爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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繁栄の外で(14)

2014年04月30日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(14)

 自分がなぜ、そんな選択をしたのか、あるいは選択をしなかったのかは、いまもって不明であり自分にとっても不可解である。

 ある冬の寒い日のデートが終わって、明日には電話をしよう、電話をしようと毎日、思い続けていたのだが結局、自分からはしなかった。彼女からも、なぜか電話はかかってこなかった。そこには、ゴールを見逃さない典型的なストライカーのねじこみ(不幸という風呂敷をひっさげて)があったのだろうか?

 季節的にもクリスマスで仕事の休みの日に、原宿と表参道をまわって彼女に合いそうなプレゼントを買って、その日のために用意したはずだが、その日はいつの間にか過ぎていた。しかし、なぜ連絡をしなかったのか? そればかりは、やはり解答が正式に与えられていない数学の公式のように、ぼくにも当然ながら分からない。最終的に分からないまま墓場までいくことは知っているのだが。

 バイトはずっと続けている。飲食店で大晦日まで仕事はあった。その後は、飲み会のようなものを作ってくれ、その後も同年代数人とファミレスに行って、共通の話題でもりあがった。家に着くころは、もう翌日になっていたはずだ。

 そんな連絡のつかない時期であったが、きっとぼくらはどこかでつながっているであろう、という無頓着な確信があり、ぼくを無駄に安心させていた。だが、電話の一本をするわけでもなかった。もちろん、そんな風に放っておかれて、女性が安心していられるわけもないことは、いまの自分は知っているが、その当時は無知であった。痛いほど無知であった。

「彼になんか失礼なことをいったか? 嫌われるようなことをしたか?」という心配がこころのどこかに入ってくるかもしれないだろうが、(そういうタイプか分からないが一般論として)それを解消することをぼくはしなかった。ぼくも一切、彼女に対してそんな気持ちはもっていない。短い年数しか生きていないが、その中でぼくを一番、幸せにしてくれ、もっとも好きな女性だったのだ。

 それで、そのまま一月ぐらいが過ぎ、たぶん弟からだろう「ポストに手紙が入っていたよ」と言われ、それを受け取り開封してみると、彼女からの手紙だった。

 簡単にいえば、いままでありがとう、でもこれからは違う歩みになってしまう、という別れの手紙だった。なにもしなかった自分にしたら都合が良いかもしれないが、それは驚きであった。いまでは当然の帰結以外のなにものでもないことは理解しているが、自分にそのようなことが訪れたことを受け入れたくはなかった。

 でも、それほどショックを受けたことは弟の手前、見せたくはなかったはずだ。男女の機微など知らない年齢だが、どこでも表面的には装って、うろたえたくない自分というものをいつも作っておきたかった。

 それから、数日間はバイトにいったと思ったが、なんだかなにもかもが厭になり、(彼女のいない世界は意味があるのか?)それも辞めてしまった。

 年月が経っても、かさぶたはかさぶたである。はがす必要はないのかもしれないが、記憶の途中で忘れてしまったことも忘れなかったことも記録にとどめておきたい衝動のほうが、より一層勝っていた。

 しかし、それですべてが終わってしまえば、ぼくの気持ちも簡単に決着がついたのだが、次があってもいいんじゃないの? という安易なかんがえのもといくらか似ている可愛いこを探す旅にでもでられたのだが、そうもいかなかった。なんといっても彼女は同じ町に住み、なんどかはすれ違うし、うわさも耳にするし、可愛い子であれば誰かは放っておかないものである。

 それで、別れたということが最終的なショックで終わらずに、まだ自分に対する不幸は津波のように押し寄せるのだ。

 しかし、自分は被害者という立場でいるわけには行かない。防波堤を決壊させたのも自分だし、気持ち自体を避難させなかったのも自分である。そもそも、彼女との関係を強いものに発展させなかった自分がきっかけを作ったのである。だが、まだ16歳で自分は夢見心地で世の中をわたって、また、そういう目でも世の中を捉えていたのだ。それでも、かさぶたを取り除くことはしなくても良いのかもしれない。

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繁栄の外で(13)

2014年04月29日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(13)

 季節は秋から冬に変わろうとしている。

 休日が友人たちとあわない(一致しない)ため、ひとりで都心に出かけることを覚える。働いたお金で洋服を買ったり、手探りでさがした本を買ったりして読んだ。まだ、しっくりしたものは見つからずにいた。とりあえずは、ライ麦畑でつかまえて、などを読んでいたと思う。

 自分が本などを読むことを知られたくないような雰囲気がその町にはあった。それで、最初の萌芽としての二重生活がある。破綻する前までは、それは効果がある。コツコツと本を読みながらも、週末には友人たちと朝まで飲み明かした。その頃は、疲れをしらず、数時間眠れば一切の疲労は取れていた。しかし、眠ろうと思えばいくらでも眠れた。

 彼女との交際も順調だった。それは、過去も持たなければ未来も考えない幸せな時期だった。要求されることも少なく、ぼくがなにかを依頼することもなかった。ただ、彼女がそこにいてくれるだけでよかった。実際に、そこにいてくれた。

 いま、考えればその気持ちを彼女がどれほど理解してくれていたかは不明である。もう少し、言葉を費やしてなにかをためらわずに言っても良かったのにな、とも思うがそれは大人になった頭脳が判断していることで、そのときはそのときなりの限界で愛していたのだとも思える。しかし、砂時計はさかさまにはならないものだ。そして、少年は老いやすいものだ。

 ある冬の一日、渋谷に映画を見に行くことにする。そわそわと仕度をし、待ち合わせの駅の改札前で彼女を待つ。数分して時刻どおりに彼女はあらわれた。ぼくにとっては天使の到来である。

 それから1時間ほど電車を乗り継ぎ、目的地についた。とても寒い日で、乾燥した空気が自分たちをとりまいた。予定通り、2時間ほど映画を見て、喫茶店にはいり時間を過ごした。自分の地元とはべつのところで、彼女と対面していることをとても新鮮に感じていた。そう、大人のように深いところまで見せ合うこともなかったからかもしれないが、彼女はしっかりしていながらも、とても穏やかで腹をたてるような姿を見せることもなかった。もちろん、自分がそのきっかけを作らなかったという事実もあるのだろうが。

 時間も時間だし、食事をしようということになったが、16歳の男性がこじゃれたレストランを知っているわけもなく、ネット検索もない時代である。右往左往していると、(格好悪いですね)彼女が以前はいったことのあるレストランに一緒に入った。

 急に思い出したが、そこのレストランの店員(年代からいって店長さん?)が16歳のぼくらに対して、とても丁寧な応対をしてくれたことであった。この機会を充分に楽しんでください、という態度が言葉ではないがそのひとのかもし出している雰囲気で察しられた。そして、彼女は誰よりもおいしそうに食べていた。10代のころの食欲というのは、とても良いものである。

 彼女はコートを着て、自分も上着を着なおした。会計をすませ、寒い外に出た。それから、なにをしたら良いのかよく分からないまま、当然、いまならお酒の数杯でも飲むところだが、そうもいかず、裏道を通って原宿まであるいた。すこし、散歩したようにも思えるし、彼女がなにを望んでいるのか分からないまま、ぼくらは帰りの電車に乗り込んだ。

 また一時間かけ、地元の駅まで戻った。その後、いつものように家まで彼女を送った。とても、寒くて寄り添うにはちょうど良い寒さともいえた。彼女を送り届けてから、いくらか予定より早く着いてしまったことを腕時計で知る。まだ、家に帰りたくもないし、余韻にも浸りたいし、またいささか疲労感(緊張と喜びの裏返し)ももった。いまから、電話をかければガソリンスタンドでバイトをしている友人たち(たぶん試験休みという制度の時期だ)と、会えるだろうことを思った。そして、何人かに電話して、その疲労感をとるために、少し離れた居酒屋にはいった。

 今日、デートをしたことは言ったが、(ぼくが彼女をどれほど好きであったか彼らは、またどれほど知っていたのであろうか?)なんとなく、すべての面でリードできなかったことに対して、自分への採点が辛かったことは告げられずにいた。しかし、16歳の男性に、そこまで誰が求めているだろうか? 
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繁栄の外で(12)

2014年04月28日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(12)

 昼はバイトをして、夜は彼女と電話をしたり会ったりするのが、ぼくのすべてになった。

 バイトでは、当然のように違う年代のひとと関わるようになる。それにしても、先ほど高校をやめたばかりの人間をいっぺんの偏見もなく受け入れてくれたことなどを、あらためて考えてみれば凄いことのようにも思える。世の中は、さまざまな考えで満ちているのだ。

