうなことを言いながらも、口調には皮肉な感じはしなかった。

 ぼくはいつみさんの横に陣取り、この店のなかをあらためて見渡す。とくに素晴らしい内装があるわけでもなく、とくに目立ったあらがあるわけでもない。ただの普通の店。だが、いつみさんがいることによって、ぼくはそこを居心地の良い場所と認定する。もし、番犬ででもあったら、足元で忠実にすこしだけ耳をそばだて居眠りすることだろう。だが、人間である自分はいくらかの緊張感もあった。その緊張がぼくの成長のバロメーターのような意味ももった。緊張のときを重ねることによって、なにかが磨かれていくのだというある種の羨望にも似た気持ちが。

「咲子ちゃんと、田舎に帰ったんだよね?」
「それ以来でしたっけ?」あの日々が随分とむかしのようだった。遠くに遠くに押し遣ってしまった気持ちにもなった。
「それ以来」いつみさんは、どんな単位か分からないが指をひとつずつ折って数える仕種をした。「もう会えなくなると思った」
「淋しいとか?」ぼくはそう口に出したが、考えはユミのこの前の論理に奪われていた。彼女は、淋しくない状態と、楽しいことを対比させた。積極的に自分の気持ちを伝えることと、耐えられないほどの切なさを否定し、かつ打ち消すことのどちらかを求められているようだった。ぼくは両方に違いがないとも思い、言葉を信じていなければ、尊敬もしていないような態度をとった。言葉となる手前の発酵寸前の感情の固まりをより重要視していた。そのため、ユミに曖昧な返答をした。だが、この場では、いつみさんの言葉が欲しかった。期待している自分の奥深くの気持ちは言葉にできないほどの切なさの包みの袋ができているようだった。

「なんて、答えて欲しいの?」
「さあ。思ったとおりにでも」
「まじめに言うと、これまで何回か顔を合わせた歴史があるんだから、たまには連絡すべきじゃないかとお姉さんは思う。順平、いまも無事ですとかね」最後はふざけたような口調をあえて選んだようだった。

「咲子が言ってると思ってた」
「それと、これとは話が別」彼女は横に振り向き、ぼくの顔を注視する。彼女の頬骨に沿った赤い色の鮮明さが、ぼくのこころにそのまま映え渡った。「実家とかにも、そういう態度じゃ、こまめに連絡していないんでしょう?」
「そうですね」
「わたしも反省してる。外国にいたときに、絵はがきも買って、文も書いて、あとは切手を買って、貼って、送るだけなのに、結局は出さなかった。一枚ぐらい世界の遠くから出したって、わたしにはなんの損もないのに、向こうは物すごく嬉しがってくれるかもしれないのにって、知っているくせに・・・」
「後悔していますね? 随分と」
「もう渡したくても、渡せないからね」

「受取人がいなくて、戻ってきてしまう」ぼくはその情景を思い浮かべる。配達員が困惑している。世界のどこかで。都会ではなく、もっと住民と密接した町で。配達するひとは、もう相手が亡くなっていることすら知っている。手紙の文面は、もうどんなことがあっても届かない。そのひとは手紙を渡したときのいくつかの嬉しそうな母親の表情をたくわえている。もう自分は配達にも行かないし、その喜ばしい顔を見ることもない。ただ、この手紙をもとの送り主にきちんと返すだけ。その一方通行での無駄な気持ちになってしまう文面を葬る役目に、ちょっとだがうんざりする。ときを巻き戻して手渡すことはできないのかと願う。不可能になってしまった伝達。

「だから、順平くんも言いたいことは早めに言いなさいね」
「会えなくて、淋しかったですかという質問を、さっき、したつもりだったんですが」
 ぼくは、なぜだかそう言うのが精一杯だった。

Untrue Love(66)

2012年11月24日 | Untrue Love
Untrue Love(66)

 その夜にぼくはユミを送るためにいっしょに駅まで歩いていた。彼女の手には袋があり、この前、ぼくが洗濯して置いた服が入っていた。永久に留まるものなど何もない、となぜだかぼくはそのようなことを考えていた。今日のユミは、明日のユミとどこかで違っている。彼女を、例えば壁にピンのようなもので留め、永久に知り尽くすことなど、通りすがりの人間と大して変わらない地位にいる自分にはできない相談だと勘づいた。それは自分を過小評価してのことだとは、自分がいちばんよく知っていた。なぜか、この日のぼくは自分のことを蔑んでいた。

 彼女のことをそれでももっと知りたければ方法はいくらでもあったはずだ。だが、ぼくはその可能性に対して素知らぬフリをした。通りすがりの人間であるように他人行儀の部分を残した。これ以上、深入りすればぼくという船は重さに耐えかね、沈んでいくのだ。もう充分、あらゆるものを無節操に甲板に放り込んでいた。ぼくは、そっとぼくの甲板にある荷物を足の爪先で落とそうとしていた。海の藻屑となる思い出たちと、かすかな希望ある未来。

「なに、黙っちゃって・・・」
「そうでもないよ。そうだ、もう外に出たりはしないの、あの町で?」
「人手不足になれば、いつでも。わたしには会わせたくないひとと歩くとか?」
「そんなことないよ」間もなく、駅だった。「気をつけて」
「また、連絡する」彼女は改札口に向かったが、直ぐに振り返った。「なんか、元気なくなったね?」
「さよならの瞬間って、いつも、なんか、気まずい」

「そう」彼女は大げさに手を振る。階段を登る途中まで姿が見えたが、完全に消えてしまうと、ぼくはようやく歩き出した。しばらくして、上空に電車が停まり、また発車する音がした。ぼくはアパートまでの道をまた歩き出した。

 自分は女性から好かれるという印象をもつことができない。だが、それほどの苦労もなく、この数ヶ月はあくせくすることもなかった。だからといって、永続するなにかを掴んでいるわけでもないし、いつ切れ間が来るとも知れなかった。それを覆すだけの気力も威勢もなく、ただ、いまの状態に甘んじていた。ぼくは所有するということを恐れ、だから、反対に誰からも根源的に求められてはいないようだった。地道に関係性を深める努力を怠り、その場の居心地の良さにあぐらをかいた。

 社会人にでもなれば、それほどの暇は与えられることはないのだろう。それで、結局は花びらが散るようにひとりを選ぶ。それは絶対にそのひとではなければ駄目だという肯定的な意志ではなく、このひとだったのかという敬遠の連続の結果にも思えた。しかし、未来のことを考えすぎてもなにも始まらなかった。だから、考えそのものを中断する。いまは少なくとも、何人かは一時的にせよ求められているのだ、これで、満足しようという怠惰なひとのような気持ちで、帰り道を足をゆっくりと引きずるようにして歩いていた。

 最後の電車に乗ってきたひとたちが、急ぎ足でぼくを抜かしにかかる。ぼくはそれでものんびりと歩いていた。映画を見て、ユミの顔を間近に感じたきょうの一日をゆっくりと振り返っていた。こうしている間に、消極的な意味合いで、いつみさんや木下さんとの関係を深められないでいるのだ。もっとも、彼女らは、どこかでぼくのことを子ども扱いしているのだろう。それでは、ユミはどうかといえば、結局は同じことだった。ぼくは一時的な避難のような場所にいる。いつか、そこを去らなければならない。去ったとしても、どこにも自分らしい土地はない。大学の友人たちのことを考えてみる。彼らはそれぞれ同じ背景をもったひとたちとの関係をもっている。ぼくから見ればいささか幼稚な女性たちだとも思うが、普通にまっとうであるということは彼らの方かもしれないという、責められていないにせよそうした決断を下さざるをえない。ぼくの方こそ、マイノリティーなのだ。同じように成長のスピードを合わせることはできない。いつみさんも木下さんも、ユミでさえ、それなりに大人だった。だが、なぜ、彼女たちはぼくと会うことを選んでいるのだろう? 彼女たちも、乗換えを待つ乗客のように、ターミナルでコーヒーを飲む時間ぐらいにしかぼくのことを考えていないのかもしれない。ぼくは、なぜだか無性に恐怖を感じる。その恐怖感を取り除くために問いただすことも、自分がしないことは知っていた。そこを、多分、高校生のときのガールフレンドも、女性の本能で知っていたのだ。

 ぼくはカギを取り出し、自分の部屋に入る。部屋の持ち主ではないユミのにおいがする。ぼくは服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。ユミはいまごろ、電車に揺られているのだろう。ぼくのことを考えているのだろうか? 考えているとしたら、そこには何が映っているのだろう。本音が通じない男。成長が見込めない学生。いつか、忘れてしまうあのときの関係。なぜ、ぼくのきょうはこうも後ろ向きなのだろう。早間も同じような疑問に悩まされているのだろうか。多分だが、決してないだろう。罪悪感もなく、達成感もない。ぼくは山をふもとから見上げ、彼は頂から山を一望にする。同じ物体や物質が、まったく違ったものになる。それが幸福か不幸か、ぼくはぼくの物差しで計ろうとした。だが、それは尺度も角度もまったくの見当違いのような気もした。それで、頭を洗いながら忘れよう、忘れようとただ一心に努力した。

Untrue Love(65)

2012年11月23日 | Untrue Love
Untrue Love(65)

「やっと、この服がまた着られる」と、うれしそうにユミがつぶやいた。それほどまでに洋服に思い入れがあるということなのだろう。ぼくはもらった服でもかまわずに、無頓着に着ていた。その両者の差は、限りなくあった。だが、この同じ部屋にふたりでいる。もちろん、そのことで個性が衝突するという場面など起こりえなかった。

 ぼくらはユミが借りてきた映画を見ようとしていた。彼女は同時に飲み物を買ってきて、ポテトチップスも大きな袋のものをもってきた。それらを無雑作にテーブルに広げる。ぼくらはベッドを背もたれにして、近くに肩を感じながらその画面を見つめる。意識してお互いの総称や役柄を述べ立てたことはないが、普通の交際相手がするようなことをしていた。かといってぼくは彼女に対しても律儀でもない。だが、そのことは片時も忘れられない道徳観の根幹ともいえる。ぼくのつまらない正義。しかし、それはいつか愛すべきひとが見つかり終章になったら守るべきことだとも猶予を与えていた。だから、このときのぼくはずぼらな状態でいる。そして、彼女にもぼくにとっての正しさを押しつけられないし、押しつける気も毛頭なかった。ずるさの逃げ口上としてはよくできている。反論の入り込む隙間は数限りなくあることなど、詰問されることもないので自分自身でも分からなかった。ただの上滑りな感情の移り変わりのみが真実な証拠だった。不誠実な証拠でもあった。

 ぼくらは、観終わってから、そういう関係になる。この面だけではきちんとした大人になることを誇りにでも思っているようだった。服をわざわざ取りにきた女性が、服を脱いでいる。彼女の肌の温かみを感じ、指先には先ほどのスナック菓子の匂いがするようだった。

「最近、他の子がチラシを配っていたね」ぼくは、バイトをしている町の情景を思い浮かべている。
「そう。時期がずれていたら、わたしたちは会わなかったことになる」ユミは感情を交えずに事実を言う。「そうなったら、淋しかっただろうね」こちらは感情だけの言葉だ。「そう思わない?」

「でも、会って、こうしている」そのいくつもあった段階のひとつひとつをぼくは並列にした。会うだけのひとはたくさんいる。会わなければ、そのひとが存在することも知らない。テレビや新聞や雑誌で見るひとも大雑把に会ったというふうに規定してしまう。最終的には、会わないひとが、やはりいちばん多いが、会っても素通りであるとか、肉体を直にもたない類いでの会う(目にする)という行為のひとが、その次だが大勢いる。会って、数語だが話す。話していて気が合う。友情がある。同性には。いっしょのスポーツで時間を潰したり、夜を徹して話した仲間もいた。女性になるとまた違う。好きであるという神秘的な感情がある。あるというより、どこかから勝手に訪れる。それに、揺さぶられて生きる。酩酊した状態で車を運転して左右に揺れ、スピードを一定に保つこともままならず、ガードレールにぶつかったり横転したり、つまりは事故にあう。あれが恋ごころの本性なのだろうか。酩酊にいければ、でも本望でもあった。向こうが好きにならなければ、事故にすらならない。ただの一方通行への逆走である。どちらも交通ルールを守っていないのは事実だが、意味合いはずっと違う。どちらかなら酩酊の方が良かった。

 では、ぼくは、ユミに酩酊しているのだろうか。「そう思わない?」と訊かれた直後から質問の返事をするまでに、ぼくはそれらの一連のことを考えていた。それは酩酊ではなかった。コントロールの配下にありつづける軽い酔いであった。あるいは、酔ったフリのようでもあった。でも、返事はする。
「こうしていると、楽しいし、落ち着く」

 夜通し、彼女と話すことも楽しいことだろう。眠る直前まで、時間も明日の予定のことなども忘れ、「ただ、いま」という刹那だけを望んで生きる。それは学生時代の、それも若いときにだけしか与えられない貴重な瞬く間のようなものでもあった。ぼくは間近にせまる試験のことなどにも敢えて目をつぶり、友人たちと話しつづけた一時を思い出していた。すると、彼女の存在は同性に近いところにあるのかもしれない。だが、それも違うのだ。さっきの行為がそれを証ししていた。