 ぼくが、学校を辞めたことを知っている同級生の親が、わざわざうちの母に、「最近、学校どう?」とぼくの心配をするようにみせかけて質問してくることがあったそうだ。ぼくは、悪意というものが世界に存在することを厭なかたちで知ってしまうことになる。でも、すべての人に、その人にも安らかな眠りがあってほしい。

 夜は、その彼女と電話した。ぼくは、誰かとあのように熱烈なかたちで(でも表面にはそうでないらしい)会話をすることなどしらなかったように思う。その時間は、いつも長くなって、2、3時間かかることも多くなった。両方の家庭で、「もういいかげんにしたら」というような軽い叱責の声が、ぼくらの会話を一時的に中断させた。いまから考えれば、15分と離れていないところに住んでいるのだから、会えば良いようなものだが、会話だけで成り立たせ、深めていくことがらも厳然とあるのだろう。

 もちろん会って目の前に彼女の姿があることの喜びも多くあった。ぼくは、異性を深く理解するきっかけとしても、彼女が存在していることをあとあと知る。女性というものが、どのように考え、どのように振る舞い、どのように親しみを表してくれるのかなども、彼女を通じて感じ始めていたのだろう。

 その当人のことで一般的なことに振り分けたくはないが、意外と確固とした考えがあり、柔らかそうな雰囲気とは別に芯がしっかりしていて、そして、愛情のかたまりが体内にたっぷり内在されているような印象をもった。当然のごとく、その後もそのような女性観を宿してしまった自分は、それ以外の価値観を大幅に変更することは、自然と避けてしまうようになってしまったことを痛感する。だが、それはもっと歴史の先のはなしだ。

 友人も同時期に、同級生と付き合い出し、四人ですこし離れた動物園に行った。

 彼女たちは、サンドイッチを作ってきてくれ、それはお世辞抜きにおいしいものだった。よくきくと、彼女は自分の学校のときでも、昼ごはんを自分で作っていくらしいことを知る。すべて、母親任せにし、それも男性3人兄弟のなかで暮らしている自分は、それをとても驚異的なことのように思った。

 遊園地も併設され、そこでも遊んだ。彼女はしっかりとしていたので、派手なアトラクションも好きかと思っていたが、どうにも高低差のある乗り物が怖いらしく、揺られつつ乗りながら身体を小さくさせていた。そのことを、ぼくは愛おしく思ったことを昨日のことのように思い出せる。

 時間もたっぷりと過ぎ、秋の空は思ったより早く暮れ出した。その明かりが点々としている中を、彼女の指先はぼくの手の中にあり、それはどこにも離れることがないのだろうな、と永遠という観点が入ってきたことを知った。それは、とても喜ばしいことだった。ぼくにも、そのような自然な暖かさがあって、そのことが今後もつづいていくはずだ、という認識の中で、その夕暮れの中を歩いていく。

 その後、家まで送り、いつものような一瞬の寂しさもしるわけだ。でも、それも直ぐに消え、ぼくは全世界に大声でこの喜悦の状態を叫びたいような気持ちになって、自分の家まで歩いた。

 その前に、バイトをして給料がぼくの手に入る。その中のいくらかで、弟へゲームを買って帰った。兄もたぶん、最初の給料でぼくになにかを買ってくれたはずだ。それが、ぼくの気持ちの中でしきたりのようになっていた。それを忠実に守り、弟のよろこんでいる姿をみることも大人への一段階だったのだろう。

 このように、ぼくはいろいろな選択のあやまりなどを通過しながらも幸せな状況でいられた。誰かの存在が、ぼくを暖めてくれるなんて、一年前は知らなかったかもしれない。だが、自分を愛すること以上に、誰かの喜びを最優先させるということも学んでいった。もしかしたら、それは遅すぎたのかもしれないが、ぼくにとってはちょうど良いタイミングであったとも言えるし、また彼女の存在があったからこそとも言えた。

 電話をして今度会おう、数日先に会うことにしようと言ったときに、電話の向こうで彼女の喜んでいる姿が感じられた。誰かに好意的に必要とされる満足感が、そのときのぼくにはあった。
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11年目の縦軸 38歳-27

2014年04月27日 | 11年目の縦軸
38歳-27

 絵美が脱いだ下着が床で丸まっていた。テーブルの上には昨夜、半分ほど食べ残したシュークリームが皿にあった。ふたつはどことなく形状が似通っていた。さらにぼくは近付けようと絵美の下着を手にとって形を変えてみた。だが、手を加えたことによって自然さが奪われまったくの別物になってしまった。もともと、似ていたこと自体が偶然の産物だったのだ。

「なにやってるの? そんなの手にして変態みたいだよ」
 目を覚ました絵美はいつもより低い寝起きの声でそう言った。
「よく、こんな小さいものにおさまるものだなと思って」ぼくは適当に言い繕う。
「こんなにお尻、大きいのにね」

 絵美は布団をめくって、そう言った。
「シュークリームのこってたね」
「大丈夫だよ、また、あとで食べるから」
「それで、ケツがもっとでっかくなる」ぼくは敢えて下品な言い方をする。「冷やしておこうか?」
「そんなのも、嫌いじゃないくせに」勝ち誇ったように絵美は言い、また布団を首元まで引っ張り上げた。

 これがあの十一年前に永続する関係を選ばなかったぼくのゴールだった。いや、選ばれなかったぼく自身の達成した表面的な喜びしか受け入れない日々だった。悪くないし、他にはもう考え付かない。あの日、宝くじが当たっていれば生活がいくらか潤っていただろうという無意味な観測に過ぎないものだった。手に入れなかったものは。予測していた台風は軌道を上手に変え、ぼくから見事に遠退いた。ぼくは窓にうちつけた板をむなしく取り除き、平穏すぎる青空を窓越しに見つめた。台風が来る前だけが歓喜であるのだ、前例を知らない子どもの無心な期待によれば。

 ぼくはテレビでニュースを見ている。ブラジャーの肩の紐が一回転しているのを気にもせずに絵美はシュークリームを食べている。眉はいくらか心細く、ぼくも自分の普段とは違うひげの不快感を確認するように手の甲で撫でた。

「お母さん、来るとか言ってたよね?」ぼくは来日している外国の政府関係者をテレビで目にしたから思い出したのか、絵美に訊いた。

「うん。たまにお父さんと離れて羽根を伸ばしたいんでしょう。今週ね。あれ、あさってだったかな?」
「羽根があるんだ?」
「え?」唇のはしのクリームを舌を伸ばして舐めてからまた話しはじめる。「いつもより、つまんないし、面倒くさいよ」

 彼女はトイレに行き、月ごとの女性への褒美か呪いの訪れをぼくに報告した。
「よかったね」
「これで、またもや、お父さんになれませんでした!」

 彼女は髪を束ね、歯ブラシをくわえた。ぼくはまた床を見たが、もう当然のことシュークリームはなかった。あれを見られる立場になることを望んだ数十年前の少年は手鏡で数本ある白いひげに無頓着になれない自分に戸惑っていた。絵美はあぶくに包まれた口で何かを言っている。多分、今日の予定のことだろう。ぼくは彼女の母に会いはしないが、自分という人間の優しさの一面の痕跡をのこすことを望んでおり、デパートでも行きたいなと思っていた。具体的な品物より、包装紙に意味があった。きちんと価値が確認された紙で。中味なんか、どうだっていいのだ。でっかい尻でも、違うものでも。

 ぼくは十一年前に希美の母が自分の娘を託そうとする気持ち、このひとに任せられるのだろうかとの不安があふれた表情、疑いを打ち消したいこと、それらが混じり合ったなかでの本質を見極めようとする姿勢を思い出していた。ぼくにも切羽詰まった気持ちがあっただろう。喧嘩ではない表面下での葛藤や衝突があることを知った。子どもであれば肩を小突けば済む話だが、ぼくは気に入られなければならないという弱みがあった。あの気持ちは結局は一度しかめぐってこなかった。いま、絵美の母が娘の交際相手のことをどう思おうが、年上過ぎるとかも、最終的にはどうでもいいことだった。小さな下着にものを突っ込む話でもない。入らなければ入らないなりに次のものを用意すればいいのだ。

 全員に愛されたいということなど最初からないが、もっと段々と薄まっていった。最後はひとりになるのだという厭世的なものでもない。生きることに哲学など求めないのだ。みな、美学など追い駆けていない世界にこのぼくもいるのだ。

 しかし、確実にセザンヌやピカソはいた。ぼくらはデパートで買い物をして、その上の階にあった簡易な美術展のようなものを見ていた。ぼくはピカソの前にいる。彼女は首を傾げてぼくの肩のうえにのせた。そうするとこの絵とちょうど角度が合うらしい。

 もしこの画家に美の集まった感覚がなく、あるオフィスで一日を過ごし、つまらない仕事に毎日を追われていたらどうなるのだろうかと考える。個性の放出がこのひとを匿名からすくいあげ、この壁に絵が張り付けられる。しかし、ぼくの方が夫になる覚悟で娘の母に会うということでは及第点が与えられそうだった。もう多分こないだろうが。自分からもすすんでならないだろうが。

 彼女はハンバーグを食べた。ぼくはビールを飲んだ。日曜の昼過ぎだった。世界はいたってのどかで、ぼくは誰かの肩を小突きもしないし、誰かに暴言をはかれることもない。どこか世界の遠くで少年や少女は実際の武器や小銃をもっているだろうが、ぼくの責任もおそらくそこまで及ばない。ノーベル平和賞のことを毎日、考えるほどぼくは高貴でも、または悪質でもなかった。
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11年目の縦軸 27歳-27

2014年04月26日 | 11年目の縦軸
27歳-27

 どこにいても目のなかに容赦なくある対象物が飛び込んでくるときがある。ダイエット中なのに甘いものの誘惑に押し込まれ、そのきっかけとなった看板に視線が釘付けになるように。興味があるものが目に付くのか、目に付くから意識は引っ張られるのか。どちらが先でも足し算の単純なる順番のように結果自体は同じだった。

 その頃のぼくは会社の用で外回りに出かけると訪問先が結婚式場のとなりであったり、用件で出向いた近くにあることが増えたようだった。電車では妊婦さんに席を譲り、ベビーカーを押しているひともよく見た。新婚ということがあまりにも見え見えのひともいた。こうつづくと不思議と次は自分の番だなという気分にさせた。

 そうなるとぼくが申し込む相手は希美しかいない。ふたりとも好きで交際をつづけているのだから嫌いということはあり得ない。多分、断られないだろうという安心感もあった。引き鉄をひけば必ず命中するのだ。弾倉に弾は一発でも。嬉しさの前払いをもらい、だが、そのことは自分がいちばん嫌いな出来レースや八百長を思わせることになった。無鉄砲に断られることを覚悟するということと段々と疎遠になっていく。大人はあまり冒険しないことによって小さな報いを得るのだ。幸せのアポイントメント。

 ひとはどうやって決意をするのだろう。ぼくはプールに入るのをこわがった同級生を思い出していた。いまになると名前も思い出せない。彼がその後、きちんと沈んだのか、どこかに逃げ出したのか、どちらの選択をしたのかも分からなかった。彼もいまは小さな報いを手に入れていることだろう。

 だが、彼にとっては一大事だったのだ。傍から見ると決断もそれにともなうおそれも大したことのないぐらいに映った。ある面では心配をされ、手に汗をかいて応援をして、数人は意気地のないことを笑った。身勝手さは自分にできる範囲のことでは充分に発揮される。だから、おそらくぼくも笑ったのだろう。

 今後、希美を越える誰かはあらわれることもない。そもそも、そういう仮定や比較の問題でもないようだ。ぼくはスタートラインにいつの間にか立たされ、あとは号砲を待つだけだったようだ。

 結果を先にいえば、希美は考えさせてと言った。とうとう自分にもこの機会がめぐってきたのかという表情をして、それは歓喜を予感させるということでもなく、注射の順番を待つ子どものような不愉快さとおびえが見え隠れする様子だった。大きな病気をしないために、小さなウィルスで訓練する。自分は希美という別の体内に忍び込む抵抗体のようだった。

「ぼくは、いつまでも待つよ!」と言う。宣言に似ている。そのいつまでもという期間の定義はもちろん七十才までという途方もなく遠い時間は示していない。出来レースを望んだ自分は意外な盲点があることを知るのだ。

 さらにいえば、彼女は徐々に楽しそうではなくなっていった。ぼくらにあった濃密な無理のない親しさはぼくの言葉によって分解され、溶解してしまったようだった。ぼくはひとりでプールに飛び込み、水面から顔をあげると彼女はいなくなっていたという表現に近い。だが、飛び込まないという選択などぼくにはできなかった。意気地なしというレッテルは貼られたくないのだ。

 迷うということがぼくにはどういうことだか分からなくなっていく。AではなければB。Bで不足ならば新たなC。そういうことではない。すべてか無か。次に会うときには、喜ばしい返事をきけるのだろうと考える。ひとはそれを期待と呼ぶのだろう。無邪気な期待。いや、きちんと責任を後ろに秘めた期待であった。

 だが、返事はとうとうなかった。ぼくは自分の発した言葉がむなしく空中に消えたことを知った。あるけじめとなる宣言は、誰のこころも打たなかったのだ。打たなければならない必要もなかったといえば、その通りでもある。だが、交際はつづいた。ぼくらには大きな未来は訪れないが、小さなこれまでの継続した信頼のために惰性のように会っていった。

 ぼくは失恋した友人から電話をもらい、死別したひとの悲しげな新聞の記事を読んだ。立ち直るというのには段階があることをふたたび思い出した。ひとは一気に、一足飛びに悲しみから抜け切らないのだ。思い出の品物を処分したり、充分に悲しんだり、そこそこに自分を卑下したり、いろいろな過程がある。そのひとつひとつの料金所で代価を支払うことにより、新たな目的地に達することができる。

 だが、ぼくらは別れてはいない。もらえない返事というものが奥歯にはさまったような気持ちでいても、会えば会ったで楽しい気分になった。これが単純に好き、というものの恵まれた恩恵なのだろう。だが、もっと好きになったら? これ以上は、もうないのだろうか。

 ある日、会社での疲れた業務を終えて家に着くと、ポストに友人の結婚の招待のハガキが投函されていた。彼はきちんと返事をもらったのだった。決意と合意の間にはさまざまな障害物があり、ぼくは裸足でその上を歩いているような痛みを感じていた。尖った貝がらを砂浜で誤って踏んでしまったぐらいの痛みだ。痛みは笑いより記憶に通じて、両者は気安い間柄のようでもあった。フレンドシップ。記憶は悲しみを歓迎する。
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繁栄の外で(11)

2014年04月25日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(11)

 9月になって、結論としては学校を辞めることにする。系統だって勉学をしたのは(生産レーンに乗ってはという意味)およそ10年ぐらいだ。最初の2、3年は勉強ともいえないのかもしれないが、それでも8、9年は残るだろう。短いものだ。

 そのことを母に告げる。あまり、表立っての反応はなかった。自分の兄も学校を辞めていたので、うちの家族にはそもそも学問が肌質に合わないのかもしれない、という家庭内の雰囲気もあり、男だったらなにか肉体でもつかって、勝負できるだろう、という未来の安易な予測もあったかもしれない。この辺は当人ではないので分からない。父はいつものように何も言わず、我が判断に、簡単に家族の承認が得られる。

 それでも、お世話になった中学の先生には、決断とお詫びに行った。彼も忙しいらしく、そのうち接客にも乱雑さが見えたので数度でやめた。彼にも、それぞれ大切な生徒が多数いるのだ。

 自分の決断としては問題ないが、その8年後同じように弟も学校を辞めると言い出したときは、その前例になってしまったことを悪いと思うと同時に悔やんだ。だが、それも仕方がないことだ。

 勉強が嫌いになったわけでもないので、学問という一直線の道を最短距離で通過したいという気持ちは残った。しかし、それを高いお金を払って(多分、36万円という父の汗である入学金を棒に振った。あるいはドブに捨てた)系統だって教えてくれるところが学校である、ということをいまの自分は知っている。なので、誰かよその子供がおなじような判断をするならば、是非ともとめたい。しかし、どのルートも最後にはその人自身の表現の一部でもあるのだろう。

 それで、こちらは車の工場のように流れ作業で順当に組み立てられていくという工程を失った。24年も経った自分は、自分で同じような車を作ったはずだが、当然のように部品はないので手近のもので代用し、塗装は危険性のある物質をかけ、シートは座り心地がよくないものを完成させる。それは、自分では車だと思っているが、他の人からみたら、まったく別物かもしれない。でも、それで良かったのだ。