「淋しいかどうかなんだけど・・・」
「同じことだよ」
「同じじゃないよ」わざと議論を吹っかける口調だった。「楽しいと、淋しくないだよ」ユミは寝そべったままの姿勢で両手を上空に差し出し、ふたつの握りこぶしを空中に作った。片方ずつ揺らして、「楽しい」と、左手を振って「淋しくない」と口にした。違うことを説明するのに、その両方のこぶしが似通っているため、ぼくは想像するのを難しく感じた。それでも、淋しくないとなぜか彼女が言わせたがっていることにも勘付いていた。

「会わなかったと考える方が淋しいんだろうね」ぼくはそう答えたが、会わなかったら淋しさという感情の大元がつけ入る隙もなかったことを知っていた。だから、そこに淋しさなど起こることなどありえないのだ。その仮定に対して淋しいかどうかを求められているのだ。ぼくは、その仮定を覆して、現在のこの彼女とまどろんでいることが楽しいと告げた。そのあるべき方に彼女は不服だったらしい。不満の根は枯れないらしく、その議論の再燃を願っているように彼女の口は尖っていた。

Untrue Love(64)

2012年11月22日 | Untrue Love
Untrue Love(64)

 木下さんの家の玄関にあるぼくの靴は洗練されていないという意味で目立っていた。それについて嫌悪感が起こるのかと自問すれば、反対に愛着もあった。正しくは愛着の方がより強かったということだろう。ぼくはつい先日、そのスニーカーで親の車のペダルを踏み込み、知らない町の地面を歩いた。その物自体に記憶があるならば、それなりに情報を収集しているのかもしれない。同じ理由で、ぼくは幼少時からの成長にともない、着られなくなった、あるいは履くには小さくなりすぎた服や靴のことを懐かしがった。古びるということや流行に合わなくなったことが手放す唯一の原因ではない。ぼくの身体はそれらを受け入れるには、受け皿が大きくなりすぎてしまったのだ。いや、小さくなってしまったと考える方が妥当なのか。

 ぼくはひとり家に向かって歩いていた。知らない場所をひとりで歩くという恐怖を以前の自分は確かにもっていたのだという思いに到る。親の待つ家庭に帰れないという心配で胸がつぶされそうになる。そのことを次第に忘れ、隣町に出向き、自転車はぼくの世界を急速に広めてくれた。デートでは自分の友人たちに見つからないように、もっと遠くまで行った。この少女はぼくがいなければ、永久に彼女も自分の家族と再会できないのだ、と無心に信じようとした。彼女は、だからこそぼくに頼らなければならない。かといって、中学生に生活を支えるだけの能力もない。ただの空想の範疇で許される冒険だった。そうした思いも幼いときの衣服と同じように、いつの間にか手放してしまった。

 それとはまた別の角度から、責任というものが付随するようになる。もともとは同じ源流の小屋から流れて来るのだろうか。ぼくには、そのさっきの少女を家まで安全に送り届ける使命があり、自転車がパンクしても、修理やまた事前に整備をして、問題が起こらないようにする。

 しかし、現在のぼくはそのどちらにも属さずに中間点にでもいるようだった。何人かの女性を幸せにする必要も覚悟もないようだった。勉強をするが、将来に確実につながる何かを懸命には求めていないのかもしれない。バイトで自分の衣食住の何割かをまかなうが、それはすべてでは無論ない。それから逃げるように自転車に乗って、ぼくは見知らぬ隣町に個人的な逃亡をしたというイメージに結びつける。だが、そこで暮らすことはできない。空腹と喉の渇きと、癒えない疲労をかかえ、親元にかえった。すると、咲子が両親と話していたあの瞬間がいまになってよみがえった。結局は、ぼくと両親はいっしょには暮らしていないにせよ、近くに互いが存在しているという安心感にあぐらをかいていただけなのだろう。責任も、そこにはかすかな重さすらなかった。

 家に着いた。何年にも渡り、注目される月日もなく経過したこのアパート。無駄とも思える風雨にさらされたこの外観。それでも、ぼくのすべてが詰まっている。久代さんは、やはり料理を作りすぎたといって、タッパーにいれたものを持たせてくれた。ぼくは、それを冷蔵庫にしまう。空腹は近いうちにやって来るだろう。

 ひとりになり他の女性のことも考えるかと思ったが、ぼくはひとりでいることに安堵を感じていた。間もなく、案の定、空腹が訪れたので久代さんの手料理を取り出した。レンジで温め、皿に移し変えるとぼくはもう久代さんのことも思い出してはいなかった。その自分のなかにある薄情さに、その後、ひとりで本を読みながら気付く。気付いてもその怜悧さは払拭されないようだった。ぼくにずっと住みつづけて、やっと出口を発見したのだと考える。

「服、取りに行かないとダメだね」電話が急になり、ユミの声がした。ぼくは彼女の発言の意図がすぐに理解できなかった。それで、不自然に家のなかを見渡すと、彼女の服が部屋の隅に置かれているのを見つけた。キッチンのステンレスの流しのなかには、久代さんの料理がなくなった後のタッパーが水のなかに沈められていた。彼女の存在を窒息させてしまうかのように。こうして、ぼくの家のなかに複数の女性の痕跡があった。実際にこの場所に来たこともないひとをも含めて。

 ぼくとユミはお互いの都合の良い日付を照らし合わせる。彼女の服はこのぼくのテリトリーである持ち分から取り除かれ、また何らかの代わりのものが秋の草花のように落下していくのだろう。ぼくに責任はなく、ぼくはそのエリアの清潔さを保つことすら放棄するようだった。それはいつか堆肥にまで行き着いてしまうのだろうか。それは望ましいことでもあり、別な観点からのぞけば迷惑でもあるのかもしれない。しかし、ぼくは暗い道をこわがる少年ではなく、生きた証拠をさまざまな場所に刻み付けてしまうのだ。そう願っているにせよ、計画しないにせよ。

 ぼくは電話を切り、カレンダーに丸をつける。久代さんの家の同じものは、やはり、デザインもすっきりとしたおしゃれなものだった。ぼくはどこかが配った垢抜けない色使いも少ないものを眺めていた。だが、ぼくの靴と同じように用途だけで限定して考えれば、格段に劣ったものでもなかった。

Untrue Love(63)

2012年11月21日 | Untrue Love
Untrue Love(63)