 辞めてから三週間後ぐらいからバイトをするようになる。お金をためて調理の資格のようなものを取るのも悪くないな、と考えているが、普通のいろいろな計画と同じように頓挫する。ただ、自分には学がないのだ、ということを負荷として考え、それで本ぐらいは読んでおこうと決意する。その決意はいままで辞めていない。そのお陰でなにかしらの世界への取っ掛かりができ、いくつかのオピニオンも考えられる脳をもてた。しかし、学校がただ学問のおさらいだけではなく、そこで友人たちや恋人たちを得ることも付加価値として付属しているならば、そういうものを捨ててしまった事実は確実にある。だが、一人でいることを苦にしないように訓練したので、そのこと自体はなにも後悔はない。それでも、少なからずの友人はいまでもいる。ただ、ボーリングの酷いガーターのようにレーンを外れたことは誰よりも知っている。

 なにも悪いことばかりが、その当時あったわけでもない。夏の終わりに数人でお酒を飲み、「あの子のことが、数年来好きだった」ということを女の子の前でも言い、彼らはそのことを当人に言ってくれた。

 ある日、たむろしていた喫茶店で、彼女の家も近いということで電話を、そのうちの一人がかけてくれた。こっちに来てもいい、という返事があり、ぼくは焦りながらも待った。何分か待って、3月以来、(同じ街に住んでいるので、なんどか見かけたことはあるが)ひさびさに会った。学生時代も同じクラスではないので、楽しく会話したという覚えもないが、彼女の存在自体が神々しく見えた。

 女性が、そういう視線をもらってうれしいのかいまだに分からないが、店の戸があき、夏だったのでそこに現れた彼女のノースリーブの洋服が、とても似合っていたことも覚えている。

 ぼくが好きらしい、ということが分かってそれで来たのだから、交際してくれるのも時間の問題だろう、とぼくは考える。考えながらも、その後なんどか電話をして話した。話しながらも、直球の質問が来ないことを彼女がためらっていることを、その子の友人がぼくに告げた。それであわてて、ぼくは電話をかけ、最終的な告白をした。良い方の返事をもらったが、なんという喜びだったのだろう。

 それで、ぼくは最愛のものを手に入れながらも、もう立場的には学生ではなかった。自分はほかの人間と同じようになりたくないと思いながらも、同級生の幾人かも途中で学校を抜ける形になっていた。
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繁栄の外で(10)

2014年04月24日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(10)

 15歳から16歳になろうとしている少年を知っている人数など、たかがしれているだろうが、それでも自分の選択として、自分の存在を知っている人間がひとりもいない学校に行きたかった。過去の生き方を、どうしても変えたかった。彼らは、ぼくに何らかのイメージをあてはめ、つまらない生き方を強要しそうな気がした。結果として、ぼくの学校からも数人が受験をしたはずだが、結局はぼくの過去をしっている人間がいないところにもぐりこめた。前科を暴かれることを恐れる人のように一時の自由があった。

 あそこまで、いきなり勉強したのだから報いとして生涯の師のようなひとにめぐり合える希望をもった。たとえば、生き方のヒントをくれそうな。しかし、そんなに世の中は簡単なものではなく、どの人も生き方に汲々とした先生ばかりで、生活に追われているような人ばかりだった。もちろん、いまのぼくは日々の生活費を稼ぐことをみくびってもいないが、当時は、人生はいま開かれるような感じがしており、まっとうな漂白された人格を作り上げようと小さな野望をもっていた。そこで、わたしの最初の挫折である、師をみつけられないということが起こった。その後も、どんな音楽を聴けばクールであるとか、どんな美術作品を覚えておくべきとかを教えてくれるようなひとは決して現れなかった。ただ、暗闇を手探りして探求するような自分だけが残った。

 そこは、スポーツも強いところで、ぼくもそのクラブに入った。しかし、自分がいまいるランクを測れることが生きる指針のひとつならば、自分はすぐに悟った。世界にはすごい能力をもっている人間たちがいるのだと。多分、一生ボールを地面に落とすことなく、サッカーのリフティングを続けられる人がいることを。いまの目で見れば、バルセロナの長髪のキャプテンみたいに小賢しいテクニックより、強靭な身体とガッツを身につける方法もあったかもしれないが、(そんな身体には当然生まれていない)さっさとあきらめてしまった。

 こうして、なんの希望ももてないまま、つくらないまま日々は過ぎていった。

 退屈なので、学校に電話をかけては授業をさぼった。さぼった人間がどこにいったかと言えば、暗闇である映画館だった。「ライト・スタッフ」という宇宙飛行士が作られている過程を見て、やっぱり自分も一流の人間に仕立て上げようという安易な考えに支配されていく。でも、このまま学校でなにも学べないまま、いてもいいのだろうかと心配になる。近道を取るのか? 遠回りを取るのか? 近道は意外と遠かったということを、いまの自分は実感している。

 いくつかの思い出はある。中間だか期末試験を受けている。見回りには高校野球の監督をしている先生が、ぼくの横をとおり、「君は良い身体をしているな」と、優秀な奴隷を見つける商人のような視線でぼくに声をかけた。過去の運動がものをいっていた時期なのだ。なんか返事をしたと思うが、かれの支配化には、もっとたくさんの猛者がいることも自分はしっていた。その目が、ぼくをそういう目で見たことに驚いた。

 また中学が併設されてもいた。学校の一部を掃除しなければならないが、そこの監視役は中学の女性の先生であった。ぼくは、となりに並んで授業をうけている生徒たちより、彼女を好意のまなざしで見た。こうして、年上でしっかりとした女性への憧れが自分の体内にあることを知る。

 3ヶ月の通学定期が切れ、あと数日は通学ルートを変えた。途中の池袋で放課後をすごすことを覚え、そのまま山手線を、自分の家の反対方向に向かっていった。世界はひろがりはじめていた。新宿、渋谷。最後は渋谷から代官山に行った。いまの華美すぎるきらいのある街ではなく、もっとシックで落ち着きのある街だった。東京のはずれに住んでいた自分は、世界はここだけであるというつまらない観念が崩壊していくのを覚えた。夕方から飲んでいるおじさんたちの町から、自分は抜け出さないといけないということを切に願った。そのためにはコンプリートな形で知識をため込み、社会の役にたつような人格を装備させる必要があることを知った、いやこの辺がどのように作用したかはしらないが、とにかく、自分もほこるべきなにかを必要としていたのだ。はっきりといえば、16歳の裸の人間には、社会的な衣服を着させる必要と意欲を感じ始めていた。

 だが、あのつまらない学校に残っても、そのような目的を達成することは不可能ではないのかと短絡的な考えにくるまれる。

 それで、ひと夏、去年とは違ったかたちで、悶々とすごす。解答をみつけられるほど成熟しているわけもなく、しかし、早急に納品を迫られている。 
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繁栄の外で(9)

2014年04月23日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(9)

 あれほどまでに規定の枠内(たぶん、文部省推薦であろう)の勉強をした時期はなかった。大好きだった陸上の練習への熱も冷め、その後の大会にも興味をなくし、大体が極端に動く人間であるが、その最初の萌芽のあらわれであろう。

 頑固な人間であるので、一日だけでも大会のメンバーに加わってくれ、と先生に諭されるが、答えとしては、「高校受験のなんの足しにもならない」という冷酷な言葉が自分の口から出る。数ヶ月前までは、他人の顔をクリーンヒットすることを目的にしていた人間がである。なんとも厭な人間の誕生だ。

 頭の中にあるプランを実行することの喜びと義務の両方を知る。誰に頼まれたわけでもないが、問題集を数冊買い求め、それを着々とこなしていった。その証拠として、どのページも鉛筆の黒と、間違いを訂正した赤ペンで埋められていく。多くのことがそうであるが、一度、失敗したことや間違いは、はっきりと胸に刻まれる。だが、大人になって故意に同じ間違いを繰り返すのは、また別問題である。

 秋になって、冬に移り変わろうとしている。ぼくにも、最初のガールフレンドが出来たわけだが、電話がかかってきても、優しい言葉を話すわけでもなく、ただ自分の義務感をおこなうことだけを最優先にする。こうして、その女の子には、納得の出来ない疑問、「彼は、わたしを必要としているのか?」ということが芽生えたであろうことは、25年も経った大人の自分は判断できる。だが、もうその当時は、違う学校にでもいってしまえばこの関係も自然に終わってしまうだろう、とかすかに感じ始めていた。これまた、何人かの女性の頭のなかに同じ疑問を宿させたことは、学習できないことがまた確かに存在することの証明でもある。「いったい彼は、わたしを必要としているのか?」