 噴水の音は消えたが、店内は賑やかだった。高校生ぐらいの若い女性がいて、主婦層であるらしい年齢の女性も数人いた。お互いのグループが放つ声の饗宴がその場に満ちていた。ぼくと久代さんは視線を陰で合わせて、少しだが自分たちの選択を後悔した。

「大丈夫?」と久代さんがか細い声で訊く。
「平気ですよ」ぼくらはメニューを下に置いて、注文を考えるフリをして、分からないように笑った。その共通の隠し事めいた行いによって、ぼくらは同じ罪のなかにいる安堵を感じた。

 彼女はバナナを主体にしたジュースを飲んだ。ぼくは冷たいコーヒーを選ぶ。
「ちょっと、うるさい店内ですいません」と店員がお盆の飲み物をテーブルに置きながら言った。ぼくらは、それほどでもという意思表示のように首を左右に振った。
「順平くんの周りもこんな感じ?」
「母親はものすごくしゃべりますけどね」

 ぼくは実家にもどったときの様子を思い出している。台所にならんで、母と咲子がいる。ひとりは饒舌で、若い方は寡黙とも呼べた。それでサンプルとしては不出来な情景だった。
「でも、ときと場合による?」
「そうでしょうね。久代さんも親しい友だちといると、こんな感じになりますか?」
「客観的になっては考えられないね。こうかもしれないし、まったく反対かもしれない。でも、うるさいかもね、案外」彼女はそれから黙るのを証明するかのようにストローを吸う。なぜか、目はつぶられ、それが幼く映った。

 ぼくは注視している自分に戸惑い、目を逸らせて窓の外を見る。また噴水は勢いよく上空に向けて発していた。窓が防御をしているため相変わらず無音であった。しかし、ぼくがそれを見出してから途端に二組の客は席をたった。
「静かになった。やっと」
「でも、こうなると、なんだか静か過ぎるのね」
「不満そうですね?」
「そんなことはない。休みぐらい、静かに過ごして、慌ただしいことを忘れたい」久代さんはそれからも話さなかった。それは話すことがないというよりか、たくさんのものが胸に秘められていて逆にどれから話してよいか分からないような雰囲気でもあった。それはぼくのうがった見方かもしれない。ただ、ぼくに苦痛はまったくなかった。彼女が静かにしていると、それだけで絵になった。

「ステレオ、どうですか?」
「調子いいよ。部屋にマッチしているし」その音を再現しているような表情を浮かべた。「聴きに来る?」
「どうしようかな」
「もったいぶって」
「行きますよ」ぼくは笑う。自然さというのは、こういう感じなのだというものを装った笑い方でもあった。だから、不自然さが薄い膜の後ろに確実にあった。
「わたしにも弟がいればよかったな」それが、どういう意味合いなのかぼくは静かになった店内で考える。その答えと近いのはペットがほしいと言っているようでもあった。「ご飯とかも、文句も言わずにいっぱい食べて」
「ぼくも、食べますよ」
「じゃあ、スーパーに寄って。なんか、たくさん、作ってあげる」

 ぼくは久代さんの家に着く。彼女は宣言どおり、料理の匂いを部屋中にさせている。そんなに大きな部屋でもない。玄関には変わった靴が並んでいる。ぼくは心地良さと空腹が満たされる予感と安らかさを感じ、彼女がキッチンで働いている間に居眠りをしてしまったようだ。それで、テーブルに料理を並べた後、ぼくの目を覚ますために身体を軽く揺する。目の前に彼女の顔があった。長い睫毛だな、とぼくは単純に感心する。彼女はぼくに唇を近付ける。ぼくはひとりで車を運転しているときや、見知らぬ旅館で暇を持て余していたときに考えていたことは、結局はこういう状態になることへの願望がすべてであるようだった。

「暖かいうちに食べて」彼女は唇を離してそう言った。それは命令ではなく、取扱い説明書の文面のようだった。次には、こうしてくださいと。
「お箸を扱うのが上手だね」数分後、ぼくが食べる仕種を見て、彼女が語る。
「そんなこと、言われたことがない。一度も」
「じゃあ、しつけがきちんと行き届いていたんじゃない?」

 ぼくは、そういう作法に似たものを注意されたこともなければ、気にかけたこともなかった。だから、正しいことか、誤っている部分が含まれているのかも証明できなかった。証拠がなくても、正しいものは正しいのだと、このとき教えられた。彼女の笑顔に彩られた話し方によっても。

 ぼくは、それからステレオで映画音楽のCDを聴く。ドラマチックな旋律は大げさに感じながらも、映像がなくてもそれはぼくのこころに大きく響いた。この場所にいて多少の緊張があったことも深く関わっているようだった。久代さんは奥でいくらか寛いだ服装に着替えていた。ぼくはその服に小さな毛玉があることを確認する。いつものデパートにいる彼女と違うということと、ぼくにこころを開いてくれているという錯覚がミックスされ、ぼくは彼女のことをいままで以上に好きになってしまう事実を疑いながらも知るのだった。

 彼女はもう一度立ち上がり、グラスいっぱいに氷を入れ、炭酸の混じったお酒をくれた。その発泡する液体が、この身近な距離に適度なスペースを与え、それがやはり泡と化し消え去るかのようにぼくらの間には障壁物が徐々に減っていった。

「弟みたいな安心する立場にいてくれたらいいのに」と、最後に久代さんは言った。その言葉は、ぼくの存在を閉ざす役目もあり、また自分が闘牛士の策略の範疇のなかでしか生きられない動物のような本能的な意志も呼び起こしてくれた。

流求と覚醒の街角(5)携帯ショップ

2012年11月21日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(5)携帯ショップ

 ぼくは、電話を発信する。

 ダイヤルを回す。一定の桁の番号を押す。そういう作業すら必要がない。ただ、記録されている番号を呼び出して確認して押すだけ。しかし、簡易なことでも通じないと意味がない。

 奈美は出なかった。珍しいことだ。しかし、夜になって彼女から電話がかかってきた。
「携帯電話を落っことしたら、それ以来、画面がへんになっちゃった」
「何かの接触かね?」
「詳しい理由は分からないけど、もうそろそろ代えるタイミングだったのかもね。今度、付き合って」

 それで彼女は順番待ちの紙をもち、ふんわりとしたソファに座っている。ぼくは外に出て、大きな窓からその後ろ姿を見ている。機種が変わったら、それを使って直ぐにぼくに連絡をするということだった。