 2月になって試験がある。その前に、あまりに極端に勉強しだした自分に母親が心配するようになる。我が家庭の雰囲気は、そんなアカデミックなことにそもそも向いていないのだ。それで、「根をつめすぎないように」という言葉をもらう。その意味が当時はわからなかったし、根本的には、いまでも分かっていないと思う。なにかに夢中になったときの恍惚感と引き換えられるものなど、なにもないだろう。

 試験の前に、風邪がはやる。自分もひいてしまったが、すぐ直っても勉強の最後の仕上げとして、学校には行かない方向もありだな、と家にこもり目的を達する。

 また再び、学校に行くと2月のチョコレートの時期で、交際していた子にももらったはずだが、下級生の何人かにももらった。その一人の子には、小さな手紙がついていて、「あんまり、学校を休まないでください、心配します」というような内容の言葉が連ねられていた。もう、その子はそんな言葉を自分が書いたことも忘れているだろうが、(数時間前までの自分も忘れていた)きっとそれも数々の宣告と同じように、体調が多少悪くても、仕事を休めなくなってしまった自分が作られていくのだろう。

 それから、ある高校に自分は受かり、またもや安きに流れる自分を再発見することになる。勉強は最低の集中力で、あとは友人たちとふざけて過ごしたいという雰囲気で残りの一ヶ月を過ごす。

 その間に高校の制服の採寸をし、教科書やらを買い集め、最後の学校ないの行事での遠出である「筑波博」に行った。もう親しかった友人たちとの交友も終わってしまうんだな、ということを身にしみて実感する。

 案の定、その当時のガールフレンドとの交際の発展性はなくなり、(ずるいことにもう一人の女性を愛と呼べるほどに好きだった)すべての物事がそうであるように最終的な終止符がないまま終わりを告げる。

 卒業式があり、そのころによく利用するようになっていた喫茶店で数人の友人たちとあつまって昼食を食べた。あと半年ぐらいすればなじみの居酒屋ができてしまったので、短い期間であったがぼくらがたむろするところでもあった。

 このように楽しかった三年は終わろうとしていた。たまにこの当時を振り返って、自分と250人ほどの同級生役のエキストラという思い上がった感じが浮かぶ。そのぐらい、自分中心に動き生きてきた。そのくせまだ自分の人生では、一円も稼いでいないだろう。しかし、我が所属する国家は、繁栄期を迎えようとし始めていた。あの感覚とその頃、ただよっていた空気感を、いまの子たちは知らないんだな、という変な焦りが自分にある。
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繁栄の外で(8)

2014年04月22日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(8)

 勤勉さが自分を支配するように仕向ける。

 ある夏休みの話だ。それが、14歳だったか、15歳だったかは思い出せない。多分、2つが混ざってしまって記憶してしまっているのだろう。大体の記憶と同じように。

 朝、6時には目を覚まし、当時、工事をしていた学校のグラウンドではなく、近くの会社が所有しているグラウンドを借りて、そこで陸上競技の練習を7時から2時間ぐらいした。

 そのまま、歩いて学校のプールに移り、ほてった身体を冷やすように水の中に飛び込んだ。紫外線のことがいまほど、危険視されてもいない時代だったので、そのころの子供たちはみな、黒い肌を競い合った。

 それから、家に帰り昼食を取る。きっと前年度は家に親がいない友人の家で、午後は遊んでいた。数人の同級生の女の子に電話をしたり、つまらない口論をしたりしながらも友情は深まっていく。

 それから、翌年には学力を向上させるため、勉学に打ち込む。計画を立て、それを守ろうとすれば、意外と予想以上に時間も短く、はかどることを知った。当時の子供たちと同じように、塾にも通ったが、勉強の仕方やコツを学んでからは、通うのをやめた。テクニックさえ覚えてしまえば、あとは個人の頑張りのみが残されているだけだ。そのコツのために数回分の月謝が消えた。

 それで、何かに打ち込めばその車輪は勝手に回転してくれる。自分でも、納得いくぐらいの偏差値に到達し、希望の高校を数校にしぼる。

 そんなアクセントのない生活だけでは物足りないので、近所の夜店を見に行ったり、盆踊りで同級生の可愛い女の子の私服姿に動揺したりもする。やはり、可愛い子には票が多く集まり、とりあえずは自分は順番待ちのような気持ちをかかえ、いずれ交際できればよいなと思ったりもした。後悔していることでもあるが、(こころの底ではそう思っていないのかもしれない)彼女と仲良くなりそうな友人を、自分の腕力で片付けてしまったこともある。それで、自分の評判が上がるわけでもないが、ただ、そうしないわけにはいかなかった。結局、自分の行為のために友人を失い、彼はもともと学区外に越してしまっていたが、そのまま転校してしまった。自分の犯した悪を思い返すことは、どうにもやり切れないことだ。

 またもや、クーラーのきいた快適な部屋で勉強している。友人たちと海水浴にいった千葉の内房への数日を除けば、ほぼ毎日そうしていた。

 そうした中で、何人かの訪問者が現れたりもする。

 悪いほうは、他校の悪ガキたちでなぜか、自分の家まで彼らは発見してしまい、ある時は喧嘩しようぜ、という愚かな誘いであったり、(勉強しようぜ、君たち、という感覚に自分は変化しはじめていた。)またある時は、体力の有り余っている他校の悪ガキが、ちょっと遠くまで自転車の旅をしにきて、数語を費やし目的も収穫物もないまま帰って行った。自分の名声への欲求が亡霊のように付きまとい、このように結果として刺客をむかえた。

 楽しいほうは、兄の何人か目のガールフレンドが遊びにくる。その弟にも優しくしましょうね、という表情があったようにも思う。いまになって振り返ると、とてもきれいな人で、自分の理想の女性の最終形はこの人ではないのかという疑問も浮かぶ。それぐらいの、憧れの気持ちがあった。

 彼女は、ぼくが陸上の練習をしていると、その学校の横の道が通学路であったらしく、自転車に乗り長い髪をなびかせ、通り過ぎようとしていた。その時、あの弟君ではないかと、ぼくに声をかけた。

「練習、頑張って」とかの声援こみの言葉だろう。

 ぼくは、仲間たちの前できれいな知り合いがいることの優越感をもっている。目の前に突然に誰かが訪れるなら、悪ガキたちよりも数倍、この方が勝っているだろう。

 ノートに書き込む字数が多ければ多いほど、学ぶことも増えていった。それが理解の展開にはいれば、勉強も楽しいものになっていった。もう少し、時間が足りないなという感覚も生まれてくる。しかし、孤独に勉強すれば、その気持ちの到達点は、友人たちも競争相手にすぎないのかもしれない、というこころの狭量さにつながるのだろう。目的をもった勉強が、違った形に移り変わってしまうことも世の常なのだろう。
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繁栄の外で(7)

2014年04月21日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(7)

 品物などを通して物事を捉える話である。

 子供のころは、お小遣いをもらって生活する。限られた範囲内で、楽しめるものを探す。簡単にお金は消費されるものであると理解する。

 その貰い方だが、自分と兄は受け取り方が違かった。ぼくは、月初めに多分、1,500円ほどもらった。その中から、漫画の単行本などを買い、月末まではいくらか、わずかであるが残ったようにも記憶している。

 兄は、何回か一遍に受け取る方法をとったようにも覚えているが、最終的に一日、100円ずつという契約が取り交わされる。まとまって、何かを購入するということは出来ないが、日々、消費するという楽しみは掴めたわけだ。結局、自分は半分しかもらっていないことになるが、飼い主に従順な犬のように、母親の買い物に同行し、なにかをせがめば、そこで買ってもらったりするので(要領のよさがあるわけだ)収支は、同じぐらいであったかもしれない。

 はなしは逸れるが、まだ専業主婦であった母親の買い物はひとつのイベントのようになる。いまの仕事をもっている一般的な母親だとすれば、仕事の帰りにあわててスーパーにでも駆け込み、家までの最短コースが頭に入っているであろうが、我がラテン気質の母親は、商店街までの道中15分ぐらいあったはずだが、数分ごとに挨拶をする人があらわれ、そこで立ち話がはじまる。そこで飼い主に従順である犬のような自分は、そこらをくるくる廻る。のちにゲームを何回かした自分は、突如あらわれる敵と対峙する主人公を母親と同じように意識する。毎度、数十分の攻防があり、買い物に成功するわけだ。そのお駄賃として、小遣いの損失分を補填する自分がいたのだ。何度かは、買いたい本や漫画も購入してもらえる。