 ぼくは自分の電話を取り出す。アドレス帳をぼんやりと眺めた。いくつかの名前はそのなかでしか思い出すことはなく、いくつかのものはそれを失ったら永久に連絡が途絶えてしまう恐れがあった。敢えて連絡を取ることを放棄するために消去した何人かのものは、もう番号も思い出せなかった。当然のことだ。数字の羅列を永久に記憶しておくことなどぼくの限度ばかりある頭脳では不可能だった。しかし、遠くもない過去にはその番号からかかるのを毎日のように楽しみにしていた時期もあったのだ。それこそ、首を長くして。

 ぼくは電話が使われた、効果的に用いられたものを考えている。

 ヒッチコックはダイヤルMが殺しにつながる映像を作り上げる。いつか、どこかのプリンスと結婚することになるひとの姿。映像のなかにその魅力ある前哨戦の姿は固定される。電話という技術が開発され、それはある場所と場所をつなぐものだった。その場所の片方か両方が移動を伴うことが可能になるのは、もっと後だ。そこに居ないと、連絡が取れない。

 同じ女優は「裏窓」という映画にもいる。足の骨折で自由が利かないひとが主人公。固定された電話にはもってこいの状況だ。そこで鳴る電話を待つ。あるいはかける。

 固定されていればこそ、アリバイというものにもなり得るのだ、とぼくは考える。「いま、ここにいる」という宣言は携帯電話では不確かなことだろう。もっと時代が変われば、そこにもある種の居場所を突き止める性能が埋め込まれるのかもしれない。音楽というものも、近い過去までは外に持ち出すことをしなかった。歩きながら耳にヘッドホンを当て、音楽をかける。その行為を考えながら、ぼくは家にある古いジャズのレコードのジャケットを考えていた。トロンボーン奏者の顔写真がダイヤル式の電話の中心にある。ダイアルJ.J.5。見事なデザイン。彼の音楽も外に持ち出される。

 あのジャケットが携帯ショップの壁に飾られることなど決してない。それでは、過去の遺物なのだろうか? そうとも言えないだろう。あの映画の名作たちが生き残るのと同じ理由で。

 ぼくは電話を見る。まだ電話はかかってこない。アドレスが、新しいものに移しかえられる。その作業の途中かもしれない。ぼくは彼女の持ち物のなかで増幅されていく存在なのだ。まだスペースがあれば、まったく新しい別の誰かのものも、ぼくの別の情報も加わる。擦り切れていくレコードという表現や、用をなさないレコード針というものもぼくは想像した。そこからの増幅はない。ただ廃れていく運命があった。それにも潔さや美しさがあった。

 しかし、彼女のこころがわりで瞬時に消える番号でもあるのだ。数回の指の操作でぼくの情報は抹消される。電話帳が放つ重さや、太い幅を処分するにはそれなりの労力がいった。その簡単な方法で番号は消せても、その番号の持ち主から与えられたいくつもの思い出はあっさりとなくなることはない。容易でもない。

 それからしばらくして、電話がかかってきた。その電話が最初に通じた相手。
「聞こえる?」いつもの奈美の声がした。「どこにいるの? 終わったよ」
「近くだよ。そっちに向かって歩くから、ちょっとだけ店の前で待ってて」ぼくは歩きながら電話を耳にあてている。通信というものが世界の裏側までたどることもできるならば、この数メートル先のほんの少しの距離すらも縮めるという事実を知る。そして、話しながらぼくは背中を向けている彼女の後ろ姿を見つけて、切った。

「思ったより、長くかかったみたい。待った?」
「ううん。どういうのにしたの?」
「これ」奈美の手の平には電話機がある。それは、もう機械にも見えなかった。ただの子どもたちが遊ぶおもちゃの電話とそれほど違わなかった。

「何代目なの?」
「さあ、三つか四つめじゃない」それは以前の男性との歴史のようでもあった。そこに新しいものが加わる。同じようにぼくが仲間に入る。ある日、うっかりと落としてしまう。角に傷がつき、どこかが欠ける。別のものと取り替える。以前のものの使い勝手の良さや便利さを一定の期間だけ覚えている。だが、それも直きに忘れる。昔の物体は無骨なものと思え、より洗練されたものに思いを馳せる。あるひとはもう使わないものも引き出しの奥にでもしまう。ある時期の記憶を呼び覚ますことへの憧れの意味も含めて。


Untrue Love(62)

2012年11月20日 | Untrue Love
Untrue Love(62)

 あまりにも深い眠りに陥っていた。ぼくはまだ子どもで、当然、咲子も素朴な柄のスカートを履いている子どもだった。咲子の母がぼくに荷物を預けた。それが不思議といまに変わり、ぼくは大人になって父にお土産を渡していた。ほぼ同じ背丈のふたり。
 そこで深い洞窟から退散するように眠りの作る迷宮から戻ってきた。

 大学はまだ休みだったが、ぼくはバイトに行く。木下さんがにこやかに仕事をしている。
「ずっと休みだったんだ。どっか、行ってたの?」暇な休憩時間に彼女が訊いた。
「ひとりで、車でぶらぶらと。その前に咲子を田舎まで送る役目を仰せつかって」
「あの、靴を買ってくれた子ね?」
「そうでしたね。忘れてた」
「じゃあ、後で思い出話をきかせてね」と言って、彼女は去った。ぼくは、これといって楽しませる題材を思いつかないが、それでも、何らかの話題を見つけようと思っていた。

 ぼくらは次の日の昼に会うことになった。噴水のある公園で、木下久代さんはまぶしそうな仕種をした。空中に水の粒子が飛散する。それだけの背景なのに、より一層、彼女が魅力的に見えた。
「そこに、順平くんも、よく帰るの?」
「全然。まるっきり。この前で10年振りぐらい。だから、よく知らない場所」
「それで、ひとりでぶらぶらと車で」
「いつか、やってみたかったから」
「楽しかった?」
「それほどでも」
「何がよくなかったんだろう?」微かに久代さんは笑っていた。
「多分、話し相手もいないし。観光するのにも、歴史も知らなかったら」
「でも、あとで勉強すればいいじゃない」

「そうなんですけどね・・・」そう言いながら、ぼくは久代さんの足元を見る。今日も華奢な洗練された靴を履いていた。その靴で、先日までぼくがいた咲子の家の周辺を歩くことは困難だろう。小川には小さな昆虫たちが潜んでいて、子どもたちが足を浸からせながら、それらを探していた。ぼくは遠目でそれを見る。彼らは宝物でも発見したように喜んでいた。その気持ちの根源は永続されるべきである。対象が変化するだけなのだ。あるひとには学問への探求の喜びに化けるかもしれず、ある場合には、スポーツの金メダルのようなものになっていくのだろう。だが、あの喜びの最初。それがひとによっても住む場所によっても違ってくる。ぼくの場合はいったい、どんなものだったのだろう。

 ぼくは、それらのことを話す。靴の部分は非難を込めないで。

「わたしも、特別に都会育ちってわけじゃないのよ」遠くを見るように、噴水の向う側まで射抜くように久代さんは視線の先をある方向にした。ぼくは彼女が、やはり、素朴なスカートの柄で、愛嬌のある髪の飾りでもつけている姿を想像した。すると、どんな悲しみも彼女に与えられてはならないのだという結論に通じる。それは、どの女性にも、どの人間にも当てはまった。しかし、それは結局のところ、避けてもあらわれるときは確かにあらわれ、逃げられるときは、どこまでも逃げられるようだった。大げさにいえば、それが運命でもあり未来でもあるようだった。

「ちょっと、歩こうか?」
 ぼくは黙って立ち上がり、半歩ぶん、遅れるように歩いた。
「久代さんは、どこに行きたいですか?」
「でも、つまらない起伏のない毎日を過ごせるようになるのも、大人への足がかりなのかもね」彼女は直接の問いへの答えを与えてくれなかった。それで、ぼくは同じスピードで歩けるように彼女の横に近付いた。

「退屈ですか?」それが、全般の問題なのか、いまのこのときのことなのか、質問している自分にも分からなかった。
「静かな町の、静かな坂道なんかに行きたいな。上にわたしはいて、下にはなにもなくて、ずっと遠くに海があって、汽笛の音がしたり。それを風が耳まで運んでくれる」
「いつか、いっしょに行きましょうか?」彼女は立ち止まり、ぼくの方を向いた。横顔は正面に変わる。「行けたら、いいね」そして、穏やかに笑った。

 約束も契約もなく、ぼくらは子どもたちのように漠然とした思い付きを交換している。実行されるのか厳しく監視するひともなく、忘れ去られてしまうには惜しいように、空気中に刻印される。ぼくはいつか果たさなかったそれらのことを悔やむことになるのだろうか。それとも、悔やむという感覚もなくなるぐらいに、これからも戯言のようなものを繰り返しつづけるのだろうか。いまのぼくには分からなかった。ただ、判断や採点を未来のある日の自分に任せたかった。それで、充分だった。まだ太陽が頭上にあり、となりには久代さんがいた。彼女の靴の路面を踏みしめる音が、甲高くなっていた。

「のど、渇かない?」
「そうですね。あそこに店がありますね」ぼくは前方を指差す。それは確実に成し遂げられる未来だった。ぼくらが注文することも覆されず、店員がそれらを運んでくる。ぼくの未来の多くもそのように簡単に解決できたらとも思っていた。だが、ぼくはもっとたくさんのことについて悩むだろう。物事はもっと複雑に入り乱れてくるのかもしれない。それをすべて捨てることもできないし、すべてを掴み取ることもできない。店までの道をふたりで歩きながら、久代さんの存在感が薄らいできたような気がした。すると、後方で噴水が止まり、音も瞬時に消えた。

Untrue Love(61)

2012年11月19日 | Untrue Love
Untrue Love(61)

 何度か車にガソリンを入れ、同じ理由で食料を摂取して、ぼくの休みが終わる。いくらか見慣れた景色のなかを咲子の家まで向かう。ぼくは自分の知らない場所で思い出を作り、彼女は自分がかつて住んでいた場所で思い出を増やしたのだろう。その新たに追加された思い出を彼女がぼくに話すことになるのだろうかといまから考えていた。おそろく、かいつまんで。いや、もっと、話題にすらしないのかもしれない。それは外部に出ないと、ここには無いことにはならないのだろうか。ぼくは自分がこころの奥に秘めていることを考えようとした。それは、少ないか、ほとんど無いようにも思えた。おしゃべりな人間でもないが、ぼくはそれを口にすることをためらわない。ならば、すべてを話しているのかといえば、それは人間である以上、無理な相談でもあった。

 ぼくは車から降り、彼女の荷物を運んだ。それをトランクや後部座席の隙間に入れた。また、ぼくの両親のためにお土産が手渡された。ぼくは相変わらず、むにゃむにゃと礼を言った。

「また、そんなに期間も空けずに、こっちに寄りなさい」と、咲子の母が話しかけた。ぼくは素直に頷いたが、それを実行するかはまた別問題のような気もしていた。そして、車のドアを閉め、数日前にたどった道を引き返す行程に入った。
「どうだった、休みは。楽しかった?」彼女の髪はたった一週間で伸びたようだった。ぼくはそれで、その髪を切ったことのあるユミを思い出すきっかけになった。

「うん、ゆっくりできたし」答えはいつものように簡潔であった。それに、具体的な情報は含まれていなかった。「順平くんの方は?」
「城見たり、そば食ったり」
「こっちのおいしいでしょう?」
「そうだね。腹いっぱいになるのとは、別みたいだけど」

 咲子は笑った。ぼくは特別に楽しいことを話したわけでもない。事実をただあるがままに述べただけだ。だが、その何気ない会話ですら、ひとりで過ごしていたぼくにとって心地良いものとなった。だが、次から次へと話題が転換する喜びを与えてくれる訳でもない。居眠りの誘惑に負けそうになりながら、ぼくは運転をしている。ときにガムをかみ、ときにコーヒーを飲みながら。

「車の免許を取ったら、このぐらいの距離なら、ちょくちょく帰れそうだね?」と、ぼくは訊く。
「安全に運転できるまで、時間がかかりそうだけど」
「馴れれば、問題ないでしょう」早間と、もし関係が長続きすれば、その役目を早間が負うのかもしれない。そう思いながらも、彼が城を見たり、やはり、そばを食べたり、自然が溢れる風景を満喫したりすることを想像することは意外と難しかった。
「また、いろいろなひとに戻ってから、会いたくなった?」

「そうだね。会って、話して、笑って」ぼくは自分がそういう振る舞いをしている様子を思い浮かべた。それから、いつもの営みに戻る。大学に通い、バイトをする。たまにデートをして、愛すべき必要のあるひとの、愛すべき美点を確認する。それは理性ではないが、衝動でもない。ぼくは一週間年をとる。それが数ヶ月という単位になり、数年というものにいつの間にか変化する。そのときに、またこの道を通ることになるのだろうかと無邪気に考えた。この咲子という女性も誰かと結婚しているのかもしれない。この前、ぼくの前に立ち塞がった子どもたちのように素朴な子の親になっているのかもしれない。ぼくは、いくらか自由を失い、それなりに稼げる人間になっているのだろうか。親の車ではなく、自分の車で、この道を通過するのだろうか。ぼくは、その架空の未来をぼんやりとやり過ごす。道はそれほど混雑していない。しかし、空腹を覚え、サービスエリアで車を停めた。