 この母親のやり取りを見続けたために、自分はひとと会話する能力が、いくぶん足りないのではないかと考えてしまう。それは、また別の話である。

 それで、自分個人として働き始めるまで、(ひとより意外とはやく来た)親のすねをかじっているわけだが、限られたお金の使い道を効率的にする方法を自然と覚えていく。

 前に戻るが、まとまったものがほしい。まとまってないならいらない、という変則的な考えが頭のなかを占めだす。これは愛のはなしである。

 小さなものをちょこちょこ消費するという考えが受け入れにくくなる。こちらは、まとまった完成形がほしいのである。お小遣いから強引な展開になるが、そんな思考回路がぼくの頭の中にできあがった。しかし、そんなまとまったものは、あまり見つかるはずもなく、少しずつ消費する人間を羨望のまなざしを布団のようなものでくるみながら心の奥に持っている。

 学生時代になれば、他の子たちは部活帰りなどに焼き鳥を買い食いしていた。自分の家は、食べ盛りの男の子三人分の食物が大量に準備されているため、そのような仲間の一員に加わることは少なかった。

 運動部の練習がない夕方などに、足をこたつに突っ込み、ミルクティーなどを数杯のみ、チョコレートをむさぼりくっている自分の姿が目に浮かぶ。それは、幸せの象徴のようなイメージだ。そうした姿は、お小遣いを他のことに使える喜びともなるはずだ。

 そのころには、電車で20分ほどの小さな都会に行くようになり、アクションだらけの映画をみたり、両親の支配下から抜け出した洋服を買うことになる。しかし、世界はまだまだ小さなものであり、自分の活動範囲など限られたものだった。

 会うべき人間も少なく、知っている人間の生活レベルもそう大きな差はなかったはずだ。

 自分がどのように世界と立ち向かい(大げさです)どのような方法でお金を稼ぐのかなど、考えることもなくぬくぬくと成長してしまった。今月のお小遣いはなしです、という宣言がもし一度でもあれば、危機管理ができたかもしれないが、それもまた幸福の姿ではないと思うので、自分の幼少期の幸福を、現在ではありがたく感じるのであった。

 今でもまとまった方法で、なにかがほしいという希望を生活の基盤にしたい自分がつくられた記録です。
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繁栄の外で(6)

2014年04月20日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(6)

 その年代特有のプライドと、負けん気と功名心が合致してひとつの人格とパーソナリティーが出来上がる。もちろん、まわりの目を充分に意識していることは間違いなかった。
 いま考えると、なんとも軽率で浅はかだった。

 そして、振り返った目で見れば、自分は雇われた店長、もしくはマジンガーZのロボットに過ぎないのであった。自分の学校で、腕力面で評判があがれば、戦国時代と同じように自分の支配する領地をひろげようとする。それで、手ごろなところから獲得することを試みようとする。

 そうした、不良にあこがれる人間がいたが、実際にその男が表面にたって、手をくだすようなことはなかった。本当の行為者であるのは、自分とほかに数人であった。

 なにか得たことがあるとすれば、多少の度胸がつくことにもなったが、他校の一番のつわものの体格に恐れを感じるのも事実だった。世の中は、そんなにもビューティフルな場所ではないわけだ。

 当時はスポーツもしていたが、行為を通して確認したことは、自分はそこそこに何かをやり遂げることは出来るが、まったくの第一位になるという達成感はつかめないという事実があるということだった。簡単にいえば、上には上がいる(ある)という確固たる事実だった。でも、それを頭のなかで学んだということではなく、自分の腕や足をつかって、また頬の痛みをとおして覚えこんだというのも、確かな目覚めだったような気もする。

 それで、数人の顔をなぐり、数人の歯を揺るがせ、何人かにどうしようもなく殴られ、何人かには不様にあやまるということが14、5歳ぐらいの自分だった。結論としては、そこそこの知名度をその地方(いま考えると本当に狭い世界だが、当時の自分には広かった)に残し、また、意気地のない負け方もまた同じように伝播され、流れてしまったようにも思える。

 悪いことをしながらも、自分はそんなには怒られた記憶がない。学校内でも、怒られ役はほかにいて、その子が前面にたって注意を受け止めていた。家庭内でも、自分の兄弟の前例で懲りていた両親は、そんなぐらいでは驚かなくなっていたので、なにをやっても自分は良い子のままだった。世の中は、つまりは比較で作られているのだろう。

 しかし、兄に喧嘩で負けたことが耳にはいってしまい、その後始末として、もう一度リベンジして来いと宣言されたころの自分は相当に悩んでいたと思う。客観的な映像としてはハリウッド映画的な題材になりそうだが、その勝者にもう一度、会うこと(もちろん、楽しいフレンドリーな瞬間がまっているわけでもない)の両方(兄も怖い)への恐れが、自分を打ちのめしていた。

 だが、数ヶ月経って、そのことはうやむやになってしまった。ぼくも、受験勉強するもんね、という方向転換があったし、兄弟にも、もっとほかの楽しみができたのだろう。

 あまりにも漫画的だが、他校には長身で悪魔的に喧嘩に強いという伝説がはびこり、だが、実際にその男を目の前にすれば、自分と大して体格的には違っていなかった。なぜか、途中で名声をこんな形でしかあらわせない自分たちに嫌になり、(当然といえば、当然)結局は、ぼくは負けてしまう。格闘技の敗者はこんな気持ちにはならないかもしれないが、他に生きる道を模索してもいいのではないかと、帰りの自転車に乗りながら、孤独にそう思った。まわりには数十人に人がいたが、最終的な敗者は自分自身と、我が母校だった。

 ひとつの映像があたまから離れない。クラスで授業を受けている。根本的に学ぶことが好きなことと見栄っ張りに出来ている自分は、集中して授業を聞いている。そこへ、他校のいかにも柄が悪そうな、教育のなさそうな数人が、ぼくを呼びつける。リアルな状況として立ち向かわなければならない状況になる。そこで、クラスを抜け出し、勢いでまけないようにそいつらをにらみ付けた。多分、あとで再び監視のないところで会うことになるだろう。

 すべて、自慢ではない。この後、モデル・チェンジに苦戦したし、頭を下げる行為を覚え、我が人生で何度もそうした。いまのぼくにあった人が、ぼくのそんな痕跡を感じることがなければ、自分の勝利だと思っている。だが、人間は大したことができない生き物だという気持ちは捨てきれずにいる。
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繁栄の外で(5)

2014年04月19日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(5)

 それから、5、6分はなれた違う学校へ、もちろん中学校だが、に通うことになる。制服に袖を通し、この窮屈さにも慣れなければいけない。

 その近辺の同程度の規模の小学校2つが合わさって、ひとつの学年が出来上がる。生徒数としては、ほぼ小学校の倍になっていたのだろう。異性に関心を、さらに持つようになるのだが、自分とは違う学校だった側の、女子生徒の見知らぬ顔に注意を向けることになる。子供のころを知っていてもね、という大まかな感じだけが残っている。それで、学年の4分の1ぐらいの人物に視線は向かう。

 ぼくが入ったクラスは、個性的な人間が多かった。それぞれと付き合うことになるのだが、誰一人として飽きさせられるようなことはなかった。休み時間、学校の帰宅途中など、さまざまな場面で違った人間に、違った笑いをもらったように覚えている。

 そのような中で、自分の個性をも確立させる必要を感じていたのだろうか。注目を浴び、尊敬をされる人間になりたいという欲求は、こころの奥に眠ったままではいられなかったのだろう。それで、方法としてはスポーツを頑張るとか、腕力にものを言わすとか単純な解決方法を思いつく。

 勉強をしたり、文科系の方面で注目を浴びることが大して、敬意をはらわれない地方だったようにも記憶している。それで、学業の成績がよかろうが、(その方面しか取り柄がなければ別だが、それでも立派なことだが)そのことを自慢するような風潮は、まったく感じられなかった。なので、この時代のこの地方で、将来的に男性音楽家(他の芸術家を含む)が生まれるような土壌はなかっただろう。それよりも、何か目立ったことをして注目をされた方が、手っ取り早い気持ちがあるのも否定できないだろう。

 その手っ取り早さ感が、いろいろ後に影響するであろうことは、また別の問題である。

 学年をひとつ増やしただけなのに、テストの回数は膨大に増えていく。それを通じて、自分がどのランクに属しているのか、どの辺までが伸びる範囲なのか、おぼろげながら分かってくる。外国語もはじめて系統だって学ぶことになるが、そのセンスを生まれもってこない人間がいることも理解する。その人間が劣っていると感じるような雰囲気は、なかったようにも記憶している。彼は、また別の才能を有しているのだろう。ぼくが、どう頑張ってみても、たどり着けないような、会話のセンスを持っていたり、フランクさを兼ね備えていたりもした。