 ぼくは咲子を待ちながら、電話ボックスに向かった。
「いま、あそこのサービスエリアにいるから、もう1時間もあれば、家に着くよ」
「楽しかった?」母が訊ねる。
「まあ、いろいろあったよ」

 ガソリンの目盛りがへる。全身に疲労がひろがる。目にも疲れが及ぶ。だが、もう高速は降りた。実家につながる道をのろのろとすすむ。間もなく咲子のアパートに近付く。そこで、彼女をいったん降ろした。ぼくも部屋まで荷物を運び、もう一度彼女を乗せ、家に向かった。

「ただいま、何だかお土産いっぱいもらった」ぼくは元気を装い、家に入った。
「咲子ちゃん、楽しかった?」母が、ぼくには視線も向けずに、咲子に訊いた。
「自分の息子を気遣ってくれよ」
「いいのよ、あんたなんか」
 ぼくらはテーブルに向かう。ご飯が用意されていた。
「電車で帰るから、ビールを飲ませてもらうよ」ぼくは勝手に冷蔵庫を開け、意中のものを取り出した。
「泊まってけば?」
「自分のアパートの方が安心する」

「そう。冷たい息子ね」母が、あきれたように言った。それから、母と咲子が親類のうわさをした。ぼくは、それが誰のことを指しているのかいまだに分からなかった。分からないなりに、それでも関心があるような表情をした。ぼくにとって懐かしいものは、もっと別なところにあるようだった。それはバイト先の汚れたビルの階段や、ゴミが無雑作に放られた路地裏だったりした。しかし、それでもさっきまでいた場所の青空や済んだ空気もどことなく捨てがたかった。もう一度行くなら、ぼくは誰かとわいわい話しながら時間を共有したかった。ひとりの旅館をむなしく感じ、でも、ひとりのアパートに戻ろうとしている。ぼくは居場所を探し、誰かの美点を考える。自分の美点は何だろう? とも思いながら疲労の充足というものにも付きまとわれていた。

Untrue Love(60)

2012年11月16日 | Untrue Love
Untrue Love(60)

 ぼくは家のなかに通され、もごもごとした口調で預かった手荷物を渡す。お土産だが、なかに何が入っているのかも分からない。あらかじめ訊いておけばよかったと思うも、もう遅かった。それから、ぼくが大人になったとか、身長が伸びたとか言われたが、ただ恥ずかしい思いをしただけだった。咲子は無関心のように食事を準備する手伝いをした。ぼくはいつになくまじめな顔をして座っている。

 目の前の食卓には盛大に料理が並べられた。ぼくは部外者でありながら、家族の一員のような役目を与えられているようだった。あるときには他人を装い、あるときには自分の家にいるぐらいの図々しい態度をした。それで、誰も怒らず、とにかくは喜んでくれていた。

 食事が終わり、咲子に付き添い、何件かの親類の家に挨拶に行った。面倒でもあったが、記憶の奥にあった顔を思い出す手助けにもなり、だが、一様に彼らの年齢は増えていた。まだ、子どもたちもいたが、それはぼくにとっては誰とつながっているのかも理解できず、共通の思い出も懐かしさも当然のところなかった。彼らも咲子に再び会えたことを手放しに喜びたいようだったが、見知らぬ男性がいることにより遠慮がちだった。

 ずっとここに留まるように説得されたが、ぼくは車での一人旅をすることも目的であることを告げ、数時間の滞在でそこを後にした。また何日か経って、咲子を横に乗せ、また自分の居るべき場所に戻るのだ。だから、父の車を発車させると気楽になった。そして、不可解にも淋しい気持ちにも覆われた。どこかに依存し、どこかに棲家を見つけるという動物の本能がきっと自分にもあるのかもしれない。そこが、自分にとっての永続の場所であるのかもしれないし、また、新たに自分は別のどこかでそれを探さないといけないのかもしれない。所属する家なり、ホームなり、家庭と呼ばれるものを。その家庭には、いったい誰を伴っているのかを想像した。数人の女性の顔が浮かぶ。そして、何人かの子どもの姿も発見した。それは単純にも先ほど会った子どもたちと寸分変わらぬ様子だった。

 ぼくは適当に車を走らせていたが、路肩に車を停め、地図とガイドブックをあらためて見つめた。無口な咲子であったが、いなければいないなりにぼくは退屈を感じる訳だった。それを払拭させようと、地図に向かって答えを求めるかのようにいくつかの質問をした。しかし、答えは自分自身で見つけるのだ。ぼくは地図をたたみ、ガイドブックを助手席に広げたまま逆さに伏せ、また運転に戻った。

 さらに忘れていたことを思い出し、もう一度、車を停めた。両親に電話で無事を告げるべきだったのだ。
「さっき、着いたよ。万事順調。知らない親戚の分類を教えてもらう必要があるみたいだけどね」
「遅いのね。とっくに咲子ちゃんから電話があったわよ。気をつけてね」と母の声が向こうでした。ぼくは頷き、電話を切った。

 それから、城を見たり、地元の名産品を食べたりした。日常から離れたためかすべてが新鮮で時間が速やかに去った。その反面、ひとりでいるためか考え事ばかりが浮かび、そのひとつひとつが遅々としてすすまなかった。急かす必要もまったくないのだが、なぜか、不満だった。

 ぼくは東京に出て来たばかりの咲子と会うことを以前に拒んでいた。それは自分の時間がむしり取られるように奪われるかと心配したからだが、結局は帰省のために送ることまでしていた。結果として、奪われもしなかったが、何か具体的なメリットもあった訳ではない。しかし、ぼくの周辺にいることが普通のことになっていた。ぼくの意中の女性の店でバイトをして、ぼくの大学の友人と交際していた。知らないところでうわさを聞き、またぼくの情報も彼女の耳に入ることもあり得るのだろう。少なからず影響も受ける範囲にいた。それも数年で終わるのか、継続してぼくの周りにとどまるのかは分からない。だが、帰るときに迎える必要があるため、ぼくは一人で車を走らせながらも、こころのどこかで彼女を住まわせていた。