 そのころは、まだ学区というものがベルリンの壁のように立ちはだかっていた。きみの行ける高校は、この範囲で探してくれ、というものだった。東京のなかでもそうだった。もちろん、もっと金銭のかかる私立高校は、また別だった。しかし、漂っている空気としては、だれも一流大学に入ろう、それを表立って出そう、という風は皆無だった。しかし、こころの中は誰も知らない。

 そんな空気に漂いながら、一年の終わり近く、模擬試験があった。成績が返ってきたときに、自分の3教科のランクが驚くほど上位であることを知った。前もって、受験範囲を公表して、というものではなかったので、やる気のあるコツコツと頑張る子には不利だったのだろう。いまになって、その成績表がないから正確に確かめたり証拠として提出することも不可能だが、あれは事実だったのだろう。それを、自慢する気などさらさらない。そもそも、勉強が出来ることで栄誉をうけるような雰囲気が、学校内でも自分の家庭内でもまったくのことなかった。ただ、結論として、この程度なら、まあまあそこそこ世の中を渡れるんじゃないの、という努力の欠落した人間の種が蒔かれてしまった、という事実だけが、柔らかい生産的な土地に埋められてしまった。ただ、残念である。死に物狂いの努力、血と汗と涙、ということをクールではないということだけで、目に見える中から遠ざけてしまった。

 しかし、大人の目になれば、その学区の成績なんて、他の東京の別のところと比較すれば2割程度、差し引いて考えるくらいがちょうど良いことだと知ってしまった。ただ、あの年代の自分に注意する大人もいなければ、自分で気付くこともなかった。考えているのは、自分の知名度をどのように生かせるのかと、そればかりがジョウロの水をかけられるのを待っているように、確かにそこにあった。
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11年目の縦軸 16歳-27

2014年04月18日 | 11年目の縦軸
16歳-27

 ネクタイを結び、二日酔いに我慢しながら満員電車に押し込まれている。この姿を当然のこと、あのときの少女は知らない。ぼくはブレーキの予測もできず、ふらふらとした身体を自力では制御できずに、前に座るひとの拡げた新聞紙の角に顔を突っ込んでしまう。ぼくはなぜ朦朧としたなかで、過去の映像を思い出したのかには理由があった。新聞をもつ男性の横に、当時の彼女に似た子がすわっていたのだ。彼女はくすくすと笑い、我慢しきれないように肩を揺すっていた。

 笑ってはいけないけれど、つい笑みがこぼれてしまう。あの年代の特有のはじけ方があった。そして、次の駅で降りる高校生は混んでいながらも空いた席をぼくにすすめようとした。ぼくは怪訝な様子の新聞紙の紳士を横目に座席に身をあずけて目をつぶった。

 ぼくがあの当時の少女にたくさんのことができた訳ではない。それがはじめての恋の収穫の少ない実りであった。いま、まぶたの裏にいるのは月日に影響されないあの日々の彼女の姿態であり、ぼくができた最大のプレゼントはあのままの姿で年を取らせないということだけにすぎないようだった。

 たまに見る両親がでてくる夢も、まだ実家にいるときの映像だった。久しぶりに会えば、彼らは老けというものを見せはじめている。だが、ぼくが認識するのは一瞬だけで、恒常的に見ていたときの方が印象は深かった。夢という不確かなものも記憶に依存して再生させた。そのことにふたつは似ていた。ちょくちょく見るということが何にとっても恵まれた状況なのだ。

 そのプレゼントもぼくがあげたという観点では正解ではなく、ぼくから奪われたことによってもたらされた後遺症のようなものだった。電車は揺れ、ぼくの胸に起こる不快さもそれに連動されるように、叩き起こされたり沈んだりした。いまのぼくには絵美がいる。絵美も今日の姿でぼくのなかに潜みつづけるのだろうか。

 ぼくは十六才で明日に何が待ち受けているのか正直なところ分かっていない。戦禍にいる訳でもなく、毎日の暮らしもままならないようなテロや地雷の有無におびえて暮らしている訳でもない。ほとんど穏やかで、自分の胸のなかにだけ若さにともなう焦りといら立ちがあった。だが、唇を見返りもなしに、つまらない尻込みもなしに捧げてくれる女性がいた。視線の集約が未来につながるとも考えていない。過去の領分もまだまだ少なく、未来というのが過去の記憶を無造作にためこんでいくことにも気付いていなかった。

 読んだ本の内容は忘れ、ただぼんやりとした楽しかったとか、つまらなかったという印象だけが目次のようにできていく。あるいは棚のなかに並べられてインデックスのような役目を負っていく。本をそもそもなくしてしまえば自分の判断が正しかったかどうかなど確かめようもなくなる。また確かめることも実際は必要ないのかもしれない。

 ぼくは電車に揺られている。親切な少女のその後の歩みを考えていた。ぼくの過去の十六才の少女はエジプトの棺のなかに入れられてしまったように封印され、変化を想像できなくなってしまっていたので。代用でごまかすしかない。

 学校を卒業してどこかの会社に勤めるようになる。給料でいったい何を買うのだろう。爪はきれいな色で塗られる。何度目かの恋に襲われ、今度は冷静に自分の気持ちに対応できるようになっている。男性というもののありのままの大きさや小ささを理解できるようになる。恋というものが気持ちだけではなく、別の物体としての楽しみがあることを存分に知る。家庭ができ、冷蔵庫の中身をつめこみ、減らす毎日の繰り返しに没頭する。はじめて白髪を発見して、二日酔いの夫に不満を抱く。

 やっと職場の最寄りの駅に着いた。どうやら、峠は越えたようだった。ぼくはトイレに入り、顔を洗って緩んだネクタイを首元できつく結んだ。

 十六才に戻らなければいけない。早急にドアを開かなければいけない。大昔の宮殿のようにいずれ跡形もなくなり、地面に埋まった石だけで偲ばなければならなくなる。遺跡。跡地。だが、いまでも既にもうひとの住まない土地となり荒廃ははじまっているのだ。ぼくだけが砂漠のような場所に水を必死に蒔いているのだ。蜃気楼を現実にするために。記憶を歪めるために。

 職場のビルにつづく歩道をゆっくりと踏みしめる。ぼくはなにももたない十六才の少年に戻る。ぼくはあのとき以上に何かをもっているのだろうか。ぼくは手をつなぐ。爪は無色のままの彼女。女性の着飾った美など、あの若さの値打ちに勝るのだろうか。ぼく自身も同じことだった。たくさんの人間の電話番号を保有していようが、あの少女につながる電話などもうない。ぼくは飢えというものをここで認定する。あの日々に戻れなくなってしまう危険があった。もしかしたら危険ではなくいたって正常なことでもあるのだろう。事件が起こったのか、近い場所で黄色いテープが張りめぐらされている。ただの植栽や手入れの時期なのかもしれない。ぼくの過去もこうしたもので囲われ足を踏み込めなくなる。いま、絵美がいた。ぼくに手を振った。ぼくは嘔吐を感じていたのがうそのようにさわやかになった。現実はこうして勝利者に近いところにいつづける。ならば、あの少女がいる過去は敗者なのだろうか? その女性を失ったぼくは負けというものがどういうものか等身大で、身に染みて知っていた。
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繁栄の外で(4)

2014年04月17日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(4)

 まったくの孤独では生きられない、そんな認識もない小学生ながら、常に付き合うことになる友人ができる。記憶のなかに置いてきた荷物のように思い出すこともなかったが、整理すればほこりを被った姿でやはりみつかるものだ。

 外で遊ぶことも楽しいものだが、友人の家にはいりこみ、その子の遊具や勉強机をながめることも、それもまた愉快なことであった。彼は、日常、どんな生活を営んでいるのだろう、ということがそれらの物体から空想できた。

 その子は、両親ともにそとで働いていた。その当時のぼくの住んでいる周辺では、そのことは自営業を別にしてまれなことだった。家に母親がいて、一人っ子も少ない、そんな車社会の大きな環状線が町を横切るまえの平和な暮らしがあった。まだ弟が生まれる前の自分も、そのような一般的な4人の家庭の一員であった。

 そのような両親がいない家で、だれが切り盛りしているのかといえば、その子のお婆ちゃんがいた。自分の祖母も、いま考えると究極的に優しい人だったが、同系列でその友人のお婆ちゃんも優しい人だった。知らない、活発な男の子を、暖かい視線と様子で迎えてくれ、どこかの外国の来賓がきたような親切さが、その人にはあった。

 だから、今日もぼくの家に行こう、と言われれば、とくに雨の日なんかには、その誘いはとても甘いものになる。

 勉強の出来不出来も、友人関係にはあまり介在しなく、しかしその子は、とても賢い顔をしていた。いまの頭をつかって考えれば、両親ともに収入があるということは、それなりの豊かさがあるのだろう。彼とその兄は、とても小奇麗な印象を、ぼくは持っている。

 また、もう一人友人を誘って、自分の住んでいる区にあった大きな冬の公園に釣りをしにいく。待ち合わせは、駅とかではなくもう一人の友人の家で、暖かい部屋のもと、話好きなお母さんと会話しながら、(一方的に話されている気がする)のんびりその家庭の子供は歯磨きなどをしていた。とりあえず、受け入れようというムードがその町にはあったのだろう。

 大人になって視力も悪くなり、反抗的になっていた自分は単純にその友人のお母さんに気付かなかったのだが、(その年頃で、その年代の人に意識は向かない)すれ違ったのに挨拶もしないと、めぐって注意されたりもする。しかし、それは先の話だ。

 さっきの友人の話に戻る。人間は、なにかをコレクションするように生まれつき備わっているのだろうか。ぼくの子供のころに、アメリカン・フットボールのヘルメットのカードを収集することが、一時的にはやった。何枚も同じものがめぐってきたり、その中でもレアなものがあったりして、そのころは大人の意図と経済のしくみなどをしらないから、そのままお小遣いを費やすことになる。

 かの友人は、レアであった「ピッツバーグ・スティーラーズ」のカードを持っていた。そのことで友人の格があがったような錯覚ももったはずだ。しかし、いつまで経ってもぼくのもとにはチャンスは来なかった。これもまた繁栄の外の話である。大人になった自分は、その町も、鉄鋼が産業であるというインフォメーションもかすかながら、もつようになっている。

 そんなことも忘れ、小さなカードを集めるぐらいでは楽しくなくなっていく。もろもろの事情で、ぼくは同じ町内のなかで引っ越す。その友人にも同じことが起こる。しかし、その新しい家には、ぼくは入った記憶があまりない。だから、その友人のお婆ちゃんの暖かさも忘れることになる。そういう暖かさは別に求めたくなる年代に入りかかっていたのだろう。

 ここまでが、長い導入で結果として、進路の問題になるのだ。その子には、常に私立の中学に入って、ぼくらと別れてしまうだろう、という噂があった。そのことを悲しいことだとは思ったが、デリケートではない人間たちは何度も、「同じ中学校に行くんだろう?」と質問をした。念をおすたびに彼は、それ以外ないという感じで同意した。まあ、みんな安心するわけだが、本音はべつなところにあるかもしれないと思っていたのだろうか、結局、中学の入学式には彼はいなかった。野心があるとすればあるのだろうが、家庭内でそんな話題がもちあがらない自分の家に、多少の恥があったのだろうか。
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11年目の縦軸 38歳-26

2014年04月16日 | 11年目の縦軸
「誰か、身の回りのひとで、有名になったひといる?」
「どれぐらい、身近」
「例えば、学生時代のことを知ってるとか。机を並べて勉強した仲とか」

 絵美は質問する。ぼくらは過去を話題にする。共通のものがない代わりに、それを埋め合わせる楽しさがあった。穴のままのこしておけば足のつま先を引っかけて転がるおそれもある。それも嘘でただの会話だ。あとで不意に不利な証拠として用いられることもたまにあるが。

「ひとりいたね。いや、ふたりか」
「ね、だれとだれ?」

 ひとりは二学年先輩のボクサーだった。チャンピオンになる。左フックという脅威を感じさせるパンチを武器にしており、深夜のテレビに釘付けになるぼくらがいた。もうひとりは甲子園に出たひとつ先輩がいた。甲子園というものに高校生がどれほど出るのか分からない。だが、千という単位には足りず、およそ数百人だろう。予選の裾野では無制限に数が伸びる。レギュラーを勝ち取り、一試合だけ全国大会のテレビにうつる。ぼくは中学生時代にその先輩のユニフォーム姿を見ていたはずなのに、絵美に訊かれるまでは、彼や、ふたりのことはすっかり忘れていた。忘れることもできるふたりだったのだ。

 ぼくら男の子が求められているのは、地域的にもこのような類いのものだったのだろう。燕尾服を着たり、事前にチューニングなどいらない作業。

 だが、ぼくは話ながら彼らの兄弟のことも思い出している。ほぼ同じ境遇でありながら、いくらか日が当たらない方として。尖った見るべき才能の授与を軽減された側として。

 スポットライトがあたる。努力は報われるという少年少女たちへの善意の紙芝居。ぼくらは踊り、祭りのあとに疲れた身体だけ横たえた。自分の持ち分はぐっすりと眠れるこの疲労感だけが報酬として与えられたようだった。とび抜けた才能の代わりに。安っぽい万能な才能。

「応援した?」
「もちろん。ダウンを決めるまでは自分の拳もかたく握ったぐらいにね」

 だが、甲子園のことはあまり覚えていない。高校三年生の年齢時の楽しみ方など、坊主になってグラウンドでヘッドスライディングをすることと違うような気もしていた。ぼくは十七才として見ていた。希望ももちろんあるが、大まかな限界も知った年頃だった。さらに恋にも破れたあとだ。厭世観のないやつなどバカと同義語だと定義していた。

 しかし、絵美に問われるまま答えていると、あの当時にできるすべてを彼らは出し尽くしていたのだということに気付かされる。反対に、ぼくのなかには消化不良ななにかがのこっている。きちんと燃焼されなかった炭のようにまだ黒いままゴロゴロとあたりに転がっていた。ああいう時期にきちんと退治し、根絶することが必要ななにかが世の中にはあるのだろう。

「絵美には?」
「留学してから帰ってきて、レストランでお菓子をつくってる子が、この前、雑誌にでていた。びっくりした」
「むかしから、料理の才能があったの?」
「知らない。食べさせてもらったこともないし。今度、行ってみる?」
「近いの?」

「近いよ」絵美は最寄りの駅名を告げた。その女性の能力は急激に減少することはないだろう。ぼくの知っている有名人たちはいずれも引退がある商売だった。高校野球に興じた先輩はプロにならず、その後、どのような歩みをしたのかまったくしらない。その弟ともぼくは連絡を取り合うような仲でもない。みな、どのように毎日を送っているのだろう。

 わずかな年月しか役に立たない能力。一度、身につければ永続性の保てる訓練。秀でるということはいったいどのように具体化されて、はじめて証明されるのだろう。彼らは疑いもなく輝いていた。ぼくの立てないステージにいた。そのことだけでも充分だった。完全な理解で安心することも本来はいらないのだ。

 段々と有名人はインターネットという部屋に閉じ込められていった。そのなかでネット上の辞書(人物事典)や動画の有無によって知名度を測られる。彼らはぼくにとっても有名だが、少数のものにとっても知られていた。ヘレン・ケラーやシュバイツァーという普遍の名声を得たわけではないが、ぼくの形成にはそれなりに役立ってくれたのだろう。偉大すぎる伝記の内容にも劣らずに。

「自分も彼ら友だちみたいに知名度を得たかった?」
「なんのことで? 手段が分からないよ」武器ももたず、丸腰で世の中の固い壁に自分の名前を刻み付けることなどできはしないのだ。
「これから、探せば」
「どうやって?」
「質問ちゃん。自分で決めてよ」

 ひとを三分間の数ラウンドで打ちのめす能力もない。白球を日々、追いかける無邪気さもない。もう二十年も前からもっていない。与えられていなかったのか、自分の体内に眠っていたものに気付かなかったのか答えようもなかった。少なくともある三人だけはぼくのことを覚えていてくれることを願っている。絵美もふくめて。それも、たまに思い出す程度が欲張ったとしても精一杯の望みだった。

「絵美は? これから、なにかで自分の名を広められる?」
「別れのもつれによって死傷事件を起こした狂える女として」

 彼女は刃物のようなものを握った姿勢でぼくの胸のうえに突き刺すマネをした。ひとは良い面だけで名をのこすわけでもない。もちろん、そんなことは起こらないだろう。昨日まで、ぼくの身に起こらなかったからには、明日以降も起こりそうにもない。確立というのがいつも正しければ。KO率や、打率というものとは別の次元にぼくはいるが、数字だけで覚えているのでもなく、ある過去というぼんやりとしたなかで、彼らは顔を出したり引っ込めたりした。
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