 それにも飽きたので、ぼくは予約した泊まるべき旅館に入った。汗を流して、食事をした。やはり、さすがにずっとひとりで居ると、味気なくもあった。ぼくは誰かと来たとしたら、どういう具合にこの旅が発展しただろうかと空想する。いつみさんとなら、この海岸でいっしょに座っているだけでも楽しかっただろうと淡い気持ちで思う。木下さんは静かにさっき行った城の横の庭園でお茶でも飲むのが似合うのだろう。苦いという観念さえ木下さんには忘却させる力があるのだ。ユミとなら元気いっぱいに高原でも歩けるのだ。だが、ぼくはいまは生憎とひとりだ。温泉にひとりで浸かり、窓を開けた部屋でしわの寄った文庫を読んでいる。望んだことでありながら退屈でもあった。同じように自分の部屋でも毎日、こうして過ごしているわけだが、それにしてもやることが見つからなかった。ぼくは、あの咲子のいる場所で泊まっていたらどうなっていただろうと考えた。人恋しいという訳でもないが、まるっきりひとりの時間にも耐えられなかった。それで、近くを散歩した。明かりのまだある飲食店に入り、瓶ビールを一本頼んだ。ここでも、目の前にいつみさんがいて相手をしてくれたらいいのに、と考えていた。

 そういう日々を1週間ほど過ごし、また咲子を迎えに知らない山道や、川の横や、線路の脇を車で走らせた。

Untrue Love(59)

2012年11月15日 | Untrue Love
Untrue Love(59)

 長い休みになる。学生の特権だ。

 父親からたまにまじめな電話がかかってくる。大体が、頼むのを申し訳なく感じているような口調でだ。今回は、咲子が帰省するので車で送ってほしいという要望だった。その見返りとして、家の車を自由に使え、いくらか両親から小遣いを貰うことになった。

 車での一人旅というものに、いくらかの憧れの気持ちもあった。その同行として途中まで送り迎えをすることは面倒でもなかった。咲子はバイト代を貯め、こちらで教習所に通いはじめたらしい。まだ自分で運転して帰ることはできない。ぼくは一年のときに取っていた。それで、両者の休みを合わせて、ぼくらは車に乗った。

 快晴の空がどこまでもつづく。ぼくは前方を見ながら音楽に合わせて鼻歌をうたう。沈黙に耐えるという課題はもうぼくらの間にはなかった。彼女は話さないとなれば、とことんまで話さなかった。ぼくも笑わすとか楽しませるというある種の未来の関係性への淡い期待の準備もしなかった。ご褒美も必要ではなく、回収する作業も皆無だった。だが、時折り咲子は話しかけてきた。

「あそこに行くの、何年ぶり?」とかを。
「10年ぐらい、もう経つのかな。早いね」
「覚えてる?」
「覚えてるよ。意識して思い出しもしないけど、訊かれると覚えてることも多いなって・・・」

 休憩をしたり、トイレに行ったり、買い食いをしたりしながら、のろのろと歩はすすむ。
「キヨシさんて、女のひとに興味がないんだね」とも言った。
「そういうひともいるんだよね」
「いつみさんみたいなひとが好きなんでしょう?」咲子は不意に、ストローから口を外して訊ねた。それは質問というより確認に近かった。
「そうだね。好きだと思うよ」ぼくはそう発言することによって、その気持ち自体に甘いものが含まれていることを自分で知る。口にすることによって外部の第三者より、自分にのみ言い聞かせているみたいだった。「何か聞いてるの?」

「うんうん」彼女は、ほんの小さな声で答え、首を左右に振った。しかし、かすかに微笑んでいた。彼女たちは顔を合わすことが少ないはずだ。いつみさんが休んだ日に、咲子が働いている。だが、キヨシさんを通して、何らかの情報を、ぼくがもっていない新鮮ないつみさんの真相に近いものを咲子がもっている可能性もあった。ぼくはそれを知りたかったが、それ以上、その問題に執拗にこだわるのも似つかわしくなかった。だから、運転をそのままつづけている。何事もぼくを動揺させるものはないのだという気持ちで。

 空は次第に透き通っていく。青空はきちんと青空の役目を果たす。雲はグレイを帯びず、白さを取り戻す。風景も田園や緑が増えていった。自分がいかに人工的なものに囲まれて暮らしていたかが分かった。だが、それを特効薬的に取り除いた社会にいることも想像できなかった。ただあるものを受容するだけだ。

「早間とどう?」
「どうって?」ぼくは前を見ていたが、彼女の視線がこちらを注視するのがはっきりと分かった。
「どうって、喧嘩するとか、つまらないとか、いっしょにいて楽しいとか、この前、こんなことをしたんだとか、一般的なことを含めた、どうだよ」
「楽しいよ」彼女は何かと、または別の状態と、似た境遇にいた誰かと比較することなど念頭にないようだった。それだからこそ不満もなければ、自分のいまを提示して相談するということも成し得なかった。咲子こそ受容する人間でもあるらしい。

「教習所は?」
「いろいろ別なことに集中するのがむずかしい。信号を見て、ハンドルを握って、標識を確認して」
「教官にどなられて・・・」
「怒鳴られたことないけど」
「じゃあ、運転が上手いんじゃない」
「だと、いいんだけど」

 間もなく高速道路を降りる。あとは下の道を咲子のガイドで走るだけだ。なつかしいという感興も起こらない。ほぼその地と初対面の気もする。ぼくの思い出にあった細い小川はどこかにまだあるのだろうか。信号待ちの度にきょろきょろするも、そこは荒漠としていて情緒的にあたたかいものにしてくれなかった。あれは、少年の自分が作り上げた架空の町だったのだろうか。ぼくは焦燥する。

 だが、何本か大きな通りを抜け、小道を曲がると、自然の良さを再認識させてくれる場所にぶつかった。どこかで、来世にでも出会うような美しい風景と町並みだった。
「もう直ぐだよ」咲子は窓を開ける。都会とはまったく違う匂いが軽快に侵入した。ぼくはなぜだかくしゃみをする。それでも、咲子は無心に外を見つづけた。
「やっぱり、いい?」
「うん。落ち着くね」
 その言葉とともにぼくは空腹を覚えた。自然のもつ雄大さがぼくの身体のすみずみまで行き渡り、地球や宇宙の自転のサイクルがぼくの身体にまで反響して正常な状態に近付けてくれるようだった。

「もう、そろそろかな?」
「うん。あそこに停めて」咲子はある空間を指差した。そこにぼくは車を停め、エンジンを切った。咲子は外に出て、伸びをした。ぼくも遅れて出て、後ろのドアを開け、両親が持たせてくれたお土産をそっと引っ張った。そして、どうでもいいが車の鏡で自分の顔を点検した。

「じゃ、どうぞ、お先に」ぼくは咲子と目の前の家を交互に見る。
「ただいま」と咲子が言ってドアを開く。
「おかえり」母らしきひとの声がする。ぼくは玄関で立ち止まり、室内に入るよう促される声を、あの当時の自分に戻ったかの気持ちでじっと待った。